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シンゴの京都歳時記! #67【1月 東寺 五重塔】
2018.01.16【火】

今年も非公開文化財特別公開「京の冬の旅」が始まりました。52回目となる今回は、15か所の神社とお寺で行われています。

その1つ、京都が舞台のドラマなどでよく見る東寺の五重塔をご紹介します。
世界文化遺産で国宝の東寺。五重塔はこれまで3回も(おそらく4回とも)雷による火事で焼けてしまいました。現在の五重塔は、1644年に徳川家光が再建しました。高さ約55メートルで日本一高い木造の塔です。

五重塔は1階のみ見学できます。ちなみに2階より上は吹き抜けのようになっていて、何かがあるわけではありません。
東側から入ると、阿修羅如来のお姿が。北側の不空成就(ふくうじょうじゅ)如来。西側の阿弥陀如来。南側の宝生如来の順に拝見します。
それぞれの仏様が外側を向いていらっしゃっていて、センターには銅像ではなく、心柱があり、描かれているのは大日如来です。つまり、これらで浄土の世界を表しています。
この並びは、東寺の講堂と同じです。講堂の大日如来像が置かれている場所が、東寺の敷地のど真ん中です。

五重塔の外観は知っていても、中は知らないことだらけでした。
五重塔は、仏様がいらっしゃる場所が遠くからも見られるように、つまり京都の町にいる人々が拝めるようにと、建立されました。信仰の象徴であり京都の象徴的建物でもある訳です。
弘法大師は五重塔の完成を見ることなく亡くなりましたが、弘法大師の思いとともにしっかりとずっと京都の地に建っています。

【アクセス】
・京都駅八条口から歩いて約15分。
・近鉄東寺駅から歩いて約10分。

シンゴの京都歳時記! #66【1月 酒米「祝」】
2018.01.09【火】

あけましておめでとうございます。
お正月は御屠蘇などで日本酒をいただくことが多かったのではないでしょうか?
今日は、京都の日本酒についてです。京都市は2013年に「清酒の普及の促進に関する条例」いわゆる「日本酒で乾杯条例」を施行しました。

今日ご紹介する日本酒は「祝」という名前です。開発されるまでものすごく大変だったお酒で、もちろんおいしい。名前もいいので、お祝い事にぴったりです。

日本酒を造るには、酒米が必要ですが、実は、この祝という名前の「酒米」と「日本酒」の両方が、「京のブランド産品」に認定されています。京のブランド産品とは、京野菜などの京都らしいもので、出荷単位として適正な量を確保していて、品質や規格が統一されていて、他の産地より優位性や独自の要素があるものが、認定されます。

認定に至るまでは、本当に苦労がありました。1900(明治33)年から始まります。京都のお米でつくった京都の日本酒をつくりたいという動きがあり、京都府の農事試験場(現在の農業研究所)で研究が始まりました。研究といってもお米は1年に1回しか収穫できません。その年に栽培されたお米の中から、最も良い米だけを選んで、さらにその中で優れたものだけを翌年に育て収穫するという作業を繰り返し、優れた酒米の性質のみを遺伝させていくという、本当に時間がかかり技術者たちの情熱と努力がなければできない研究を続けていきました。酒造りに適した高品質の酒米の登場を願う京都の酒蔵の人たちの思いに応えるためでした。

そして、1933(昭和8)年に酒米の「祝」が誕生し、日本酒となり、味と香りとともに高い評価を受けました。その後「祝」は、昭和8〜21年は京都府の奨励品種となりましたが、次第に戦争の影が忍び寄り、政府は酒米よりも食用米を作ることを勧めました。
戦後に奨励品種となりますが、農業の機械化により問題が生じます。祝は草丈が高いために機械で収穫しづらく、昭和48年を最後に栽培されなくなりました。

しかし、祝の種は関係者によって密かに公的機関に預けられ、静かな眠りについていたのです。昭和60年代になると、グルメ志向が高まり、吟醸酒や大吟醸酒などの高品質の日本酒が注目されるようになりました。
全国各地で個性的でおいしいお酒が登場する中、京都の酒蔵さんたちは、『京都のお米で、京都独自の日本酒を作りたい』と思っていました。ある職人さんが『昔なぁ・・・祝というすごくいい酒米があったんや。名前も良いやろ。もう一回、祝の日本酒を造りたいなあ』と。これを研究所の方が聞き、「京都の米から京都の酒を」を合言葉に、酒蔵・農家・京都の研究所の方々と力を合わせて復活する時が来たのが1992年です。
1994年、ちょうど平安遷都1200年の時に発売し、おいしいと評判になりました。そして、ついに安定して出荷できるようになり、2012年に京のブランド産品に認定されました。

祝は、香りがきつくなく、甘い香りがするので、薄味の京料理にぴったりです。冷やして飲むのがお勧めです。
精米歩合が50%以下の大吟醸か、60%以下の吟醸か、純米かそうでないかなどで値段が変わりますが、お求めになりやすいものですと、720mlで1500円前後から。高級な物だと720mlで5000円以上となります。

酒造会社の直売所や京都のデパートで買うことができます。「「祝」を使っているお酒ください」と言えば、店員さんが何種類か教えてくれます。

シンゴの京都歳時記! #65【12月 六角堂の鐘】
2017.12.25【月】

四条烏丸から歩いて5分、烏丸御池からは3分のところに六角堂はあります。
本堂を上から見ると六角形なので、一般には「六角堂」と呼ばれています。高層ビルに囲まれたところにあるお寺で、いつもお線香の香りがしているオフィス街とは別世界のようなお寺です。

六角堂の正式名称は、頂法寺(ちょうほうじ)。西暦587年、聖徳太子が建てました。
この時、聖徳太子は大阪の四天王寺建立のための資材を求め、山城の地に来られました。
そんなある日、聖徳太子が泉で沐浴をされると、その夜、夢に仏様が現れ、「この地に留まりたい」いうお告げを見られました。そこで聖徳太子は、ここにお堂を建てようと決心しました。それが六角堂です。

仏教での最高の形は、円形です。終わりが無く、回る。つまり「教えが続いていく」という意味です。ただ、円形の建物を建てるのは、その当時難しかったので、それに近い形で六角形になりました。
さらに、6つの感覚、「見る、聞く、嗅ぐ、食べる、触れる、心で感じる」これらが正しく機能していれば、欲が邪魔することなく生きていけるという意味もあります。

六角堂と呼ばれるようになったのは、平安時代からだそうです。町の人々が呼び始め、「六角さん」とも呼ばれています。町の集会場としての役割もありましたし、祇園祭の山鉾巡行のくじ取り式は、昔は六角堂で行われていました。
火災で本堂が焼けてしまったときは、六角形ではなく四角のときもあったそうです。今の本堂は、明治10年に建てられました。

六角堂は、いけばな発祥の地としても知られています。聖徳太子が沐浴されたと伝えられる池の跡があり、初代住職は隋から帰ってきた小野妹子です。如意輪観音の守護を聖徳太子から託された小野妹子は、坊を建て朝夕に仏前に花を供えたことが、池坊流の起こりになったとされています。

本堂東側には、有名な「へそ石」があります。平面六角形の平らな石で、旧本堂の礎石と伝わります。六角堂が平安京の前から存在し、位置もほぼ移動していないことから、この石が京都の中心であると言われています。
地理的に京都の中心であり、人が集まるという意味でも中心地と言えますね。いつ頃からへそ石と呼ばれるようになったのかは定かではなく、六角堂がそう呼んでいるわけでもないとのことです。
なお、平安京を建設する際に通り(六角通)を作ろうとしたら、そこに六角堂があったため、桓武天皇の勅使が六角堂に行くと、黒い雲に覆われ・・・六角堂がひとりでに5丈(約15メートル)移動したというエピソードが残っています。

六角堂は縁結びのスポットとしても有名です。逸話としては、平安時代初めに嵯峨天皇の夢枕に「六角堂の柳の下を見よ」とのお告げがあり行ってみると、そこには絶世の美女がいて、お妃に迎えました。
それから六角堂の柳に願をかけると良縁に恵まれるという噂は広まり、この柳は「縁結びの柳」として人々に親しまれています。 柳の2本の枝におみくじを結びつけると良縁に恵まれるということで、1本ではなく、2本の枝とおみくじを一緒に結びます。

さて、鐘の音を聴くと「お寺やなぁ」と思いますね。実は、六角堂の鐘は、昔は法要の時以外は、大火事や鴨川の氾濫などの災害を知らせる時にしか鳴らさない鐘でした。
鐘は門を出て、六角通を渡ったところにあり、太平洋戦争後、六角堂の鐘の隣にあるお花屋さん「花市」のご主人が代々、管理をされています。戦後は、朝6時、正午、夕方5時にご主人が鐘を鳴らしていましたが、先代のご主人の時に、調子が悪いときには難しいということで、導入されたのが、「全自動撞木」つまり全自動で鳴る鐘です!  

人がいないのにいきなり鐘が鳴るんです。お昼12時と夕方5時が自動で、朝6時は、花市さんのご主人が今も鳴らされています。
これ以外にも人の手で鐘が突かれる日もあります。広島と長崎の原爆投下の日、終戦記念日、五山の送り火の日に、鎮魂と供養のためにされます。一般公開されるのは年に1度だけで、除夜の鐘です。

六角堂は、聖徳太子の時代から京都のみなさんと共に時を刻んできたお寺と言えます。烏丸にお出かけになるときは、立ち寄ってみてはいかがでしょうか?

【アクセスなど】
・六角堂は中京区の烏丸六角にあります。
・地下鉄・四条駅や阪急・烏丸駅から歩いて5分。地下鉄・烏丸御池駅から歩いて3分です。
・拝観時間は、朝6時〜夕方5時までです。

シンゴの京都歳時記! #64【12月 堀川ごぼう】
2017.12.20【水】

11~12月が旬の堀川ごぼうを紹介します。
歴史は安土桃山時代にタイムスリップします。豊臣秀吉が京都に聚楽第(じゅらくだい)を建て、周りに堀をめぐらしました。しかし、その後、聚楽第は取り壊され、お堀は周辺住民のごみ捨て場になってしまいました。
そこに捨てられたごぼうから根や芽が出て再び成長、1年後にはかなり大きなごぼうになり、長さ50センチ、太さ6〜9センチのれんこんくらいの太さになったそうです。

そして、そのごぼうを炊いて食べた人がいたのです。すごくやわらかく、真ん中に穴があいていて珍しく、農家の人たちが作り始めたというのが起源です。
普通のごぼうを寝かせたら、1年後には元々のごぼうの部分が太くなったのです。つまり、堀川ごぼうは、品種改良をしたわけではなく、普通のごぼうの栽培方法を変えてできた京野菜なのです。

堀川ごぼうは、どちらかというと料亭などの料理屋さん向けです。肉入りれんこんのように、空洞部に肉を詰めて煮る「鋳込み」料理が有名で、味がしみ込みやすいのが特徴です。

シンゴの京都歳時記! #63【12月 やまのいも】
2017.12.11【月】

やまのいもはヤマトイモの一種で、11月〜2月の冬野菜です。
とろろ汁で食べるのが一般的ですが、京都では高級和菓子にも使われます。上用まんじゅうや紅白饅頭の薄皮の部分に使うとふっくらします。その他、そばの「つなぎ」にも使われています。

産地の1つである南丹市や亀岡市へは、兵庫の丹波地方から江戸時代の終わり頃から明治時代の初め頃に入ってきたといわれています。

もう1つの産地の宮津市では、明治の初め頃から栽培されています。
宮津の栽培の特徴は、ヤマノイモとショウガの混植です。北から南へ植えていく場合、東側の列にやまのいもを、西側にショウガを植えていきます。そうすることで、いものつるでショウガに陰を与え、一方で、ショウガの葉でやまのいもの株の乾燥を防ぐ効果があります。宮津の農家さんの工夫ですね。

シンゴの京都歳時記! #62【12月 銀閣寺と哲学の道】
2017.12.05【火】

今年の紅葉シーズンもわずかです。銀閣寺と哲学の道の散策はいかがでしょうか。

足利8代将軍・義政が建立した銀閣。わび・さびの雰囲気が漂います。
庭の苔を写真に撮っている人が多く、その時、庭の通路以外はほとんど苔の緑色だということに気づきました。苔が多い理由は、義政が、銀閣寺の庭を西芳寺(さいほうじ。通称:苔寺)と同じように造ることを理想としていたからだそうです。

庭には他に、砂で波紋を表現した銀沙灘(ぎんしゃだん)があり、苔の緑、銀沙灘の銀、紅葉の赤の中に銀閣が美しく映えています。

さて、哲学の道は、北は銀閣寺あたりから南は永観堂の近くまでの約2キロの道です。
この道は、明治時代に文人が多く住むようになったため「文人の道」と呼ばれ、その後、哲学者の西田幾多郎らが散策したため「哲学の小径」と言われたり、「散策の道」「思索の道」などと呼ばれていました。
そして、1972(昭和47)年に地元住民が保存運動を進めるに際し、相談した結果「哲学の道」と決まり定着しました。

春は桜、秋は紅葉の名所で、多くの方が散歩しながら観賞されます。哲学の道沿いにはお土産屋さんや喫茶店が多く、いくつかのお店を訪れましたが、質問すると色々教えてくださるお店が多いように感じました。
哲学の道を歩いている人は多いので、人が写らない写真を撮りたければ早朝がチャンスです。

哲学の道の南の終点に着いたら、帰りは白川通と丸太町通の交差点「東天王町」のバス停から四条河原町や京都駅へ向かうのが便利です。
紅葉を眺めて散歩しながら、思索に耽てみるのはいかがですか?

【アクセスなど】
銀閣寺の拝観料は大人500円。
「銀閣寺前」もしくは「銀閣寺道」のバス停が便利です。

シンゴの京都歳時記! #61【11月 ハンケイ500m】
2017.11.28【火】

こだわりの強い「京おんな」を満足させるフリーマガジン「ハンケイ500m」が、11月10日発行で40号を迎えました!
奇数月発行で実部数3万部。地下鉄の駅などで入手できます。

「ハンケイ500m」の特徴は、京都市営バスのバス停から半径500mに限定した京都の「本物」を支えてきた職人さんの人物紹介です。お店の人のことを知ってから、食べたり、買ったりしたい人にオススメです。

生まれも育ちも京都の編集長・円城新子(えんじょうしんこ)さんによりますと、「京都はバス停が約1500か所と多い。半径500mは狭そうに思えますが、探してみると選ぶのに困るほどおもしろい方がいらっしゃいます」とのことです。
フリーマガジンを始めるにあたり色々考えた結果、本物志向で、こだわりの強い「京都の地元の人向け」にされました。

「ハンケイ500m」最新40号は、「大宮中立売」のバス停特集です。
ホームページでも読むことができます。
自ら歩いて、人に出会い、記事を書くという取材を続けていらっしゃるハンケイ500m。
私も京都の取材を続ける一人として、刺激をいただきました。

シンゴの京都歳時記! #60【11月 聖護院だいこん】
2017.11.13【月】

前回の聖護院かぶに続いて、同じく11月中旬からが旬の聖護院だいこんをご紹介します。
聖護院だいこんの食べ方は、やっぱりおでんや煮炊きですよね!
有名な行事は、12月7日〜8日の千本釈迦堂の大根(だいこ)炊きで、こちらでは聖護院だいこんが使われています。

聖護院だいこんの歴史は、尾張から左京区の金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)に奉納された大根から始まります。2本の長大根が奉納されたと知った篤農家・田中屋喜兵衛(たなかやきへい)さんが、その大根の種を分けてもらったそうです。
尾張から運ばれてきた大根は宮重(みやしげ)大根といい、ごぼうのように長く40センチくらいあったそうです。

田中屋喜兵衛さんは、早速その種を撒いたところ、長い大根ではなく丸い大根ができました。その理由は、聖護院かぶと同じで土が浅いことです。できた丸い大根は、長い物と比べて密度が高く、大きさのわりには重く、身がしっかりしていて、炊いても煮崩れしにくい大根となりました。

昭和初期の写真などを見ると、聖護院だいこんはまだ微妙に長かったり平たかったりしているのですが、いいものができた時の種を保存・研究して、今は安定して丸い大根ができるようになりました。
研究熱心な方々のおかげでできた聖護院かぶと聖護院だいこん。聖護院へのお参りもお忘れなく。

シンゴの京都歳時記! #59【11月 聖護院かぶ】
2017.11.09【木】

今日は、11月中旬からが旬の聖護院かぶについてです。
聖護院かぶは、その多くが千枚漬けに使われていて、サラダやかぶら蒸しにもされます。

聖護院かぶの歴史は、江戸時代からです。大津の堅田に“いいかぶ”があると聞いた聖護院村の篤農家・伊勢屋利八(いせやりはち)さんが、かぶを持ち帰り聖護院で栽培すると、おいしいかぶができました。最初は平たい形のかぶでしたが、栽培していくにつれてだんだんと丸くなり、ボールのようなかぶになったんだそうです。

その理由は、聖護院エリアの土です。長い物ができない状態、つまり土の部分が浅いことが理由です。土の下には粘土層があり、この粘土層が浅い部分にあるため、土を深く耕すことができないのです。太古の昔、京都の地形ができる時、土は川などで南に流れてしまい京都市内でも北の方にある聖護院の土は浅くなっています。つまり、土の部分が浅いために作物は地中で縦に伸びることが難しく、横に広がるようになり自然と丸くなったのです。一方で、京都の南の方は土が深いので、九条ねぎなどの栽培に適しています。

江戸時代当時は、年によって、いい丸形にならなかったり、おいしくなかったりした訳ですが、研究熱心な伊勢屋利八さん達は、いい品種ができるように、丸くておいしい年の種をちゃんと記録・保存し、翌年にその種を使って水のやり方などを色々工夫していきました。すでにこの時代には、「種は財産」という意識があったのです。

千枚漬けにするには2キロぐらいがよく、年末に間に合うように収穫されています。ただ、気温の変化で収穫時期がずれることもあるので、その場合は、種を蒔きなおすなどして、お歳暮のタイミングに合わせるようにしているんだそうです。

シンゴの京都歳時記! #58【11月 京都市学校歴史博物館】
2017.11.01【水】

1998年11月に京都市学校歴史博物館が誕生しました。私立学校がその学校をテーマとした博物館は数多くありますが、様々な学校の歴史を扱った博物館は日本で唯一です。

日本で最初の学区制の小学校は京都にできました。学制ができたのは明治5年ですが、それより早く、明治2年の半年間に小学校64校が作られました。蛤御門の変の後、復興政策の1つとされたのが教育で、町衆がお金を出し合って小学校をつくったのです。

京都の町の碁盤の目をいくつか合わせた自治組織を町組(ちょうぐみ)と呼びます。明治になり、町組をどれも同じような規模になるように再編されました。これを「番組」といい、番組単位で小学校を作ったので『番組小学校』と呼ばれるようになりました。
おおよそ家1000戸で1つの小学校くらいだったそうで、たとえば四条河原町から四条烏丸、五条烏丸から五条河原町のエリアで3つの小学校ができました。
ちなみに、上京第1番組小学校は、西陣にある現在の乾隆(けんりゅう)小学校で、北西から東方向へ番号がふられていきました。

番組小学校には、消防署や交番、公民館もありました。京都の町には「火消し」がなく、蛤御門の変で町が焼けたので、町衆から「火の見やぐらが欲しい」という声があり、「ならば小学校の場所に消防署や交番も公民館もまとめよう」となったんだそうです。

戦後、少子化などで統廃合や閉校となった小学校の多くは、地域の施設になっています。地域の人がお金を出して作った小学校の建物を壊すことはできないからです。下京第11番組小学校で、元・開智小学校は、京都市学校歴史博物館になりました。

常設展をご紹介しましょう。大正時代の自由教育のコーナーには、新聞を使った国語の授業風景の写真があります。黒板には、「カタイコト・・・外交、政治、軍事、産業。」「記事と論説がある」など、新聞の構成を教えています。

教科書コーナーも興味深いです。明治初期は寺子屋のような内容ですが、その後、西洋風に行き過ぎます。戦時中は戦争の内容に染まります。そして、戦後は墨塗り教科書です。

おもしろいのは、昭和5年の「京都小学唱歌」という音楽の教科書の『唱歌の心得』です。「気をつけと同じような姿勢ですが、あまり固くならないで、のんびりとして、両足でしっかりと立ち、ゆったりとした気分で歌いなさい。」「大声を張り上げて歌うのはよろしくありません。」「唱歌の前には、必ず鼻汁をかんでおきなさい。」などなどの心得には、つい笑ってしまいました。

学校でこどもに何を教えるのかを考えることはとても大事ですね。また、学校ってありがたいものだなぁとつくづく感じました。

【アクセスなど】
場所は下京区御幸町通仏光寺で、四条河原町から南西に歩いて10分くらいです。
河原町松原のバス停からは、歩いて約5分です。
開館時間は、朝9時〜夕方5時まで。お休みは水曜日。
入館料は大人200円、小中高生は100円です。

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