| 3月18日放送 |
熱球と甲子園 |
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51歳 男性 |
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一九七〇年三月の、小雪がちらつく寒い日だった。
僕は翌日に迫った公立高校の入試の下見に、Y高校を三月の初めに卒業したばかりのK君の姉に連れられて、やって来たのだった。
目の前の広いグラウンドでは、野球部だけが練習していた。
見るとはなしに練習風景を眺めていると、K君の姉が、
「あれが県で一番弱い野球部。いつも一回戦でコールド負けするんよ。なんぼ練習しても結果は、いっしょね」
とぽつりと言った。
Y高校は本州西端の県の中央部にある県立高校で、旧制中学時代から多くの政治家、財界人、文化人を輩出した伝統校である。
僕はそのY高校に入学し、成り行きでブラスバンド部に入部した。
友達から「一緒に入ろう」と誘われ、断りきれずに入ってしまった優柔不断入部であった。
僕を誘った友達は半年くらいで退部した。
多くの生徒が中学時代には聴くことがなかった華麗な響きのブラスバンドに憧れて入部したが、練習時間が長く、休日も少ないことが原因で、「勉強に差し支えるので親がうるさいから」と次々と退部していった。
夏の高校野球予選は夏休み直前に始まる。
ブラスバンド部も、重い楽器をバスに積み込んで野球部の応援に行った。
梅雨が明けたばかりの球場は蒸し暑く、真夏の太陽が容赦ない日差しを応援席のコンクリートにたたきつけていた。
重い真鍮の楽器を背負った応援は、気力、体力との戦いでもあった。
僕たちはY高校の野球の応援に欠かすことができない、旧制中学時代から歌い継がれている、応援歌『熱球』を何度も演奏した。
そのときは文字通り青春真っ只中であった。
懸命の応援にも関わらず、例の如く野球部は一回戦で敗れた。
K君の姉が言っていたように、やっぱり県で一番弱い野球部なのだ、と妙に納得したものだ。
高校二年の現国の授業の時。
旧制中学のOBでもある先生が、
「旧制中学のときにゃあ、ミソノオちゅうピッチャーがおってのう、甲子園に出てから活躍したこともあるんでよお」
と話してくれた。
その時は県で一番弱い野球部にも強い時期があったのか、くらいにしか聞いていなかったが、その後三十年以上もその話と付き合うことになるとは、予想だにしなかった。
僕はY高校を卒業し、関西の大学を経て東京系の都銀に就職した。
最初の勤務地が大阪で、独身寮も大阪にあったので、よく甲子園へ高校野球を見に行った。
Y県代表校の試合が多かった。
Y県代表の選手を見ながら、高校二年のときH先生が話してくれた旧制中学時代の甲子園出場の話を思い出した。
いつ頃出場したのか、どこまで勝ち進んだのか、知りたくなり調べようと思ったが、現在のようにインターネットなどない時代、容易に資料を調べることができず、出場の記録は確認できなかった。
月日は過ぎ、二〇〇三年八月、星野監督率いる阪神タイガースが十八年ぶりのリーグ優勝を目指して快進撃を続け、井川投手の連勝記録が話題になっていた。
強力打線に助けられて連勝記録を更新し続け、村山実の記録を抜き十二連勝していた。
阪神タイガースの球団記録は十三連勝で、僕が聞いていたラジオの番組でも、球団記録のことを話題にしていた。
球団記録はミソノオ投手が持っているらしい。
ミソノオ・・・?あっ、もしかして・・・。
高校二年のときに先生の話に出てきた、あのミソノオ投手ではないか。
三十二年ぶりに聞いた名前に僕は身震いした。
井川投手が十三連勝を目指した登板予定の日の新聞にミソノオ投手のプロフィールが掲載されていた。
御園生崇男(みそのおたかお)、旧制Y中学、関西大を経てタイガース入団。
昭和八年選抜大会出場、と書いてあった。
やっぱり、あの御園生投手だったのだ。
夏の甲子園ではなく、春のセンバツに出場したのだ。
インターネットでY県の高野連を検索してみた。
昭和八年、第十回全国選抜中等学校野球大会の出場校に、Y中学の名前があった。
だが、一回戦で大阪の浪華商業、現浪商高校に五対三のスコアで負けている。
先生は、御園生投手は甲子園で活躍した、と言っていたが、選抜ではなく、タイガース入団後に甲子園で活躍していたのだ。
僕の永年の疑問は解決して、晴れ晴れとした気持ちになった。
Y高校の応援歌『熱球』の歌詞が頭に浮かび、高校時代とは違って小さな声で口ずさんだ。
『熱球血を啜りて、しもと受くる時、勝たねばやまずと、命に誓う・・・』
熱唱しなくても、その時の僕は青春時代に戻っていた。
昭和八年の春、甲子園のアルプススタンドにも、きっと『熱球』の歌声が響いていたのだろう。
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