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加古川河口から上流へ PART【2】

2007/5/6放送
【リポーター:山口 奈緒美】
   

加古川流域滝野歴史民族資料館

では大きな大堰も作られている加古川ですが、かつては舟運が盛んに行なわれていた川でした。昔の加古川を知るべく加東市にある「加古川流域滝野歴史民族資料館」にお邪魔しています。早速、資料館の阿江明美さんにお話をうかがいます。

― 加古川は、流域で暮らす人々の生活と、関わりが深い川ですね。

阿江さん: そうですね、人はみんな水との関わりの中で生活しています。

― 人々は昔から加古川をどのように利用していたのですか?

阿江さん:こちらで展示をしている高瀬舟で、荷物の運搬をしていました。

― 高瀬舟の特徴を教えてください。

阿江さん: 高瀬舟は、岩がたくさん起伏し、浅瀬の多い加古川に合わせて船底を平らにし、浅瀬でも渡れるようになっています。

― 主にどんなものが運ばれてたのですか?

阿江さん: この辺り一帯の播磨平野は、肥沃な土地に恵まれて、米作が大変盛んなところです。主にお米を積んで高砂の港まで下っていきました。

― どれくらい前から行われていたのですか?

阿江さん: 高瀬舟による舟運が始まったのは文禄3年西暦1594年からです。それまでは荷車などに積んで今の国道372号の丹波道と呼ばれる道を谷を渡り、山を越えて幾日もかかって苦労して京都まで運んでいました。

― 船で運ぶことになった経緯を教えて下さい。

加古川流域滝野歴史民族資料館
加古川流域滝野歴史民族資料館
高瀬舟の模型展示
高瀬舟の模型展示
加古川流域滝野歴史民族資料館の阿江さん(写真左)
加古川流域滝野歴史民族資料館の阿江さん(写真左)

阿江さん: 天正10年に信長が本能寺の変によって倒れ、翌年の11年に秀吉が大阪城を築城し、経済の中心が京都から徐々に大阪へ移っていきました。そこで大阪まで、内陸を通って幾日もかかって運ぶのではなく、船で高砂から大阪の堂島、そして江戸まで運ぶようになりました。

― その舟運はいつまで続いたのでしょうか?

阿江さん: 大正2年に播州鉄道、現在のJR加古川線ですが、鉄道輸送が出来たことにより、高瀬舟での輸送は終焉を迎えました。

― どうもありがとうございました。

舟運は320年間も続けられていたということです。加古川が歴史ある川ということを学ぶことができました。
「加古川流域滝野歴史民俗資料館」では、高瀬舟をはじめ、加古川流域における伝統文化・民俗資料を展示保存しています。

   

闘龍灘(とうりゅうなだ)

古川は岩場が多く、底の平らな高瀬舟が活躍していたという話がありましたが、一番の岩の多い難所が闘龍灘といわれています。ここは、川底がまったく見えなくなるほど、大きな岩に埋め尽くされています。その岩の間を水が激しく流れ落ちていて、横に立っていると水しぶきが顔にかかるほどです。加古川は、全流域にわたり流れが穏やかなのですが、ここ闘龍灘だけは全く別の川のように水が激しく流れ落ちています。
加古川は昔から杉や檜などの木材を筏で下流へ運んでいたということですが、この激しい流れの中では、筏を流すことが出来ないので、上流でいったん筏を解いて一本ずつ流し、そしてまた下で筏を組みなおして運ぶという、とても手間のかかる作業をしていたそうです。明治5年に、幅8メートル・長さ180メートルの掘割水路が作られたことで、不便さが解消されたそうです。
それにしても本当に激しい流れでビックリするような景色が広がっています。闘龍灘ではこの地形を利用し、鮎漁「筧漁(かけいりょう)」が行われています。筧漁とは人工の滝を作って、登ってきた鮎をとるという漁法です。

闘龍灘
闘龍灘
掘割水路
掘割水路


◆兵庫県ホームページ 加古川流域滝野歴史民俗資料館: http://web.pref.hyogo.jp/nh01/nh01_2_000000128.html

◆国土交通省ホームページ 地域の中の加古川: http://www.mlit.go.jp/river/jiten/nihon_kawa/86063/86063-1_p2.html

◆滝野町観光協会ホームページ 加古川・闘龍灘:
http://www.town.takino.hyogo.jp/kankou/kakogawa.html

 

「加古川河口から上流へ」 2007年5月6日放送

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