2022年

7月17日

100年を目指すものづくりの精神は会社の仕組みも作る

先週に引き続き、ゲストは昭和精工株式会社の代表取締役社長 植野徳仁さん。
改めて会社の歴史を伺っていきましょう。
「創業は1961年、祖父が興しました。
最初は炭を固めた燃料の炭団を作って工場などに売り歩いていたそうです。
工場にスクラップ処理場がありまして、ベアリングの廃棄品があったそうです。
それを見てもったいないと思い、再加工して売り始めたのが現在の仕事のスタートだと聞いています」。

今でいうSDGs、リサイクル。
その後は?
「二級品のベアリングからベアリングメーカーさんとお取引が始まったそうです。
もともとは祖父ひとりのスタートですが、私が小中学生ぐらいの時は200人ぐらいの規模の会社でした。
実家が工場の敷地内にありましたので作業は見ていました。
遊び場にもなっていましたし、社員さんには可愛がっていただきましたね」。

そんなご実家の様子。
将来の仕事像は見えていたのでは?
「実家が引っ越して堺市に。
堺市も鉄鋼の町としても栄えていましたので鉄鋼、製造業への抵抗はありませんでしたね。
しかし中学生に上がったぐらいからかなり明確にゲーム会社に就職したいという思いが湧き上がってきました。
そのまま専門学校に行きたいと思っていました。
そこは父に説得されて大学へ進学。
学科はソフト寄りの勉強をしていました。
結果としてはゲーム会社には就職はしなくてパナソニックへ。
9年ほどお世話になりました」。

現在の会社に入られたきっかけは?
「パナソニック時代にグループの再編というものがありました。
そのタイミングで退職者がいました。
支持していた上司も辞められることもあって、ここは思い切って環境を変えてみようと転職しました」。

現在は1000人規模の昭和精工株式会社。
成長の要因は?
「お客様のご要望を中心にお聞きすること。
それが海外工場の立ち上げにもつながります。
昔はご要望として営業がとってきた仕事でも儲からない仕事があったと思います。
今は営業と製造をすり合わせる生産販売会議をしてバランスを見ています。
何より生産の実力がついてくるとそういった軋轢も減ってきますね」。

会社の行動規範に『地域へとの共存』も記されています。
「今年、泉南でライブイベントがありまして協賛をしました。
イベント内で会社の紹介ビデオを流そうと考えています。
もともと外部への協賛などは行っていなかったんですが、会社の名前を知っていただくのは大切なことだと思います。
最近は大企業様がライバルになってきました。
ネームバリューで有利不利、社名だけで選択肢に入らない。
知名度を上げることでお客さんやリクルートにもつながる。
それが協賛へつながりました」。

新入社員となる方へのPRにもなりますね。
「若い方の傾向として給与はあまり重視されないようです。
1番の重視は年間休日。
あと夜勤を避けたいなども挙げられます。
工場で夜勤なしの稼働は難しいんですよね。
そうなると規模の縮小につながりますから」。

これからのビジョンをお聞かせください。
「ひとつの数字としては100周年。
100年を目指そうと思うとどんなスーパーマンがいたとしても、その方が働ける時間が長くて40年。
その方が直接教育したとしても80年。
100年という時間を目指そうとすると口伝ではなく、会社の仕組みとして残していかないと達成できないと思います。
そこを目標にすることで従業員の幸せにつながると思います」。

竹原編集長のひとこと

長く続けていくということは大変です。
ご自身は違う分野から来られましたが、
時代をつなぐバトンをしっかりと握っておられますね。