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上野誠の万葉歌ごよみ
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歌ごよみ!
上野誠コラム
上野誠の万葉歌ごよみ
毎週日曜日 朝 5:40〜6:00

上野誠(奈良大学文学部教授)
松本麻衣子(MBSアナウンサー)
★松本麻衣子アナウンサーブログ
utagoyomi@mbs1179.com
上野先生に聞いてみたい事、番組の感想など何でもお寄せください。番組でご紹介させていただいた方には、上野先生の著書「大和三山の古代」をプレゼントします。
〒530-8304 毎日放送ラジオ
「上野誠の万葉歌ごよみ」

【巻】11・2368…たらちねの母が手放れ
【巻】11・2540…振分の髪を短み
【巻】19・4292…うらうらに照れる春日に雲雀あがり
【巻】14・3399…信濃路は今の墾道
【巻】11・2472…見渡しの三室の山の巌菅(いわほすげ)
【巻】4・717…つれも無くあるらむ人を
【巻】10・1851…青柳の糸のくはしさ
【巻】10・1880…春日野の浅茅が上に
【巻】10・1844…冬過ぎて春来るらし
【巻】5・822…わが園に梅の花散る
上野誠の万葉歌ごよみ-歌ごよみ
【巻】11・2368…たらちねの母が手放れ
2011年5月 8日

【巻】…11・2368

【歌】…たらちねの母が手放れ かくばかりすべなき事は いまだ為なくに

【訳】…たらちねの母の手を放れて、こんなにもどうしようもないことは、まだ一度も経験していないのよ

【解】…「たらちね」は、豊満な乳房を持つという意味で、母にかかる枕詞です。
万葉集には、母親が出てくる歌が少なくないのですが、その殆どが厳しい存在として描かれています。それはなぜか・・。古代の婚姻は妻問婚、つまり夫が妻の家に通う形態なので、夫はほとんど家におらず、妻が教育やしつけを一手に担っていました。それゆえ、必然的に厳しい存在となっていったのです。
この歌の母親もきっと、しつけ等に厳しい人だったのでしょう。その母から自立への道を歩みだした象徴として、一度も経験したことのない、どうしようもないことに遭遇した!と、作者はやや声高に綴っています。どういう経験だったのかは書かれていませんが、もしかしたら、母親に知られれば怒られるような事なのかもしれません。そうやって母に対して秘密を持つことが、不安ながらも、自立への淡い喜びを呼び起こしたものと思われます。


上野誠の万葉歌ごよみ-歌ごよみ
【巻】11・2540…振分の髪を短み
2011年5月 1日

【巻】…11・2540

【歌】…振分の髪を短み 春草を髪にたくらむ 妹をしぞ思ふ

【訳】…振分けの髪が短いので春草を結い上げて髪をまとめたあの子のことが思われる

【解】…古代の人々は、こんなオシャレをしていたのかと想像させる歌。
髪を左右に振り分けた「あの子」(女性)は、髪が短いのでアップにすることができず、髪の中に春草を編み込んで結い上げました。当時は、年齢によって髪型が大体決まっていて、小さな子どもの時はおかっぱ、大きくなるにつれて少しずつ髪を伸ばし、ある程度の長さになったら結い上げて大人になります。「あの子」は、結い上げるほど髪は長くないので、きっと大人になる手前の若い女性。
彼女は、画一的な慣習の中で少しでもオシャレをと、春草を編みこむ工夫をこらしたのでしょう。また、髪を結い上げることで、大人っぽく見せようとしたのかもしれません。
いずれにせよ、そんな恋人の姿を作者は愛おしく思い浮かべながら歌を作ったと思われます。


上野誠の万葉歌ごよみ-歌ごよみ
【巻】19・4292…うらうらに照れる春日に雲雀あがり
2011年4月24日

【巻】…19・4292

【歌】…うらうらに照れる春日に雲雀あがり こころ悲しも 一人し思へば

【訳】…うららかに、うららかに照っている春の日。そこにヒバリがあがった。
でも悲しい。ひとりでもの思いに耽っている。

【解】…「春だよ、働こう!田んぼを耕そう」と告げるホトトギス。
朝を告げる、ニワトリ。鳥の声や、蛙、蝉の声、虫の音は、季節の細やかな移ろいや時刻など、時を知らせてくれる重要なものでした。
和歌にあっては、鳥の声は、たとえば植物とセットで「梅に、ウグイス」「卯の花(ウツギ)にホトトギス」など、情景を紡ぎだす音です。
ヒバリの声が表すのは、うららかな春。暖かく穏やかな情景のはずなのに、この歌の主は「悲しい」と言います。なぜ?
情景と心情がマッチするのもいいですが、こういった齟齬・ズレがあるのも歌の面白さです。何が悲しいのかは一切書かれていませんが、想像するに、草木萌え命が輝きを解き放つ春の真っ只中で感じる「憂い」…それは、嬉しさ楽しさの感極まった頂点で、ふと哀しみ寂しさを感じる、日本人独特のナイーヴさ、いわゆる「詫び・寂び」のようなものかもしれません。


上野誠の万葉歌ごよみ-歌ごよみ
【巻】14・3399…信濃路は今の墾道
2011年4月17日

【巻】…14・3399

【歌】…信濃路は今の墾道 刈株に足踏ましむな 沓はけわが背

【訳】…信濃路は今切り開かれたばかりの道。切り株に足を踏みつけないでくださいね。くつをお履きなさいよ、私のいい人。

【解】…今回紹介する歌は、巻十四に収められているのですが、この巻十四は東歌(あずまうた)の巻とも言われます。遠江・駿河・伊豆・相模・武蔵・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野・陸奥といった、当然の都からはるか東方で歌われたものが収集されています。東北独特の言葉遣いが使われていたり、その出典も「古くから民謡として歌われていたものだ」「いやいや、新たに和歌として書かれたものだ」など諸説あり、この巻独特の興味を集めています。
この歌の舞台は、信濃か、美濃と信濃の国のあいだ、木曽路でしょうか。
当時の道の作り方はふた通り。踏み固めて側溝を作る、比較的整備された道。
そしてもうひとつは、木を伐り、石をどけ、文字通り切り開いて作る道。
この歌に歌われている道は、やはり後者のほうでしょう。
 伐採された木の切り株がむき出しになっている道を行かれるのですから、どうぞ沓(くつ)を履いていってくださいよ。あなたのことを心配していますよ。ここには、おそらく特に比喩などなく、ストレートな意図の表現であり、そういう意味では万葉集にあっては珍しい歌だと言えます。
愛情のやりとりを、そのままに言葉にした歌。特徴的な巻十四のなかで、これまた異色ともいえる愛の歌に出会う。やはり万葉集には、一筋縄ではいかぬ魅力があふれています。


上野誠の万葉歌ごよみ-歌ごよみ
【巻】11・2472…見渡しの三室の山の巌菅(いわほすげ)
2011年4月10日

【巻】…11・2472

【歌】…見渡しの三室の山の巌菅(いわほすげ) ねもころわれは片思ぞする

【訳】…見渡せば遠くに見える三室山。その巌菅ではないけれど、ねんごろに私は片思い。ああ、どうすりゃいいの

【解】…簡潔に言えば、私は片思いをしています、と述べただけの歌です。
では、前半部分の、三室山と巌菅のくだりは、どういう役割なのか・・。
「ねもころ」にかかる序詞の役割を果たしていますが、歌の中での意味はほとんどありません。
片思いの歌には、恋する相手に向けて作ったものと、第三者に聞いてもらうために作ったものの二通りありますが、今回の作品は、おそらく後者。
というのも、恋の相手には「あなたに片思いをしています」と、ストレートに言葉を並べれば充分ですが、第三者に聞いてもらうには、面倒がられないように、多少、面白みを加えた歌に仕上げなければなりません。前半部分はこの「面白み」に当たるとみられ、よって、この作品は第三者に向けて作られたものと推測されるのです。
ちなみに、片思いのプロを自負する上野誠さんの分析では、この歌の作者は、辛い状況から立ち直りかけているとのこと。なぜなら、本当に辛いときには、辛いという表現が出来ない、前半部分のようなことを書けるのは、心に余裕があるからだ、とのこと。本当に痛いときには、「痛い!」という声さえ出ないのと同じことなんでしょうね。