第1379回「東日本大震災12年【3】釜石の教訓を伝える語り部」
電話:語り部 菊池のどかさん

西村)今月のネットワーク1・17は東日本大震災の教訓について考えます。
地震発生後、即座に避難行動をとったため、市内全域で学校にいた小中学生全員が助かった岩手県釜石市。「釜石の奇跡」と度々メディアで報道されましたが、地震から12年がたった今、当事者はあの日のことをどう振り返るのでしょうか。
震災当時、釜石東中学校の3年生で現在、地元で語り部をしている菊池のどかさんに話を聞きます。
 
菊池)よろしくお願いいたします。
 
西村)地震が起きた12年前の3月11日午後2時46分、菊池さんは何をしていましたか。
 
菊池)当時、中学3年生でした。放課後に近くの公衆電話から母にお迎えのお願いをしていました。電話の向こうから緊急地震速報の音が聞こえてきたので、揺れる前に地震に気付きました。
 
西村)お母さんの携帯電話から聞こえてきたのですか。
 
菊池)自宅の固定電話にかけていたのですが、電話の近くにあったテレビの音が聞こえてきました。
 
西村)そのとき、お母さんは何と言っていましたか。
 
菊池)揺れがあまりにも大きくて、すぐに電話が途絶えてしまって。はっきりとは聞き取れませんでした。
 
西村)周りはどんな様子でしたか。
 
菊池)私のそばには4人ほど同級生がいたのですが、同級生たちは近くにあるものに捕まって一生懸命揺れに耐えていました。わたしは、公衆電話から閉じ込められないように一度外に出て受話器を戻したのですが、揺れがあまりにも大きくて受話器が戻ってきたのを覚えています。
 
西村)長い時間揺れましたよね。その後どのように避難したのですか。
 
菊池)その後は、部活をしていた生徒たちが校庭、校舎、体育館からそれぞれの判断で一時的に校庭に集まりました。点呼を取っていると、1人の先生が「点呼は取らなくていいから早く走れ!」と叫んだので、その指示に従ってすぐに避難を始めました。
 
西村)どこに避難したのですか。
 
菊池)学校から約1.1km離れている市指定の避難場所です。そこで津波を見たので、そこからさらに上にある海抜44mの高い場所に避難しました。
 
西村)2段階避難をしたのですね。事前にそのような避難訓練をしていたのですか。
 
菊池)最初に逃げた場所までの避難訓練しかしていませんでした。
 
西村)さらに高いところに避難したのは、先生の指示だったのですか。
 
菊池)そうです。そこで小学生と中学生が合流して、当時学校にいた全員の無事が確認されました。最初はそこにとどまるつもりだったのですが、何度も繰り返し余震が起きていたので、地域の人から「もっと高いところに行った方がいい」という声があり、校長先生が避難の最終判断をしてくれました。
 
西村)その指示を聞いて、小学生の手を引いて歩いていているとき、菊池さんはどんな気持ちでしたか。
 
菊池)津波が来るまで約30分とは言われていましたが、そのときは何分経過しているのかもわかりませんでしたし、もしかしたら10分で津波が来る可能性だってある。時間がないという切迫感や焦りがありました。でもこの子の手を離してはいけない、守りたいという気持ちもあって。どこに避難したら助かるのかを一生懸命考えながら、安全なところを探しながら歩いていたのを覚えています。
 
西村)学校は津波にのまれたのでしょうか。
 
菊池)学校は津波にのみ込まれました。わたしたちのいるとことから学校の位置は見えなかったのですが、学校がある場所より山の方まで津波が迫っているのを見たので、もう学校はないということはわかりました。
 
西村)あのとき避難行動をとっていなければと考えると、すごく恐ろしい気持ちになりますね。1回目に避難した場所は、津波にのみ込まれたのですか。
 
菊池)1回目に避難した場所は、最後の生徒が出発した1分30秒後にのみ込まれたと後日聞ききました。そのくらい切迫した状況に置かれていたのです。
 
西村)その話を聞いたときはどう思いましたか。
 
菊池)防災学習では「1分1秒を無駄にするな」とずっと言われてきました。でも本気にしていない部分もあったんです。本当に1分1秒で命が変わってしまうんだ、ということを自分が体験をして実感しました。
 
西村)2段階目の避難場所の高さをもう1度教えてください。
 
菊池)海抜44mです。学校から1.6km離れているところまで避難しました。その時は、右の山、左の山、線路...というようにみんなバラバラに避難しました。
 
西村)みんなそれぞれの判断で走って、無我夢中で逃げたのですね。
 
菊池)その時には周りに地域の人もたくさんいて、全員で1000人以上が一気に避難しました。1000人が一緒に避難できる場所がなかったので、それぞれが自分の判断で場所を見つけて避難しました。
 
西村)車で避難した人もいましたか。
 
菊池)車で避難した人もたくさんいて、わたしたちが走っていた道も渋滞が起きていました。津波が来た時点では、車で避難した人も山に着いていて無事でした。
 
西村)山に避難してどれぐらい時間がたってから家族に会えたのですか。
 
菊池)お父さんお母さんの無事も全くわからないまま、避難所で1人で過ごしていた中学生もいました。繰り返し余震が起きていて、手入れがされていない山は落石や倒木の危険性がありました。町は津波でのみ込まれていて戻ることができないので、一番高い場所にある道路に避難していました。
 
西村)菊池さんも道路に避難したのですか。
 
菊池)一度山に登ったのですが、落石が怖かったので道路に下りました。
 
西村)家族で道路に避難していたのですか。
 
菊池)わたしは、家族の安否がわからない状況で避難していました。周りには、家族と会えた人もいました。
 
西村)菊池さんは友達と一緒に夜を明かしたのでしょうか。
 
菊池)そこからさらに9km離れた避難所まで、中学生、小学生たちと一緒に歩いて避難し、そこで一晩過ごしました。
 
西村)当時のメディアは、小中学生全員が助かった釜石市のことを「釜石の奇跡」「奇跡の子」と報じていました。中学生が小学生の手を引いて避難している様子をわたしも見て、すごく冷静に避難しているように思ったのですが。
 
菊池)冷静ではあったと思いますが、あんなに長い揺れは経験したことがなかったので、周りには泣き叫んでいる人や過呼吸になる人もいました。
 
西村)菊池さん自身はどうでしたか。
 
菊池)わたしは避難所まで走っているときに何度も余震が起きていたので、津波だけではなく落石も心配でした。川の近くを走っていたので、川から遡上する津波が来たらどうしようかと。
 
西村)避難場所は事前に決まっていて、避難経路もわかっていたのですか。
 
菊池)学校の避難訓練のときは、必ず決められた避難経路を走って、避難場所までのタイムを図っていました。
 
西村)どれぐらいの頻度で避難訓練していましたか。
 
菊池)年に1~2回、津波避難訓練をしていましたが、事前告知がない避難訓練だったので内容的には特殊だったと思います。
 
西村)避難訓練をするとわかっている状況だと、少しふざけている子もいて、先生に怒られたことを覚えています。事前告知のない避難訓練の方が、防災スイッチが入るような気がしますね。
 
菊池)何度か失敗することもありましたが、失敗をしたおかげで課題が見えたので、それを改善したことが震災のときに活かされたのだと思います。
 
西村)どのような失敗だったのですか。
 
菊池)普段は教室で点呼して避難するのですが、一度掃除時間中に避難訓練をしたことがあって。さまざまな場所で1年生から3年生までの縦割り班で活動していたんです。一度教室まで戻って点呼をしようとした人たちと、掃除の班で点呼をして外に出た人たちと、とりあえず外に出てウロウロしていた人たちがいて。いつもと異なる状況で訓練をしたことによって、教室に戻らずに点呼をして避難するにはどうしたらいいのか、を考えるきっかけになりました。
 
西村)失敗から学ぶことは大きかったのですね。当時、中学生が小学生の手を引いて避難している様子が報道されていましたね。
 
菊池)小学校が隣接していたので、避難場所まで小学生と手をつないで避難する訓練をしていました。震災が起きた日は、小学生の避難が少し遅れてしまって、わたしたちだけ先に避難していたので、途中から小学生と合流して手をつないで避難しました。
 
西村)その様子が「釜石の奇跡」「奇跡の子」と報じられていました。菊池さんも高校生になった頃、多くのメディアに答えていましたよね。そのように報じられていることをどう感じていましたか。
 
菊池)亡くなった児童や、児童を親に引き渡そうと残っていて亡くなってしまった事務員さんもいたので、"奇跡"と呼ばれることによって、犠牲者がいた事実を隠してしまっているようで違和感を抱えていました。
 
西村)確かに"奇跡"というと全員が助かったという印象が残りますね。そのような思いが心の中にあったのですね。
 
菊池)助かったことを喜んでくれることには感謝しましたが、その中で、犠牲者もいるということを考えなければいけない思うし、次の災害に備えて伝えていこうと思いました。
 
西村)同じように被災した人たちの反応はいかがでしたか。
 
菊池)みんなが助かるために伝え続けてほしいと応援してくれる人もいれば、まだ前向きになれないという人もいました。被災地・被災者と一口で言ってもいろいろな感想を持つ人がいます。
 
西村)菊池さんは、今はどのような活動をしているのですか。
 
菊池)今は釜石市や三陸鉄道の沿線付近のガイドをする仕事をしています。
 
西村)震災を経験していない子どもたちにどのように釜石の教訓を伝えていきたいですか。
 
菊池)わたしたちも親の世代も震災を知らない世代でした。震災の経験はなかったのですが防災について学習をしていたことによって助かることができたので、震災のことを伝えるというよりは、どうしたら助かるのかを簡単に楽しく伝えていきたいです。そして、ここでみなさんがどんな思いで生きてきたかを伝えたいです。
 
西村)わたしも菊池さんの話をぜひ聞きに行きたいと思います。またお会いできることを楽しみにしています。
きょうは、釜石市で語り部をしている菊池のどかさんに釜石の教訓について伺いました。