マイ・ストーリー
2月24日放送
ゴミの山に住んでいた伯父さん
 
82歳 女性

ゴミの山といっても、今のいわゆる家庭ゴミの不法投棄ではない。
七十有余年も前、ゴミは今のような大量大型ではなく、せいぜい家庭内の生ゴミかガラクタ程度のものだった。

「くずやあ〜、おはらい!」と呼び声を上げてリヤカーを引いていく屑やさんが、僅かなお金でも買い取っていってくれたものだから、本当の意味の屑ゴミでしかなかった。

私が子供の頃のゴミは、郊外の原っぱに集めて捨てられていたのである。
それが板橋区のある所に存在していた。当時二十三区内でも郊外は畑あり、田んぼあり、豚や鶏、牛など飼っている農家も多く、至る所広々としていた。
そうした土地柄なのでゴミ捨て場など堂々たる存在。
広い地域を占めていても文句を言う人もいなかったのだろう。
伯父はそのゴミの山に自力で掘立て小屋を建て、住みついてしまったのである。
私は今、仏壇の線香立ての掃除が大好きだ。
あの灰の中に残された線香の燃え残りを探したくてうずうずする。
長いの、短いの、取り忘れたらしい古いものが、底をさぐる感触でわかると、嬉々として摘み上げる。丁寧に何度も探ってみて、ほんの僅かな線香の端くれまでつまみ上げると満足し、灰を綺麗にならして、楽しみのひと時を終えるのだ。
何故私はこんなことが好きなのだろう。
掃除をするという意味以上の楽しみをそこに見出している自分の心を追求してみると、あの、伯父の住んでいたゴミの山を思い出すのである。

ゴミの山に住んでいた伯父は、若い頃から変わった男だったようだ。
母のふと漏らした言葉で知ったが、旅回りの役者についてまわり定職を持たなかったとか。
何をして糊口をしのいでいたのか、子供の私にはわからなかった。
親戚の厄介者であったことは事実のようだ。
その伯父が、ゴミ山の一角に住み着いて落ちついた。家族もできた。
ゴミ山を掘って金目のものを拾い、それを売って生計を立てていた。
子供心に、何でゴミ山を掘ってお金が稼げるのかと不思議だった。
でも父は伯父の生き方に共感を持っていたらしく、理解者として他の親戚は見返りもしないその掘立て小屋の家に、私たち兄弟をよく連れて行き、仕事ぶりを見せてくれた。

伯父は真っ黒になって汗を流し、手ぬぐいで汗を拭きつつ、つるはしで穴の壁を広げながら何かを探していた。
穴のふちにしゃがみこんで中をのぞいている私たちに、「ホラ、これは赤というんだ」と銅線を指して教えながら、金目のものを掘り出しては、そばにあるバケツに投げ入れていた。
こんなものがお金になるのかと思いながらも、何か素晴らしい発見があるような気もして、飽きもせずに見ていたものだった。
父は、「皆がいらないと思って捨てた物々の中から、こうして再び見いだして役に立てている伯父さんの仕事は立派なんだよ」と言っていた。
世の中に無駄を作ってはいけないという父の教えだったと思う。
また、最下層の生活にも関わらず、一生懸命に働いている伯父への理解と労わり、労働に対しての敬意を子供たちに伝えるためのよき教材だったのかもしれない。
私が線香立ての線香を灰の中から探り出しているのは、別にムダをなくすとかの意義のあることではない。
しかし見えないものの中から、宝物を探すような期待を持つことは、価値あるものを探すことに一脈通じるものがあるのかもしれない。
隠れているもの、捨てられたものの中から何かを探す・・・。
伯父の小屋の前に、大人なら一飛びで跨げるほどの小川が流れていたが、伯父は自分たちのために手製の橋をかけた。
私はその頃の、その土地の番地は知らない。
多分番地などなかった。それから七十年余りの年月が経った。
そこで育ったいとこ達とも散り散りになって、今は会うこともない。
しかし後年、その素人作りの名もなかった橋が、きちんと架け替えられ、名前までついていることを知った。

「こんどう橋」

伯父の苗字だ。世間的には不遇な一生を終えた伯父だが、自由に明るく生きた人だった。
その生きた証が、橋の名前に残っているなんて、感無量である。
そうして線香立てをいそいそと掃除する時、必ず伯父の名と、優しく男前だったあの風貌を思い出す私である。

 


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