第1273回「東日本大震災10年【7】~地域防災を担う若者たち」
取材報告:亘佐和子プロデューサー

西村)きょうは、東日本大震災10年のシリーズ7回目。東日本大震災の経験から学び、防災活動を続ける若者たちの声をお伝えします。亘記者のリポートです。
 
亘)よろしくお願いします。
先月、全国各地で地域防災の活動をしている若い世代がオンライン会議をしました。東北の地方紙・河北新報社が、東日本大震災をきっかけに、「むすび塾」という防災ワークショップ(避難訓練など)を続けています。この「むすび塾」にこれまで協力したことがある全国の地方メディアが、それぞれの地元で防災を担う若者を推薦し、その若い人たちがオンラインで一堂に会して意見交換をしました。参加したのは、北は北海道、南は九州の宮崎県まで10~30代の若手11人。それぞれがどんな活動をしていて、どんな課題や悩みを抱えているのかを発表して話し合いました。最初にみんなで大学生の語り部の話を聞いて、課題を共有しました。語り部をしてくれたのは、東北福祉大学4年生の永沼悠斗さんです。
永沼さんは宮城県石巻市の大川小学校で弟を亡くしています。大川小学校では、避難が遅れて、全校児童の7割にあたる74人の子供たちが亡くなりました。その中の1人が永沼さんの弟で、当時小学2年生。永沼さんより8歳年下でした。そして、永沼さん自身もこの大川小学校の卒業生です。「オンラインむすび塾」で、永沼さんは大川小学校の前から話をしてくれました。
 
音声・永沼さん)この大川小学校は、震災遺構として保存が決定しているので現在工事中です。大川は、桜がたくさんあって、近所の人たちとお花見をしたり、中庭でブルーシートを敷いてみんなで桜を見ながら給食を食べる「お花見給食」をしたりしていました。このような大川小学校の震災前の記憶は、以前はなかなか語られていませんでした。みなさんも、メディアの報道で知っているとおり、大川小学校は児童74人、教職員10人が亡くなった学校管理下で唯一、児童・生徒が亡くなった場所として有名になりました。震災で被害がありましたが、震災前の記憶は多く残っています。
自分の中でそれを伝えることをすごく大切にしています。普段の語り部では、被害の状況ももちろん話すのですが、まず初めに、震災前の大川の豊かな自然とあたたかい人たちに囲まれて育ったということを伝えています。

 
西村)子どもたちの笑顔が浮かんできますね。
 
亘)大川小学校は、津波で多くの命が失われた悲劇の舞台のように言われますが、もともと豊かな自然があって、あたたかい人たちがいて、子どもたちがのびのび育っていた場所でした。それが失われてしまったということです。
 
西村)永沼さんが震災前の記憶を伝えてくれたからこそ、わかったことですね。
 
亘)地震の発生から話し始めるのではなく、その前にどんな暮らしがあって、どんな人たちがいたのかを伝えることで、失われたものの大きさや災害の恐ろしさが実感できる。それが防災の備えに繋がっていく。震災前を伝えるということは、とても大事なことだと思います。永沼さんは弟の思い出も語ってくれました。
 
音声・永沼さん)小学校2年生の弟がここで亡くなりました。弟は、天真爛漫でワンパクな子で、8歳も年が離れているのでとても可愛いくて、喧嘩もすることのないそんな関係でした。弟が小学校に入ったときに、自分は卒業していたのですが、「大川マリンズ」という野球チームに所属していて、弟も小学校1年生から所属していたので、大川小学校には、 OB として何回も通って、弟とキャッチボールをした思い出があります。
震災後5日目にここに来たときは、この辺は水浸しで、弟の遺体があがったこともここで聞きました。弟が亡くなった事実とは、最初はなかなか向き合えなかったのですが、2015~16年にかけて、自分が生かされた意味を考えて、この語り部活動にたどり着きました。

 
西村)弟さんとの楽しい思い出がたくさんある場所で、辛い思いと向き合いながら語り部活動をされているのですね。
 
亘)永沼さんは「この10年とても早かった」といっていました。当時は高校1年生で、石巻市の中心部に近い高台にある高校で被災。両親もその近くで働いていたので、地震後すぐ合流し山に避難しました。その後、津波で山を降りられないまま、雪の降る寒さの中、4日間も山の上で過ごしたそうです。地震発生後5日経って、ようやく大川小学校に来て、弟さんが亡くなったことを知りました。自宅は流され、避難所、仮設住宅で8年間生活。一昨年、自宅を再建できたということです。言葉で言い表せない大変な10年間だったと思います。永沼さんが今伝えたいことをお聞きください。
 
音声・永沼さん)大川小学校の事故で弟が亡くなったのは、先生が判断を間違ったからだと認識している人が多いと思います。でも授業で使っていた椎茸を栽培していた山には徒歩1分以内に着くし、その上にある山に自分たちもよく登っていました。先生たちも知らなかったわけではなく、すぐに登れた山だったんです。ただ、50分間校庭に居て、山に登る判断をできなかったという事実は、教訓にして考えなければいけないし、これは決して大川小だから起きた事故ではないと思います。どうすれば大切な人の命を守れるのかを考えていくきっかけになればと思っています。
 
西村)これは大川小学校だけの問題ではないですよね。
 
亘)弟さんの担任の先生は、とてもあたたかいお人柄だったそう。先生たちは必死で子どもたちを守ろうとしたはずだと。でも守れなかったのはなぜなのか。なぜ50分間校庭から動けなかったのかを考えなければならない。永沼さん自身も、実はとても後悔をしていることがあって、それが活動の原点になっているという話をしてくれました。
 
音声・永沼さん)自分は祖母と曾祖母も亡くしています。弟がスクールバスで帰ってくるのを海側の4キロ離れた地域で待っていたんです。小学校2年生の弟が帰ってきて1人はかわいそうなので、車にエンジンをかけて、いつでも避難できるようにしていたんです。
よく3月11日がクローズアップされていますが、自分の中の一番の後悔は余震があった3月9日です。そのとき砂浜にいて、津波が来ると思ってとても怖くて、全速力で家に帰りました。その夜に家族全員で集まりましたが、津波の話を何もしなかった。もし話をしていれば、祖母と曾祖母、弟、地域の方々の命を守れたのではないかと。たった2日間でもできたことがあったと思います。それが自分の活動の原点であり、最大の後悔でもあります。

 
西村)3月9日は、震度5弱の大きな地震があったんですよね。
 
亘)永沼さんの話を受けて、今度は参加者が自分の防災活動について、それぞれ発表して話し合いました。被災地を訪問して、実際に永沼さんの話を現地で聞いた人もいました。福井県の福井高専専攻科1年の水島美咲さん(21歳)の話です。
 
音声・水島さん)2019年に東日本大震災の被災地を訪問しました。語り部の永沼さんからも直接お話を聞きました。私はこれまで防災にはほとんど関心がありませんでした。しかし、被災地を訪問したときに、その意識は180度変わりました。自分が見たものや聞いたものを発信したいと考えて、「放送メディア研究会」という部活で、毎週日曜日にラジオ放送をしているのですが、その中で被災地訪問について取り上げたりしました。
地震や津波が来たらどうするかをもっと家族と話し合っていれば、守れた命もあったかもしれないというお話を聞いて、私も後悔はしたくないと思って、家族や親戚と今震災があったらどうするかを話し合うようになりました。その時取る行動を考えたり、非常用バッグを購入したりと、災害について家族でしっかりと考えるようになりました。私自身は被災地に行って、やっと意識が変わったのですが、全ての人が被災地に行くことは難しい。被災地へ行ったことがない人も自然災害が身近にある自分ごとだということを、どのようにしたら考えてくれるようになるのでしょう。

 
亘)現地に行って話を聞くことが大きな体験になっている。彼女の悩みは、みんなが被災地に行けるわけではないので、どうすれば被災地に行かない人でも危機感を持つことができるのかということです。今回は、参加者それぞれが自分の活動について発表をしたのですが、課題は共通していて、誰もが災害を自分ごととして捉えるようになるにはどうすればいいのか。というのが大きなテーマになっていました。
 
西村)私も日々感じています。
 
亘)次は宮崎大学の4年生で、学生の防災団体の代表をしている白石麻緒さんのお話です。子どもたちに防災を自分ごととして捉えてもらうための工夫について話をしています。
 
音声・白石さん)わたしは「宮崎県わけもん防災ネットワーク」という学生団体の代表をしています。出身は大分県の竹田市というところです。2016年の熊本地震の際、実家はかなり揺れ、車中泊をした経験があります。大学進学を機に、宮崎に出てきましたが、これから一人暮らしを始めるという時に、防災や災害についての知識がないことにとても危機感を覚えて、宮崎県「宮崎県わけもん防災ネットワーク」に入りました。防災啓発活動と子ども食堂を組み合わせた「防災子ども食堂」というのを主な活動として取り組んでいます。いつも大事にしているのは、体験をさせること。話を聞くだけでは、実感がわかず自分ごととしてとらえられない。もし災害が起きて、窓ガラスが割れたときに、近くに靴がなかったら新聞紙で作ろうとか。フリーズドライの非常食はお湯なら5分でできるけど、水なら1時間はかかるとか。いつも子どもたちと一緒に話しながら実践しています。
 
西村)「防災子ども食堂」!いいアイディアですね。
 
亘)子ども食堂というのは、地域の子どもたちに食事を提供して、子どもたちが寂しくないように地域全体で子どもを育てていこうという取り組みです。そこに防災の要素を取り入れるというのは、とても面白いと思いました。児童養護施設の子どもたちにも防災を伝えています。事情があって両親と暮らせない子どもたちには、災害に遭ったときに「施設にどう連絡するか」を一緒に考えたりしています。現在、新型コロナの感染拡大の影響で子ども食堂を開くは難しいのですが、その代わりに児童養護施設に防災グッズや防災の教材を届けるなど工夫をしながら活動をしているそうです。
そして最後にMBSラジオからは、大阪の防災を担う若手をこの会議に送り込みました。関西大学高等部2年生の坂本紫音さん17歳です。坂本さんは2017年の8月、中学2年生のときに、このネットワーク1・17に出演してくれました。当時キャスターだった千葉猛アナウンサーと、「100円均一ショップで揃える防災グッズ対決」に挑戦しました。坂本さんは、小学6年生で防災士の資格を取り、当時「関西で最年少の防災士」として注目されました。高校生になった今も、防災ワークショップで講演するなどの活動を続けています。
 
音声・坂本さん)わたしもちょうど8歳離れた弟がいます。もし弟が亡くなってしまったら、被災して離れ離れになってしまったらと考え、自分ごととしてとらえました。防災活動をしようと思ったきっかけは、東日本大震災。東日本大震災の数ヶ月後に弟が生まれ、弟をどう守るのかと考えたときに、防災について知っていく必要があると思い、防災について調べることになりました。主な活動は、「子ども目線で子どもだからできる防災」と「100円均一ショップで揃える防災」です。防災は、日常生活の延長線上にあると考えています。日常生活でできないことは避難生活の中でもできない。日常生活で発想の転換をしていけば、防災は堅苦しいものではなく、自分ごととして受け止めやすくなると私は考えています。
 
西村)はっとさせられますね。8歳離れた弟さんを守るために、防災を考えたのですね。
 
亘)大川小学校で8歳下の弟を亡くした永沼さんが、その辛い経験を語り部として語っていることに刺激を受けたと言っていました。「防災は日常生活の延長線上にある」という話は、今回の会議の大きなキーワードになっていました。
参加者からは、このつながりを今後も続けていきたいという声が上がり、連絡を取り合っているそうです。東日本大震災から10年が経ち、当時子どもだった人たちがこれからの防災を担っていきます。どうすれば災害を他人ごとではなく、自分ごととして、みんなが真剣に取り組めるのか。これからは、そんなアイディアが若い世代から出てくる気がしてとても心強く思いました。とても興味深い会合だったと思います。
 
西村)私も多くの気づきをいただきました。参加したみなさんどうもありがとうございます。リスナーの皆さんの気付きもぜひ教えてください。亘記者のリポートでした。