マイ・ストーリー
10月29日放送
リビア・トリポリ市
 
49歳 男性
「まあちゃんの人生が、たとえばこれぐらいだとするだろう・・」
進おじさんは、集金用の小さな鞄から二十センチくらいの定規を出していった。
「そうすると、今の病院の生活なんて、ほんの一ミリの何分の一のそのまた何分の一に過ぎないんだよ」
病院のベッドで上半身を起こし、神妙な顔をしている私に向かって、進おじさんは微笑みながらの訥々と語った。

進おじさんは、私の祖父の弟で、私の家の隣で養鶏業を営んでいた。私は、賑やかな鶏の声と共に育ち、一日三回新鮮な卵を食べた。進おじさんは、私のことを赤ん坊の時からとても可愛がってくれたようで、小さな私を抱いた写真が何枚もあった。私は、小学校一年生の時に、心臓に欠陥があると診断され、地元の病院への入退院を繰り返すようになった。外へ出ることも稀になり、進おじさんと話をすることもほとんどなかった。だから、進おじさんがわざわざお見舞いに来てくれたことに少々当惑していたように思う。

小学校五年生の三学期、幸いなことに、心臓に特に欠陥はないことが分かった。私は、普通の中学生になることができた。その頃であったか、進おじさんは、市街の山の中に広い土地を買い、そこに養鶏場を移していた。私も時々、興味半分で養鶏場に出かけ、慣れない手つきで卵とりの手伝いなどをしていた。あるとき、学校の文集か何かに私が作った俳句が載った。「手を伸ばし つかんだ卵の 温かさ」という一句であったが、進おじさんは、「卵が温かいというのは、とてもいい季語になっている」と言って褒めてくれた。

高校生になり、おじさんは、養鶏場の仕事を二人の息子に任せるようになった。養鶏場に出かけることが少なくなったおじさんは、油絵を描いたり、俳句をひねったり、いつからか教会にも通い始め、クリスチャンにもなった。私は東京の大学に進み、進おじさんと顔を合わせることは、稀になった。養鶏場は、ふたりの息子の尽力で、数万羽の鶏を抱える大養鶏場となり、卵は人の手ではなくベルトコンベアーで集められるようになっていった。小学校時代の多くを病院で過ごした私も、その後は普通の健康体となり、おじさんが言ってくれたとおり、私の病院生活は一ミリの何分の一かで過ぎ去ってくれた。大学を出て、私は、外国を行ったり来たりする仕事についていた。

あれはいつ頃だったであろう。私が社会に出てからでも随分経っていたので、進おじさんは八十歳近くなっていたかもしれない。久しぶりに故郷に帰った私は、珍しく、進おじさんの家に上がって話をした。おじさんは大分耳が遠くなっていたので、話をしたというより、話を聴いたというほうが正確かもしれない。おじさんはコタツの上に大判の詩集を出して、その一節を口にした。
「鳥は飛ばねばならぬ、人は生きねばならぬ」
おじさんは、心底感に堪えかねたような表情で、その一節を繰り返した。この一節がどうしてそれほどおじさんの心を動かしたのか、分からなかった。しかし、戦後、ほんの数羽の鶏で養鶏業を始め、苦労を重ねたおじさんが、人生の晩年に出会い、心を動かされた詩の一節である。そこには深い意味が凝縮されているに違いないと思った。

それから数年を経ずして、進おじさんは亡くなった。ペテロというクリスチャンネームをもったおじさんには、もちろん戒名はなかった。お葬式も出されず、その遺体は、大学病院に献体として提出された。納骨が行われたのは、随分あとのことであった。
あれから何年か経ち、私も五十歳の声を聞き始めた。最近になって、ようやく、「鳥は飛ばねばならぬ」の意味が分かりかけてきたような気がしている。
 


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