2019年

3月31日

考え続けるという、ものづくりへの情熱

ゲストは先週に引き続き株式会社山洋の代表取締役会長・中谷洋さん。
年間で60億本も生み出しているという様々な綿棒について伺いました。

最初から綿棒をお作りになっていたのでしょうか?
「元々は飛騨高山で父が爪楊枝の会社をしていました。
3つも工場がありましてそこにおよそ300人の方が働いていました。
爪楊枝の持ち手のところに彫りがありますよね。
あれは"こけし"というのですが、それを最初に作ったのが父です。
楊枝の長さを切り揃えると熱で黒くなりましてね。
それを生かしつつこけしのようなデザインを施したということです。
こけし楊枝としてヒットしました」。

そこから綿棒に?
「実は私が高校3年の時に倒産しまして。
父は技術的には優れていましたけど経営的には...。
企業は2人居なければいけないですね
ものづくり役と経営役。
その後、2年後もう一度爪楊枝で復帰しようということになり、さらに4年後失敗。
高山にいられなくなって、父母は広島へ。
私は名古屋へ...。
父は新しい物や新しい機械を作ることはすごかったですね。
その後、河内長野に行き、地元の協力のもと楊枝の仕事を始めました。
軸を作る技術を使って何かできないかということで手がけていたのが綿棒だったんです。
だから最初の綿棒は軸が木製でしたね」。

河内長野の地で新たにアルプス産業がスタート。
「当時はある程度できたけど完全じゃなかったですね。
現在の山洋になってヨーロッパ向けの輸出、医療用の綿棒を作るようになりました。
河内長野に来ておよそ3年。
私が28歳の時に"お前に任せる"と言われました
びっくりしましたね。
経営は私、父はものづくりに勤しんでいました。
父は機械を作っていましたね。
休みの日に来て仕事をしてた。
心臓が悪かったもので母を連れてきて、付き添わせてました」。

お父様から引き継がれたことや教わったことなどはありましたか?
「"一生懸命やってれば必ず道は拓ける"と言われました。
父は私から見たら超人ですわ(笑)」。

その後、株式会社山洋の工業用綿棒は世界でトップシェアを獲得。
それまでの社長職から50周年を機に会長に。
会長になられても開発に携われているそうですね。
「机に向かうわけでなく常に考えている感じですね。
父の血なのかもしれません。
深く考えてそこから出てくるものが大切だと思います」。

これからの展望をお聞かせください。
「医療、一般、工業用。
まだまだ綿棒が役立てる、要求に応えられる綿棒があると思います。
100年企業に向けて世の中にないもので私どもにしかできないものを提案できる企業を作っていきたいです。
そしてアジアNo.1、世界No.1を目指したいと思います」。

受け継がれるものづくりへの思い。
綿のようにきめ細やかな仕事で世界ブランドを目指します。

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竹原編集長のひとこと

広いシェアにも関わらず常に考えて商品を生み出しておられます。
新しいことをやり続けている会社は成長し続けますね。