第1436回「災害ボランティアのこれから」
ゲスト:大阪大学大学院 准教授 宮本匠さん

西村)阪神・淡路大震災が起こった1995年は「ボランティア元年」と言われ、その後の災害では多くのボランティアが活躍してきました。しかし、元日に発生した能登半島地震では、行政によるボランティアの統制や自粛ムードの是非が課題になりました。
きょうは、災害ボランティアのこれからについて、大阪大学大学院 准教授 宮本匠さんにお話を聞きます。
 
宮本)よろしくお願いいたします。
 
西村)宮本さんは今回の能登半島地震でのボランティアの動きをどのように見ていましたか。
 
宮本)被災地に行った人が口々に言うには、被災地がとても静かだということです。断水が続いて、二次避難した人が多かったことに加え、ボランティアの数が少ないことが要因です。これまでの被災地ではなかった形でボランティアが受け入れられているのです。
 
西村)どういうことでしょうか。
 
宮本)今回は、石川県が一元的にボランティアの事前登録を受け付けていて、石川県は被災地のニーズに応じた数のボランティアを派遣しています。これまではそれぞれの市町村にある災害ボランティアセンターを経由して活動していましたが、今回の窓口は石川県のみ。能登半島全体の1日当たりのボランティアの活動人数はたった約300人でした。めちゃくちゃ少ないですよね。今回の被害だといろいろな支援が全然追いついていないと思います。
 
西村)なぜこんなに少ないのでしょうか。
 
宮本)災害ボランティアセンターを経由して活動すると、ボランティアの数が限定的になってしまうのです。阪神・淡路大震災のときは、災害ボランティアセンターというものはありませんでした。
 
西村)だからみなさん、自由に活動していたのですね。阪神・淡路大震災のときは、おにぎりを配って歩いているおばちゃんがいたとか。
 
宮本)その人は、「お腹すいていませんか」とたずねる前に、もうおにぎりを持っているわけです。困っている人がいるに違いないと。何のツテもなく、被災地に行った人が避難所でお風呂を焚いているボランティアを手伝うこともありました。阪神・淡路大震災のときは、ニーズを聞き取ってから活動するのではなく、とにかくまず被災地に駆けつけて、自分に何ができるかを考えて活動していました。それから災害ボランティアセンターができて、2004年に一般化しました。
 
西村)新潟中越地震が起こった年ですね。
 
宮本)災害が多かった2004年に社会福祉協議会が災害ボランティアセンターを設立。より多くのボランティアが効率的に被災地で活動できるように、事前にトレーニングや訓練をして、マニュアルを作りました。しかし、ニーズを待ってから動くスタイルなので、人数を超えた分は受付けられないんです。被災者からニーズが上がってこない要因はたくさんあります。多いのは「自分なんかよりもっと大変な人がいるから」という遠慮。知らない人に何かをお願いすることに抵抗がある人も。現在、能登の被災地に住みながら活動を続けている女子大学生の話があります。彼女は、ある避難所の朝ご飯の炊き出しを手伝っていました。1日目は、彼女が洗ったほうれん草をおばあちゃんがもう一度洗ったそうです。しかし次の日、彼女が洗ったほうれん草はそのまま使ってもらえた。
 
西村)心を許してもらえた感じがしますね!
 
宮本)その次の日は、おばあちゃんの家で1時間ぐらいお話を聞かせてもらって、その次の日は、おばあちゃんがいるときに本棚の片付けをして。それが今では、おばあちゃんいないときでもお手伝いをしているそうです。このようにボランティアは関係を作りながら活動するもの。「困っていませんか」「なにかありませんか」と聞いてもなかなか難しいものです。
 
西村)ボランティアの窓口が一つとなると、ボランティアの調整をするスタッフも大変ですよね。
 
宮本)日本社会は一元化が苦手。前提を共有しない別の組織や人と一緒に仕事をすることが、すごく苦手な社会です。このような社会では、ボランティアは、県や市町村、民間や地域でも行って、多様化・多元化する方が向いていると思うのです。
 
西村)今回、石川県の災害ボランティアセンターに登録する以外にも、いろいろな形で自主的にボランティアをしている人もいるのですか。
 
宮本)はい。たくさんのNGO、NPOなどいろいろな団体が、直後から拠点を作って独自にボランティアを受け入れて活動してます。
 
西村)そんな中、ボランティア同士のいざこざはあるのでしょうか。
 
宮本)地震直後は、被災地では深刻な渋滞が起きていて、「支援車両の妨げになるからボランティアに行くべきではない」というメッセージがSNSで飛び交いましたよね。能登半島全体が渋滞していたわけでも、24時間ずっと渋滞していたわけでもないのに。局所的に渋滞はありましたが全く動けない状況ではありませんでした。東日本大震災のときも渋滞がすごかったですが、「渋滞しているからボランティアに行くな」なんて聞いたことありません。渋滞は解決した方がいいけれど、それが支援しない理由にはならない。困った人がいたら、「何とか助けよう」「どうしたら助けられるだろう」と考えるのが普通です。
 
西村)もっとシンプルに考えたいですね。
 
宮本)このようなムードは、東日本大震災のときにも少しありました。この5~6年強くなっていると感じるのですが、この現象をわたしは、「見なかったことにする問題」と呼んでいます。日本社会は、どんどん余裕がなくなってきていて、誰かを助けようにも自分に余力がない人が多いのです。
 
西村)金銭的に余裕がない人もいますよね。
 
宮本)個人はもちろん、行政も人が減っていて、普段からギリギリの人数で回している状況。人を助けるために使える資源は減っていますが、災害は増える一方です。
 
西村)ここ最近の地震の多さにびっくりします。
 
宮本)やれることは少ないのに、課題は増えている。すると、「起こった問題を見なかったことにしよう」という考えになります。中途半端になるなら、「見なかったことにしよう」と思っても仕方ないと思います。そのようなムードが元々あるところに、「支援車両の妨げになるから~」というのは乗れる話で、支援できないことへ理由になりますよね。それも支援控え、自粛モードになっている一つの背景だと思います。
 
西村)でも、現地の被災者は今も困っていますよね。震災から3ヶ月以上経った能登は今、どんな状況なのでしょう。
 
宮本)仮設住宅に移った人もいますが、まだ避難生活をしている人もいます。瓦礫の片付けなど、なかなか復旧作業が進まないところも。目に見える変化があると気分も変わると思うのですが、なかなか風景が変わらない中、疲れが出ている人も多いと思います。気になるのは、能登半島を離れた人たちが、どこでどのように過ごしているのかということ。誰もフォローできていないと思うので心配です。
 
西村)どうしていったら良いのでしょう。
 
宮本)わたしは、「選択と集中」の反対の「包摂と分散」が大事だと思っています。「包摂」はいろいろなものを認めるということ。ボランティアなら、県のほかにNGO、自治会、町内会、学校のPTAでもいい。自分たちだけでやるのが難しければボランティア経験のある団体と協力し合って、受け入れ窓口を増やしていく。さまざまな形を認めることが包摂です。「分散」は文字通り、そのような場所を能登半島の中にたくさんつくること。直近では、この連休がポイントになると思います。現在、道路も仮復旧が進んでいて、渋滞は起きていません。この連休に「みんなで能登を支える」「能登のことを忘れてない」という空気を作っていくってことが大事。兵庫県は、5人以上のグループで連休中に活動する人たちの交通費を支援しています。さまざまなNGO、NPOがボランティアを受け入れて活動しているので、お手伝いしたいという気持ちがあって、お手伝いできる状況にある人は、情報を調べて、ぜひ連休に活動してください。
 
西村)ボランティアというと、「ボランティアセンターに登録して、がれきの撤去をする~」というイメージがありましたけど、ほかにもできることはいろいろあるのですね。
 
宮本)ボランティアは、ひとりひとりが専門家。被災地での活動経験がなくても、認知症のおばあちゃんと一緒に暮らしている人なら、「おばあちゃんは、昔やっていた針仕事をしたら表情が戻る」ということを知っているはず。避難所や仮設住宅にいるお年寄りに昔やっていたことをしてもらったら、元気になるかもしれないとわかります。ひとりひとりが持っている多様な経験、感性が被災地では活きます。「素人が行って良いの?」と思わずに。必ずみなさんに役割があります。あまり深刻に考えずにまずはボランティアに参加することです。
 
西村)避難所や仮設住宅に針仕事ができるものを持っていって、みんな一緒に何か作るのもいいですね。
 
宮本)能登のみなさんは、本当に不安な思いをしていると思います。「忘れられてない」と思えるのは、すごく大きいと思います。気持ちを支えることが一番大事だと思うので、お話を聞くだけ、そこにいるだけでも意味があると思います。
 
西村)まずは行ってみて、できることをやってみましょう。ゴールデンウィークに時間がある人は、いろいろな団体を調べてみてはいかがでしょうか。
きょうは、災害ボランティアのこれからについて、大阪大学大学院 准教授 宮本匠さんにお話しを伺いました。

第1435回「熊本地震8年~生活の場としての避難所運営」
オンライン:NPO法人「益城だいすきプロジェクト・きままに」代表理事
吉村静代さん

西村)4月14日で、熊本地震の発生から8年。熊本地震では、4月14日と16日に連続して震度7の地震が発生し、273人が亡くなりました。そのうち8割以上は災害関連死。避難所の生活環境の大切さが浮き彫りになりました。
きょうは、熊本で避難所運営などの支援に当たったNPO法人「益城だいすきプロジェクト きままに」代表理事 吉村静代さんにお話を伺います。
 
吉村)よろしくお願いいたします。
 
西村)地震が発生した4月14日午後9時26分、吉村さんはどこにいましたか。
 
吉村)当時は熊本県益城町寺迫の自宅の居間にいました。被害が一番大きかった場所です。
 
西村)どんなようすでしたか。
 
吉村)ドーンとすごい音がして。電気がすぐ消えたので、懐中電灯を持って家を飛び出しました。
 
西村)家族のみなさんにケガはなかったですか。
 
吉村)大丈夫でした。夫は寝ていたので、起こして外に飛び出しました。
 
西村)自宅に被害はありましたか。
 
吉村)14日の揺れではそれほど被害はなかったのですが、16日の本震で壁が落ち、屋根が斜めになって家が全壊しました。
 
西村)自宅から飛び出した後、どこでどのように過ごしたのですか。
 
吉村)道を挟んだ向いにある屋根付きのカーポートがある家に避難して、余震の中過ごしました。翌日はとても良いお天気だったので家の片付けをしたのですが、16日夜中の本震で窓が割れるなど被害があり、大雨予報もあったのでしかたなく翌日の昼過ぎに避難所に行ったんです。
 
西村)避難所はどんな場所でしたか。
 
吉村)小学校の体育館です。車中泊も含めて約400人が避難していました。
 
西村)みなさんどんなようすでしたか。
 
吉村)不安そうに体育館の床に座り込んでいました。次から次へと人が入ってきて。その小学校は、その時期は危険なので、避難所にしてはいけない場所でした。でも16日の本震のあと、益城町中の人たちが避難所に行ったので、あふれていた人たちがその小学校の体育館に集まってきました。知らない人たちが多い避難所でした。
 
西村)指定避難所ではない避難所にいろいろなところから人が集まってきたから、顔見知りは少なかったのですね。そんなようすを見た吉村さんはどうしましたか。
 
吉村)わたしは町作りのボランティア団体を立ち上げて、町作りの一環としての避難所を見てきたので、知らない人に声かけることに抵抗はありませんでした。避難所には東日本大震災や阪神・淡路大震災の避難所と同じ状況が広がっていました。役場の職員さんも疲れていたのでわたしがやろうと。余震が続いていたので、みなさんに協力お願いして、まずは避難通路と非常口を確保しました。
 
西村)避難所の区画整理をしたのですね。
 
吉村)わたしも家に帰れないので、避難所が生活の場になります。いかにして避難所を快適に過ごせるようにするかを考えました。
 
西村)快適な場所にするために、ほかにはどんなことをしたのですか。
 
吉村)行政には「早くダンボールベッドを入れてほしい」とお願いしていたのですが、ダンボールベッドが入るまで約1ヶ月かかりました。区画整理をしたおかげで車いすの人の移動がしやすくなりました。掃除や掃除道具の貸し借りなど、みなさんには毎日たくさんお願い事をしました。
 
西村)お願い事をされたみなさんはどんな反応でしたか。
 
吉村)みなさん顔見知りではなかったのですが、「ありがとう」と貸し借りをするたびに会話が生まれました。会話が生まれることによって朝の挨拶もするようになり、良い雰囲気になっていきました。
 
西村)人と関わることは大切ですね。避難所の炊き出しのようすはどうでしたか。
 
吉村)感染症予防のために食事はコンビニ弁当が中心でした。最初の頃は良かったのですが、そのうち野菜不足になり、温かいものが欲しくなったので温かい汁物を作りました。
 
西村)温かいものを食べると心も和みますよね。
 
吉村)梅雨時に入り衛生面は大変な状況でした。お弁当はすべて冷凍室に入れて、食べるときには電子レンジであたためていました。1ヶ月ぐらいたつと、みんな仲良くなっていきましたね。
 
西村)避難所を生活の場に近づけるために、どんなことをしましたか。
 
吉村)ダンボールベッドの余ったダンボールで、子どもたちの遊び場や語らいの場所、食事スペースを作りました。パーテーションを閉めたままだと孤立してしまうので、「パーテーションは朝起きたら開けて、寝るときだけ閉める」ということをみなさんにお願いしました。
 
西村)避難所には子どもから高齢者までいろいろな世代の人がいたのですね。
 
吉村)子どもが騒いだり泣いたりしても、「子どもは泣くのが当たり前だよね」と言える雰囲気作りをしました。
 
西村)それは母親にとってとてもありがたいです。避難所生活はどれぐらい続いたのですか。
 
吉村)約4ヶ月続きました。みんな家族みたいに仲良くなりました。
 
西村)雰囲気作りをしていく中で、一番力を入れたことはどんなことでしたか。
 
吉村)元気な人たちはみんな家を片付けにいってしまいます。避難所に残された高齢者が元気になるためにはどうすれば良いかを常に考えていました。掃除や挨拶など地震が起こる前にやっていたことをするように声をかけていたら、元気になっていきましたよ。
 
西村)日常を取り戻すことは心が元気になる大きな一歩ですね。高齢者が多い能登半島の被災地にも行ったそうですね。
 
吉村)とにかく早く行かなければという想いはあったのですがなかなか宿泊地が確保できなくて。やっと3月25日から1週間ほど行ってきました。
 
西村)地震発生から3ヶ月が過ぎた現在、避難所には8000人余りが身を寄せています。仮設住宅は約900戸が完成していて、一部入居が始まっているとのこと。仮設住宅はどんなようすでしたか。
 
吉村)移住後1ヶ月たった頃にお邪魔しました。みなさん地域のコミュニティで入居していたので仲が良くて安心しました。これから仮設住宅で2~3年過ごすことになります。「みんなの家(仮設住宅団地内の集会施設)を気楽に入れる場所にしてほしい」「孤立・孤独死を予防するために、家から外に出て交流することが大事」と伝えました。熊本県内のテクノ仮設団地は、1300人が住んでいましたが「みんなの家」や広場をうまく活用して仲良くなったので、そのような熊本地震の経験を踏まえて話をしました。
 
西村)わたしも益城町のテクノ仮設団地を訪れたことがあります。「みんなの家」でカラオケ大会をして仲良く歌ったり、お茶を飲んだりしているようすを見て、こういう場所は大事だなと思ったんです。
 
吉村)孤立・孤独死を予防するためにコミュニティを作ろうと「みんなの家」ができたのが東日本大震災のとき。熊本地震ではそれぞれの仮設住宅に「みんなの家」が設置されていて、そこで交流が始まりました。
 
西村)能登の仮設住宅では、困っていることやトラブルはありましたか。
 
吉村)顔見知りの人が多いこともあって朗らかなようすでした。これからは、いろいろな問題が出てくると思うので対策を伝えてきました。
 
西村)熊本地震では、避難生活で亡くなる災害関連死が8割以上になりました。能登半島地震では、災害関連死を防がなければなりません。これからの避難生活で大事なことを教えてください。
 
吉村)仮設住宅の生活では、自立の第一歩と認識し、自分事として捉えること。自分たちでできないことは、外部の人たちの力を借りることも大事。仮設住宅の中で、誰1人残らずみんなの顔が見える関係作りをしてほしいです。そのためには、日頃から地域住民のみなさんとコミュニケーションを図り、お互いの状況を近所で共有しましょう。そうすると、災害が起きて避難所生活になっても孤立・孤独死の問題を予防できると思います。
 
西村)日頃からのコミュニティ作りを私も大切にしていきたいと思います。
きょうは、NPO法人「益城だいすきプロジェクト きままに」代表理事 吉村静代さんにお話を伺いました。

第1434回「災害時のラジオ~共感放送の役割~」
ゲスト:毎日放送報道情報局 大牟田智佐子さん

西村)きょうのゲストは1998年から12年間、この番組のプロデューサーをしていた、毎日放送報道情報局の大牟田智佐子さんです。
大牟田さんは番組を離れてからも、防災関連の取材や発信を続け、兵庫県立大学大学院で博士号をとりました。
きょうは、大牟田さんが研究したテーマ、災害時のラジオの役割"共感放送"について聞きます。
 
大牟田)よろしくお願いたします。
 
西村)きょうから放送時間が日曜夕方に変わりました。
 
大牟田)夕方の放送は、この番組が始まった頃のスタイルに近いです。この番組は、阪神・淡路大震災が起きた3ヶ月後の1995年4月にスタートしました。当時、番組を立ち上げたスタッフや出演者も全員が被災者でした。被災者による被災者のための番組として始まり、土曜日の夕方に45分間の生放送をしていたんですよ。
 
西村)生放送なら、番組を聞いたリスナーがダイレクトに想いを返してくれていたのですね。
 
大牟田)はい。当時はハガキが主流でした。その後、メールができるようになってからは、リスナーが送ってくれた感想を番組の最後に紹介していました。
 
西村)そんな番組も今月で30年目に入りました。
 
大牟田)すごいことです。阪神・淡路大震災の後、この番組と同じような番組がいくつも誕生しましたが、全部終わってしまいました。残っているのはこの番組だけです。それも順風満帆ではなく、いろいろな危機を乗り越えてここまでやってきました。
 
西村)どんな危機があったのですか。
 
大牟田)震災5年後に、仮設住宅が全て解消した頃には、「番組は役割を終えた」という声が高まりました。しかし、その頃に大きな地震が続き、この番組の必要性が再認識されて今に至ります。
 
西村)そんなネットワーク1・17を担当していた大牟田さんの博士論文が書籍化され、出版されました。タイトルは、「大災害とラジオ 共感放送の可能性」この"共感放送"という言葉は聞きなじみがないです。
 
大牟田)これはわたしが作った言葉です。ラジオらしい災害時の放送を"共感放送"と提唱しています。共感は、「そうだよね」「わかる、わかる、その気持ち」という感情で使われます。英語では2種類の言葉に置き換えることができます。シンパシーとエンパシーです。
 
西村)シンパシーは、聞いたことがあります。エンパシーとはどのような意味ですか。
 
大牟田)シンパシーは、「同情」とも訳されます。どちらかというと「かわいそう」という気持ちが当てはまります。「かわいそう」や「気の毒だね」というのは、「自分はそうじゃなくて良かった」という気持ちで、相手のことを少し上から見ているような状態。それに対して、エンパシーは、「相手の立場を自分の身に置き換えて考える」という態度のことです。災害時に「もし自分だったら」と考えて、感情移入をして、支援することをエンパシーという言葉で表すことができます。そこには上下関係はなく、相手と対等の関係があるので、共感放送の"共感"はエンパシーだと考えています。
 
西村)これまで"共感放送"という考え方はあったのですか。
 
大牟田)共感放送という言葉で当てはめた人はいなかったかもしれませんが、ラジオにそのような面があることはみなさん感じていると思います。災害放送には4つのパターンがあります。2次被害を防ぐ呼びかけをする「防災放送」、被害の数字や地震の規模を伝える「被害報道」、行方不明者などの安否を知らせる「安否放送」、電気・ガス・水道の被害や復旧状況を伝える「生活情報」です。
しかし、ラジオには、このような情報を流すだけではなく、パーソナリティのおしゃべりやリスナーからのおたよりを読み上げたり、電話をつないで話を聞いたりする時間があります。それは共感に支えられたもので、それこそがリスナーがラジオに求めているものではないかということで、この"共感放送"という言葉を定義しました。最近の災害でもそのような事例がありました。

 
西村)どの災害ですか。
 
大牟田)8年前に起きた熊本地震です。当時、地元のRKK熊本放送ラジオが長時間にわたって特別番組を放送しました。その番組に送られてきたリスナーからのメールは全部で434通。これを学術目的ですべて分析すると、興味深いやり取りがわかったのです。
 
西村)どんなやり取りがあったのですか。
 
大牟田)RKKラジオの担当者と「これはラジオらしいですね」と言い合った例が2例ありました。一つは、支援を要請するリスナーのメールにほかのリスナーがメールで答えた事例です。指定されていない避難所に避難していたリスナーから「200人ほどの人がいるのに、水も食料も届かない」というメールが届き、それを聞いていたほかのリスナーが、管轄の市役所に電話。「その市は、避難所を把握しています。救援の車が向かっていますが、道路が寸断されていて到着が遅れているようです。市役所を責めないであげてください」と書かれたメールが送られてきたのです。このリスナーは東京在住でした。
 
西村)ということは、radikoで聞いてのですね。
 
大牟田)radikoのプレミアム会員で、エリア外から聞いていたことがわかりました。
 
西村)ラジオならではのやり取りですね。何かできることないかと行動してくれたのですね。
 
大牟田)2つ目は、音楽にまつわる事例です。熊本地震は、28時間の間に震度7が2回も起きた稀な地震でした。2回目の震度7が起きた翌日の午後、パーソナリティが放送の中で、「"そろそろ音楽が聴きたい"というおたよりが増えて来たので、アンパンマンをかけようか」と話していたんです。ところが、放送局のレコード室のラックが地震で倒れてCDは床に散乱している状況...。CDを探すシステムも使えませんでした。
 
西村)いつもなら、パソコンで曲名を検索したら、スムーズにCDを探せますが大変な状況ですね。
 
大牟田)すると、放送中に、スタッフがCDを探し出したんです。パーソナリティは「あった!すごいね!かけようよ!気分も変わるよね」とすぐに「アンパンマンのマーチ」をかけました。この曲、西村さんもよく歌いますか?
 
西村)子どもが3歳で、アンパンマンが大好きな世代です。いつも保育園に行くときの自転車で、「そうだ♪うれしいんだ♪」と歌ってますよ。
 
大牟田)その歌詞の続きは?
 
西村)その後...「そうだ♪うれしいんだ♪生きるよろこび♪」ですね!
 
大牟田)そう、あの歌は「生きる喜び」を歌っているんです。すると、「普段何気なく姪っ子と一緒に歌っていた歌なのに、聴いたらすごく元気が出た」「なぜか涙が出た」というメールが続々と届きました。中には、「大変な状況なのにCDを探してくれてありがとう」というメールも。これは音楽の力はもちろん、被災した放送局のレコード室からスタッフが必死にCDを探し出して、リスナーのためにかけた、というエピソードが共感を呼んだのだと思います。共感放送とは、ラジオの立場では、リスナーの状況に心を寄せて励ましを送ったり、音楽をかけたりすること。リスナーの立場では、被災した人同士が励まし合う、被災者のことを助けるために行動を起こすことだと思います。
 
西村)改めて、ラジオでみなさんとつながっていることがうれしいです。これからも心と心でつながる番組を作っていきたいと思います。最後にリスナーのみなさんに伝えたいことはありますか。
 
大牟田)わたしはすごくラジオが好きな家庭で育ち、身近にいつもラジオがありました。中学生から大学生にかけては、ラジオの深夜放送を聞いていました。ラジオは「あなたにかけ語りかけるメディア」。パーソナリティが自分に話しかけてくれているように感じたり、他のリスナーも夜遅くに一緒に起きているように感じられたりしますよね。そのような距離感がラジオの魅力。ラジオの仕事をするようになって、先輩方には、「わからないことはリスナーに聞け」とずっと教わってきました。
 
西村)それはなぜですか。
 
大牟田)「双方向のやり取りを大事に」ということだと思います。リスナーはいろいろな情報をくれます。リスナーのみなさんの支持がなければ、ラジオは成り立ちません。ラジオを聞いてぜひ応援してほしいです。ラジオに対する応援メッセージだけではなく、要望や辛口な意見もぜひ寄せていただきたいです。災害時、被災者は本当に大変。日常生活を送るだけでもいろいろなことに追われます。
 
西村)能登半島や台湾で大きな地震があり、まだまだ大変な状況が続いていますね。
 
大牟田)水汲みに何回も足を運んだり、物資をもらいに行ったり。そういうことに追われてしまう。これからのことで不安でいっぱいだと思います。そんなときSNSは便利ですが、SNSには、滝のように情報が流れてきます。その中から、自分が必要な情報だけを取り出すのは大変な労力。心身ともに疲れているときに自分で探し出すのは大変だと思います。
 
西村)携帯電話の充電が減っていくのも気になりますよね。
 
大牟田)見たくない情報も含まれていると思います。そういうときにラジオは役立つと思います。少し速度は遅いかもしれませんが、パーソナリティやスタッフが必ず目を通した情報をお届けするので安心。ぜひ周りの人と一緒に、普段からラジオを聞いてほしいと思います。
 
西村)みなさんのおなじみの声になれるようにわたしたちも頑張っていきます!
きょうは、元番組プロデューサーの大牟田智佐子さんにお話を伺いました。

第1433回「鉄道乗車中の津波避難」
取材報告:MBSラジオ報道デスク 横矢桐の 
ゲスト:和歌山大学 教授 西川一弘さん

西村)きょうは、鉄道に乗っているときに、津波からどのように避難するかがテーマです。和歌山県南部の海岸線を走るJRの乗客は、南海トラフ地震が発生したら、どこへ、どのように逃げれば良いのでしょうか。列車に乗って紀伊半島の歴史や文化を学び、さらに地震・津波の避難訓練をするというツアーを企画している和歌山大学教授の西川一弘さんがゲストです。
 
西川)よろしくお願いいたします。
 
西村)このツアーは、「鉄學(てつがく)」という名前だそうですが、どんなツアーなのですか。
 
西川)電車に乗っているときに、津波が来たらどのように逃げれば良いのか。きのくに線ではJRや大学生、地元の高校生と一緒に訓練を重ねています。しかし、訓練をするにも限界があり、コスト面や高校生と連携する場合、カリキュラムの問題もあります。そして最大の問題は、防災意識が高い人しか訓練に来ないということ。より裾野を広げるために、電車に乗って、観光旅行として楽しみながら避難訓練ができるツアーを企画しました。
 
西村)紀伊半島の歴史や文化も学ぶことができるのですね。この路線は、海がキレイに見えるので、写真を撮るのも楽しそう。
 
西川)普段停まらない駅に停まることもありますよ。非日常を味わってもらいながら、津波避難についても学んでもらいます。
 
西村)津波のリスクが高い地域での避難訓練となりますが、きのくに線の浸水想定区間はどれくらいですか。
 
西川)きのくに線は、JR和歌山駅から南の端の新宮市までの海岸線を走る約200kmの路線。和歌山駅から新宮駅までの約35%が浸水区間です。白浜から南はほぼ半分が浸水区間です。
 
西村)「鉄學」ツアーは、今回で何回目ですか。
 
西川)コロナ禍で実施できなかった時期もありましたが、2016年から始めて今回で8回目です。
 
西村)1月に行われた「鉄學」ツアーをMBSラジオ報道デスクの横矢桐のさんが取材してくれました。今回の「鉄學」ツアーは、何人が参加していたのですか。
 
横矢)約60人で、若い人も多かったです。高校生や町おこしの関係者もいました。
 
西村)ツアーの内容を具体的に教えてください。
 
横矢)串本駅から新宮駅まで電車で向かいます。途中でいろんなところに停まって、風景を見ながら進んでいきます。
 
西村)きのくに線沿線は、観光地もあるのですか。
 
横矢)パンダで有名なアドベンチャーワールドがある白浜駅や温泉街がある紀伊勝浦駅があり、外国人観光客もよく乗っています。
 
西村)今回訓練した場所はどのあたりですか。
 
横矢)新宮駅の手前あたりです。地震が発生した想定で、線路の上で停車した車両から逃げる訓練をしました。
 
西村)この場所は、津波のリスクが高いところですか。
 
横矢)南海トラフ地震が起きると、7分半で30cmの津波が来ると想定されている場所です。周りより少し高くなっている線路でも、5mほど浸水する想定になっています。訓練のようすを音声でお聞きください。
 
音声・車内アナウンス)地震発生。津波がきます!ドアが開いたら避難してください。飛び降りる際は足元に注意してください。ドアを開けます。
 
音声・横矢)ほかの乗客と一緒に走っています。「走れ!走れ!」という大きな声が聞こえています。みなさん急いで電車から降りたのですが、かなり高さがあって。わたしは降りるのをためらってしまいました。結構急な坂です...(はぁはぁと息がきれる)。今、走っているところです。かなり高いところに逃げてきました。3~4分くらいかかったと思います。

 
西村)横矢さんかなり息がきれていましたね。
 
横矢)想像以上に息がきれました...
 
西村)すごく緊迫感のあるようすが目に浮かびました。みなさんは、どのように電車から逃げたのですか。
 
横矢)乗務員が電車の扉を開けてくれて、逃げました。
 
西村)地震から何分後とか、揺れが落ち着いてからなど、逃げるタイミングは決められているのですか。
 
横矢)特にタイミングは決まっていません。揺れが落ち着いてから逃げるのが良いですが、揺れが長く続くこともありますので、そのときによります。
 
西村)扉は乗客が開けるのか、乗務員が開けるのかどちらでしょう。
 
横矢)乗務員が開けます。
 
西村)その後どのようにして、高台まで逃げたのですか。
 
横矢)電車の扉のレールのところに座って飛び降りて、走って逃げました。
 
西村)線路までは結構高さがあるから怖いのではないですか。
 
横矢)扉のレールから線路までの高さは約150cmあります。わたしの身長が150cm弱なので、とても怖かったです。飛び降りるときに扉の脇の手すりから手が離せなくなって宙吊りのようになってしまいました。
 
西村)足が不自由な人や高齢者は大変ですね。
 
横矢)それぞれの車両に一つずつ組み立て式のハシゴが設置されています。ワンマン列車で、乗務員はひとりしか乗っていないので、ハシゴは乗客が自ら組み立てます。高校生の女の子がハシゴを組み立てる体験をしてくれました。音声をお聞きください。
 
音声・高校生)想像していたより軽くて、誰でも組み立てることができそうです。
 
音声・横矢)足で押さえながら車両の外に投げるという組み立て方でしたが、実際やってみてどうでしたか。
 
音声・高校生)縄のハシゴをかけるよりスムーズにできるので、避難も円滑になると思います。地震や津波は突然起こるものなので、今のような平常心でいられるかわからないですが、高校生が率先して地域のみなさんと一緒に逃げることができたら良いと思います。

 
西村)ハシゴは軽いんですね。組み立ては簡単なのですか。
 
横矢)簡単です。スライド式になっていて、すぐに組み立てられるように留め具もついていません。
 
西村)誰でも組み立てることができるなら安心ですね。今回の訓練ではど、れぐらいの時間で全員が避難できたのですか。
 
横矢)海抜30mの高さのところまで5分以内で避難できました。早く避難できたと思います。揺れが収まるまでの時間を足して、約7分~8分以内に逃げることができたら、命は助かると想定されています。
 
西村)横矢さんありがとうございます。西川さん、今回の避難訓練をどう総括しますか。
 
西川)乗務員も素早く、お客さまも一生懸命逃げてくれたので、早く避難できたと思います。体調面で課題のある人は、電車から降りるときの支え、高台へ連れて行くときには助けが必要でした。それでも想定時間の5分以内に避難できました。
 
西村)そのような手助けの訓練も大切ですね。長い揺れが続くことが想定されますが、ドアは完全に揺れが完全に収まってから開けるのですか。
 
西川)基本的には揺れが収まってから開けます。網棚に載せている荷物などが落ちてきたら危険なので。東日本大震災のように、揺れが4分以上続く場合は、待っているリスクの方が高くなってしまう場合もあるので、揺れているときに乗務員が開ける判断をするかもしれません。
 
西村)4分も待っていたら、津波が来てしまうかもしれませんね。
 
西川)最悪の想定なのでわかりません。乗務員はさまざまな想定で訓練をしています。
 
西村)わたしたちは、乗務員の指示を待って動いた方が良いのでしょうか、乗務員の指示なしでも自分たちの判断で動いても良いのでしょうか。
 
西川)後者です。津波のリスクもありますし、乗務員は1人しかいません。乗務員=「避難をさせる人」、乗客=「避難させられる人」という関係だと、時間がかかりますし、乗客が主体的に逃げることができません。ドアが開いたらすぐ逃げてください。車内の見えるところにハシゴを設置することで、「何か起きたらすぐに逃げる」ことを後押ししています。
 
西村)ハシゴを組み立てる人は避難が遅れると思うのですが、誰がハシゴを組み立てるのですか。
 
西川)お客さまです。東京ではハシゴを使わない訓練も行っています。今まではハシゴを使用することが常識だったのですが、津波のリスクを考えると、腰掛けて降りてもらう方が早い。70~80代で元気な人なら腰掛け降車ができます。どうしてもハシゴがないと厳しい人には、お客さま自身や時間が確保できた乗務員が組み立てることになると思います。
 
西村)ハシゴを組み立てて、それを待ってから逃げるわけではなくて、逃げられる人はどんどん逃げた方が良いのですね。
 
西川)土地勘がある住民は、高台を指し示して、みなさんに声をかけてもらえるとありがたいですね。
 
西村)体の不自由な人、体調面に不安がある人、高所恐怖症でジャンプできない人などいろいろな人がいると思うのですが、手伝う人は決まっているのでしょうか。
 
西川)特に役割は決まっていません。逃げられる人は逃げる。乗務員は手助けが必要な人に集中する。乗客で元気な人は、降りるときに支える、手を引っ張るなど自ら役割を作ってもらいます。「ハシゴを組み立ててください」「先導してください」など、乗務員からお願いする場合もあります。
 
西村)地元の人なら、ある程度想定ができるかもしれませんが、観光客が多く乗っている特急の場合はどうでしょう。避難方法は変わるのでしょうか。
 
西川)基本的には避難方法は変わりません。ハシゴを使うか腰掛け降車をするかです。普通電車と特急電車では扉の数が違うので、そこは課題になります。一旦、デッキに出ることになります。
 
西村)横矢さん、今回取材をして、どんなことが大切だと思いましたか。
  
横矢)日頃から、当事者意識を持って生活することが大切だと思いました。周りの音、風景、人に敏感であることで、さまざまな気づきを得られると思います。たまにはイヤホンを外してみる、スマホから目を上げてみることが大事だと自戒を込めて思います。
  
西村)電車に乗っているときは、「今、地震・津波が来たらどうしたら良いか」と想定することも大切ですね。西川さん、乗務員任せではダメですね。
  
西川)「避難させる」「避難させられる」という関係をいかになくしていくかですね。自分の命は自分で守ること。電車の座席のポケットや車内には避難の案内があるので、そういうものを見て気づいてほしいです。
  
西村)今後はどんな訓練が必要だと思いますか。
  
西川)高齢者、車椅子の人、視覚障害者などの身体の不自由な人が早く降りられるようにデータを取りたいです。どうすれば1秒でも早く降ろすことができるのか、どうすれば1秒でも早く逃げられるのかを研究したいと思っています。今回は晴れた日に訓練をしましたが、夜や雨の日は、避難に時間がかかってしまいます。さまざまなシチュエーションを考えた検証型の訓練を続けていきたいです。
  
西村)わたしもぜひ参加してみたいと思いました。今回紹介したツアー、「鉄學」を企画している和歌山大学教授の西川一弘さん、そしてこのツアーに参加したMBSラジオ報道デスクの横矢桐のさんにお話を伺いました。

第1432回「災害時の医療ボランティア」
取材報告:亘佐和子プロデューサー

西村)きょうの特集では、災害時の医療について考えます。災害が発生した時、医療機関に平常時の何倍もの数の患者が来ることが予想されます。一方で、医療機関のほうはどうでしょうか。
休日や夜間なら医療スタッフは少なく、建物が倒れたり路面が割れたりして道路が寸断され、医師や看護師が出勤できない事態が考えらえます。「病院に医療従事者がいなくて診療ができない」という災害発生直後の状況をどう乗り切れば良いのでしょうか。そのひとつのアイデアとしての「医療ボランティア」について、番組プロデューサーの亘佐和子記者が報告します。
 
亘)よろしくお願いします。
 
西村)災害発生時の病院の状況は本当に大変ですね。
 
亘)電気や水などのライフラインが止まり、地震で機材が倒れたり散乱したりします。医療スタッフが出勤してこられない中、大勢の患者、家族、近所の人たちがどんどん来ます。よく野戦病院のようだと言われますが、本当に大変な状況になります。
 
西村)その場合、どうすれば良いのでしょうか。
 
亘)例えば、災害派遣医療チーム「DMAT」が駆けつけたり、重篤な患者は被災地の外の病院に搬送したり、いろいろな手立てがあるわけですが、そのような助けが入る前、災害発生の当日~翌日ぐらいまでをどう乗り切るか。そのアイデアの一つを紹介します。先月、西宮浜の防災フェスタを取材しました。この防災フェスタは、楽しく学んで災害に備えようということで地元の住民が企画。防災用品・災害時のレシピの紹介、消火訓練、給水訓練などさまざまなコーナーがあり、西宮市役所、消防、警察、自衛隊が参加する大規模なイベントでした。その中で、きょう紹介する医療ボランティアの訓練も行われました。
 
西村)西宮浜といえば、埋立地ですよね
 
亘)西宮市にある人工島です。ヨットで太平洋横断した海洋冒険家の堀江謙一さんのヨットがある新西宮ヨットハーバーがあることでも有名です。西宮浜には約7000人が暮らしています。市の中心部とは、西宮大橋という橋でつながっています。災害が起こったときにこの橋が壊れたり、周辺が浸水したりして通れなくなると、西宮浜は孤立してしまう。実際に阪神・淡路大震災のときは、橋脚が壊れて、通行止めになっていました。この西宮浜には協和マリナホスピタルという中規模の病院があります。ここの医療スタッフはほとんどが西宮浜の外に住んでいます。橋が壊れたら病院に駆けつけたくても来られないかもしれない。しかし、西宮浜に住む医療従事者がいます。西宮浜の外で働いている人、現役引退しているも人もいますが、災害発生時に西宮浜にいるのであれば、その場所で、医療の専門知識を生かしてボランティアができるのではないかと。この医療ボランティアを西宮浜で募集したら、10人以上が手を挙げました。そこで先月の防災フェスタで、顔合わせも兼ねて、初めて模擬診療をやってみようということになったのです。
 
西村)どんな場所でどんな訓練が行われたのですか。
 
亘)防災訓練は、西宮浜義務教育学校で行われました。義務教育学校とは、小学校6年間と中学校3年間の9年間を一貫教育する普通の義務教育の学校。西宮市の指定避難所になっている体育館の中に、診療所を開くイメージで訓練をしました。西宮浜には消防局の浜分署という拠点もあり、消防車も常時1台あるので、消防も訓練に参加しました。患者役をしたのは、島の唯一の病院である協和マリナホスピタルのスタッフ。いろいろなタイプの9人の患者を受け入れるという訓練でした。訓練のようすを聞いてください。
 
音声・患者)胸が痛くて...どうしよう...
 
音声・医療ボランティア)お名前は?
 
音声・患者)〇〇です
 
音声・医療ボランティア)年齢をおしえてください。
 
音声・患者)55歳です。
 
音声・医療ボランティア)歩けますか?
 
音声・患者)少しなら。
 
音声・医療ボランティア)大丈夫ですか?
 
音声・患者)痛い!痛い!
 
音声・医療ボランティア)アレルギーの有無は、意識のあるうちに聞き取らないと聞き取れなくなります
 
音声・医療ボランティア)薬物アレルギーや食物アレルギーはありますか。
 
音声・患者)ないです。
 
音声・医療ボランティア)西宮浜の小学校の体育館です。よろしくお願いします。

音声・医療ボランティア)救急要請が行われました。救急隊がもうじき到着します。
 
亘)「胸が痛い」と言っていたこの女性は、急性心筋梗塞という診断でした。この後、救急隊が実際に到着し、ストレッチャーに乗せて搬送するところまで、訓練をやりました。

 
西村)とても深刻な状況ですよね。
 
亘)途中で「アレルギーの有無は意識のあるうちに聞いておいて」という言葉がありました。これは医師が看護師に言っていることです。ひとりの患者さんに関わる部分だけを編集していますが、他にも次々いろいろな人が来るので、同時並行で診療を進めていく状況でした。この患者役をした人に感想を聞いてみました。
 
音声・患者役女性)この先どういうふうに運ばれていくのか全くわからなかったので不安でした。最初に声掛けをしてもらって安心はしたのですが。全くイメージができないことが不安でした。

 
西村)顔見知りの看護師や医者もいないから余計にパニックになるでしょうね。
 
亘)避難所の一角で、騒がしい中で診療をしますし。医療スタッフ同士も初めての顔合わせで、どんなスキルがあるのかわからない人とチームを組んでやっていくことになります。患者さん役のインタビューをもうひとつ聞いてください。地震の揺れで手をついて骨折してしまった人の役をされた方です。
 
音声・医療ボランティア)手首を骨折していますが、固定するためのギブスがないので、あるもので先生が工夫してくださいました。ダンボールをサイズに合わせてハサミで切って包帯で固定しています。
 
音声・亘)実際やってみて、不安だったこと、大事だと思ったことはありますか。
 
音声・医療ボランティア)救急で運ばれる患者や心筋梗塞・意識不明状態で運ばれてくる人が立て続けに来ます。優先順位を決めながら、先生と看護師で声かけながら対応していたところがリアル。危機感を感じながらやりました。

 
西村)処置に使うことができるものも限られていますよね。
 
亘)医療資機材がないので、今回はギプスの代わりにダンボールで腕を固定しました
 
西村)ダンボールは使えるのですね。わたしたちも実践しておきたいですね。
 
亘)いろんなものが足りない中で、重篤な患者、心肺停止の患者も来ます。インタビューした人の場合は、骨折で命に関わるような怪我ではないので、横で待つ時間が長くて、その横を重篤な優先順位の高い患者さんが通っていく状況。トリアージという言葉が阪神・淡路大震災でもよく知られるようになりましたが、これが災害時の医療のリアルです。そして、今回の訓練で印象的だった事例を聞いてください。
 
音声・医療ボランティア)この人の娘さんが倒れたのですが、意思疎通が難しいようです
 
音声・医療ボランティア)お名前は?
 
音声・認知症患者)は?
 
音声・医療ボランティア)お名前を教えてください。
 
音声・認知症患者)ウ・エ・ヤ・マ!娘が倒れた!わたしどうする。
 
音声・医療ボランティア)娘さんは今どこにいますか。
 
音声・認知症患者)家!
 
音声・医療ボランティア)家はどこ?普段のんでいる薬とかもわからない。何もわからない。
 
音声・医療ボランティア)今まで病気しました?
 
音声・認知症患者)は?聞こえない。わからん。だれ!
 
音声・医療ボランティア)では福祉の方に。
 
音声・認知症患者)え!どこへ行くの!
 
音声・医療ボランティア)歩けないんですね。車いすで、お隣の福祉のほうに。
 
音声・認知症患者)どこに連れて行くの!
 
亘)認知症で耳が聞こえにくい高齢の女性という設定でした。一緒に住んでいる娘さんが怪我か病気で動けなくなり、パニックになってこの診療所に来たという設定です。この人が災害医療の対象者なのかはわかりませんが、このような人も診療所に来るわけです。この女性に応対した医師役、名演技だった認知症患者役の人に気づいたことを聞きました。
 
音声・亘)この認知症の人に対する情報が全然ないですね。
 
音声・医療ボランティア役男性)照会できるところもないし。ほかに症状の重い人が来るし、でもこの人をほっとくわけにいきません。
 
音声・亘)お疲れ様でした。名演技でした。訓練をしてみてどうでしたか。
 
音声・認知症患者役女性)自分のことを何もわかってくれていないので不安でした。認知症で耳も遠い役なので「なに?なに?」という感じでやってみました。
 
音声・亘)普段そういう人たちと接しているのですか。
 
音声・認知症患者役女性)訪問看護をしています。普段からの備えが必要だと思います。外出するときは、身分証明書や大事なことを書いた紙をもっていく。お守りの中に入れておくとか。
 
音声・亘)西宮浜にもそういう人は大勢いるのですか。
 
音声・認知症患者役女性)高齢の認知症の一人暮らしはたくさんいます。スーパーに買い物に行くなど日常生活はできでも、お薬手帳はどこに行ったわからなくなる。
 
音声・亘)地震が起こって、家族が怪我でもしたら...。
 
音声・認知症患者役女性)パニックになると思います。

 
西村)お互い何にもわからないのは困りますよね。
 
亘)お互い不安ですよね。台本では、この人は福祉避難所に行ってもらうことに。でも実際に福祉避難所は開設されているのか。そして誰が決定して、この人を福祉避難所に移送するのか。どうやって連絡を取るのか。課題は山のようにあります。
 
西村)能登半島地震のときも、「福祉避難所が震災で被害を受けて開設できない」というニュースがありましたよね。
 
亘)つなぐ相手である福祉担当の人がいるのかもわからない。
 
西村)家で倒れている娘さんも気になりますね。
 
亘)家から出てきて診療所にたどり着いても、家の場所がわからないかもしれない。娘さんを探しに行きたくてもどこかわからない...。そんな中、ほかの患者さんがどんどん来るので、医療ボランティアが娘さんを探しに行くことは不可能ですよね。本人は娘さんのことを気にしながら、福祉避難所に行くことになります。
 
西村)よりパニックな状況が続きそうです。
 
亘)これはもうどうしたら良いのかわからない、というケースです。
 
西村)先ほど患者役をした人から普段からの備えが大切だというお話がありました。身分証明書やお守りの中に大切なことを書いた紙を入れておくというのは本当にいいアイデアですね。
 
亘)連絡先をたくさん入れすぎると捨ててしまったりするので、最小限のものだけを入れて、常に身につけるとことが大事です。災害医療の現場の大変さが感じられる訓練でした。
 
西村)これは震災を経験していない医療スタッフにとっても、大切な経験になりますね。
 
亘)そこに住んでいる医療従事者で何とかしようという発想は思いつきませんでした。
 
西村)これはどなたが発案したのですか。
 
亘)発想の原点は阪神・淡路大震災。発案者は、西宮浜に住む災害医療の第一人者である鵜飼卓さんです。鵜飼さんの阪神・淡路大震災での経験が基になっているアイデアなんです。鵜飼さんは、当時、西宮に住んでいて、大阪の病院に勤務していました。なぜ今回、自分の住む西宮浜で医療ボランティアを立ち上げようと思ったのか、鵜飼さんのインタビューを聞いてください。
 
音声・鵜飼さん)阪神・淡路大震災のときに大阪の病院に行けなくて、西宮の病院で午前中に仕事をして、夕方になって大阪に行こうとしたら、交通渋滞に引っかかって。時間の無駄使いをしました。被災地に住んでいるドクターがどれだけ被災地で働くことができたかというアンケート調査では、地元で働くことができた人はごくわずか。自分の職場に行こうとしたら、10数時間無駄遣いした、1日以上かかったと言う人もいます。この島が孤立したときに、島に住んでいる人間で何とかしなければばらないと思いました。一緒に働いてくれる人が14人集まったので、今回訓練をしました。
 
亘)鵜飼さんは阪神・淡路大震災のとき、大阪市立総合医療センターの救命救急センター長でした。渋滞で病院にたどり着けずに、時間を無駄にしてしまったと感じたそうです。このように、治療のできる医師が渋滞に巻き込まれて病院にたどり着けないというのは、社会にとっても損失です。医療従事者のスキル・知識を適切な場所で生かすにはどうしたら良いのかを考えなければなりません。
 
西村)そのために、今回の訓練が全国に広がっていくと良いですね。
 
亘)今回は、避難所の中に診療所を作るという設定でしたが、島の中にある協和マリナホスピタルとの連携の話も進んでいます。病院に医療スタッフが出勤できない、診療ができないというときに、西宮浜に住む医療ボランティアが協和マリナホスピタルで診療を行うこともできるのではと。
 
西村)その方が患者にとっても良いですね。
 
亘)待合室の椅子、ベッド、医療資機材も使用できる。最低限の機材があるので、診療がやりやすいです。協和マリナホスピタルを使うためには、準備や話し合いが必要。これから話し合いを進めていくとのことでした。
 
西村)今回は、大きな一歩になりましたね。
 
亘)高齢化社会で大きな災害が起こったときに、どのような対応ができるのか。今回の医療ボランティアのように、効率よく助け合うために何ができるのか。みんなでアイデアを出し合っていくことが大事だと思いました。
 
西村)きょうは、番組プロデューサーの亘佐和子記者に報告してもらいました。

第1431回「東日本大震災13年【2】~震災の記憶を世界に発信」
オンライン:震災遺構・門脇小学校 館長 リチャード・ハルバーシュタットさん

西村)ネットワーク1.17では先週から東日本大震災の特集をお送りしています。
きょうは、宮城県石巻市の震災遺構・門脇小学校で館長をしているイギリス人のリチャード・ハルバーシュタットさんにお話を伺います。
 
リチャード)よろしくお願いいたします。
 
西村)リチャードさんは13年前の地震が発生したとき、どこにいましたか。
 
リチャード)石巻専修大学の英語教師をしていたので、キャンパスの研究室にいました。
 
西村)石巻専修大学は海の近くですか。
 
リチャード)内陸の方ですが、北上川に近い場所にあります。それまでに経験したことのない激しい揺れで頭が真っ白になりました。震度6強は立っていられない状態。机をつかんで耐えました。大学は丈夫な建物で揺れに強く、自家発電の電気もありました。町は水浸しになって、自宅に戻ることはできませんでした。
 
西村)リチャードさんは避難生活をしたのですか。
 
リチャード)まず大学で2泊3日ぐらい寝泊りして、ある程度水が引いたら町に戻って避難所に入りました。避難所にいた3月17日頃にイギリス大使館から連絡がきました。
 
西村)どんな連絡がきたのですか。
 
リチャード)携帯のメールに連絡がきたので、安否確認と思って早速連絡したんです。すると、安否確認はもちろんですが、大使館が気にしていたのは、「福島第1原発が爆発する恐れがある」ということ。「関東・東北にいるイギリス国籍の人は、日本を離れることをおすすめしています」という内容だったのです。成田空港から無料のチャータージェットを出すとのこと。でもわたしは被災地から身動きが取れませんでした。バスや電車は全く走っていなかったからです。
 
西村)そのような状況の中で、リチャードさんはどう行動したのですか。
 
リチャード)高速道路は救助や自衛隊の緊急車両しか通れなかったのですが、大使館の車は通行可能だったので、大使館は被災地にいるわたしを迎えに来ようとしました。わたしは石巻から離れることをまったく考えていなかったのでビックリしました。どうしようと悩んで。石巻の友達にどうすればいいか相談しましたが、みんなに「日本は大変だからイギリスに帰った方がいいよ」と言われました。
 
西村)それを聞いてリチャードさんはどう思いましたか。
 
リチャード)すごく混乱しました。大使館の言うことを聞かなくてはならないという気持ちもありましたし。でも、18年間、石巻に住んできて、大切な友達がいっぱいいるのに、みんなが一番困っているときにわたしだけ離れてしまうなんて...と思いました。どうすれば良いのかわからない状態の中、大使館が迎えに来ました。大使館はわたしが悩んでいることをよくわかってくれていて、ひとまず仙台に行って最終決断しようということになったのです。
 
西村)そこでどんな最終決断をしたのですか。
 
リチャード)一晩ほとんど眠れずに悩んで、石巻に残ることを決意しました。
 
西村)なぜ、リチャードさんは石巻に残る決断をしたのでしょうか。
 
リチャード)みんなが一番困っているときに、みんなと運命をともにしたかったのです。恩返しというと堅苦しいですが、ずっと良くしてもらったので。腕力もリーダーシップもないわたしです、一緒にいることはできると思って。残る決意をしました。
 
西村)そんな大きな決断をして、今も石巻市で暮らしているリチャードさんは、東日本大震災の被災のようすを伝える震災遺構・門脇小学校で館長をしています。どんなきっかけで館長に就任したのですか。
 
リチャード)気分転換したいという気持ちがあり、震災から約2年後に大学を自主退職しました。震災前から辞めようと考えていたのですが、なかなか辞める勇気がなくて。でも震災を体験したら辞める勇気が出たんです。「震災で生き残ったのだから、仕事を辞めても何とかなる」と楽観的に考えられるようになって。そんなとき、「これから震災伝承の施設を作るのでそこで働きませんか」と市役所に打診されました。それは今の門脇小学校の施設が出来るまでの仮設的な資料館でした。どのような仕事をするのかもわからないまま、「やってみようかな」と軽い気持ちで引き受けました。しかし、実際にやってみると意外と自分のスキルに合っている仕事だと感じました。わたしは日本語でも英語でもコミュニケーションをとることができますし、教師の経験があったので、人前で話すことには慣れていました。それに石巻市に長く住んでいたので、震災前の石巻のことも知っています。震災も体験している。全て仕事に生かすことができたんです。
 
西村)まさに運命を感じますね。
 
リチャード)そして仮設の施設が閉館後、2022年にオープンした新しい震災遺構・門脇小学校に来てもらいたいという話が来ました。
 
西村)今は館長としてどのような活動をしているのですか。
 
リチャード)施設の維持管理はもちろん、一番大切な仕事は解説の仕事です。有料となりますが、お客さまと一緒に施設を回りながら解説をしています。
 
西村)震災を体験していない若い世代も訪れていますか。
 
リチャード)小学生が多いです。防災教育が重視されているので、宮城県内だけではなくいろんなところから来てくれます。
 
西村)どんなことを伝えているのでしょうか。
 
リチャード)門脇小学校の最大の特徴は津波火災が発生した本校舎です。この近くの建物は、ほとんどが津波によって流されて、水の上に瓦礫が浮いていました。ストーブの転倒、プロパンガスボンベの爆発などにより燃えた瓦礫が、津波の流れによって本校舎にぶつかって津波火事が発生しました。
 
西村)高いところに逃げたら命が守られると思ってしまいますが、学校の屋上に逃げただけでは命を守れないこともあるのですね。
 
リチャード)この施設はとても大切。垂直避難は100%安全とは限りません。ビルの高い階などに逃げることは正しい行動ではありますが、門脇小学校の例のように火事になる場合もあります。校舎に残っていた人たちは、さらに避難しなければならなくなりました。ビルの高い階に逃げた場合は、次の行動を取ることができるように構えておいてください。安心しないでください。ビルの高い階より、近くの高台に逃げた方が安全です。
 
西村)地震発生時、学校にいた児童は無事だったのでしょうか。
 
リチャード)地震発生前に下校していた低学年の児童たちの中に7人の犠牲者が出てしまいました。しかし校舎にいた224人の児童は津波が来る前に裏山に避難して全員無事でした。年に2回、訓練をしていたおかげでスムーズに避難できたのだと思います。
 
西村)リチャードさんは日本語だけではなく、英語でもガイドをしています。震災遺構には、どんな国の人が来ていますか。
 
リチャード)震災遺構に来るのは、ヨーロッパ、アメリカ、オーストラリアの人が多いです。地震がある国の人もイギリスのように地震が少ない国の人も震災や防災に非常に関心があるようです。
 
西村)外国からの来場者はどんな展示を見て、どのような感想を話していましたか。
 
リチャード)日本人と変わらないことについて興味を持っています。「津波はどれぐらい高かったのか」「子どもたちはどのように逃げたのか」など。施設の中にある仮設住宅の展示も関心を集めています。あと、「地震の揺れはどんな感じですか」と地震を体験したことのない外国人に聞かれます。地面が揺れるということは独特なものなのでとても説明しにくいですね。
 
西村)地震を経験したことがない人も、門脇小学校でリチャードさんから英語でガイドを聞くことによって、自分ごとに変わるきっかけになりますね。
 
リチャード)ほかの施設にも、英語のパンフレットはあると思いますが、生の英語での解説は心に残ると思います。
 
西村)東日本大震災から13年が経った今、リチャードさんがみなさんに伝えたいことはどんなことでしょうか。
 
リチャード)門脇小学校は伝承施設。わたしたちは伝承の大切さをいつも主張しています。それは自分たちの苦しみをわかって欲しいからという理由ではありません。日本は、将来的にまた必ず震災が起こるといわれています。わたしたちは、東日本大震災のときに学んだ教訓や体験を伝えていくことで、犠牲者の少ない社会になることを希望しています。日本は震災が多い国なので、ぜひしっかりと備えをしてほしいと思います。
 
西村)リチャードさん、今の内容を英語でも伝えてください。
 
リチャード)KADONOWAKI Elementary School where I work is a facility which is involved in keeping the memories of the Great East Japan Earthquake alive.
And the reason we're doing that is not because we want people to know how much we suffered.
but it's because we think it's very, very important to be aware of the dangers of disasters because earthquakes and tsunami and other natural disasters will definitely happen in the future here in Japan.
And we hope that by transmitting and talking about the things that we went through during 2011, we hope that will help to create a society with as few casualties as possible in the future.
And that's why we want to try and keep the memories alive.

 
西村)thank you very much Richard.
日本語でも英語でも想いを伝えていただき、ありがとうございました。
きょうは、宮城県石巻市の震災遺構・門脇小学校で館長をしているイギリス人のリチャード・ハルバーシュタットさんにお話を伺いました。

第1430回「東日本大震災13年【1】~両親を亡くした大学生の想い」
オンライン:岩手県陸前高田市出身の及川晴翔さん

西村)東日本大震災で親を亡くした子どもは約1800人、そのうち両親を亡くした子どもは241人います。
きょうは、小学1年生のときに両親を亡くした岩手県陸前高田市出身の及川晴翔さんにお話を聞きます。及川さんはその後、おばあちゃんに育てられ、現在は東北学院大学の2年生。今年、成人の日を迎えたということです。
 
及川)よろしくお願いいたします。
 
西村)及川さんは、13年前の東日本大震災発生当時は、小学1年生だったそうですね。陸前高田市は、甚大な津波の被害を受けた場所です。地震発生直後はどんな状況でしたか。
 
及川)小学校の帰りの会の最中に地震が発生して、高台にある老人ホームまでクラスのみんなと一緒に走って避難しました。2つ上の兄も同じ場所を目指して走っていたと思います。
 
西村)地震が起こったときの気持ちや、周りのようすは覚えていますか。
  
及川)何が起こったのかわからなかったです。先生や周りのみんなに「逃げろ!」と言われたから、必死に逃げました。
 
西村)お兄さんや家族と会うことはできましたか。
 
及川)お兄ちゃんとは避難所で合流できました。その少し後に、おじいちゃんとおばあちゃんが車で来てくれました。
 
西村)どれぐらいの時間、高台の老人ホームにいたのですか。
  
及川)避難が終わった後から1泊して、次の日までいました。
 
西村)おじいちゃんとおばあちゃんの顔を見たとき、どんな気持ちだったか覚えていますか。
 
及川)何か良くないことが起きているということは何となく理解していたので、安心したのを覚えています。
 
西村)地震発生直後は、お父さんとお母さんはどうしていたのですか。
 
及川)お母さんは、老人介護の仕事をしていたのですが、その日が夜勤明けで、夕方まで家で休んでいました。お父さんはお母さんのことが心配で、仕事先から家に戻ったそうです。自分とお兄ちゃん、おじいちゃん、おばあちゃんの4人は病院の避難所に移動しました。おじいちゃんは肺が悪く、酸素吸入が必要だったので。その後は、お父さんとお母さんが迎えに来るのを避難所で待っていました。
 
西村)待っているときはどんな気持ちでしたか。
 
及川)「早く迎えに来てくれないかな...」という気持ちだったと思います。何日か待っていましたが、迎えには来ませんでした。
 
西村)その後、お父さんとお母さんが亡くなったことをどのように受け止めたのですか。
 
及川)両親が亡くなったという知らせは、避難所にいるときにおばあちゃんから聞いたと思います。
 
西村)それは何日後ぐらいでしたか。
 
及川)詳しい日時は覚えていません。両親の遺体が発見されましたが、両親が亡くなったということをまだ理解できていなくて、お葬式のときは、「みんなで集まって何をしているんだろう」と思っていました。
 
西村)お兄さんはどんなようすだったか覚えていますか。
 
及川)あんまり覚えていないです。
  
西村)その後、いつ頃にお父さんとお母さんが亡くなったことを理解したのですか。
 
及川)小学校3~4年だと思います。歳を重ねるうちに理解していきました。
  
西村)お父さんやお母さんを亡くした友達と、お父さんやお母さんが亡くなったことについて話をすることはありましたか。
 
及川)そのような話はしなかったと思います。
 
西村)及川さんのお父さんとお母さんはどんな人でしたか。
   
及川)ふたりとも優しい人でした。
 
西村)お父さんやお母さんとの思い出を教えてください。
 
及川)夏休みにお兄ちゃんと自分とお父さんの3人で、早起きしてカブトムシやクワガタを取りに行きました。サッカーも教えてくれました。幼稚園のときは、海水浴場に遊びに行きました。休日は一緒にゲームをしたり、勉強を教えてくれたりしました。
 
西村)震災後、両親に変わって、及川さんと2つ上のお兄さんを育ててくれたのが、おばあさまの五百子(いよこ)さん。そのとき、おじいさまはどうしていたのですか。
 
及川)肺が悪かったおじいちゃんは、震災から2年後の2013年に亡くなりました。それまでは自分とお兄ちゃんを車で送迎してくれたり、勉強を教えてくれたりしました。
 
西村)おばあちゃんはどんな人ですか。
 
及川)とても優しいおばあちゃんです。自分とお兄ちゃんをここまで育ててくれた親のような存在です。2人分のお弁当を毎朝作ってくれていました。
  
西村)おばあちゃんからかけられた言葉で、印象に残っている言葉はありますか。
 
及川)「悪いことはしないで」「優しい人になりなさい」と言われていました。
 
西村)温かい言葉ですね。今年20歳になった及川さんは「二十歳のつどい」で、おばあちゃんに感謝の言葉を伝えたそうですね。どんな言葉を伝えたのですか。
 
及川)「自分をここまで育ててくれてありがとう」ということと、「大学を卒業して自分で稼ぐようになったら、ラクさせてあげるからね」という話をしました。
  
西村)その話を聞いたおばあちゃんは、どんなようすでしたか。
 
及川)安心したようで少し泣きながら、「ありがとう」と言っていました。
 
西村)及川さんは現在、東北学院大学2年生で、今は、陸前高田市から離れて暮らしています。及川さんは、将来はどんなふうになりたいですか。
 
及川)今は、将来就きたい仕事は明確にはなっていませんが、何らかの形で陸前高田市に貢献できたらと思っています。
 
西村)今はどんな勉強をしているのですか。
 
及川)大学で地域学を専攻しています。
 
西村)地域学を専攻しようと思ったきっかけは。
 
及川)高校の総合学習の中で、グループで進めていく授業があり、地域の発展・復興について考えていたからです。
  
西村)高校生のときは、どんなアイディアを出していたのですか。
  
及川)陸前高田市の特産品にリンゴがあります。海洋学科で作っているパンが人気だったので、そのパンにリンゴやわかめなどを練り込んで売ってみようと考えました。自分たちで試作・試食して、町のイベントで販売したこともあります。
  
西村)地域学では、どんなことを学んでいるのですか。
 
及川)地域の発展・復興から産業・福祉まで幅広いジャンルについて勉強しています。3年生からは、ゼミで自分が学びたい分野を専攻する予定です。地元が好きなので、地元に帰って陸前高田市に貢献できたら。復興は進んではいますが、まだ空き地が多く、人が少ないです。もっと建物や人が増えて、元気で活発な町になったらいいなと思います。
 
西村)東日本大震災から明日で13年になろうとしています。津波で両親を亡くしたことについて改めてどう思っていますか。
 
及川)小学校1年生からずっと両親がいない状態なので、それが日常になっていますが、小学生や中学生のときは寂しかったです。でもこれからは、お父さんもお母さんも天国から見守ってくれていると思うので、両親に誇れるような大人になりたいです。
 
西村)おばあちゃんには、改めてどんな想いを伝えたいですか。
 
及川)1人で自分とお兄ちゃんの子育てをしてくれたおばあちゃんは、本当に大変だったと思います。自分が特に大きな病気も怪我もせずに健康に成長してこられたのは、おばあちゃんのおかげです。「これから恩返ししていくから長生きしてね」と伝えたいです。
 
西村)リスナーに伝えたいメッセージはありますか。
 
及川)地震や津波はいつどこで起きるかわかりません。対策や心構えをして、忘れないでいて欲しいと思います。
 
西村)明日、13年目の3月11日はどこでどのように過ごす予定ですか。
 
及川)両親の墓参りに行った後に、献花台に献花をしに行きます。
   
西村)お墓の前で、お父さんとお母さんにどんなことを伝えますか。
 
及川)「成人したよ。これから頑張っていくので、見守っていてください」と伝えようと思います。
 
西村)明日で東日本大震災から13年を迎えます。
きょうは、震災で両親を亡くした岩手県陸前高田市出身の及川晴翔さんにお話しを伺いました。

第1429回「能登半島地震2か月~子どもの居場所とケア」
オンライン:NPO法人カタリバ 稲葉将大さん

西村)能登半島地震の発生から2ヶ月が経過しました。避難生活も長期化していく中、子どもへの支援やケアについて聞きます。現地で支援活動を続けているNPO法人カタリバの稲葉将大さんです。
 
稲葉)よろしくお願いいたします。
 
西村)NPO法人カタリバは、東日本大震災をきっかけに2019年に立ち上げた「sonaeru」という活動を通じて被災地に入り、支援を続けています。災害時の子どもの支援をメインに取り組んでいるとのこと。能登半島地震では、いつごろ被災地に入ったのですか。
 
稲葉)「sonaeru」チームは、1月3日に石川県・七尾市に入りました。
 
西村)七尾市は震度6強を観測し、1万4000棟の住宅被害が出ている地域ですね。早めに現地に入ったのですね。
 
稲葉)まずは、どのような支援が必要かを避難所で聞きました。
 
西村)七尾市の町のようすはいかがでしたか。
 
稲葉)七尾市の矢田郷地区コミュニティセンターの周辺は、一見、被害があまり多くないように感じられたのですが、少し外れたところには、被害を受けた家屋が多くあり、断水で生活が難しい人が避難所にたくさんいる状況でした。
 
西村)そんな中で、子どもの支援はとても大切ですね。子どもたちが安心して過ごすことができる「居場所」を作っているそうですね。
 
稲葉)子どもたちが安心して過ごせる「居場所」を県内に7ヶ所、運営しています。奥能登では、珠洲市や輪島市、また2次避難者向けに金沢市や加賀市でも運営しています。七尾市のコミュニティセンターの図書室に「居場所」があります。体を動かすことができる「のびのびゾーン」では、小さいミニトランポリンや縄跳びを用意しています。図書室の立地を生かした「もくもくゾーン」は、勉強したり、塗り絵をしたり、静かに座って何かをするときに使う場所です。ほかにも小さい子どもから中高生まで遊べる小上りのようなスペースがあり、そこではボードゲームやトランプを用意しています。図書館なのでたくさん絵本があるので、絵本を読んで過ごす子も。子どもたちが安心安全に楽しく過ごせる場所です。
 
西村)何人ぐらいの子どもが利用しているのでしょうか。
 
稲葉)1日平均20人前後の子どもが利用しています。年齢は10歳以下の子どもが最も多く、幼稚園・保育園に通う4~6歳の子どもも多いです。3歳以下の子どもは保護者同伴でお願いしています。
 
西村)どの時間帯や曜日に利用できるのですか。
 
稲葉)学校が再開していないときは、9~17時に開設していました。2月の中旬からは授業が平日午後までとなったので14~18時に時間変更し、休日は11~18時で運営しています。
 
西村)仕事が再開した保護者にとっては、休みの日に子どもと一緒に過ごしたい気持ちはあるけれど、家のこともやらないといけないので、土日も開設しているのはすごくありがたいことだと思います。
 
稲葉)復旧作業家の片付けで、子どもを預けたい人が多く、子どもたちも遊ぶ場所がなかなかない状況。土日だけでも思い切り遊ばせたいと「居場所」を利用する人が多いです。
 
西村)利用できるのは、避難所にいる人限定ですか。
 
稲葉)地域の人も利用可能です。
 
西村)被災した子どもたちはいろいろな心の変化があったと思います。地震発生当初は、子どもたちはどんなようすでしたか。
 
稲葉)地震発生当初は、子どもたちは、慣れない生活が始まることに対して強いストレスを感じていました。それは子どもたちと話す中で、子どもたちの表情から感じ取ることができました。すごく緊張した表情で「居場所」の利用を始める子どもが多かったです。地震のときのようすをポツリポツリと話し出す子も。その後、スタッフとの関係性を築くことができると、無邪気に遊ぶようになりました。
 
西村)子どもたちは、どんな地震の話をしたのですか。
 
稲葉)「家族と車中泊をした」「津波の警報のアラームが鳴って怖かった」などの話をよくしていました。「居場所」で出会った子どもたちの家は、一部損壊、半壊が多かったのですが、津波の警報が鳴ったため、高台に車で逃げて避難生活を送ったそうです。何が起こるかわからない怖さや寒さで不安だったと思います。
 
西村)余震のアラームが鳴ったときの子どもたちのようすはどうでしたか。
 
稲葉)アラームの音に対して過剰に反応するようすがよく見られました。パニックになって大泣きしてしまう小さい子どもやそれを見て戸惑う子どももいました。
 
西村)子どもたちは、お昼寝はできていたのでしょうか。夜も眠れていたのかすごく心配です。
 
稲葉)「居場所」を利用している子どもたちは日中たくさん遊ぶことができて、夜はぐっすり寝ているという話を保護者から聞いています。
 
西村)居場所に来る前は、ストレスで眠れなかった子どもたちもいたのでしょうね。
 
稲葉)集団生活で他の人の存在や音が気になって眠れないという話はよく聞きました。自宅に戻ってからもが保護者の近くにいないと眠ることができない小学生もいたようです。
 
西村)震災後、2週間ほど経った頃は、子どもたちのようすにどんな変化がありましたか。
 
稲葉)「居場所」の利用に慣れてきていろんな遊びが始まりました。ミニカーのおもちゃで津波ごっこをしたり、ダンボールを揺らして地震ごっこをしたりする子どももいました。東日本大震災当時に現地で聞いたことがあるのですが、子どもは津波ごっこなどを通して現実を受け入れていくそうです。そのようすをしっかりと見守りたいと思います。「しっかりと逃げられたね」というような声かけをしています。
 
西村)学校や幼稚園・保育園が再開したとき、子どもたちの心や表情に変化はありましたか。
 
稲葉)友達や先生と久々にオンライン上で顔を合わせることができて、うれしそうな表情をしていました。しかし、中には生活の環境やリズムが変わることで、疲れてしまう子もいました。
 
西村)地震から2ヶ月が経った現在は、子どもたちのようすはいかがですか。
 
稲葉)「居場所」を利用しているときは元気に遊んでいて、大きな変化はありません。ふとしたときに疲れた表情を目にする場面はあります。小さい子どもは「おんぶして」「抱っこして」など甘えたがる子が増えた印象です。
 
西村)保護者も忙しくなり、心の余裕がなくなってきた影響もあるのかもしれませんね。
 
稲葉)そのような背景もあると思いますが、2ヶ月近く支援を行う中で、スタッフと子どもたちの関係性ができて、スタッフと一緒にいると安心できる子どもが増えたことも要因だと思います。
 
西村)子どもたちがカタリバのみなさんに心を許しているということを実感します。今後は、どのような支援が必要だと思いますか。
 
稲葉)今度の支援については、今考えているところです。何が必要かまだまだわからないところがありますが、子どもたちの心や体のケアが必要だと思います。運動できる機会も減っていますし。子どもたちの支援は、さまざまな面で長期的に必要だと思います。
 
西村)子どもたちの「居場所」は、子どもたちや保護者にとっても大切な場所だと思います。
きょうは、能登半島地震の被災地で支援活動を続けているNPO法人カタリバの稲葉将大さんにお話を伺いました。

第1428回「冬の地震 寒さへの備え」
ゲスト:国際災害レスキューナース 辻直美さん

西村)元日に発生した能登半島地震では、電力などのライフラインが途絶える中、厳しい寒さが被災者を苦しめました。29年前の1月17日には、阪神・淡路大震災が発生し、東日本大震災が発生したのは3月11日でした。冬場に大きな地震が発生すると揺れや津波から逃れられたとしても、寒さが原因で命を落としてしまうことがあります。
きょうは、冬の災害時に命を守る「寒さへの備え」と健康を維持するための避難所での過ごし方について、国際災害レスキューナースの辻直美さんにお話を伺いきます。
 
辻)よろしくお願いいたします。
 
西村)能登半島地震では、避難所での寒さが問題になっていますね。
 
辻)寒さ対策のテクニックや知識を得ることが必要です。暑さはどうにもならないことがありますが、寒さは、あるものを組み合わせて暖を取ることができます。
 
西村)知識の備えも大事ですね。寒い時期は、健康被害へのリスクも高くなりますか。
 
辻)近年、低体温症が問題になっています。低体温症は命に関わる重い病気。でも回避できる方法はあります。
 
西村)特に注意が必要なのはどんな人ですか。
 
辻)高齢者です。寒さに鈍感になりがちなので、体が冷えているということに自覚がなくなります。
 
西村)なぜ鈍感になるのですか。
 
辻)代謝が悪くなるからです。血流が悪い人は手先が冷えています。たくさん着込んでも、今度は温かくなったことがわからなくて、脱水症状になることもあります。
 
西村)気をつけてあげないといけないですね。
 
辻)声掛けが大事です。「寒くない?」「暑くない?」と聞いてあげましょう。
 
西村)低体温症の症状について詳しく教えてください。
 
辻)体の表面ではなく、内臓など身体の深部の体温が35度以下になる症状です。身体に触れるとすごく冷たいです。じわじわと体温が下がるので、本人はあまり自覚がないことが多いです。
 
西村)家族でなければ手を触れたりする機会はないかもしれません。見た目でわかる症状はありますか。
 
辻)シバリングと言って、悪寒で歯がガチガチと震える症状が現れます。体が冷えたときは、筋肉を思いっきり震わせて熱を発生させようとするからです。そうなるとすぐに対応しなければなりません。ボーっとする、吐き気・めまいがする人も。
 
西村)脳にはどんな症状が現れますか。
 
辻)思考が明確ではなくなり、受け答えがゆっくりになります。同時に痛覚や暑い・寒いも鈍感になります。周りの人がつねったり、叩いたり、さすったりして声をかけないと判断ができないこともあります。
 
西村)1人で在宅避難している人や1人で避難所にいる人は、自覚がないまま進行してしまうこともありますね。
 
辻)症状が進むと死に至ることもあります。防災はモノを買うことだけではなく、基本はまずコミュニケーション。ええ感じの人になりましょう。ええ感じの人って心に残りますよね。そんな人が、返事がないとか、見かけないことがあると気になって助けに行くでしょう。挨拶しても返事を返してくれない人はダメです。家庭でも同じこと。家族間でも外でも声をかける・かけられることで自分の存在をわかってもらうことは防災の基本です。
 
西村)声かけてもらったらきちんと受け止めて、笑顔で返すことも大事ですね。
 
辻)ええ感じの人になると助かる率が上がります。挨拶や声かけは家族間、自分自身にも大事。自分自身に対しても無理していないか声をかけましょう。
 
西村)災害時は無理しがち。「わたしよりもっと大変な人がいるから」と我慢してしまう人も多いですよね。
 
辻)無理すると結局、人に迷惑がかかります。7~8割ぐらいで頑張ればいい。無理をしないことです。
 
西村)高齢者には、声掛けが必要。自覚がある人は周りにヘルプを出す。
 
辻)「みんなも寒いよね?」ではなくて、「わたし寒いです!」って言ってください。
 
西村)その一言が命を救うのですね。震えている人には毛布をかけたら良いですか。
 
辻)まずは、温めること。毛布で覆うのも良いですがアルミのレスキューシートも便利です。でも元々冷えている人はレスキューシートをかけただけでは温まらないんです。
 
西村)平常時に一度レスキューシートを使ってみたことがあります。結構温かかったですが、これは体温がある人の場合なのですね。
 
辻)体温が下がっている人は血液が冷たくなっています。血液は、体の表面に近いところにある静脈と動脈が外の空気と触れて冷えます。熱中症は反対。なので、熱中症のときに冷やすところを逆に温めれば良いわけです。
 
西村)どこを温めたら良いですか。
 
辻)首の後ろ・脇の下・足の付け根・手首・足首です。一部だけあたためても意味がありません。首の後ろだけ温めても、冷たい血液がぐるっと体を回って首の所に戻ったときにはもう冷たくなっています。原始的ですが、首の後ろ→脇の下→足の付け根...という風に中継リレーをすることです。
 
西村)5つの中継点をしっかりと温めれば良いのですね。温めるときのポイントや温めるときに便利なものはありますか。
 
辻)新聞紙やざらばん紙を手でくしゃくしゃにして、手首・首・足首・腰などに巻いてください。それだけで温かくなります。
 
西村)くしゃくしゃにするのがポイントですか。
 
辻)くしゃくしゃにして、紙の繊維をたち切ることで、新聞紙の中に空気のミルフィーユが作られます。繊維の周りに空気を取り込んだ紙が血管のある皮膚に当たることで温かくなります。その上にアルミホイルやゴミ袋を巻くと熱が逃げません。タオルやストール、マフラーでも良いです。
 
西村)他にも何か使えるものはありますか。
 
辻)どこの家にもある45Lのゴミ袋を服と服の間に着てください。一番外側ではなく、洋服を着ている上に袋をかぶって、その上にもう1枚アウターを着てください。そうすると自分の体の熱を外に逃がさないので温かくなります。
 
西村)非常用持ち出し袋の中にゴミ袋・新聞紙・アルミホイルを入れておくと良いですね。
 
辻)わざわざ災害用に買ってくるのではなく、家の中にあるもので防災グッズを作りましょう。
 
西村)意外と使えるものがたくさんあるのですね。
 
辻)わたしは、防災リュックには、家の中にあるものを詰め込んでいますよ。だから使ってもすぐに補充ができます。日頃から使っているので、使い勝手がわかっているものばかり。自分の使い心地の良いものしか入っていません。選び抜かれたものが自分を守ってくれるという安心感があります。
 
西村)普段使い慣れているものが入っていると心強いですね。
 
辻)例えばちょっと高級なカレーとか。大きな災害のときだけではなく、日常生活の中でも気持ちを上げてくれるものを入れています。災害時は、体だけではなく心も冷えます。心を温めるために、好きな香り・好きな味などを準備しておきましょう。
 
西村)それは、在宅避難でも避難所でも同じですね。
 
辻)今回の能登半島地震で、「避難所には何もない」ということがわかったと思います。床と屋根しかありません。避難所には、必ず自分の場所があって、全てが用意されていると思っている人が多いですが、1人1人に毛布があるかはわからない。まして、それぞれのニーズに合わせた寒さ対策は用意されていません。全部自分で何とかするしかないのです。
 
西村)避難所で健康に冬に過ごすためには、ほかにどんなものが必要ですか。
 
辻)温かいご飯が食べられる環境づくり。冷たいものばかりを食べていると本当に身体が冷えます。キャンプグッズや固形燃料、カセットコンロなど調理グッズがあれば良いですね。自分1人で用意して食べるのも気が引けると思うので、周りの人も一緒に鍋をするとか。そこでまた絆もできると思います。1人で何とかするのではなく、周りを巻き込んでみんなで復興していくことです。
 
西村)1人で避難所にいるおじいちゃんやおばあちゃんにも声をかけてあげて。
 
辻)避難所には自分の気持ちを出さないようにしていて、声をかけられても泣くこともできない人が多いです。人の心に触れて、温かいものを食べて、新聞紙を巻いて体が温かくなってくると、女性はたいてい泣きますが、男性は怒り出します。それがやっと心が溶けたサイン。やっとイライラできたのだなと思います。
 
西村)温かい食べ物を食べて、みんなでワイワイと話すことは、心を溶かす防災なのですね。
 
辻)心が溶けると泣く・怒るという感情表現になることを知っておけば、自分が今度は不安にならない。怒りだした人には背中をさする、なでる、手をにぎる、目を見て「大丈夫」と声をかける。不安が取り除かれると次は泣きます。泣いたときは、そばで話を聞いてあげると今度は笑い出します。
 
西村)心を保つための知恵があれば、心も体も健康に、寒さから命を守ることができますね。
 
辻)それらは救援物資では来ません。だから自分で用意しておきましょう。わたしが考案した「3・3・3の法則」というものがあります。最初の3は、「3秒嗅ぐ」。好きな香水などお気に入りの香りを探しておいてください。その香りを嗅いだだけで、3秒で気持ちを切り替えることができます。次の3は「3分触る」。ふにゃふにゃ・プチプチしているものなど触ったら落ち着くものを3分触ってください。最後の3は「30分見る」。推しの写真や漫画・小説・絵本・写真...何でも良いです。PCやスマホなどのデジタルではなく、アナログなものを用意しておきましょう。普段からそういうものを使ってイライラしたときに心が落ち着く成功体験をしておくことが大事。大きな地震や災害が起きて、不安になったときに役立ちますよ。
 
西村)「3・3・3の法則」を日頃から試して、災害時にも役立てたいです。心も体も温めて、健康に過ごしていきたいと思います。
きょうは、国際災害レスキューナースの辻直美さんに、冬の地震への備えについてお聞きしました。

第1427回「南海トラフ地震 大阪に津波が来るのはいつ?」
取材報告:MBS報道情報局 福本晋悟記者

西村)きょうは、今後必ず起こる南海トラフ地震の津波についてです。「地震が起こっても、津波が来るまでには時間がある」と思っている大阪在住の人にぜひ聞いていただきたいです。
スタジオにMBS報道情報局 気象災害担当 福本晋悟記者に来ていただきました。
 
福本)よろしくお願いいたします。
 
西村)南海トラフ地震の津波では、大阪駅の周辺でも浸水が予想されていますね。
 
福本)南海トラフ地震の津波は、「徳島県や和歌山県には大きな津波が来るけど、大阪府には大きな津波は来ない」と思い込んでいる人もいると思います。でも最悪の場合、大阪駅周辺でも津波による2mの浸水が想定されています。
 
西村)「海から離れているから大丈夫」というわけではないのですね。
 
福本)浸水するエリア・浸水の深さ・津波が来る時間などが書かれている津波ハザードマップがみなさんの自宅にも届いていると思うので確認してください。
 
西村)南海トラフ地震が起きた場合、大阪には何分後ぐらいに津波が来ると書かれているのですか。
 
福本)大阪府の南部に津波が来るのは、地震から約1時間後と書かれています。大阪市内は、住之江区で110分後と書かれています。ただ、これは最初の津波が来る時間ではありません。この時間は1mの津波が来るまでの時間。つまり、数10cmの低い津波はもっと早く来るということは書かれていないのです。
 
西村)110分後と書かれていたら意外と余裕があると思ってしまいますがそうではないのですね。
 
福本)大阪市のハザードマップが手元にあるので見てみましょう。
 
西村)「南海トラフ巨大地震による津波(+1m)は発生後、110分で大阪市域に到達すると予想」と小さい字で書かれていますね。
 
福本)これは1mの津波は110分後に来ると意味です。大阪市、大阪府・岬町、大阪府・泉南市は1mと書かれていますが、ほかの9つの市と町には、書かれていません。
 
西村)例えばどこですか。
 
福本)例えば関西空港がある泉佐野市です。津波到達時間は何分後と書いてありますか。
 
西村)津波到達時間81分後。最大津波水位3.8mと書かれています。
 
福本)津波到達時間81分後と書かれていますが、何mの津波が来るのかは書かれていません。これは1mの津波が来るまでの時間です。津波到達時間81分後と書いてあると、最初の津波が来るのが81分後だと思ってしまいませんか。
 
西村)はい。結構時間に余裕があると思ってしまいます。
 
福本)ハザードマップに書かれている津波到達時間は、多くの場合「1mの津波が来るまでの時間」となっています。では1mの津波はどれくらい危ないと思いますか。
 
西村)東日本大震災では数10mの津波が来たので、1mはそこまで危ないと思わないかも...。
 
福本)国の資料によると、1m以上の津波に巻き込まれた場合、ほとんどの人が亡くなるとされています。東日本大震災では5~数10mの津波が来たので、1mと聞くと低いように感じるかもしれませんが1mはわたしたちの腰の高さくらいです。
 
西村)1mって結構高いですね。
 
福本)ものすごい速さと圧力の水がやってくるのですから、1mの津波でも流されてしまうと命を落としてしまいます。普通の波と津波は全く違うもの。ハザードマップ書かれている「1mの津波」とは、命を落としてしまうというレベルの津波です。1mの津波が来るまでの時間がハザードマップに書かれているということは、低い津波はもっと早く来るということ。大阪府は、2013年に、市ごとに1mの津波が来る時間と20cmの津波が来る時間の両方をデータとして公表していました。しかし、20cmの津波が来る時間はハザードマップには反映されていません。大阪の住之江区に1mの津波が来るのは110分後とされています。では、20 cmの津波は地震から何分後に来ると思いますか。
 
西村)20 cmの津波は大人の足首ぐらいの高さですよね。もっと早く来ると思うので80分後ぐらいでしょうか。
 
福本)正解は68分後です。1mの津波より42分早く来ると想定されています。
 
西村)予想より早いですね。
 
福本)関西空港のある泉佐野市では、1mの津波は81分後、20cmの津波は31分後に来ると想定されていて、50分も差があります。この時間差を聞いていかがですか。
 
西村)もっと早く逃げなければと思います。80分もあるのなら、子どもを迎えに行こうとか、おやつを取りに帰ろうとか、買い物に行っておこうとか...と思ってしまいますが、そんな余裕は全くないですね。
 
福本)大阪市内には、地震が起きてから110分後に津波が到達すると思っている人が多いと思います。子どもを学校に迎えに行く、防災用品を家に取りに行く、近所の人を助けに行くなどの想定をしているかもしれません。でも実は20cmの津波は、数10分後には来るということが公表されていたんです。地震が起きてからの行動を改めて考える必要があります。では、20cmの津波はどれくらい危ないのか。大人ならどうなると思いますか。
 
西村)大人なら踏ん張ったら流されずに耐えられるのではないでしょうか。
 
福本)20~30cmの津波がどれくらい危ないのかを、東京・中央大学理工学部で津波の研究をしている有川太郎教授の実験施設で体験してきました。わたしは身長182cm・体重が82kgあります。足元に20~30cmの津波を約10秒間再現してもらいました。
 
西村)20~30cmの津波はどれぐらいの高さがありましたか。足首ぐらいでしょうか。
 
福本)水しぶきも出るので、膝まではいかないぐらいの高さでした。その津波に10秒間おそわれました。踏ん張ろうと思ったら踏ん張ることはできたのですが、左足が後ろに50cmほど流されていきました。
 
西村)それぐらいの勢いがあるのですね...。
 
福本)たった10秒間だったので、どうにか踏ん張ることはできたのですが。身長152cmの女性スタッフにも体験してもらったところ、1秒も踏ん張ることができずに流されてしまったのです。
 
西村)小柄の女性や子ども、高齢者や足腰の弱い人は流されてしまいますね...。怖いな。
 
福本)次に40~50cmの津波も体験してみました。40~50cmの津波は、津波が来るとわかっていても踏ん張ることもできずに流されてしまいました。津波の高さは膝くらいでした。
 
西村)そんなに恐ろしいとは。体験しないとわからないですね。
 
福本)実験では津波が前から来るとわかっている状態で、たった10秒間。でも実際の津波は、いつ来るかわからないし、時間も数10秒では収まりません。津波から逃げているときは、後ろ側から津波が来てもっと危ない。きれいな水だけではなく、物や車なども流されてきます。避難するときは、絶対に津波に襲われてはいけないということを改めて感じました。海水浴場などにいる人が、海の様子を見ようととどまってしまった場合、1mの津波より早く20~30cmの津波が来て、津波におそわれてしまう可能性があります。
 
西村)昔、ニュースの映像で、津波注意報が出ているのに釣りを続けている人がいましたね。
 
福本)去年12月にフィリピン沖で大地震があり、愛知県・和歌山県・徳島県などに津波注意報が出ました。愛知県の沿岸地域で、大勢の人が海に足をつけた状態で釣りをしていました。市の防災担当の人が避難するように言ったのですが、釣りをしていた人は避難しなかったそうです。幸いそのときは大きな津波が来ませんでしたが、20~30cmの津波の怖さを知っているので、あのような行為は絶対やめるべきだと思います。
 
西村)20~30cmの津波でもこれだけ怖いのに、ハザードマップには1mの津波のことしか書かれていないのはなぜですか。
 
福本)20~30cmの津波について、ハザードマップに載せることは難しいそうです。それについて、泉佐野市に取材をしました。現在のハザードマップには20~30cmの津波のことは載っていないのですが、ひとつ古いハザードマップには載っていたんです。
 
西村)なぜ今のハザードマップには載っていないのですか。
 
福本)割愛した理由は3つ。1つ目は、防災ハザードマップの情報量が増えたという点。高潮・洪水・ため池決壊...などたくさんのハザードマップがあります。泉佐野市ではハザードマップは冊子になっていて、約40ページもあります。
 
西村)結構ありますね...。
 
福本)津波に使えるページ数にも限界があります。そんな中、20~30cmの津波の情報は割愛せざるを得なかったのです。2つ目は、防災情報をなるべくシンプルにわかりやすく伝えたいという理由。たくさんの津波到達時間を載せるのではなく、1mの情報だけを載せた方がわかりやすいからです。3つ目は、20~30cmの津波の浸水想定地域を載せると、海水浴場や沿岸地域だけになってしまうという理由。20~30cmの津波の浸水想定地域だけをマップにしてしまうと、「うちの家は大丈夫」と思う可能性があるので、大きな被害が出ると想定されている1mの津波の浸水想定地域のみを載せています。それに合わせて、1mの津波が来るまでの時間をハザードマップ上に載せています。なので、泉佐野市なら、津波到達時間81分後と書かれているのです。
 
西村)その話を取材で知って、どう思いましたか。
 
福本)インターネットのハザードマップなら、さまざまな想定で調べることができますが、住民に紙で配るハザードマップにあれもこれも載せるわけにはいきません。掲載する情報を厳選しなければならない。防災担当の人の苦労が垣間見えました。全ての情報を載せて、辞書のような分厚いハザードマップを作ることは得策ではないと思います。
 
西村)分厚いハザードマップは読み辛いですね。
 
福本)ハザードマップに書かれている津波到達時間は、あくまで1mの津波が到達する時間。20~30cmの津波はもっと早く来るということを啓発する必要があります。20~30cmの津波は、1mの津波より30分以上早く来るということを知った上で、地震が起こったらすぐ避難する。警報が出たらすぐ避難する。これは、大阪のみなさんが南海トラフ対策でできることだと思います。
 
西村)「すぐに避難する」という基本に立ち返って、頭に置いておかないといけませんね。
 
福本)東日本大震災のときのような大きな津波ではなければ、被害が出ないと誤解している人もいるかもしれません。今回の取材を通して、1mの津波は命を落とすレベル、20~30cmの津波でも流される、命を落とす可能性が十分あるということがわかりました。実は大阪府は、来年度をめどに、津波の被害想定を改定する予定があります。その中で、20~30cmの津波についてもっと啓発する必要があるという話が出れば、ハザードマップも変わっていくかもしれません。
 
西村)ハザードマップは、どんどん変わっていくもの。しっかりチェックをして、いろんな想定をして、行動することが大切だと思いました。「まずは逃げる」この基本を改めて押さえておきたいと思いました。
きょうは、MBS報道情報局 気象災害担当 福本晋悟記者にお話を伺いました。