第1268回「東日本大震災10年【2】~幼稚園児の娘を亡くして」
電話:宮城県石巻市の佐藤美香さん

西村)今週も東日本大震災のシリーズです。きょうは、宮城県石巻市で、当時6歳の長女・愛梨(あいり)ちゃんを亡くされた佐藤美香さんにお話を伺います。
 
佐藤)よろしくお願いいたします。
 
西村)今から10年前の2011年3月11日、愛梨ちゃんが幼稚園にいるときに東日本大震災が発生しました。そのときのことを教えていただけますでしょうか。
 
佐藤)石巻市に日和山という山があります。私の娘は、その山の中腹に位置する日和幼稚園に通っていました。

西村)幼稚園で東日本大震災が発生した時、幼稚園の先生方はどんな行動をとったのでしょうか?

佐藤)私の娘は、地震が発生したときに、乗るはずのないバスに乗せられていました。揺れが収まって一旦、バスから園庭へ出されたのですが、3時前後には再びバスに乗せられ海側へ。私の娘は、本来であれば幼稚園に残っていなければいけない子どもだったんです。
海側に住む前の便の子どもたちを送り届けて、空になったバスに私の娘が乗車するはずだったんです。ですが、この日は朝の時点で、前の便の子どもたちと、後の私たちの子どもたちを一緒に送迎することが決まっていたそうです。
私たち保護者は、そのことを一切知らされていなかったので、それぞれの便で帰ってくるものだと思っていました。

 
西村)バスに乗った子どもたちはどうなったのですか。
 
佐藤)海沿いの子どもたちの自宅は、幼稚園から比較的近い位置にあります。なので、この子どもたちは、親御さんが引き取られて助かっているんですが、幼稚園に残っているはずだった子どもたち5人が、犠牲になりました。
 
西村)とてもつらいと思いますが、どのような形で犠牲になったんでしょうか?
 
佐藤)私たちの家は内陸部にあったので、海の方に行くはずではなかったんです。
前の便の子どもたちを降ろした後、幼稚園に一旦ひき返そうとしていたときに津波が追いついてきてしまって。津波被害にまず合いましたが、津波では私たちの子どもたちは、おそらく亡くなっていないと思っています。子どもたちが被災した場所あたりから、子どもたちの声が夜中の12時頃まで聞こえていたそう。「助けて!助けて!」と聞こえていたと近所の人たちが教えてくれました。
その後、子どもたちが被災した場所あたり一帯が火災となり、子どもたちは亡くなったと思います。

 
西村)見つかったのは何日後だったのですか。
 
佐藤)私たちが見つけたのが、3日後の3月14日です。
 
西村)見つけたときはどのようなようすだったんでしょうか。
 
佐藤)3月11日の朝、「行ってきます」と出ていったときの娘の姿では全くありませんでした。火災に巻き込まれているので、全身が見つかったわけではありません。真っ黒焦げで表情すら読み取れない状況でした。私の娘は下半身すらありませんでした。腕も肘から下がなく、放送の中では言い辛いような姿で、小さく小さくなって見つかりました。
  
西村)お話を聞いているだけでも、本当につらかっただろうなと思います。そんな中、お話を聞かせてくださってありがとうございます。海側にバスを向かわせたという幼稚園の判断を佐藤さんはどう思われましたか。
 
佐藤)私は決して、やってはいけない行動だったと思っています。東日本大震災時、停電にもなって、信号機もついていない状況でした。そんな状況で車を走らせたら、交通事故のリスクも高まります。さらに津波が来る危険な海の方に向かうということは、本当にありえないと私は思っています。
 
西村)そんな想いとともに、日々を過ごし、幼稚園側に損害賠償を求める裁判をされたんですよね。
 
佐藤)私たちは何故こういうことが起きたのか、真実を知りたくて、裁判をすることを決めました。裁判を起こすまでは、幼稚園側にいろいろと投げかけたんですが、幼稚園側が何も答えてくれなかったので。
私たちとしては、裁判という法的な手段に頼らざるを得ない状態になりました。こんなことが二度と起きて欲しくないという思いから、訴訟を起こしました。

 
西村)訴訟を起こして、どのような結果になったのでしょうか?
 
佐藤)一審目は、私たち遺族側の勝訴。二審目は幼稚園側が一審判決の法的責任を認めたので、私たちはこれ以上戦う意味がないと。私たちが一番欲しかったものは、心からの謝罪なんです。
なので、子どもたちに対しての心からの謝罪を和解の条件としました。それを幼稚園側が受け入れたので、勝訴和解という形で和解をしましたが、未だに謝罪は受けていません。遺族の元に来て、子どもの仏壇に手を合わせてくれる先生は誰1人としていません。

 
西村)園児たちへ日々愛情を注いで過ごしてこられた先生方のはずですが...。なにか理由があるのか、もどかしいですね。
 
佐藤)裁判という形では、これ以上何もできないですが、私たちは亡くなった子どもたちに心から「ごめんなさい」を言ってほしい。ただそれだけなんです。何を言ったところで、子どもたちは帰ってくるわけではないのですが。
 
西村)それが叶っていないのが心苦しいところですね。日和幼稚園には、防災マニュアルはなかったんでしょうか。
 
佐藤)裁判をやる前に、防災マニュアルを見せてほしいとお願いしました。それは、園長先生の書庫の中にあって、先生方は誰もそのマニュアルの存在を知りませんでした。
 
西村)それでは、意味がないですよね。当時6歳の愛梨ちゃんは、どんな女の子だったんでしょうか?
 
佐藤)とても明るくて優しく、人のことを思いやることができる娘でした。
 
西村)これから未来が開けていくところに悲しい出来事が襲ってしまいました。佐藤さんはこの10年間、愛梨ちゃんの死とどのように向き合ってこられたのでしょう。
 
佐藤)娘の成長が見られないのはすごく悲しいです。会いたいし、抱きしめたい。そう思いながら10年、毎日思わない日はないです。
3月11日の震災の日、一緒にバスに乗っていた子の証言から「私たちはみんな泣いていた。だけど、愛梨ちゃんだけは1人泣かずに、私たちをずっと励ましてくれていた」ということを聞きました。
大人の私でさえも、あんなに怖かった地震。きっといつも聞きなれないようなサイレン音を聞きながら、愛梨も怖かったと思うんです。でも娘はお友達が泣いていたから、どうにかしなければいけないと思ったんでしょうね。それで、ずっとお友達を励まし続けていたと聞いたときに、私は娘のことを誇りに思いました。
娘がいなくなってつらい日々を過ごしていましたが、あのときの娘の苦しさ、悲しさ、いろんな思いを背負ってこの世を旅立っていったことを思うと、私の今の苦しみや悲しみは、娘の足元にも及ばないと思っています。

 
西村)本当に心が強くて優しいお子さんだったのですね。佐藤さんは、今は語り部をされているんですよね。
 
佐藤)娘が亡くなった被災現場や、2年前にできた慰霊碑などを巡る歩き語り部をしています。
 
西村)どんなことを伝えていらっしゃるんでしょうか?
 
佐藤)命の大切さや、何気ない日常が幸せだということを伝えています。実際に現地を見てもらいながら語っています。
 
西村)現地を歩きながら、聞くお話はより心に響くと思います。でも今は新型コロナウイルス感染防止の影響もあり、被災地を訪れる人は減っているのでは。
 
佐藤)やはり訪れてくれる人はかなり減っています。
 
西村)現状をどう思いますか。
 
佐藤)今のこの状況は、仕方ないと思っています。今できる発信手段で伝えていこうと思っています。
 
西村)どんな方法で伝えているのですか。
 
佐藤)日本赤十字社 宮城県支部、みらいサポート石巻からの依頼で、小学生から高校生までを対象とした語り部をZOOMを使って行っています。ありがたいことに、学校単位で申し込んでいただいて。ZOOMを使うと日本全国いろんなところと繋がることができて、このご時世ならではだと思います。普通の歩き語り部では数人ですが、ZOOMなら、1度に2000人ぐらいと繋がることもできます。子どもたちがそれを聞いてくれるので、これはこれですごくありがたい形だと思っています。

西村)今だからこそできる新たな手段が見つかってよかったと思います。子どもたちの命を津波から守るためにどんなことが必要だと考えていらっしゃいますか。

佐藤)年齢が低ければ低いほど、子どもたちは自分では判断ができないので、先生が頼りなんです。先生方が、今目の前にいる子どもたちの命を守り抜く行動してほしいと思います。また幼児教育の段階で、避難訓練を重ねていってほしいと思っています。

西村)とても大切なことですね。

佐藤)私の娘が通っていた私立の幼稚園は、文科省の管轄なんです。文科省の管轄の幼稚園は、1年に1回以上訓練をやればいいということになっています。厚労省の管轄である公立の保育所などには、毎月何らかの訓練をするということが義務づけられているんです。管轄の違いで子どもたちの受ける訓練も変わるということです

西村)管轄の違いで訓練の回数が変わるということは、知らなかったです。親からも、声を上げていくことも大切だなと思いました。
佐藤さん、今日はお話を聞かせてくださってどうもありがとうございました。