2019年

12月22日

変わり続けて繋いでいく専業メーカー

先週に引き続き、ゲストは飯田金属工業株式会社の代表取締役・関健一さん。
今回はご子息であり、経営企画室の室長の関隆史さんにも参加いただきました。

先週は大手メーカーの製品の内部を担う部品の設計・試作・生産などについて伺いました。

今週は改めて会社の歴史を伺います。 「義理の父が創業者です。
元々は建築金物を作っていました。
当時は7種類の鍵を作っていました。
先週に少しお話をしましたが、それがあるときに街頭テレビを格納する木製キャビネットに採用されたのです」。

関社長ご自身はいつからの入社なのでしょう?
「昭和58年入社です。
時代と共にブラウン管テレビからフラットテレビになったり、テレビとチューナーのセットなども出てましたね。
ビデオ、レーザーディスクなどありました。
その時代でした」。

それ以前は?
「教員をしていました
男子の技術や理科を9年間教えていました。
最後は生徒指導もしていましたね。
うちの家内が同じ教員だったんです。
一緒にいると"うちの跡取りが..."と独り言のように言うもんでね(笑)。
人生変えてみるのも面白いと思いましてこの世界に飛び込みました。
当時、周りにはよく人生を180度も変えれるなと言われましたが(笑)
でも入社してからは教師の世界とは厳しさが違いましたね」。

教師時代の経験が仕事に役立つことはありましたか?
「社員のお宅に伺って親御さんと話す家庭訪問をしたことがありました。
社員のことを知ろうと思えば育った環境を知ると理解できます。
あと若い社員が勉強して役職が上がると嬉しいですね」。

その後、お仕事は順調に?
「そのうちにテレビが売れない時代に突入するんです。
でもうちは最後まで受注が減らなかった。
それでも時代と共にプラズマテレビが下降し、液晶テレビも海外で作るようになり...。
最終的に売り上げがゼロになりました。
したがって全体の売り上げも半分に。
新規の開拓が間に合わず一時期は苦しい思いをしましたね。
でもパナソニックさんのおかげで共栄会社の教育、技術の成長をサポートしたおかげでうちにも技術の蓄積があった。
"もう一度うちの強みは何だ"と考えてそれを元に営業をかけました。
一番どん底の時が社長でしたね。
生きた心地しませんでした」。
ちなみにその当時、奥様はどんなご様子でしたか?
「案外、腹が据わっていましたね(笑)」。

ご子息であり経営企画室の室長である関隆史さんは現在36歳。
「入社して7年目です。
前職はシステムエンジニアでプログラムの仕事をしていました。
入社するにあたって、昔、母から父にあったような"大きな独り言"はなかったですね(笑)」
30歳が節目かなと思いまして私から父に話をしました」
お父様としては嬉しかったのでは?
「そうですね。
前職から全く違う仕事に来たんで、しんどかったと思います。 でも近頃では毎日のように彼から"こうせなあかん"と言われますわ(笑) 結果を出してきたんで受けてやらなければとも思っています」。 その言葉に「受けてもらえるので、言わせてもらっています」と隆史さん。

これからのビジョンは?
「創業70周年。
社内で打ち出したのは100周年を守って繋いでいこうとなりました。
変わり続けることが次につながっていこう。
専業メーカーであっても変化していこう。
そんな風に思っています」。

変わり続けることで変わらない技術をつないでいく。
飯田金属工業株式会社の挑戦は続きます。

竹原編集長のひとこと

社長は後継者問題を乗り越えて来られた。
さらにその息子さんも続いて乗り越えようとしている。
会社に魅力があるからこそですね。