2022年

11月20日

パンから始まり自動車学校へ 需要への供給

先週に引き続きゲストは株式会社阪和鳳自動車学校の代表取締役 嶋田豪洋さん
今週は改めて歴史を伺っていきましょう。
「昭和29年8月に文部省認可を受け、学校として誕生しました。
当時、国産のトラック・乗用車が発売された時代です。
本校も開校当時の教習車両は米軍払い下げのシボレーだったと思います。
卒業生の方は運転手という職業に就いていました。
街を走っている車も外車。
当時、バス、タクシーなどは走っていましたが堺市の中で自家用車を持っていた人が4人しかいなかったと聞いています。
救急車がわりで使っていた方が3人、あと1人は世界中の車を集めるのが趣味の弁護士さんだったと聞いています」。

その時代になぜ自動車学校が生まれたのでしょうか?
「私の祖父とその弟が元々、軍人でした。
戦後の復興を見て自動車がないといけない。
しかし、いくら車が増えても運転者がいないといけない。
そう思った兄弟は"我々は運転者を作る"ということを目指したそうです」。

開校当時はどんな様子だったのでしょうか?
「残っている写真で一番古いものが昭和36年のものです。
コース図の航空写真が残っているのですが、周りは田んぼに囲まれていました。
鳳駅から直接、学校の中が見えたそうです。
その他の建物といえば神社とお寺。
自動車学校ができてからはダイハツ、日産など車屋さんができてきました。
昭和50年代になると田んぼがなくなってきます」。

自動車学校をする前は何をされていたのでしょうか?
「終戦後、パン屋をやっていました。
たくさんの人に役立つ仕事をしたいと思っていたのだと思います。
戦後の食糧難の中、米軍払い下げの小麦粉を使って作っては官公庁に納めていたそうです。
何年か後には大手のパン屋が生まれて大量生産に押されて辞めました。
その頃、朝鮮戦争が始まって戦地で使う毛布などを作るように。
生産を進めていましたが、戦争が終わると需要がなくなりました。
そこでこれからは車の時代だ、と。
これらの仕事は弟の方がアイデアを出して、兄の方が組み立てていったそうですよ」。

嶋田社長ご自身はやはりこちらで運転免許を取得されたのでしょうか?
「北海道大学に通っていましたもので普通車の免許は北海道で。
父も北海道に縁があって、当時の北海道自動車短大で学んでいました。
私は夏休みになったら実家に帰ってきて、普通車以外の免許を取得しましたね。
二輪、大型、牽引、大特。
そこから指導員の資格審査もありましたね。
今から5年前に代表取締役に就任しました」。

コロナ禍は大変だったのでは?
「困りましたね。
営業自粛せざるを得ない状況でした。
入っている予約をキャンセルしなければいけない。
全員の方に連絡しました。
どうしても急ぐという方だけ教習をしましたけれど。
今現在でも職員の中で濃厚接触になったという人がいると大事を取って休んでもらっています。
稼働時間数が減ってきますから苦慮しているところです」。

コロナ禍で需要は変わりましたか?
「コロナの影響を受けて変わったのは二輪車の免許を取る人が増えています。
推測ですが、通勤をバイクでという方が増えているのかもしれません。
50代60代の方で二輪免許を取る方も増えています」。

未来へのビジョンを聞かせてください。
「人口が減っているのは明らかです。
今年減っているということは18年後、出生数が減る。
ただゼロになることはない。
交通安全への意識も世間では高くなっています。
飲酒運転、煽り運転、最近では電動キックボード。
自動車学校で交通安全に対しての考え方をお教えするということが重要性を増していくのではないかと思います。
あまり利益にとらわれずにコツコツとやっていきたいと思います。
地域の交通安全センターという存在。
社会全体でどんなニーズがあるのか見極めながら仕事をしていきたいです」。

株式会社阪和鳳自動車学校は自動車、運転免許から世の中を見つめ続けます。

竹原編集長のひとこと

創業がパン屋さん。世の中のニーズに応えるお仕事を。
交通安全も世の中のニーズなんですね。