| 10月15日放送 |
黒焦げの麦の穂と真白な麦の実 |
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71歳 女性 |
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私は静岡県浜松市で生まれ育った。
一九四五(昭和二十)年六月十七日、時はあと二、三分で日付けが変わろうとする夜半、警戒警報のサイレンが鳴った。その頃、空襲は日常茶飯事であり、私達は寝る時もモンペ姿で、枕元の防空頭巾を掴み取ると、雨戸を開き庭に出た。西の空に、B29の黒い影が迫っていた。母と2人、夢中で防空壕に転がり込む間もなく、ザーッと爆弾の落下音、そして鈍い地響き、空爆が始まった。
落下音は次第に短く、地響きは強くなってきた。薄い煙が防空壕の戸の隙間から流れ込み始めた。
「出よう」
母が云い、二人で戸を押し開けて外に出ると、近隣の家々と共に我が家も火も吹き上げていた。なにより驚いたのは、庭の小さな草という草までが燃えていたのだ。何千何万というローソクを灯したようであった。
母と私は手をつないで、逃げる人々の群に混ざって走った。
私の家から坂を降りた辺りに遊郭があり、そこで働く女性達は、戦争中でも和服を着ていたのだった。その人達が、火に追われて坂の上に逃げて来て、私達と同様に火の中を右往左往していたのだが、一旦着物の裾に火が着くと、もんぺとは違い、一度に燃え上がってしまうのだった。
地上の地獄図を嘲笑うかのようにB29は飛び回り、浜松市の大半を灰にして去って行った。
雲間に薄い朝の光が込み始め、母と私は崖の上に立っていた。焼け跡の臭いが鼻をつき、防空頭巾の上から、もんぺの足先まで、火の粉で焼け焦げた穴が無数にあいて、
「まるでレースの服みたい」
二人はすすで黒ずんだ顔を見合わせて、少し笑った。
何の目標もなくなった道を母と二人、迷いながらも、ようやく我家の焼け跡に帰りつくと、先に帰ってきた近隣の人々が走り寄り、
「ああよかった。生きていたねえ」
と抱き合って泣いてくれた。
こうして、命が無事であると、そのうち空腹に気付くようになる。
私も入れて子供達が。
「お腹がすいた」
と云いだした。防空壕に入れてあった僅かな食料は灰になっていた。
時は六月半ば、麦秋の季節であった。
人々の目は小さな麦畠を見た。重そうに実った麦の穂は黒焦げになって地面に落ちていた。
「これ、食べられるかも知れない」
穂を拾い上げ、黒い殻をむいてみると、中は真白な焼夷弾の火で蒸し焼きになったホクホクの実が出て来た。
「美味しい」
皆、夢中で殻をむいて食べた。
黒焦げの麦は、湯気のたつ真白い実を皆に充分食べさせてくれたのだった。
私は今、どんなに素晴らしい食卓を見ても、あの時の、あの黒い麦の穂と、ホクホクの真白な麦の実を忘れることはないのである。
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