第1372回「阪神・淡路大震災28年【5】~災害時の公衆電話」
電話:喫茶店カーナ店主 岡本美治さん

西村)きょうは、災害時の連絡手段として、その意義が改めて見直されている公衆電話をテーマにお送りします。公衆電話は、災害時に停電が起きても使うことができて、通信障害の影響を受けにくいという利点もあります。
きょうのゲストは、神戸市須磨区の喫茶店カーナ 店主 岡本美治さん(81歳)です。
岡本さんは、阪神・淡路大震災をきっかけにお店の前に緑色の公衆電話を設置。28年たった今もこの公衆電話を守り続けています。
 
岡本)よろしくお願いいたします。
 
西村)28年前の阪神・淡路大震災で、お店はどのような状況になったのですか。
 
岡本)店が傾いてシャッターが10cmほどしか開かなくなりました。
 
西村)住まいは別の場所にあったのですか。
 
岡本)別にあって、自宅から毎日店に通っていました。自宅は半壊でした。
 
西村)その後、喫茶店は火事で焼けてしまったのですよね。
 
岡本)東の方から煙が上がって燃え広がり、このあたりは火の海になってしまいました。
 
西村)お店には大切なものもあったのでは。
 
岡本)店に置いてあった服や履物、鞄、書類も全部燃えてしまって。何も出すことができませんでした。
 
西村)お店の周りはどんな様子でしたか。
 
岡本)3日後に店へ来たときには、まだ煙が上がっていました。わたしに何かできることはないかと思いました。温かい飲みものがあって、そこで会話ができたら心が和むのではと考えたんです。喫茶店をしていたわたしにできることはこれしかないと思い、お店があった場所で青空喫茶を始めました。カセットコンロで火をおこしてお湯を沸かして。UCCにインスタントコーヒーや紙コップをわけてもらって、2週間後ぐらいには飲み物を出せるような状態になりました
 
西村)当時の写真を見るとパラソルの下に「無料サービス」という張り紙があって、そこに机を並べてみなさんが紙コップでコーヒーを飲んでいるようすがわかります。青空喫茶に公衆電話が設置された経緯は。
 
岡本)コーヒーを振舞っているときにお客さんにいろんなことを頼まれて。「この人来た?」「この人にこれを渡してほしい」と。それがわたしの手に負えない数になってきたので、主人にベニヤ板を買ってきてもらって伝言板を作りました。焼けていない自宅にあったカレンダーと鉛筆を持ってきて、メッセージを書いてもらって、そこに貼りました。でも遠くの人とは安否の確認が取れないので、「早く公衆電話を設置してほしい」とNTTにお願いして、仮設店舗を建てたときに一緒に公衆電話を設置してもらいました。
 
西村)仮設店舗ができたのはいつ頃だったのですか。
 
岡本)2月の末ぐらいです。お店の営業はできませでしたが、憩いの場所、寒さをしのげる場所としてたくさんの人が集まってくれました。避難場所の学校の廊下や教室、体育館で過ごしている人や近所の人がここへ帰ってくるんです。夜中の2~3時までみんなでおしゃべりして、朝に避難場所へ帰るという感じ。でも早く公衆電話を設置してもらわないと家族と連絡を取ることができません。安否確認の手段は当時は公衆電話しかなかったんです。その頃の携帯電話は、今のようなコンパクトなものではなく、30cmぐらいのショルダーバッグのような大きさでしたから。
 
西村)わたしは当時中学生でポケットベル全盛期。休み時間に公衆電話に並んでメッセージを打っていたことを思い出します。公衆電話は災害時には家族や友達の安否確認、誰かと話をして心を和ませることができる大切な手段でした。
 
岡本)伝言板はそこに来た人しかわかりません。出張に来ていた人、神戸で暮らしていた学生などは電話がなかったら家族の声が聞けません。そのためにも公衆電話は必要だと思いました。
 
西村)先日、番組ディレクターがカーナさんに打ち合わせに伺ったときに、震災当時を知る常連客の篠原文子さん(88歳)とお会いすることができました。篠原さんも家が全焼して、約半年間の避難生活を余儀なくされていたそう。篠原さんのインタビューをお聞きください
 
音声・篠原さん)次の日に家の片付けを終えて来たら、戦後の焼け野原のようになっていました。
 
音声・ディレクター)カーナさんは早くに営業を再開されたそうですね。
 
音声・篠原さん)毎日来ていました。「お茶飲んで行き」とコーヒーを無料で配ってくれて。公衆電話があるからみんな集まってきて、2~3人待っていましたよ。テレホンカードを作りましてね。便利でした。焼け野原の中、ここだけは人が行き来していてにぎやかでしたよ。みんな「元気やった?」とよろこんでいました
 
西村)当時の様子が目に浮かびました。戦後のような焼け野原の中で、みんな岡本さんが入れるコーヒーと公衆電話に助けられたのですね。
 
岡本)その当時のお客さんはほとんど天国に召されてしまいました。篠原さまはお元気でいてくれて、覚えてくれていて本当にうれしかったです。
 
西村)今でもつながりが続いているのですね。28年経って、現在公衆電話を利用している人はどれぐらいいるのですか。
 
岡本)もうほとんどいません。自宅の電話の調子が悪くなった人、携帯電話の充電がなくなった人などがかけに来るだけです。
 
西村)公衆電話を使う人が少なくても置いておけるものなのですか。
 
岡本)今まではダメでした。今はある程度、国が公衆電話の設置台数を決めているので、取り上げられることはないと思います。数ヶ月に一度掃除や点検に来る人給料、土地代も必要。かける人がいなくなったらNTTも困るので、最低月に3000~4000円は使用してください、というのがNTTの方針でした。
 
西村)電話を使用する人がほとんどいない今はどうしているのですか。
 
岡本)わたしは地域の役員をしているのですが、電話をするときは全部公衆電話を使っています。
 
西村)寒いときも暑いときも外の公衆電話から10円~100円を入れて電話をかけているのですね。普段はあまり利用されない公衆電話ですがここ数年で使う人が増えたことはありましたか。
 
岡本)昨年夏、KDDIの通信障害があったとき、車を停めて電話をかけに来た人がいました。
 
西村)何かあったときに公衆電話は役立ちますね。これから大きな地震が起きるかもしれません。災害伝言ダイヤル171を利用して家族と連絡を取ることもできます。
 
岡本)公衆電話があるのはいいことなのですが、最近は、電話のかけ方がわからない子どもたちが多いんです。
 
西村)今の子どもたちは公衆電話を触る機会がなかなか無いのかも。
 
岡本)スマートフォンという便利なものができてありがたいのですが、子どもの能力は低下するばかりです。
 
西村)岡本さんは公益財団法人日本公衆電話会の兵庫県支部長として、兵庫県内の小学校を回って、子どもたちに公衆電話の使い方を教えているのですね。
 
岡本)たくさんの子どもたちに公衆電話の正しい使い方を覚えてもらいたいです。災害はいつ来るかわかりません。そのときに電話があっても、かけ方がわからなかったら困ります。そのために学校で電話教室をひらいて、まずは「受話器を外してからお金を入れる」と一番に教えています。自動販売機や電車の切符販売機では先にお金を入れますが、公衆電話は逆。受話器をあげてからお金やカードを入れます。先にお金を入れるとお金が出てきてしまうので、壊れていると勘違いするんです。数年前に「家の番号を覚えている人?」と質問したら、子どもたちがバっと手を挙げたので聞いたら何と答えたと思いますか。
 
西村)なんと答えたんでしょう?
 
岡本)驚くことに「1」とか「2」とか言うんです!それはスマートフォンの短縮番号のことで、「1を押したらお母さんにつながる」ということだったんです(笑)。
 
西村)子ども携帯の短縮番号ですね。便利になりすぎてしまって、市外局番からの電話番号はわからないのですね。
 
岡本)学校の先生も短縮番号を覚えていて、学校の電話番号はわからないといっていました。いつも「一つでもいいからなにか電話番号を覚えてね」と伝えています。お母さんでもお父さんでも誰か大事な人の番号覚えておいてと。いざというときには、公衆電話からは11桁の番号を押さないと相手が出ないということを伝えています。
 
西村)大切ですね。わたしもスマホの電話帳に登録している番号をワンタッチで押してかけていますが、あえて番号をメモに残して携帯電話のカバーに入れておいて、それを見ながら押して覚えようと思いました。番号を書いたメモを財布の中に入れておくのもいいですね。子どもたちにも伝えていきたいと思います。最後にリスナーのみなさんや震災を知らない若い世代に伝えておきたいことはありますか。
 
岡本)震災はいつくるかわかりません。その時にあわてないように家族と連絡を取る方法を必ずひとつは覚えておいてほしいです。公衆電話は、地面がひっくりかえらない限り通じます。テレホンカードを1枚持っておけばお金の代わりになります。災害が起きたときにお母さん、お父さん、親戚の安否確認を取ることができるようにしておいてほしいですね。
 
西村)きょうは、神戸市須磨区の喫茶店リバティルームカーナ店主 岡本美治さんに災害時の公衆電話の大切さについて伺いました。