2022年

1月 2日

リバーレースがつなぐ代々の仕事

ゲストは昨年に引き続き栄レース株式会社の 代表取締役社長 澤村徹弥さん。
BtoBからBtoC、『LeLaSa(ルラッサ)』というファクトリーブランドも展開中です。

今週は改めて創業からのお話を伺っていきましょう。
「1958年、義理の父が創業者です。
イギリスでリバーレースを作る会社で1年間勉強して、機械を2台買ってきました。
しかし買ってはきたけれど、 あまりうまく動いてくれなかったと聞いています。
やっぱり取り扱いが難しかったのだと思います。
偶然にもアメリカのある方と知り合って、 技術を教えるから出来た製品を買わせて欲しいと言われました。
そうやって循環していきまして、 徐々に機械を増やしていきました。
その後、高度成長期に宮城と仙台で工場を開きました。
そして、中国へ。
現在は中国の青島、タイはチェンマイとメーソートに工場があります」。

社長にはいつ就任されましたか?
「40歳のときに就任しました。
大学時代に義理の父になる創業者と面識がありまして。
実際に入ってからは面白かったですね。
誰も扱っていない機械、デザイン。
私の実家が石川県で糸関係の仕事をしていましたので身近でもありました。
付加価値をつけるのは大変ですが評価も得られる魅力的な仕事だと思います」。

途中でラッセルレースにかえる流れはなかったのでしょうか?
「正直、ありました。
丁度、青島に工場を建てようとしていた頃、ラッセルを作る技術が進化した時がありました。
クオリティが上がってきてリバーレースに近いことができるようになってきたんです。
コストも安いですし。
リバーを続けるかラッセルにするか考えた時期がありましたが、創業者は絶対にリバーだと言い切りましたね。
きっとこの先もリバーレースで勝負ができると思ったんでしょうね」。

中国進出の際、不安などはなかったのでしょうか?
「中国に進出した時が天安門事件の2年後。
会社内でも不安の声が上がるぐらい情勢がまだまだ不安定な頃でした。
進出後18年経って移転、100kmほど内陸へ入りました。
そのころはタイの工場ができていましたので大丈夫でしたが、それがなかったら...。
あの頃は営業やアシスタントにも迷惑をかけたなぁと思います」。

創業者の義理のお父様は?
「現在92歳です。
まだビジネスの話もしますし、仕事の話をするときは私が入社した時と変わらない雰囲気です。父から電話が鳴るとドキドキしますよ(笑)。
教えを乞うこともあります」。

会社や仕事への思いも引き継がれていっていますね。
「次男が5年前に入社しました。
いきなり工場の現場に出したんです。
私が東北でリバーレースを教わった人が現在青島工場におられるんです。
"ザ・リバー"というぐらいの第一人者。
機械の音を聞いただけで不調がわかるという方です。
私はその方に息子をつけて勉強してもらいたかったので、タイの第2工場で修行させています。
日本人がひとり、周りはミャンマー人とタイ人に囲まれて頑張っていますよ」。

未来のビジョンはどう描いておられますか?
「下着関係が9割。
まだまだラッセルも発達していきます。
リバーが活躍できる場が狭くなる可能性もあります。
そうなってもアウターであるとかストールなど伸ばしていきたいですね。
美しい柄、デザインを作れるリバーレースをひとりでも多くの方に手に取ってもらいたいです」。

リバーレースの未来を自ら切り開いていく栄レース株式会社です。

竹原編集長のひとこと

後継者もいる、作る機械も自社でメンテ、豊富なデザインとアイデア。
新しいリバーレースの可能性を感じますね。