第1327回「東日本大震災11年【5】若者が語る故郷・石巻市雄勝町への思い」
オンライン:宮城県石巻市雄勝町在住 藤本和さん

西村)今月は東日本大震災11年のシリーズをお送りしています。5回目のきょうは、小学5年生の時に、宮城県石巻市雄勝町で被災し、中学3年生から語り部を始めた藤本和さんにお話を伺います。
震災後、人口が減った故郷、雄勝町に戻った藤本さん。22歳になった今、どんな思いで語り部として伝えているのでしょうか。オンラインでお話を伺います。

藤本)よろしくお願いいたします。きょうは、わたしが勤めている「モリウミアス」いう施設から話をさせていただきます。宮城県石巻市雄勝町の一番奥、仙台から車で2時間ほどの場所にいます。

西村)わたしも以前、雄勝町に行ったことがあります。海が見える本当に素敵な町ですよね。

藤本)山と海に挟まれた狭い土地に家がぎっしり建っていました。

西村)雄勝町といえば海が近いので、漁師さんも多いですよね。

藤本)はい。海に近い地区は、ほとんどの人が漁師さんをやっていました。

西村)石巻駅の周辺はお店が立ち並んでいますが、雄勝町は雰囲気が全然違いますよね。

藤本)雄勝町は元々独立町で、平成の大合併で石巻市になった場所。宮城県でも一番東にある町です。

西村)そんな自然豊かな町で育った藤本和さんが、東日本大震災で被災したのは小学5年生のとき。11年前の震災当日は、どちらにいたのですか。

藤本)その時は学校にいて、もうすぐ帰るタイミングで、掃除の時間でした。「やっと授業終わったー!きょう何して遊ぶ?」とかそんな話をしていたと思います。

西村)そんな時、大きな揺れが襲ってきたのですね。

藤本)最初に感じた違和感は音でした。

西村)どんな音だったのですか。

藤本)初期微動と呼ばれる地鳴りの音がしました。それまで聞いたことのない妙に耳に残る音。その瞬間に足元がグラっと揺れて。揺れた瞬間に、12人のクラスメイト全員が机の方向に走って、机の下に潜りました。次に感じた違和感は地震の長さです。「そのうち終わるだろう」と思っていたのになかなか揺れが収まらなかったんです。実際には2分~2分半ぐらいの地震だったと思いますが、もっと長く感じました。本棚から本が落ちてきたり、植木鉢が落ちてきたり、蛍光灯が割れて破片が降ってきたり。いつもとは違う状況に気づき始めてから、いろんなことを考えました。先に家に帰っている妹はどうしているか。専業主婦で家にいる母はタンスに潰されていないか...。そして、みんな津波が来るかもしれないと思っていました。校庭に向かうとき、みんな廊下にかけておいたジャンバーを着たんですけど、自分はロッカーにジャンパーを置いたままにしていて、取りに戻れずにそのままの格好で外に出ました。みんな上靴のまんまで。割れたガラスを踏んで足元がバリバリ鳴っていたことを今も覚えています。

西村)上着を着ていなかったから、寒かったんじゃないですか。

藤本)相当寒かったです。

西村)家族とはいつ頃会えたのですか。

藤本)20~30分後に母が、妹や親戚と一緒に自分がいた小学校まで車で迎えに来てくれました。母と妹と親戚1人と近所のおばあちゃん2人と私で車に乗って、雄勝小学校から川を挟んだ反対側の地区の高台へ。そこで車を停めてNHKのラジオを聴きながら経過を見守っていました。車に乗っていた近所のおばあちゃんが「家の様子を見て来る」と出て行ったので待っていたのですが、そのおばあちゃんが、坂を駆け上りながら戻ってきて「津波が来たから早く逃げろ!」と。慌てて車から飛び出して後ろを振り向いたとき、自分の居場所に続く坂の先の三叉路に水が流れ込んできて、ぐるぐる回っているのを見ました。洗濯機みたいと思ったのを鮮明に覚えています。それを見て、自分たちがいるところも危ないからさらに上に行こうと階段を登って、山を駆け上って、頂上まで行きました。その山には船戸地区のみなさんが逃げてきていて。山の上から津波の方を見ました。海から山(東から西)に向かって、どんどん波が押している状態。茶色い平原のようになっていて、車や電柱がプカプカと浮いて、家が押し流されていく光景を見ました。しばらく経ったら波がだんだん海に戻っていくんです。そのときにびっくりしたのが、津波は引き波の方が強いということ。海から山に行くのが押し波で、海に戻っていくのは引き波。引き波で少し形が残っていた家が粉々になったんです。それが衝撃的でした。残っている家の屋根の上には人がいて、助けを求めているのも見えたのに...。その光景は、親は私に見てもらいたくなかったかもしれないですね。

西村)自宅は無事だったのですか。

藤本)山の上に登って見たときには、もう何もない状態。自宅が流される瞬間は見ていません。

西村)小学5年生でとてもショッキングな光景を見たのですね。その後はどちらで暮らしていたのですか。

藤本)父が石巻市の海沿いで働いていたのですが、無事に震災から3日後に迎えに来てくれました。それから母の妹の家で2年間過ごしました。なので、避難生活は経験していません。

西村)その後、実家はどうなったのですか。

藤本)2年後、内陸の石巻市に家を建てて、ずっとそこに住んでいました。自宅に近い小学校ではなく、無理を言って、雄勝小中学校に通わせてもらいました。毎日バス通学をしていました。

西村)それだけ雄勝が好きだったのですか。

藤本)震災後、ほかの学校に通う気になれなくて。同じ経験をしている友だちと一緒にいたかったんです。

西村)それはなぜですか。
 
藤本)どうしても温度差が発生するんです。内陸には、津波を見てない子たちの方が多い。他の学校に行った子もどうしても合わなくて戻ってくる人も多かったです。新しい人間関係にパワーを避ける状態ではなかったです。
 
西村)そんな想いの中、中学3年生の頃、15歳で語り部を始めたのはなぜですか。
 
藤本)きっかけは、雄勝小学校6年生のときの担任の先生。心に傷を負った子のケアをする震災後教育の中で、自分の震災体験を作文に書くというものがありました。自分は作文が得意で、原稿用紙4~5枚使って綿密に書いていたら、中学校3年生のときに「作文をもとに語り部をしてみないか」と先生が提案してくれました。初めて語り部を行ったのは「被災地ウォーク」。語り部の話を聞きながら雄勝の町を歩くイベントです。そのイベントの第3回に語り部として参加したのが最初です。ボランティアのほか地元の人もたくさん来ていました。そんな人たちにむけて、自分の震災経験や思うことを、原稿用紙を読み上げる形でお話ししました。
 
西村)最初に語ったときはどんな気持ちになりましたか。
 
藤本)語り部を始めたときはあまり何も考えていなくて。得意な作文を大人の前で読んで、褒められてラッキー!と。子どもだったなと思います。
 
西村)今22歳。7年が経ちましたが、語り部として気持ちの変化はありましたか。
 
藤本)最初は軽い気持ちで語り部を初めたのですが、語り部をすることがだんだん重くなってきました
 
西村)それはなぜですか。
 
藤本)だんだん震災のことを忘れていくから気持ちは軽くなっていくだろうと思っていたのですが、語り部をするたびにそのときの光景を思い出して。思い出したことを追加して話を改良していくうちに、自分の想いもどんどん増えていきました。それを繰り返していくと、忘れるどころか、絵具を重ねて重くなっていくようなイメージ。年齢を重ねて自分でお金を稼いで生活をするようになって、震災のときの親の大変さもわかってきました。今は職場で子どもたちに向けてお話することが多いです。
 
西村)職場は「モリウミアス」というところですね。
 
藤本)「モリウミアス」は小中学生を対象にした複合体験施設です。宿泊しながら、漁村の暮らしや漁業体験、林業体験、語り部などを行って、持続可能な生活の仕方を体験してもらう場所。その活動の一環で、私が語り部をすることも多いです。語り部をする前日には、シミュレーションやマインドセットをすることを続けているので、背負うものは大きくなっています。
 
西村)このシリーズの1回目に出演した東松島市で被災した語り部の雁部那由多さん(22歳)が、被災した人たちの間では震災の話はタブーで、今も語れない人もいるという話をしていました。
 
藤本)すごく同感です。私は同級生と震災の話をしたことはほとんどありません。大人ともほとんどしていないと思います。最初の「被災地ウォーク」以外は、地元の人には自分の被災体験を話したことはあまりありません。外部のボランティアの人やお客さまに向けて話すことがほとんど。なぜかというと、震災のことを話すと、どうしても誰かの傷をえぐってしまうことになるからです。同じ東日本大震災を経験していても、全員が全員違う状況を経験しています。自分は家族を亡くしていないから悲観的にはならず、津波を見ましたが、何もなくなった雄勝町を今後どうやって作っていけるかと考えていました。でも自分の隣にいる友だちはお母さんを亡くしていて。全員で話し合ったわけではないのですが、触れて良い場所とダメな場所を本能的に全員が理解していました。震災の話はそれぞれ個人のテリトリー内。だから絶対に触れないし、わたしが自分のテリトリー内の話を話していることに関しては、「すごいね」「尊敬するよ」というふうに好意的に受け止められています。批判されたことは1度もありません。
 
西村)みなさん温かく応援してくれているのですね。
 
藤本)義務感を持ってやっているのではなく、届く場所に届いたらというような、違う意味で軽い気持ちでやっています。
 
西村)震災から11年が経ち、雄勝町の人口は4000人から1000人以下に減ってきているそう。故郷、雄勝町で藤本さんは語り部としてこれからどんなことをやっていきたいですか。
 
藤本)私は子どもに向けて話すことが多いのですが、家で家族といるときに地震が起きたら、津波が起こるかもしれなかったら...などいろいろなケースを想定して災害が起きたときのことを考えてみてくださいと伝えています。
一度、横浜で語り部をしたのですが、あるおばあさんに「高層マンションの一番上に住んでいるのですが、なるべく海から遠く高いところへ逃げてくださいというけど、自分の住んでいるところには多分津波は来ない。遠くに逃げるべき?その場にとどまるべき?」と聞かれたことがあったんです。雄勝町には一番高くて3階建ての建物しかなくて、それを津波が越えているので、答えがわからなくて。これはみんなに考えてもらった方がいいと気がついたんです。東日本大震災を経験しているか否かで、感覚が違うことも理解しています。
家にいる場合でも親御さんがいるときいないときの2パターンあり、通学中も道路にいるとき、電車の中にいるとき、学校に着いた後は、先生がいるときいないとき、などいろいろなケースが考えられます。どんな場所が安全なのか、普段から何を持っておくと、災害時の生活のクオリティを上げられるのか、ということを考えてみてほしいと伝えています。

 
西村)その後の生活も大切ですものね。藤本さんは故郷、雄勝町のためにこれからどんなことをしていきたいですか。
 
藤本)今は「モリウミアス」のスタッフとして、実際にまち作りに関わっています。雄勝町に元々家があった平地は、全部津波で災害危険区域になり、住居を建てられません。そこをどのように活用していくかが問題になっていて、数団体が手を挙げてその場所に作るものを決めて土を入れ始めている状況です。「モリウミアス」では体験農園や野菜を出荷するための農園、ワインとジュースを作るためのブドウ農園を作ろうと考えています。
 
西村)海の街のイメージでしたが、新たな魅力が生まれますね。
 
藤本)新しい産業を生むことも大事ですが、ブドウ農園なら、ワイン好きの人が産地に来てくれることも。観光型の町として作っていくこともありだと考えています。真っ白になったキャンバスに新たに絵を書いていくように、新しい雄勝を作っていくことができたら。自分の親世代が作ってきた町なので、少しでも雄勝町を作る活動に関わり続けていきたいと思っています。
  
西村)もう少し落ち着いたら、藤本さんやみなさんが新たにつくる雄勝町に訪れて、番組でも伝えていきたいと思います。
  
藤本)ありがとうございます。ぜひおいでください。
 
西村)きょうは、どうもありがとうございました。藤本和さんにお話を伺いました。