2022年

2月13日

ものづくりは楽しい! 創業の想いを製品に 

先週に引き続き、ゲストは川村義肢株式会社の代表取締役 川村慶さん。
改めて創業から伺っていきましょう。
「1946年、祖父が創業しました。
元々、義肢や装具の会社に勤めていました。
その後"お客様に幸せになってもらうには我々が幸せにならないといけない"という思いから独立。
今でいう、従業員満足、エンプロイーサティスファクションですね。
残念ながら会社を起こして10ヶ月で他界してしまったのですが、その想いは75年もの間、ずっと続いています。
その後、当時学生だった私の父がひとしきりあってから入社。
会社を大きくしました。
創業の地は東大阪の瓢箪山だったのですが、祖母の一声、市内で仕事をせねば...と南森町へ。
祖母も当時若かったので、市内で仕事をしたかったのかもしれませんね。
市内に行くと有名で大きな病院があります。
その病院とお仕事をさせていただくことで会社が一気に大きくなりました」。

鶴の一声から市内へ移り発展されたのですね。
「弊社は75年の中で大阪の各地に会社があったのですが、現在まとめて大東市にあります。
実はその移転も私の母の一声でした。
かなりの投資...70億円かかりました。
それだけの投資をしても価値のあるものでしたね。
女性の決断力はすごいです」。

現在の川村社長ですが、会社の継承もお母様が影響されているそうですね。
「私は学生時代、アメリカンフットボールをしていました。
将来的にもアメフトで食べていこうと思っていましたから。
当時身長が180cm、100kg超、50mを6秒台で走っていました。
大阪体育大学に入ってアメフトをしたくて、親にお願いをしました。
でもそれには条件が。
大学を卒業したら義肢装具の学校に入り直すというものでした。
でも心のどこかでまたアメフトをしたいという気持ちが...。
入社して1年目はアメフトをまだしたかったのですが、2年目から変わりましたね。
やっていくと、この仕事はめちゃめちゃ面白い。
ものづくりをして困っている人を助けることができる。
もともとプラモデル作りが好きだったこともあって、ものづくりにのめり込んでいきました。
母の発想は少し変わっていて、川村家を守るというより川村義肢を意地でも守るという考えがありました。
利他の人でどんどん周りに与えると、次は自分に入ってくるという発想ですね」。

改めて川村社長の入社時期、会社はどんな様子でしたか?
「70億円の借金をして会社を大東市に取りまとめた時期です。
会社の年商が68億円。
そんな当時、31歳でした。
介護保険が始まる時でもありました。
高齢者用の車椅子やベッドが販売からレンタルに替わって単価下落が起こりました。
その介護保険が始まる前に特需があってから、介護保険が始まり下落...大変な時でしたね。
社員のためにと立ち上げた創業者、会社を大きくした二代目、3回倒産しかけたのは三代目の私です」。

現在、本社のある大東市。地域への貢献もされているそうですね。
「実は大東市に移る前にいくつか移転先の候補がありました。
しかし、父は大東市の名前をみて即決。
大東市は地域リハビリテーションの先駆けだったんです。
障害を持つお子さんをなるべく一般の学校に受け入れて、同級生、PTAや地域で支えることを早くから取り組んでいたんです。
社長に就任して5年経ってからですが、空き家を使って仕事場所を確保して仕事をしてもらうことを進めています。
障害を持つ方も地域で支える。
そこへ移り住んで仕事をして暮らしてもらう。
そんな橋渡しができないかと思っています」。

今後のビジョンを教えてください。
「1つ目は個人的な夢なんですが父が言っていた"世界一の会社にする"を少しアレンジして"世界一愛される会社"。
2つ目は社員のお子さんが川村義肢に就職したいと思ってもらえるような会社に。
3つ目は私たちの働き様を見ていじめや戦争がなくなったらいいなぁ、と。
2つ目の夢は二世代目が就職してくれるようになってきたんです。
これはバージョンアップして三世代が同時に働いてくれるような会社にしたいですね。
実はうちの息子も別の仕事をしていたんですが、私が"この仕事最高!""ものづくり楽しい!"と言い続けた影響か学校に入り直して、現在新入社員として働いてくれているんですよ。
楽しいと言い続けたいと思います」。

竹原編集長のひとこと

創業者の想いを継承して社会と向き合っていらっしゃいます。
さらにそこにものづくりの楽しさも見いだしていらっしゃいますね。