第1326回「東日本大震災11年【4】~NEWS 小山慶一郎さんが見つめた被災地」
オンライン: NEWS 小山慶一郎さん

東日本大震災11年シリーズの4回目は、アイドルグループNEWSの小山慶一郎さんのインタビューをお送りします。
小山さんはテレビ番組の取材などで東日本大震災の被災地に通い続けてきました。東北の街でどんな人たちに出会い、何を感じていたのでしょうか。小山さんが見つめた被災地の11年。今月7日に行ったインタビューをお聞きください。

西村)小山さん、おはようございます。

小山)よろしくお願いいたします。NEWSの小山慶一郎です。

西村)毎日放送「よんチャンTV」(月曜レギュラー)ではおなじみですが、MBSラジオ「ネットワーク1.17」初めての登場となります。
小山さんは、これまで東日本大震災の被災地である東北とどのように関わってきたのですか。

小山)100回以上は行かせてもらっています。

西村)100回以上!

小山)はい。スタッフさんに数えてもらったんです。いろいろな被災地の人たちと関係値を作ることができて、コミュニケーションをとる時間がたくさんあったので、被災地の変化を追うことができました。それは自分にとってとても勉強になる時間でした。初めて取材に行ったのは2011年の4月です。

西村)3月11日に震災が起こった直後ですね。
 
小山)直後でした。まず取材した場所は、仙台空港の近くです。車が転がっていたり、瓦礫が散乱していたりして、まだ何も片付いてない状態でした。そこに立っているだけで足が震えてきたことを記憶しています。現実を目の当たりにしたときに、あまりの恐怖に声が震えてしまうぐらい、怖くなってしまいました。それを経験した人たちがここにいて、大変な状態にあるということは、その現場を見るまで想像できなかったので驚きましたね。
  
西村)実際にその地に立ってみると違いましたか。
 
小山)そこには、いろいろな人の生活があった。子どもたちのおもちゃや家族写真が流されていたりするんです。そこにあった生活がいきなり奪われたことが伝わってきて衝撃的で。言葉を失うという状態でしたね。
 
西村)最初に取材した人、取材した場所は覚えていますか。
 
小山)宮城県・高城の避難所の体育館で、みなさんのお話を伺うことから始めました。後に一人一人お話を聞くようになって。一番長く取材しているのが南三陸町の海鮮料理店。お店が津波で流されてしまって。2011年6月からずっとお付き合いしていて、今も連絡を取り合っています。とても地元の人に愛されていたお店で。店主の高橋さん夫婦が南三陸町の山道で、作業に来る人たちにお腹の足しにとお弁当を販売していたんです。僕はそこに取材に行きました。
そのときの奥さまは、生きる気力を失ったような表情をされていたのがすごく印象に残っていて。同時にすごく心配もしていたんです。でも、仮設の商店街でお店を営業することが決まったとき、奥さまの表情がガラッと変わったんです。笑顔が見られて、目がキラキラしていました。生きる目標ができて、どうにかしようと立ち向かったときに、人が変わる瞬間を僕は何回も見てきました。人って強いんだなと。生きるってすごくパワーが要ることだけど、それを決めた人はこんなに目の力が変わるんだと感じ驚きました。それは僕がずっと被災地を見てきた中で共通して感じたことです。

 
西村)表情の違いからも高橋さんの心の揺れや変化をすごく感じます。最初に高橋さんに会ったときはどんな話をしたのですか。
 
小山)僕はお邪魔している立場。何を聞いていいのか、何が失礼に当たってしまうのかがわからなかった。何かを話すよりも近くにいて、高橋さんが話されるときに、その話に入っていくという形をとりました。「今どうですか?」なんて聞くことはできなかったです。最初は話をするというよりは、高橋さんたちの雰囲気、現状をどのように受け止めているのかを見ていました。
 
西村)まさに寄り添う取材ですね。
 
小山)そこから「うちはこれが美味しいんだよ」とかどんどん話の内容も明るくなっていって。南三陸町のほかの場所に取材に行ったときも、高橋さんのお店には寄るようにしていたんですよ。「今日も来てるよ!」と顔を出すと「また来てるの?」といわれて(笑)。「持っていきな」といつもおにぎりを持たせてくれるんです。テレビの取材ですが、それを超えた関係値を作れたことは、自分にとってすごく良かったと思います。被災地に取材に行くときだけの関係はやめたくて。僕が最初に決めたのは、復興するまでは絶対に寄り添うということ。そんなふうに向き合ってきたつもりです。
 
西村)今、高橋さん夫婦がどのように生活しているのかとても気になります。
 
小山)お店は、仮設から本設なりました。地元のお客さんがどんどん帰ってきて。この前電話で話したのですが僕が喋る隙間がないぐらい喋っていましたね(笑)。
  
西村)うれしいことがたくさんあって、町もどんどん動き出しているのですね。
 
小山)人が変わったかのようで僕もうれしくて。ずっと話を聞いていました。コロナの影響で、行きたくてもなかなか行けないのですが。「いつ来てくれるの?」というメールを5回ぐらいはもらっています(笑)。
 
西村)小山さんのお話を聞いていると、わたしも高橋さん夫婦に会いに行きたい、ご飯を食べに行きたいと思いました。お店の名前は?
 
小山)「志のや」です。「小山くんのラジオを聞いて来ました」といってくれたら、僕にすぐ電話が来ると思います(笑)。キラキラ丼というメニューを食べてほしいです。
 
西村)キラキラ丼!?
 
小山)海鮮丼です。新鮮さが伝わりますよ。カメラの前で食べているときと、カメラが回ってないときに食べている僕のリアクションが一緒だと言って安心していました(笑)。当時仮設の商店街があったのですが、ほぼ全部のお店を取材したので、その商店街に行けばお店の人が全員出てきてくれて。東北の人はお土産をたくさんくれるんです。
 
西村)わかります!これも持って行き!あれも持って行き!って(笑)。
 
小山)いつも両手いっぱいにお土産を持って東京に帰っていました。
 
西村)小山さんにそのお土産をもらった人が東北に思いを寄せるきっかけにもなりますね。
 
小山)美味しいものがあることをどんどん伝えたいと思いました。
 
西村)現在、南三陸町はどうなっているのでしょう。
 
小山)南三陸町にはなかなか行けてないんです。気仙沼は最近お仕事で行ったのですが、すごく変わっていました。
 
西村)高橋さんは、町の様子など話していましたか。
 
小山)町はすごく変わっていると教えてくれました。僕は全く手つかずの状態のときも知っているので、変化を見てみたいです。被災された人に「街が変わっていくのは寂しくないんですか?」と聞いたことがありました。町が片付いて新しくなっていくことは、ありがたくうれしいことだと思うのですが、寂しくないのかなと思って。やはり寂しいみたいです。自分の町で道に迷うと。
 
西村)自分の町だけど、見慣れない景色で道に迷うのですね。
 
小山)全然違う新しい町になる。もう1度ゼロから自分たちの地元を作っていく。そこには複雑な想いもあると思います。復興することは良いことではあるけど、一方で気持ちが追いついていない部分もあると思います。町の復興はどんどん進めていけるけど、心は今でも追いついていない。そこは丁寧に見ていかなければならない部分。そこに気をつけてこれからもお話を聞いていきたいと思います。
 
西村)先ほど気仙沼の話がありましたが、何年ぶりに訪れたのですか。
 
小山)3年弱くらいは行っていなかったのかな。もうすっかり変わってしまって、観光客を待っているくらい町がきれい。夜はイルミネーションが輝いていました。
 
西村)きれいになって、何ができていましたか。
 
小山)商店街が新しくなって、食事ができる場所がたくさんあります。コロナの影響もあって静かでしたが、また落ち着くと賑わうと思います。昔は、海の近くで漁師さんたちが船の管理をしている光景が見られましたが、そこも全部きれいになっていました。
 
西村)漁師さんはどちらに行ったのでしょうね...。
 
小山)そういうところも気になりますよね。また取材をしたいと思います。
 
西村)気仙沼ではどなたかに会うことはできましたか。
 
小山)ずっと取材をしてきた「亀山精肉店」というお肉屋さんの店主さんと会えました。震災の年に生まれた息子さんがいて、僕が会ったときは赤ちゃんでした。息子さんには年齢を重ねるごとに会っているんですけど、7歳ぐらいのときに会ったのが最後でした。そのときに一緒にサッカーをしました。そこから会えてなかったのですが、今回会えたんです。大きくなっていて、僕ばかりテンション上がっちゃって。「サッカーしたこと覚えてる?」と聞いたら、「覚えてるよ!」と。家族は旦那さんが津波で亡くなり、娘さんは今も行方不明です。
 
西村)男の子のお姉ちゃんですね。当時何歳だったのですか。
 
小山)おそらく3歳。息子さんはしっかりお母さんを守っていました。奥さまはつらい時期を経験して、息子さんがいなかったら頑張れなかったと。どうにか育てなければということが自分の背中を押したと言っていました。
 
西村)この11年、母として強く生きてきたのですね。
 
小山)本当に強いお母さんになっていました。有名な「気仙沼ホルモン」をたまに送ってもらったり。そんな交流を続けています。
 
西村)お腹の中にいた子が11歳に。この11年の年月を感じますね。
 
小山)早いな...と僕は思うんですけど、「どうですか?」と聞いたら、「早いけどめちゃくちゃ長かった」と。その中に含まれるものは何かと考えました。一生懸命生きてきた中で、自分の心と向き合っている時間も長かっただろうし。時間の感じ方は人それぞれ違うのだろうなと。
 
西村)息子さんは、震災のことについて学校で習ったり、話を聞いたりする機会はあるのでしょうか。
 
小山)あるみたいですが、震災の記憶は全然ないみたいで。
 
西村)当時は赤ちゃんでしたものね...。
 
小山)お母さんは、震災のことを伝えなければと思っているみたいですが、もう少し年齢を重ねてからの方が理解するかなと言っていました。今話すと怖がってしまうみたいです。僕も息子さんに伝えられる機会がこれからあるかもしれない。僕は当時のことを見てきたので、伝えられることがあると信じています。息子さん含め、震災を知らない子どもたちや現場を見たことがない僕らの世代の人たちもいます。僕ができることをずっと考えています。それは伝えることだと思ってやっています。
 
西村)小山さんが伝えてくれることで、東北に思いを寄せる人がどんどん増えていくでしょうね。
 
小山)3.11のことを話す機会は減ってきていると思う。毎年3.11に改めて考えたり、思いを寄せたりすることで、きっかけを作ることができると思うので、僕ができる範囲でやっていきたいと思います。どこに住んでいても災害は起こる可能性があります。我々は、備える時間をもらっているんです。備えをどこまで考えるか。自分で学んで自分の言葉に説得力を持たせたいと思って、防災士の資格を取りました。3.11が風化しないように僕が伝えることで、どう備えるべきか、何ができるのかを考えるきっかけをつくれたらと思っています。
 
西村)東北を訪れていろいろな人に出会ってきて、震災の備えに繋がるお話がたくさんあると思います。小山さんがきょう伝えるとしたら、どんな備えを伝えたいですか。
 
小山)僕が話を聞いてきた中で共通していることは、家族会議をしておいてほしいということ。備えについて家族で話しているようで話していないと思います。面と向かって、両親や兄弟と「震災が起きたときどうするか」と話しをしているか。頭の中でシミュレーションをして、災害が起きたときの連絡方法、集合場所、それを話しているだけで安心感が違うと思います。
 
西村)そうですよね。
 
小山)自分が住んでいる地域の避難所がどこか知っていますか。どの避難ルートで逃げたら、安全な場所に行けるのか知っていますか。全部調べるのは大変だとしても、まずは家族会議をしておくだけでもきっと違うと思います。

 
西村)それは震災でつらい思いをした人たちが話してきてくれた備えですね。大切にしていきたいですね。
 
小山)当たり前のことを言われた気がしたけどハっとしました。
 
西村)震災11年となりましたが、小山さんはこれからどのように東北のみなさんと関わっていきたいですか。
 
小山)みなさんがこれからどのように生きていくのか。どんな思いで被災地と向き合っていくのか。10年以上経ってからの新たな気持ちを聞いていきたいと思います。僕はプライベートでも行くつもりでいるので、みなさんとお会いして日常を見たいです。当たり前に過ごせない日常を見てきたので、みなさんの当たり前に過ごす日常を見たいという思いがあります。僕が見てきた変化を僕のフィルターを通して知ってもらうことで、1人でも多くの人が被災地に想いを馳せることができると思います。今の立ち位置で僕ができることをこれからもずっと伝えていきたいと思います。
 
西村)きょうのお話を聞いて、「志のや」さんと「亀山精肉店」さんのお取り寄せができるなら、お取り寄せしてみたいです!
 
小山)「亀山精肉店」さんは、お取り寄せできますよ。
 
西村)この後早速チェックしたいと思います!きょうは、お忙しい中ありがとうございました。NEWS小山慶一郎さんにお話を伺いました。