| 11月12日放送 |
私の献血人生 |
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67歳 男性 |
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私は六十七歳、石川県赤十字血液センターのボランティアである。
週に二、三回、移動採血車(献血バス)に同行し、官公庁や事業所、学校などを回り呼び込みやティッシュ配りもする。
「愛の献血にご協力ください」
「輸血用血液が不足しています。皆さんのご協力をお願いします」
私も機会ある度に協力し、献血回数は二百二十回を超えた。
献血との出会いは、今から二十七年も前の昭和五十四年のこと。
当時、私は私立の金沢女子短期大学高等学校の理科教師で、青少年赤十字部の顧問を引き受けていた。
六月のある日、入学間もない生徒が吐血し、廊下で倒れた。
救急車で大学病院へ搬送。
胸部静脈瘤破裂の重病で、緊急に輸血が必要となった。
当時は献血といっても預血的な運用で、病院から献血手帳の提出を求められた。
担当の先生が献血手帳を集めに廊下を走った。
しかし当時は女子高校生で献血の経験者は稀で、先生方の理解も低かった。
その時、青少年赤十字部員十数名が「先生、今から献血に行かせてください」と私に申し出た。
みな献血が初めての生徒ばかりであった。
病院の輸血部へ急いだ。各々の生徒の腕から新鮮血が採血された。
待つこと数時間、病院から「一命を取りとめた」と連絡が入った。
部員は感激に涙した。私も泣いた。
翌日のこと、部員たちから提案があった。
「先生、輸血が必要なときにあわてるのではなく私たちが日ごろから献血しておけばいいじゃないですか」 と。
彼女たちの優しさ、思いやりに再び熱いものが込み上げたが、私はすぐに承諾の返事を出せなかった。
昨日の件で「授業中に献血に行かせた」「保護者の許可なしに・・・」
と、何人もの先生方からお叱りを受けていたのだ。
校長先生をはじめ、先生方の理解を得るのに時間がかかり、学校側から了解が得られたのは一ヶ月後だった。
早速、部員たちと献血活動の進め方について話し合った。
みんなは各クラスを回り、献血の趣旨を訴えた。
その日のうちに二百人を超える生徒たちから賛同を得た。
全国でも稀な、女子高校生による献血グループが誕生した。
会の名称を、愛の献血「ポプラの会」と決めた。
毎月十一日を「献血協力の日」と定め、最初の血液協力日を七月十一日に実施し、赤十字血液センターで六人が献血した。
八月は十四人、九月は二十六人が協力した。
生徒の熱心さに学校の理解も深まった。
学園祭行事の一環として移動採血車による集団献血が認められた。
二日間の献血者数、二百五十二人、教職員も十六名が協力した。
翌日の新聞には「女子高生が集団献血」と大きく報道され社会からも注目された。
あれから20年が過ぎた平成十一年、私は退職後、第二の人生の過ごし方を模索する中で、献血の推進と啓発活動に役立つことをしたいという思いが強かった。
石川県赤十字血液センターの所長、大川先生から「県の嘱託職員として働かないか」と、ありがたいお言葉もいただいた。
しかし、私はボランティアとして活動したい希望を伝え、今日に至った。
明日は金沢の合同庁舎、明後日はA機械工業。
来週はB銀行本店とC病院と、献血の予定をたてる。
官公庁や多くの民間会社、病院などにはかつての教え子がたくさん勤めている。
「先生、お元気ですか。一年ぶりやね。今日献血すると三十回になるよ」
「先生はまだボランティアを続けてるのですね。私は休日に近くの公民館で、子供たちに本の読み聞かせの奉仕をしています」
「私の主人は男のくせに針刺すのを怖がって。
今日は無理に献血させるからね」
高校で献血活動に取り組んだ生徒たちに会うのを楽しみに、今日もボランティアに。
教師になってよかったと思う毎日である。
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