今週のブルーズ講座 放送日別インデックス 前の記事 次の記事


ブルーズ講座 (関西エリア 2001/02/25 放送分)


70年代日本のブルーズ
関西ロックシーンを活況に導いた「8.8Rock Day」(1)

今回の放送曲目


T-Born Shuffle / The Westroad Blues Band

 今日最初のブルーズは思いっきり手前味噌で恐縮ですが、我が「ウエストロード・ブルーズバンド」です。この曲は先週、最後にON AIRしたT.Bone Walkerのカヴァーで、これは75年にリリースされた「ウエストロード・ブルーズバンド」の1st.アルバム"Blues Power"に入っている。先週、ブルーズの特徴的なリズム、シャッフルについて突っ込んで話しましたが、このT.Bone Shuffleは当時まだ<ブルーズ初等科>の僕達にぴったりの課題だった。

 僕達がこのアルバム制作の準備を始めた前年、1974年11月に「第一回ブルースフェスティバル」が開かれそのコンサートに先週ON AIRしたロバート・ジュニア・ロックウッドとエイシズ、そしてスリーピー・ジョン・エステスとハミー・ニクソンのコンビがやってきた。ブルーズマンとしては71年、72年(僕達が大阪で共演した時)にB.B.キングが来日していたが、ロックウッドたちの来日は73年あたりからジワジワと盛り上がってきた日本のブルーズ・ムーヴメントの動きを受けたものだった。

 「ニュー・ミュージック・マガジン社」の中村とうよう氏が中心となり、当時「ザ・ブルーズ誌」を主宰していた現「ブルーズ・インターアクションズ」の代表である日暮泰文氏らの協力で実現したこの本格的なブルーズ・コンサートは、関係者の熱い想いを裏切ることなく東京、大阪公演とも大盛況で大阪などは入れない人たちもいた。そして、次の第二回にはバディ・ガイとジュニア・ウエルズ、第三回にはビッグ・ジョー・ウィリアムスとオーティス・ラッシュなどがやってきた。イギリスでは「アメリカン・フォーク・ブルーズ・フェスティバル」が行われたのが1962年だから、約10年遅れて日本のロック・ファンたちもロックの父である、本家本元の黒人ブルーズに出会ったのだった。

 この74年の前年の73年からレコード会社がポツポツとブルーズの日本盤をリリースするようになった。そして、74年の3月にはそのブルースフェスで来日した70才盲目のカントリー・ブルーズ・シンガー、スリーピー・ジョン・エステスの「スリーピー・ジョン・エステス」の伝説がアルバム・チャート100位内に入るという快挙を成し遂げた。

Rats In My Kitchen / Sleepy John Estes

 T.ボーン・ウォーカーのアルバムもよく売れ、ブルーズの名門「チェス」や「ケント」といったレーベルのアルバムが日本盤でシリーズ化されはじめていた。この73、74年頃僕がよく聴いた、そして重宝したアルバムがオムニバス盤の「RCAブルースの古典/The Blues 1927-1946」「Chicago Blues Today」「Chicago Blues Golden Package」「American Folk Blues Festival」の4枚。金のない自分はこういういろんなブルーズマンが収録されているアルバムで自分のお気に入りを探し、それからそのひとのソロ・アルバムを買うという手堅い買い方をしていた。だのにレコード店に何万も借金していたフリークな僕でした。

 例えば「Chicago Blues Golden Package」のリトル・ウォルターが歌う「Key to the highway」を聴いた時、その前に聴いていた「RCAブルースの古典」の中にも同じ曲があるのを思い出し、聴いてみるとウォルターより古い30年代半ばから40年代にかけて脚光を浴びたジャズ・ジラムというブルーズマンが最初にヒットさせたものだった。ジラムもハープと歌だが、聴き比べて見るとウォルターはかなり意識してカヴァーしたのかムードがそっくりだ。

 「ハイウェイへのKey(鍵)をオレはもっている」−旅、放浪する自由をもっていると自慢気だが、どこかで、「でかける前にベイビー、もう一度キスしておくれ。ここにはもう帰ってこないから」と多少の未練を残しつつも最後には「さよなら、お別れを言わなくちゃ。おれは死ぬまでハイウェイをうろつくつもりさ」と安定しない、行き先の見えない自分の人生を暗示する言葉が出てくる。

 見せかけの自由の中で、実は何ひとつ確固たるものを所有できない黒人として持っている自由はハーモニカをもってハイウェイを一生うろつくことだけ・・・。

Key To The Highway / Jazz Gillum

 74年10月、中村とうよう氏が東京のラジオ局で日本初のブルーズの番組を開始。同年、とうよう氏が主宰の「ニューミュージック・マガジン社」からはブルーズ・アルバムの紹介だけでなく、ブルーズの歴史、ブルーズマンの紹介やブルーズの現状などについてわかりやすく書かれた増刊号「ブルーズのすべて」が出版された。黒人ブルーズマンの来日、日本のレコード会社によるブルーズ・アルバムのリリース、そしてラジオや出版物によるブルーズへのガイドなどが好循環をもたらしブルーズのリスナーが増えていった。もうひとつ手前味噌だが、僕達日本人によるブルーズ・ライヴの日常化とライヴハウスでの盛り上がりもシーンのプッシュ・アップの力だったことも覚えておいてほしい。

 「ブルーズのすべて」の中でとうよう氏が司会で僕と塩次伸二(ウエストロード)、上田正樹(サウス・トゥ・サウス)、入道こと西村元弘(ブルースハウス・ブルースバンド)そして妹尾隆一郎というメンバーで座談会をやっている。この座談会をしたのは前年73年に引きつづき開催された74年の「8.8ロック・デイ」のコンサート会場、「びわ湖バレイ」でだった。

 ここで「8.8ロック・デイ」という言葉が出てきましたが、今回はいわゆる「8.8/ハチ・ハチ」に触れておきたい。

 70年中期の関西音楽シーンの盛り上がりに大きな役割を果たしたのがヤマハ株式会社主催の「8.8ロック・デイ」だった。第1回は1973年、会場は大阪千里の万国博会場で行われた。

 このコンサートが始まる何ヶ月か前にヤマハからコンテスト形式のコンサートをやりたいのだが、そのコンテストに出てくれないだろうか?というオファーがあった。話に立ち会った僕と塩次はすぐに「No!」だった。なぜアマチュア資格で、縁もゆかりもないコンサートに出て審査されなければならないのか・・・。すったもんだの挙げ句僕たちはコンテストには出ないで普通に出演することになったが、それを決意させたのは「関西のミュージック・シーンを盛り上げていく」というヤマハ・スタッフの言葉だった。

 しかし・・・・やはり東京からのミュージシャン、バンド優先でトリを取ったのは確か裕也さんだった。結局、僕達はそれまでと同じ前座みたいなものだった。まだ血気盛んだった僕はヤマハのスタッフに噛みついた。「関西のミュージック・シーンを盛り上げていくためのコンサートというのが最初のコンセプトではなかったのか」と。

 主催者側にしてみれば関西のバンドだけで果たして何人の客が集まるのか心配だったのだろう。しかし、それ以前から何度も東京のバンドの前座をやらされていた僕達は、そのバンドが音楽的に、精神的に感化されるようなものでもあれば前座も仕方のないことだが・・このままだとずっと東京のバンドの前座か?なんとか自分たち関西のバンド、ミュージシャンだけで成り立つコンサートをやりたいし、そういうシーンを関西に作りたいと考えていた。だから、ヤマハの「関西のミュージック・シーンを盛り上げて・・」という主旨に賛同したのだった。彼、上田正樹と関西勢でがんばりたいという話をしたのはこの73年の8.8の楽屋だった。

ほんとにいやになるぜ / 上田正樹 & 有山淳二

 その日万博会場の楽屋で初めて自己紹介し合い、僕はキー坊(上田正樹)にそういう想いと構想を話した。彼も同じような思いに駆られていたようで、それ以降僕たちは互いのバンドのライヴがあると聞きに行き音楽的に刺激しあった。その73年の8月8日から1年経った74年の「8.8Rock Day」、びわ湖バレイに集まったコンサートの出演者はすべて関西のミュージシャンになった。

 74年の8月2、3日の二日間コンサートは行われたのだが、会場の山腹にあるスキー場に僕が着いた時、ヤマハはヘリコプターを使って機材を輸送していた。やはり、大きな資本のある会社は違うわ・・とみんなが言い合っていた。しかし、それまでその資本の大きさ故か、時に強引で傲慢な商売のやり方がミュージシャンたちの批判を招いていた。僕もヤマハに特別いい感情はもっていなかった。

 しかし、ふたりの社員、心斎橋店にいたヤマハの社員、堀江さんと村田さんにはもっと関西のシーンを活発にしたいという熱意があった。もちろん楽器メーカーなのだから楽器の販売を促進するものでない限りコンサートに資金が出るわけはないのだが、彼等はそういう話は僕達にはしなかった。コンサートの段取りやミュージシャンへのケア、音響の善し悪しなどについてしか話さなかったし、また僕達が言うことをよく理解してくれ、なんとか良い方向へと努力してもらった。

 74年の「8.8Rock Day」に出演したバンドからもうひとつ聞いてみよう。なんと言ってもバンド名で目立ったこのバンド。演奏の最初にいつも「だ〜るま食堂〜〜!」とバンド名をシャウトしていた。メンバーの誰かの家が「だるま食堂」を経営していたらしい。

夕陽の戦場 / だるま食堂

 「上田正樹とサウス・トゥ・サウス」、「ブルースハウス・ブルースバンド」、「ウエストロード・ブルースバンド」、そしてこのコンサートには出なかったが「憂歌団」と、74年には関西のシーンはブルーズ、R&B中心に形成されていた。

 また「8.8Rock Day」は才能のあるミュージシャンを発掘するためアマチュア・バンドのコンテストも兼ねていた。大阪、京都だけでなく山陰、山陽、四国地方からも多数のバンドが参加した。僕はヤマハの依頼で各地方の予選会の審査員の仕事を受けて、鳥取、香川などへ出かけたが、これがなかなかヘヴィな仕事だった。

 予選はたいてい土、日の昼から始まるので鳥取などへ行くには朝早く京都を出なければ間に合わなかったし、時には予選参加バンドが30近くある。ひとつのバンドが2、3曲演奏する。計70曲くらい聞かされたこともあった。勢いのついた翌年の75年にはエントリーするバンドも急増し、いろんな個性をもったミュージシャン、バンドが登場した。

That's How Strong My Love Is / スターキング・デリシャス

 スタ・キンのヴォーカル、大上留利子はこの登場した頃「大阪のアレサ(フランクリン)」と呼ばれていた。8.8に登場してきた時、僕も会場にいたがその堂々とした歌いッぷりはアマチュアとしては群を抜いていた。

 この時代の関西のロック・バンドのひとつの傾向にサザン・ロック系があった。そのサザン・ロックの雄、「オールマン・ブラザーズ・バンド」のアルバム・タイトルをそのままバンド名にしたこのバンドも75年の8.8でデビューした。

マイ・ダディ / アイドル・ワイルド・サウス

 この曲はギターの松浦善博とキーボードのチャールズ清水によって作られたが、チャールズはのちに僕が「ブルー・ヘヴン」を結成した時のキーボード奏者、そして松浦は「ツイスト」にも参加し、一時プロデュース、アレンジの仕事もやっていたが、現在はイチロー、ジョニー吉長などと「サン・オブ・ザ・ブルース」のメンバーとして活躍している。

 今日聴いてもらっているアルバム「'75 8.8Rock Day Live」はCD2枚組になっていてアマチュア・サイドとプロ・サイドに分かれているがそのプロ・サイドに4曲残している沖縄のこのバンドの高い演奏力に観客は驚いた。

ハイウェイ・スター / 紫

 「紫」は沖縄で自分たちの店をもち、米兵相手に演奏してきただけあってこのハード・ロックには一本芯が通っていた。「ディープ・パープル」の影響がはっきりわかると言うより「パープルよりパープルらしい(?)」と訳のわからんことを言われたほど、ハードロックのテクニックに関してはかなりなものであった。

 73、74年あたりの黒人音楽は表面的にはTVの「ソウル・トレイン」で大流行りした「フィラデルフィア・サウンド」の洗練されたダンス・ミュージックと、スライ・ストーン、スティーヴィーなどの「怒り」のメッセージ、そしてソウル、ジャズ、ゴスペルなどの融合が進みクロス・オーバーな音楽がチャートに登場しました。それは今日のあとの「巷のブルーズ」のコーナーで話ますが、今日のブルーズ講座の最後は当時人気No.1のダンス・ミュージック。

Funky Staff / Kool & The Gang

 来週もブルーズこの8.8の続きをやります。「ウエスト」と「サウス」「憂歌」はいよいよレコード・デビューの75年へ向います。


今回の放送曲目




今週のブルーズ講座 放送日別インデックス 前の記事 次の記事


Copyright(C) 1998-, Mainichi Broadcasting System, Inc.
All Rights Reserved.