第1370回「阪神・淡路大震災28年【3】~神戸の復興・まちづくりを考える」
ゲスト:都市計画の専門家 小林郁雄さん

西村)今月は阪神・淡路大震災28年のシリーズをお送りしています。兵庫県各地では、阪神・淡路大震災の記憶を次世代に語り継ぐ行事などが行われました。先週日曜日には、大きな被害を受けた神戸市長田区を専門家の説明を聞きながら歩き、まちの復興や課題を考える「こうべあいウォーク」が開催されました。この28年間は神戸の新たなまち作りの歴史でもあります。
きょうは、神戸のまち作りに関わってきた都市計画の専門家 小林郁雄さんにお話を伺います。
 
小林)よろしくお願いいたします。
 
西村)小林さんはこれまで、まちの復興に関する研究をしていたのですか。
  
小林)都市計画のコンサルタントをしていました。まち作りや都市計画の調査や相談です。
 
西村)「人と防災未来センター」上級研究員や去年3月までは兵庫県立大学 減災復興研究科の特任教授もしていたのですね。
  
小林)震災5年後までは引き続き都市計画のコンサルタントをしていました。震災直後からは、県や市の仕事も手伝っていました。「人と防災未来センター」ができたときに研究員で来てほしいということで。この十数年はそのような研究が中心ですが、元々は現場の計画設計が本職です。
 
西村)震災直後から神戸の復興やまち作りに関わってきた小林さんは、「こうべあいフォーク」の案内人として先頭に立ってまちを歩いています。「こうべあいフォーク」は、1999年から始まり、今年で25回目を迎えます。わたしも先日初めて参加しました。これまでオンラインで家から子どもたちと一緒に参加したことはあったのですが。今回初めてまち歩きに参加しました。たくさんの人が参加していましたね。
 
小林)1999年に始めたときは今の約10倍の規模で、2000~3000人は参加していました。
 
西村)なぜまち歩きのイベントをはじめようと思ったのですか。
 
小林)アメリカ・サンフランシスコに「エイズウォーク」という催しがあります。エイズ患者の支援のためにウォーキングをして、寄付金を集めるイベントです。時間的に歩けない人や体が不自由で歩けない人たちは歩く人に基金を託します。数百万円が集まるのですからすごいですよね。それを現地で見たときに、いいアイデアだなと思ってはじめました。今は、NPO法人「しみん基金・KOBE」を通じて、寄付しています。長田~三宮のまちの変化を現場で見てほしいという想いがきっかけです。
 
西村)28年前、小林さんご自身も被災したのですよね。
 
小林)自宅も事務所も灘区にあったのですが、木造の2階建ての建物が被災しました。昭和初期の古い建物だったので倒壊してしまいました。
 
西村)ご家族は無事だったのですか。
 
小林)家族は無事だったので、すぐに仕事を再開できました。
 
西村)灘区から長田のようすはわかりましたか。
 
小林)自宅は山手の神戸大学の南にあったので、震災直後、まちが燃えているようすがよく見えました。特に六甲道のあたりの火事がよく見えました。長田・兵庫のあたりの古い町は火の海なのだろうなと思っていました。今思うと恥ずかしいことなのですが、そのとき、火の下で死んでいる人や潰れた建物の下敷きになっている人がたくさんいる状況を思い浮かべることができませんでした。
 
西村)そこまで冷静に考える余裕がなかったのですね。
 
小林)自分の家の中も無茶苦茶になっていましたし。
 
西村)そのとき、このまちは何年ぐらいで復興すると予想していたのですか。
 
小林)元に戻ることはまずないだろうと思っていました。8割ぐらい戻ったら良い方だと。元に近い状態に戻るには10年はかかると思っていました。
 
西村)「こうべあいフォーク」で、JR新長田駅の北側にある大きな公園(水笠通公園)は、みんなで相談して作ったと聞きました。今は和やかな憩いの場になっているのですが、震災前に住んでいたたくさんの人が立ち退きを迫られ、この公園ができたと聞きました。住民の葛藤や話し合いの中で、まち作りを進めてきたのだと思います。
 
小林)1人が自分の家を建て替えるだけでも面倒くさいし大変なことですよね。それが100~1000人いるわけです。まちを再建するといっても、商店街の人、交番の人、学生...いろんな人の意見が一緒になることは難しいこと。密集していて燃えたり壊れたりしてしまったところを再建するとき、同じ形を作っても意味がない。道を広げたり、避難ができる大きい公園を作ったりするには、敷地が必要になります。場所を提供してもらわないとできません。水笠通公園は1万平方mの広さがありますが、約200軒の家がありました。100人が了承してくれても残り100人がダメならできません。ひとりひとりの声と全体のバランスを取って進めていくのは大変。都市計画事業は、強引に公的な力でやってしまうこともできないことはありませんが、そうはいきません。
 
西村)小林さんも被災しているから、家が全壊したり、火事で焼けて大変な思いをしている人の気持ちもわかるのでしょうね。
 
小林)まちの再建は100~200年に1回のこと。経験しない人生を送る人が大半です。家を建てるのも20~30年に1回あればいい方。都市計画はどういうことになっていくかは、まちの人はわからないことだと思います。
 
西村)住民は、この焼け野原のまちでどうしたら良いのか、明日どうやって暮らそうかと思っていたでしょうね。
 
小林)そんなときに、20年後はこうなるから今はこうしよう...と説明して賛同を得なければスタートしないわけです。当時の神戸市長の笹山さんは50年前に戦災復興の課長をしていたので、その経験を基に活動していたと思います。当時は、戦災の復興を経験した人がまだ残っていましたが、時代が違うので、経験があるからといってうまくいくわけではない。住民の声を中心に対応しなければならない。1981年ぐらいから、神戸市はまち作り協議会というシステムを大事にしようと条例を作ってやってきました。
 
西村)住民も一緒に参加して進めていたのですね。
 
小林)一緒にやらないとダメ。公園や道路をどうするか、町そのものをどうするか。商店街の人は賑やかな街にしたいけど、住宅街の人は静かに暮らしたい...必ずもめることになります。みんなが納得できるように進めるには、協議会を作って相談していくシステムが必要です。
 
西村)皆さんの意見が反映された今の神戸のまちを見て、都市計画専門家の小林さんはどう感じていますか。
 
小林)前のような生活が戻っているのではないかと思います。1995年には、大きな公園はいらないのではないかという声がありました。自分の土地が減りますから。最近のまちの公園は、お年寄りばかりで子どもの声が聞こえないイメージですが、そうやってできた大きな公園には、遠方から電車で来る人もたくさんいて賑わっています。震災を期に公園を生み出すことができて、防災の役目も担っています。当然その裏には、新しい施設や住宅に入って、経済的に苦しくなったり、店がうまく営業できなかったりした人もたくさんいます。
 
西村)商店街も空き店舗が目立っていると感じました。
 
小林)そういう人たちの立場からすれば「何が復興だ」と思うかもしれません。30万人の被災者がいて1人1人の問題を解決することは難しいと思いますが、新しい公園や大きなビルができたから、復興OKという話ではないと思います。最後の1人まで困っている人の想いに寄り沿って、考えていかなければならないと思います。
 
西村)実際にまちを歩くとわかります。商店街で買い物をしていると店の人が当時の話を聞かせてくれるんです。それが考えるきっかけになります。近い将来、南海トラフ巨大地震が発生すると言われている中で、震災を自分ごとにするきっかけとして、被災したまちの声を聞くことが大切。「こうべあいフォーク」に参加して、まちを巡って感じました。
きょうは、都市計画の専門家 小林郁雄さんにお話を伺いました。