真夜中のタクシーで、ドライバー氏が眠気覚ましに語る波瀾万丈の一代記につい引き込まれて、車を降りるのが惜しくなってしまうことがある。
昼下がりの電車の中、オバサンたちがこぼし合うディープな愚痴の数々に、(みんなに丸聞こえだけどいいのかなあ……)とハラハラしながらも、微に入り細をうがった人間ドラマの有無を言わせぬ迫力に、周囲の乗客全員がじっと黙り込んでしまうことがある。
夕方のハンバーガーショップでコーヒーを飲んでいると、隣の席に女子高生のグループがやってきて、食べてしゃべって、笑ってしゃべって……かしましさに閉口しつつ、三十分もしないうちに「トモちゃんが片思いしているバスケ部のコーキ先輩」の人となりがすっかりわかってしまうことも、ある。
陽が暮れた住宅街、家路を急ぐ親子連れがいる。保育園からの帰り道なのだろう、幼い男の子が歩きながらママにまとわりついて、今日一日の出来事を朝から順に話している。ママは後ろを歩く不審な中年男・シゲマツを露骨に警戒して、僕だってご近所の安寧のためにはさっさと追い越してあげるべきだとわかってはいるのだが、お昼寝の時間にオネショをしてしまったバラ組のカズヒコくんのその後が気になって気になって……ということだって、ある。
駅前の居酒屋は、同世代のオヤジたちの「ここだけの話」の天国である。会社の話、家族の話、青春時代の話……ふと耳に流れ込んできた「ここだけの話」を換骨奪胎させていただき、短編小説を仕上げたことも、じつを言えば幾度となく、ある。
いや、それを言うなら、僕の小説はすべて――フィクションではあっても、どこかに僕自身の体験や記憶が溶けている。フツーの人生の一見平板な日々にだって、起伏はある。その起伏にこそ、ひとが生きていくことを支える「なにか」があるはずだと信じて、祈って、小説を書きつづけている。デビューして十数年たっても、まだ「なにか」の正体はわからない。けれど、誰の人生にも、それを支える「なにか」があるんだという思いは、年を経るにつれて強まる一方なのである。
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「ひとは誰もが、一生のうちに一編は小説を書ける」という言葉がある。
確かに、自叙伝や伝記の面白さが示すとおり、つくりものではない、いわば「生身の物語」「筋書きのないドラマ」の力強さは、いまさら僕が言うまでもないことだろう。
だが――ときどき、思う。
「筋書きのないドラマ」は、なにも大河小説である必要はない。長い人生の中ではほんの一コマにしか過ぎない掌編小説まがいのささやかなエピソードが、忘れがたい深い印象を残すことは、誰にでもあるはずなのだ。
また、「生身の物語」は、現実の人間関係と同様、複雑に絡み合っている。自分が主人公をつとめることもあれば、誰かを主人公にした物語の脇役として参加することもある。目撃者という立場から一歩踏み出せない自分を悔やむときもあれば、心ならずも憎まれ役を割り振られてしまうときだって、ないわけではない。
だからこそ、物語の味わい方は豊かになる。
長い話、短い話、自分が主役の話、自分が語り部になって伝えたい誰かの話……。
「いま」や「あの頃」を実感するエピソードもあれば、時代は流れても決して変わらないひとの思いを噛みしめたくなるエピソードもあるだろう。
たとえば、戦争の記憶。
たとえば、家族の歴史。
たとえば、師や友との出会いと別れ。
たとえば、夢と挫折。
たとえば、振り返るたびに頬がゆるむ思い出や、ほろ苦さがずっと消えない思い出。
たとえば、恋。
たとえば、仕事。
たとえば、人生。
たとえば、誰よりも大切なひとに、どうしても伝えておきたい話……。
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財産というのは、なにも「カネ」や「モノ」に限定されるものではない。親から子へと語り継がれる物語だって――いや、むしろ、そのほうがかけがえのない財産に価するはずだ。
ならば、いまの時代を生きる誰もがそれぞれの胸に抱いている無数の「私の物語」は、誇りを持って愛すべきニッポンの財産ではないか。
あなたの物語を教えていただきたい。そして、ひとが生きていくうえで必要な「なにか」を分かち合わせてほしい。
小説家の端くれとしてというより、同じ時代を生きる一人として、さまざまなひとの胸に刻まれたさまざまな物語に触れてみたいと思うのだ。 |