2020年

9月13日

大阪を自慢できる街に ものづくりと人づくり

先週に引き続き、ゲストは株式会社アオキの取締役会長 青木豊彦さん。
東大阪の夢と希望を乗せた人工衛星『まいど1号』のお話で盛り上がりました。
今回は改めてルーツともいえる航空部品やお仕事のルーツのお話を伺っていきましょう。
近頃のお仕事はいかがでしょう?
「創業60年になるんですが、このコロナウイルスの影響で飛行機が動かない。
加えて、アメリカでは暴動などもあってなかなか厳しい状況です。
だけどこれもチャンスだと考えています。
それまでは飛行機以外の仕事をしたいと思ってもできなかった。
これを機に別のジャンルに挑戦できると思えばいいんですよ」。
光触媒を使ったプロジェクトや水質汚染に関するプロジェクトも動いているそうです。

コロナ禍において現在会社の三代目である息子さんは航空学を学ぶために大学へ。
「息子は"難しいわぁ"と言いながらもオンライン授業を受けていますよ。
そんな姿を見て、周りの方々が"青木さん、黙って見ておきや。親は木の上から立って見る。これが親や"と。
なるほど漢字がそういうつくりですよね。
だからここ最近は会社に関してあまり口を出していないんです」。

創業者である青木会長のお父様はどんな方だったのでしょう?
「父は職人でした。
僕には自由にさせてくれましたね。
26歳の時に判子をもらいました。
最初は何を渡されたのかわかりませんでしたけどね。
改めて思うとそういうことだったんでしょうね...」。

青木会長はいつから入社されたのでしょう?
「父はこの仕事を私が15歳の時に始めました。
8坪の土間を借りて旋盤を2台。
そこに父と母と職人さんと3人でスタートさせた会社です。
当時は大変忙しくて仕事がたくさんありました。
しかも父は腕利きの職人でその腕前から戦争の招集も免除されたほど。
そこで父の仕事を目の当たりにして感銘を受けました。
夏休みが明ける前に母が言うんです"お父ちゃんみたいになるんか?"と。
"なる"と答えると母は"9月から学校行かんでええ、働き"と言われました。
でも僕はどうしても高校に行きたかったんですよ。
近くに女子校があってね、朝、挨拶するのが楽しみだったんです(笑)。
家業の手伝いをするという約束をして高校に行きました」。

青木少年は学生生活と仕事は両立できたのでしょうか?
「仕事は納期がありますので土曜、日曜は働かなあかん。
そうなると休みがない。
さらに納期が迫ると学校休まなあかん。
学校の先生や友達に恵まれましたね。
先生は学校に来ない僕の様子を見に来てくれたんです。
事情を話すと学校に晩に来いと。
わざわざ僕のために補習をしてくれたんです。
仕事と学校であっという間の高校生活でしたね」。

早くから仕事に携わるといろんなことを体験されたのではないですか?
「東大阪には地元の良い社長さんがいっぱいおられるんです。
たくさんのことを教えていただきました。
先輩には"中小企業は1回会うたら10回分しゃべれ"と。
記憶してもらえという意味ですね。
お仕事も1回の費用で10回分付き合ったことにしなさいという教えです」。

将来のビジョンはどう見ていらっしゃいますか?
「ドイツのマイスター制度っていいなと思うんです。
職人に名誉を与えているということです。
これを日本でもやって欲しいんですよ。
1県に100人は作って欲しいですよね。
そして夫婦で交通費は無料にしてもらいたい。
無料にしてもらえると技術を他の地域に教えに行けると思うんです。
医療の世界では後進を育てるためにシステムができています。
この仕組みがものづくりの世界にもあればいいですね。

あと地元・大阪を自慢できる街にしたいんです。
昔、東京に対抗心がありましたけど、今は東京は素晴らしい街だと思うんです。
組織で動いて決め事を守る習慣がある。
大阪は子どもですわ。
全国を歩きましたが、大阪の子どものコミュニケーション能力は素晴らしい。
子どもは宝です。
育てていかねばなりません。
僕には孫が8人いるんですが、みんな頑張ってます。
僕も頑張って"おじいちゃんすごいね"って言われたいですわ(笑)」。