2022年

10月23日

20年間で2万軒の飛び込み営業力

先週に引き続きゲストは株式会社ツルミ製麺所の代表取締役 佐々木博文さん、そして専務取締役 佐々木智道さん。
ご兄弟でのご出演です。

今週は改めて会社の歴史を博文さんに伺っていきましょう。
「父が創業者で私は二代目です。
父が親戚の製麺所で修行をしていました。
昭和52年、得意先6軒を譲り受けて独立したのが始まりです。
現在、本社は城東区なんですが、創業当時は鶴見区の一戸建ての1階で両親が営んでいました。
三人の子どもを抱えながら大変だったそうです。
現在の創業の地には三男の智道が住んでいます」

後にお父様のお仕事を継ぐことになるわけですが...。
「大変なことは分かっていたので、最初は製麺所を継ぐ気はなかったんです。
スーツを着て仕事をしたかったんですよね。
私が高校3年の3学期、父が40歳の時に脳卒中で倒れてしまったんです。
私が継がないと家族が食べていけないので、そのまま就職、会社を継ぐことになりました。
葛藤はありましたね。
半導体を売るかラーメンを売るか。
営業で売れば同じですからね。
当時、36軒しかお客さんがいなかったのでそこから頑張りました。
すぐさま自動車の運転免許取得へ。
本免許を取得して次の日から新規開拓に乗り出しました。
大阪に中華料理店は3000軒ほどあるのですが、その中の2000軒に片っぱしからサンプルを持って飛び込み営業へ。
毎年1000店舗、20年間で2万件のお客さんに飛び込み営業しました」。

とてつもないバイタリティ。智道さんはそれをご覧になっていましたよね。
「僕は中学3年生だったと思います。
すごいなぁと思っていましたね。
まだ自分の将来を見たわけではないですが、見守っていました」。

博文さんの飛び込み営業。
どういった様子でお仕事をされていたのでしょう。
「断られますけど、また行きます。
しばらく行くと顔馴染みになりますから。
それに加えて新規にも行きながら。
そうするとお店と今入っている製麺屋さんとトラブルがあることが。
そういったタイミングがあるから顔を出しておくことが大切なんです」。

智道さんが入社したきっかけは?
「両親と兄二人が楽しそうにやってるなぁと横目で見ていました。
建築関係の仕事をしていたんですが、帰るたびに思っていましたね。
儲かってるんかなぁとか(笑)」。

博文さんは、弟さん2人を入社に誘ったり?
「2番目の弟は誘いましたね。
仕事の内容で困っていたので助けてもらいました。
三男は誘った記憶はないですね。
儲かっているから来たんじゃないですかね(笑)」。

智道さんは入社後、どんなお仕事を?
「工場と配達。
1年ぐらい経った時に営業しないかと言われました。
営業は苦手だったんですけど、やってもないのに断るのはいけないと思い営業の仕事を始めました。
最初は兄に同行してもらっていたんですが、そのうちひとりで。
仕事を取れる喜びを感じつつも、1年ぐらい経つと円形脱毛症ができていましたね。
ストレスだったかもしれませんが、気持ちを切り替えて邁進しました」。
「弟は僕と違って腰が低くていいねとお客さんに言われたこともありましたね(笑)
営業の基本はスピード、親切、まめに訪問することですね」と博文さん。

ここまで伸びた1番の成功の秘訣は?
「人との出会いですね。
日本一の生麺作りの技術を持つ方に出会えました。
その方に兄弟でしっかりと5年間修行させてもらいました。
今から15年前の話です。
そこで麺の公式を学んでお客様のどんなニーズにも応えることができるようになりました。
研究として他のお店に行ってラーメンを食べても加水が何%...など考えて食べているので、あまり美味しくいただいていないかもしれませんね(笑)。
スープも学ぼうと思ったのですが、骨なのか粉なのかが違うだけで麺の公式と大体同じでした。
ある程度はスープのことも分かるようになりましたね」と博文さん。

将来のビジョンを教えて下さい。
「ラーメンは30年前は500円、今は800円。
ラーメンの麺をブランド化して適正な価格で販売して適正な利益を上げていかなければいけないと思っています。
その利益で働いている人たちに還元していきたい。
有給休暇がなかなか取れないのではなくて、些細な用事でも気持ちよく有給休暇が取れる会社に。
人があっての会社です。
大切にしていきたいと思います」。

竹原編集長のひとこと

仕事へのバイタリティ、人との出会い、そして商品を生み出す公式。
すごくいいバランスに加えて兄弟の絆。
まだまだお仕事を広げていかれるでしょうね。