第1274回「東日本大震災10年【8】~散り散りになった生徒たちをつないだ合唱」
電話:元小高中学校 音楽教諭、合唱曲「群青」作曲者 小田美樹さん 

2011年3月11日に発生した福島第一原発事故では、多くの住民が避難を余儀なくされ、強制避難区域内の子どもたちは同級生と離れ離れになりました。
福島県南相馬市立小高中学校は、4人が津波で亡くなり、避難で生徒数は3分の1に減少。仮設校舎での学校生活が続きました。震災当時の1年生が3年生になった2012年4月、音楽教諭の小田美樹さんが担任になりました。ある日、同級生の誰がどこにいるのかを確かめながら、仲間の顔写真を大きな日本地図に貼り付けていると、生徒たちが口々に「遠いね」「どうやったら行けるの?」「でも、この地図の上の空はつながっているね」などとつぶやきました。その日から小田教諭は、生徒たちの日々のつぶやきを綴って歌詞に仕上げ、合唱曲「群青」として完成させました。卒業式を前に、京都府長岡京市の復興支援コンサートに招かれた生徒たちは、涙を浮かべながら「群青」を歌い上げ、会場はあたたかい拍手に包まれました。小田教諭は、「震災の後、子どもたちが思い通りにいかなくてくやしいと流す涙は何度も見てきたけど、自分たちが受け入れられて安心できたという涙を流すのを初めて見た」と話します。
小田教諭と電話をつなぎ、当時の生徒たちの状況や合唱曲「群青」に込められた思いを聞きます。
 
西村愛のひとこと
原発事故後、離ればなれになった友達を想い歌う【群青】。当時中1だった方々が大人になり、夢を叶え活躍されています。「同じ空の下、つながっている」その想いが支えになり、力強く前を向いて歩んでいる姿に私も力をもらいました。コロナ禍で大変な毎日。あきらめそうになっても、あと少し進んでみよう!


 

ネットワーク1・17 配信イベント
「東日本大震災10年~東北と関西をつなぐ」

配信当日ご覧いただいたみなさん、ありがとうございました。
 
アーカイブ動画を3月31日までご覧いただけます
https://youtu.be/Vwpd-qNMgrI

第1273回「東日本大震災10年【7】~地域防災を担う若者たち」
取材報告:亘佐和子プロデューサー

東日本大震災を機に河北新報社(宮城県仙台市)が続けている防災ワークショップ「むすび塾」がオンラインで開催されました。参加したのは、全国各地で災害伝承や防災活動に取り組む若者11人です。
震災10年の課題を共有するため、まず大川伝承の会で語り部を務める東北福祉大学4年生の永沼悠斗さん(26)の話を聞きました。永沼さんは8歳年下の弟(当時小2)を、石巻市立大川小学校で亡くしています。大川小学校では児童74人、教職員10人が津波の犠牲になりました。山がすぐそばにあるにもかかわらず、地震発生から50分間、児童は校庭にとどまり、避難ができなかったのです。教職員はなぜ避難の判断ができなかったのでしょうか。「これは大川小だけの問題ではない」と永沼さんは語ります。
福井高専専攻科1年の水島美咲さん(21)は、「2019年に現地で永沼さんの話を聞き、防災に対する認識が180度変わった」と発言。関西大学高等部2年の坂本紫音さん(17)は、「自分にも8歳年下の弟がいて身につまされた。防災は日常生活の延長線上にあると思いながら活動している」と話しました。災害を「わがこと」ととらえるために必要なことは何か、若者たちが熱心に語り合った会議の模様を伝えます。
 
西村愛のひとこと
最近は各地で地震があり、ママ友とも災害への備えについて話すことが多くなりました。でも、人によって温度差があるんですよね。そんな時に高校生の防災士、坂本さんの「防災は日常の延長線上にある」というキーワードに頷きました。若い世代の皆さんのアイデアが心強い!「じぶんごと」へのスイッチ、実践してみましょう!


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「東日本大震災10年~東北と関西をつなぐ」


 
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第1272回「東日本大震災10年【6】~変わる町の風景」
電話:宮城県石巻市雄勝町在住 大和千恵さん

今月11日、東日本大震災の発生から丸10年を迎えました。地震発生時刻の午後2時46分には、被災地をはじめ、全国各地で黙とうが行われました。
この10年で、被災地の町はどう変化してきたのでしょうか。宮城県石巻市雄勝町の海岸沿いには、高さ9.7メートルもの巨大な防潮堤がそびえたっています。「日本一美しい漁村」といわれた雄勝町ですが、集落から海を見渡すことはできなくなりました。震災後、人口は4分の1に減少。雄勝町は石巻市の中心地からは車で1時間近くかかる立地で、若い人の多くは便利な都市部に移ったといいます。市街地ではほとんど完了している復興工事も、雄勝町ではようやく終盤にさしかかったところです。
雄勝町の名振集落に住む大和千恵さんは、10年前の津波で自宅が流されましたが、漁師の夫と共に、集落に自宅を再建して生活しています。震災後に3人の子どもも生まれました。集落の人口は減っていますが、中には雄勝町の海に魅せられ、移住して漁師になった若者もいるといいます。
大和さんに電話をつなぎ、震災10年の思いや雄勝町のいまについて聞きます。
 
西村愛のひとこと
大和さんのお話を聞いて、災害で変わりゆく町と向き合い、生きていく強さを感じました。震災当時お腹の中にいた息子さんは「将来は、お父さんやおじいちゃんと一緒に雄勝で漁師の仕事をする!」と。心強いですね。
今後も町のファンとして、美味しい海の幸を楽しみに雄勝に行く日を楽しみにしています。

 
 
3月21日(日)
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「東日本大震災10年~東北と関西をつなぐ」


 
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第1271回「東日本大震災10年【5】~原発事故避難者はいま」
ゲスト:「まるっと西日本」代表世話人 古部真由美さん

 福島第一原発の事故からまもなく10年。福島県によると、今も約3万6000人が県内外で避難生活を続けていて、近畿でも1100人以上が暮らしています。避難指示区域以外からの「自主避難」では、母子避難が多くなっています。
 関西への避難者を支援する団体「まるっと西日本」は、交流会の開催、役立つ情報の発信に加え、避難者からの相談に丁寧に対応しています。自身も避難者である代表世話人の古部真由美さんによると、最初は被災者支援制度の利用法や健康状態などの相談が多かったのが、やがて公営住宅など住居の問題が中心になり、現在は子どもの不登校・PTSDなどの相談が多いといいます。複数回の転居、家族構成の変化、親の収入低下や失業などが子どもの心身に大きな影響を及ぼしています。
 関西学院大学災害復興制度研究所が行った原発事故避難者の全国調査では、世帯年収300万円未満の家庭が4割にのぼりました。非正規雇用や無職の割合も増加しています。住宅無償提供など公的支援が打ち切られたうえ、過労で体を壊して働けなくなり、「死にたい」という母親からの相談もあるということです。経済的な困窮に加え、新型コロナウイルスの感染拡大で孤立する避難者に、どんな支援が必要なのか、古部さんに話を聞きます。
  
西村愛のひとこと
原発事故がきっかけで避難して来られた方々が、必要としている事。物やお金もありますが、それ以上に"心のつながり"だと語る古部さん。大変な現状が少しでも改善されて前を向いて歩めるよう、これからも、避難移住された方の声と「忘れてないよ。応援しているよ」を発信していきたいと思います。