第1435回「熊本地震8年~生活の場としての避難所運営」
オンライン:NPO法人「益城だいすきプロジェクト・きままに」代表理事
吉村静代さん

西村)4月14日で、熊本地震の発生から8年。熊本地震では、4月14日と16日に連続して震度7の地震が発生し、273人が亡くなりました。そのうち8割以上は災害関連死。避難所の生活環境の大切さが浮き彫りになりました。
きょうは、熊本で避難所運営などの支援に当たったNPO法人「益城だいすきプロジェクト きままに」代表理事 吉村静代さんにお話を伺います。
 
吉村)よろしくお願いいたします。
 
西村)地震が発生した4月14日午後9時26分、吉村さんはどこにいましたか。
 
吉村)当時は熊本県益城町寺迫の自宅の居間にいました。被害が一番大きかった場所です。
 
西村)どんなようすでしたか。
 
吉村)ドーンとすごい音がして。電気がすぐ消えたので、懐中電灯を持って家を飛び出しました。
 
西村)家族のみなさんにケガはなかったですか。
 
吉村)大丈夫でした。夫は寝ていたので、起こして外に飛び出しました。
 
西村)自宅に被害はありましたか。
 
吉村)14日の揺れではそれほど被害はなかったのですが、16日の本震で壁が落ち、屋根が斜めになって家が全壊しました。
 
西村)自宅から飛び出した後、どこでどのように過ごしたのですか。
 
吉村)道を挟んだ向いにある屋根付きのカーポートがある家に避難して、余震の中過ごしました。翌日はとても良いお天気だったので家の片付けをしたのですが、16日夜中の本震で窓が割れるなど被害があり、大雨予報もあったのでしかたなく翌日の昼過ぎに避難所に行ったんです。
 
西村)避難所はどんな場所でしたか。
 
吉村)小学校の体育館です。車中泊も含めて約400人が避難していました。
 
西村)みなさんどんなようすでしたか。
 
吉村)不安そうに体育館の床に座り込んでいました。次から次へと人が入ってきて。その小学校は、その時期は危険なので、避難所にしてはいけない場所でした。でも16日の本震のあと、益城町中の人たちが避難所に行ったので、あふれていた人たちがその小学校の体育館に集まってきました。知らない人たちが多い避難所でした。
 
西村)指定避難所ではない避難所にいろいろなところから人が集まってきたから、顔見知りは少なかったのですね。そんなようすを見た吉村さんはどうしましたか。
 
吉村)わたしは町作りのボランティア団体を立ち上げて、町作りの一環としての避難所を見てきたので、知らない人に声かけることに抵抗はありませんでした。避難所には東日本大震災や阪神・淡路大震災の避難所と同じ状況が広がっていました。役場の職員さんも疲れていたのでわたしがやろうと。余震が続いていたので、みなさんに協力お願いして、まずは避難通路と非常口を確保しました。
 
西村)避難所の区画整理をしたのですね。
 
吉村)わたしも家に帰れないので、避難所が生活の場になります。いかにして避難所を快適に過ごせるようにするかを考えました。
 
西村)快適な場所にするために、ほかにはどんなことをしたのですか。
 
吉村)行政には「早くダンボールベッドを入れてほしい」とお願いしていたのですが、ダンボールベッドが入るまで約1ヶ月かかりました。区画整理をしたおかげで車いすの人の移動がしやすくなりました。掃除や掃除道具の貸し借りなど、みなさんには毎日たくさんお願い事をしました。
 
西村)お願い事をされたみなさんはどんな反応でしたか。
 
吉村)みなさん顔見知りではなかったのですが、「ありがとう」と貸し借りをするたびに会話が生まれました。会話が生まれることによって朝の挨拶もするようになり、良い雰囲気になっていきました。
 
西村)人と関わることは大切ですね。避難所の炊き出しのようすはどうでしたか。
 
吉村)感染症予防のために食事はコンビニ弁当が中心でした。最初の頃は良かったのですが、そのうち野菜不足になり、温かいものが欲しくなったので温かい汁物を作りました。
 
西村)温かいものを食べると心も和みますよね。
 
吉村)梅雨時に入り衛生面は大変な状況でした。お弁当はすべて冷凍室に入れて、食べるときには電子レンジであたためていました。1ヶ月ぐらいたつと、みんな仲良くなっていきましたね。
 
西村)避難所を生活の場に近づけるために、どんなことをしましたか。
 
吉村)ダンボールベッドの余ったダンボールで、子どもたちの遊び場や語らいの場所、食事スペースを作りました。パーテーションを閉めたままだと孤立してしまうので、「パーテーションは朝起きたら開けて、寝るときだけ閉める」ということをみなさんにお願いしました。
 
西村)避難所には子どもから高齢者までいろいろな世代の人がいたのですね。
 
吉村)子どもが騒いだり泣いたりしても、「子どもは泣くのが当たり前だよね」と言える雰囲気作りをしました。
 
西村)それは母親にとってとてもありがたいです。避難所生活はどれぐらい続いたのですか。
 
吉村)約4ヶ月続きました。みんな家族みたいに仲良くなりました。
 
西村)雰囲気作りをしていく中で、一番力を入れたことはどんなことでしたか。
 
吉村)元気な人たちはみんな家を片付けにいってしまいます。避難所に残された高齢者が元気になるためにはどうすれば良いかを常に考えていました。掃除や挨拶など地震が起こる前にやっていたことをするように声をかけていたら、元気になっていきましたよ。
 
西村)日常を取り戻すことは心が元気になる大きな一歩ですね。高齢者が多い能登半島の被災地にも行ったそうですね。
 
吉村)とにかく早く行かなければという想いはあったのですがなかなか宿泊地が確保できなくて。やっと3月25日から1週間ほど行ってきました。
 
西村)地震発生から3ヶ月が過ぎた現在、避難所には8000人余りが身を寄せています。仮設住宅は約900戸が完成していて、一部入居が始まっているとのこと。仮設住宅はどんなようすでしたか。
 
吉村)移住後1ヶ月たった頃にお邪魔しました。みなさん地域のコミュニティで入居していたので仲が良くて安心しました。これから仮設住宅で2~3年過ごすことになります。「みんなの家(仮設住宅団地内の集会施設)を気楽に入れる場所にしてほしい」「孤立・孤独死を予防するために、家から外に出て交流することが大事」と伝えました。熊本県内のテクノ仮設団地は、1300人が住んでいましたが「みんなの家」や広場をうまく活用して仲良くなったので、そのような熊本地震の経験を踏まえて話をしました。
 
西村)わたしも益城町のテクノ仮設団地を訪れたことがあります。「みんなの家」でカラオケ大会をして仲良く歌ったり、お茶を飲んだりしているようすを見て、こういう場所は大事だなと思ったんです。
 
吉村)孤立・孤独死を予防するためにコミュニティを作ろうと「みんなの家」ができたのが東日本大震災のとき。熊本地震ではそれぞれの仮設住宅に「みんなの家」が設置されていて、そこで交流が始まりました。
 
西村)能登の仮設住宅では、困っていることやトラブルはありましたか。
 
吉村)顔見知りの人が多いこともあって朗らかなようすでした。これからは、いろいろな問題が出てくると思うので対策を伝えてきました。
 
西村)熊本地震では、避難生活で亡くなる災害関連死が8割以上になりました。能登半島地震では、災害関連死を防がなければなりません。これからの避難生活で大事なことを教えてください。
 
吉村)仮設住宅の生活では、自立の第一歩と認識し、自分事として捉えること。自分たちでできないことは、外部の人たちの力を借りることも大事。仮設住宅の中で、誰1人残らずみんなの顔が見える関係作りをしてほしいです。そのためには、日頃から地域住民のみなさんとコミュニケーションを図り、お互いの状況を近所で共有しましょう。そうすると、災害が起きて避難所生活になっても孤立・孤独死の問題を予防できると思います。
 
西村)日頃からのコミュニティ作りを私も大切にしていきたいと思います。
きょうは、NPO法人「益城だいすきプロジェクト きままに」代表理事 吉村静代さんにお話を伺いました。

第1434回「災害時のラジオ~共感放送の役割~」
ゲスト:毎日放送報道情報局 大牟田智佐子さん

西村)きょうのゲストは1998年から12年間、この番組のプロデューサーをしていた、毎日放送報道情報局の大牟田智佐子さんです。
大牟田さんは番組を離れてからも、防災関連の取材や発信を続け、兵庫県立大学大学院で博士号をとりました。
きょうは、大牟田さんが研究したテーマ、災害時のラジオの役割"共感放送"について聞きます。
 
大牟田)よろしくお願いたします。
 
西村)きょうから放送時間が日曜夕方に変わりました。
 
大牟田)夕方の放送は、この番組が始まった頃のスタイルに近いです。この番組は、阪神・淡路大震災が起きた3ヶ月後の1995年4月にスタートしました。当時、番組を立ち上げたスタッフや出演者も全員が被災者でした。被災者による被災者のための番組として始まり、土曜日の夕方に45分間の生放送をしていたんですよ。
 
西村)生放送なら、番組を聞いたリスナーがダイレクトに想いを返してくれていたのですね。
 
大牟田)はい。当時はハガキが主流でした。その後、メールができるようになってからは、リスナーが送ってくれた感想を番組の最後に紹介していました。
 
西村)そんな番組も今月で30年目に入りました。
 
大牟田)すごいことです。阪神・淡路大震災の後、この番組と同じような番組がいくつも誕生しましたが、全部終わってしまいました。残っているのはこの番組だけです。それも順風満帆ではなく、いろいろな危機を乗り越えてここまでやってきました。
 
西村)どんな危機があったのですか。
 
大牟田)震災5年後に、仮設住宅が全て解消した頃には、「番組は役割を終えた」という声が高まりました。しかし、その頃に大きな地震が続き、この番組の必要性が再認識されて今に至ります。
 
西村)そんなネットワーク1・17を担当していた大牟田さんの博士論文が書籍化され、出版されました。タイトルは、「大災害とラジオ 共感放送の可能性」この"共感放送"という言葉は聞きなじみがないです。
 
大牟田)これはわたしが作った言葉です。ラジオらしい災害時の放送を"共感放送"と提唱しています。共感は、「そうだよね」「わかる、わかる、その気持ち」という感情で使われます。英語では2種類の言葉に置き換えることができます。シンパシーとエンパシーです。
 
西村)シンパシーは、聞いたことがあります。エンパシーとはどのような意味ですか。
 
大牟田)シンパシーは、「同情」とも訳されます。どちらかというと「かわいそう」という気持ちが当てはまります。「かわいそう」や「気の毒だね」というのは、「自分はそうじゃなくて良かった」という気持ちで、相手のことを少し上から見ているような状態。それに対して、エンパシーは、「相手の立場を自分の身に置き換えて考える」という態度のことです。災害時に「もし自分だったら」と考えて、感情移入をして、支援することをエンパシーという言葉で表すことができます。そこには上下関係はなく、相手と対等の関係があるので、共感放送の"共感"はエンパシーだと考えています。
 
西村)これまで"共感放送"という考え方はあったのですか。
 
大牟田)共感放送という言葉で当てはめた人はいなかったかもしれませんが、ラジオにそのような面があることはみなさん感じていると思います。災害放送には4つのパターンがあります。2次被害を防ぐ呼びかけをする「防災放送」、被害の数字や地震の規模を伝える「被害報道」、行方不明者などの安否を知らせる「安否放送」、電気・ガス・水道の被害や復旧状況を伝える「生活情報」です。
しかし、ラジオには、このような情報を流すだけではなく、パーソナリティのおしゃべりやリスナーからのおたよりを読み上げたり、電話をつないで話を聞いたりする時間があります。それは共感に支えられたもので、それこそがリスナーがラジオに求めているものではないかということで、この"共感放送"という言葉を定義しました。最近の災害でもそのような事例がありました。

 
西村)どの災害ですか。
 
大牟田)8年前に起きた熊本地震です。当時、地元のRKK熊本放送ラジオが長時間にわたって特別番組を放送しました。その番組に送られてきたリスナーからのメールは全部で434通。これを学術目的ですべて分析すると、興味深いやり取りがわかったのです。
 
西村)どんなやり取りがあったのですか。
 
大牟田)RKKラジオの担当者と「これはラジオらしいですね」と言い合った例が2例ありました。一つは、支援を要請するリスナーのメールにほかのリスナーがメールで答えた事例です。指定されていない避難所に避難していたリスナーから「200人ほどの人がいるのに、水も食料も届かない」というメールが届き、それを聞いていたほかのリスナーが、管轄の市役所に電話。「その市は、避難所を把握しています。救援の車が向かっていますが、道路が寸断されていて到着が遅れているようです。市役所を責めないであげてください」と書かれたメールが送られてきたのです。このリスナーは東京在住でした。
 
西村)ということは、radikoで聞いてのですね。
 
大牟田)radikoのプレミアム会員で、エリア外から聞いていたことがわかりました。
 
西村)ラジオならではのやり取りですね。何かできることないかと行動してくれたのですね。
 
大牟田)2つ目は、音楽にまつわる事例です。熊本地震は、28時間の間に震度7が2回も起きた稀な地震でした。2回目の震度7が起きた翌日の午後、パーソナリティが放送の中で、「"そろそろ音楽が聴きたい"というおたよりが増えて来たので、アンパンマンをかけようか」と話していたんです。ところが、放送局のレコード室のラックが地震で倒れてCDは床に散乱している状況...。CDを探すシステムも使えませんでした。
 
西村)いつもなら、パソコンで曲名を検索したら、スムーズにCDを探せますが大変な状況ですね。
 
大牟田)すると、放送中に、スタッフがCDを探し出したんです。パーソナリティは「あった!すごいね!かけようよ!気分も変わるよね」とすぐに「アンパンマンのマーチ」をかけました。この曲、西村さんもよく歌いますか?
 
西村)子どもが3歳で、アンパンマンが大好きな世代です。いつも保育園に行くときの自転車で、「そうだ♪うれしいんだ♪」と歌ってますよ。
 
大牟田)その歌詞の続きは?
 
西村)その後...「そうだ♪うれしいんだ♪生きるよろこび♪」ですね!
 
大牟田)そう、あの歌は「生きる喜び」を歌っているんです。すると、「普段何気なく姪っ子と一緒に歌っていた歌なのに、聴いたらすごく元気が出た」「なぜか涙が出た」というメールが続々と届きました。中には、「大変な状況なのにCDを探してくれてありがとう」というメールも。これは音楽の力はもちろん、被災した放送局のレコード室からスタッフが必死にCDを探し出して、リスナーのためにかけた、というエピソードが共感を呼んだのだと思います。共感放送とは、ラジオの立場では、リスナーの状況に心を寄せて励ましを送ったり、音楽をかけたりすること。リスナーの立場では、被災した人同士が励まし合う、被災者のことを助けるために行動を起こすことだと思います。
 
西村)改めて、ラジオでみなさんとつながっていることがうれしいです。これからも心と心でつながる番組を作っていきたいと思います。最後にリスナーのみなさんに伝えたいことはありますか。
 
大牟田)わたしはすごくラジオが好きな家庭で育ち、身近にいつもラジオがありました。中学生から大学生にかけては、ラジオの深夜放送を聞いていました。ラジオは「あなたにかけ語りかけるメディア」。パーソナリティが自分に話しかけてくれているように感じたり、他のリスナーも夜遅くに一緒に起きているように感じられたりしますよね。そのような距離感がラジオの魅力。ラジオの仕事をするようになって、先輩方には、「わからないことはリスナーに聞け」とずっと教わってきました。
 
西村)それはなぜですか。
 
大牟田)「双方向のやり取りを大事に」ということだと思います。リスナーはいろいろな情報をくれます。リスナーのみなさんの支持がなければ、ラジオは成り立ちません。ラジオを聞いてぜひ応援してほしいです。ラジオに対する応援メッセージだけではなく、要望や辛口な意見もぜひ寄せていただきたいです。災害時、被災者は本当に大変。日常生活を送るだけでもいろいろなことに追われます。
 
西村)能登半島や台湾で大きな地震があり、まだまだ大変な状況が続いていますね。
 
大牟田)水汲みに何回も足を運んだり、物資をもらいに行ったり。そういうことに追われてしまう。これからのことで不安でいっぱいだと思います。そんなときSNSは便利ですが、SNSには、滝のように情報が流れてきます。その中から、自分が必要な情報だけを取り出すのは大変な労力。心身ともに疲れているときに自分で探し出すのは大変だと思います。
 
西村)携帯電話の充電が減っていくのも気になりますよね。
 
大牟田)見たくない情報も含まれていると思います。そういうときにラジオは役立つと思います。少し速度は遅いかもしれませんが、パーソナリティやスタッフが必ず目を通した情報をお届けするので安心。ぜひ周りの人と一緒に、普段からラジオを聞いてほしいと思います。
 
西村)みなさんのおなじみの声になれるようにわたしたちも頑張っていきます!
きょうは、元番組プロデューサーの大牟田智佐子さんにお話を伺いました。