第1378回「東日本大震災12年【2】子どもたちはなぜ亡くなったのか?『大川小学校 津波裁判』」
オンライン:大川小学校 児童津波被災遺族原告団 共同代表 只野英昭さん

西村)今月は、発生から12年を迎えた東日本大震災についてシリーズでお伝えしています。きょうは、宮城県・石巻市の大川小学校を巡る裁判についてです。この裁判のドキュメンタリー映画が現在公開されています。大川小学校では全校児童の7割にあたる74人の児童が犠牲になり、10人の教職員も亡くなっています。一体何があったのでしょうか。
大川小学校 児童津波被災遺族原告団 共同代表 只野英昭さんに聞きます。
 
只野)よろしくお願いいたします。
 
西村)大川小学校は校舎の近くに裏山があるにもかかわらず、地震直後から学校側の指示で校庭に留まり続けた児童が、津波に巻き込まれました。改めて当時の状況を教えてください。
 
只野)2011年3月11日、午後2時46分に震度6強の地震が襲い、大川小学校は3分間揺れ続けました。地震がおさまってから、2時52分に校庭へ避難するまではよかった。しかし、津波が到達した3時37分の1~2分前まで校庭に居続けてしまった。遺族としてはなぜ情報がありながら、校庭に居続けてしまったのかと。最終的に移動したのは、地元で三角地帯と呼ばれている橋のたもとの交差点でした。川の方向です。
  
西村)なぜ川の方向に...。
 
只野)子どもたちが校庭に避難を完了した2時52分に、学校内の防災無線から「大津波警報発令!沿岸や河川には決して近づかないでください!」と放送がありました。地震の6分後には大津波警報が発令されていたんです。なのに、なぜずっと校庭にいたのかを親としては知りたくて。
 
西村)先生も児童もその放送を聞いていたのですよね。
 
只野)各クラスにラジオを聞く機械があって、ラジオを聞いていたという情報もあります。みんなラジオも防災無線も聞いていた。自発的に子どもを引き取りに来た親御さんたちもいて3割は助かったんです。
 
西村)3割の生存者は親御さんが迎えに来て助かったのですね。
 
只野)ラジオを聞きながら迎えに来た親は、「先生、10mの津波が来るとラジオで言っているから、山に逃げてね!」と先生に言っているんです。にもかかわらず、目の前の山には行こうとしなかった。
 
西村)児童から山に逃げようという話は出ていたのでしょうか。
 
只野)3~4年生以上は、シイタケ栽培の体験授業で緩やかな裏山の斜面を上ったことがあったので、津波10mという情報が入れば、逃げようと思ったはずです。大川小学校のある場所は、海抜1m12cmしかないのですが、地震で陸地のプレートが沈み込んで、70cmほど地盤沈下してしまいました。そこに10mの津波が来るというのです。海から3.7kmの距離はありますが防潮堤もない場所です。
 
西村)只野さんのお子さんの娘・未捺さん(小3)、息子・哲也さん(小5)が大川小学校に通っていました。2人はどのような状況にあったのですか。
 
只野)2人とも津波にのまれて、娘は亡くなりました。息子は大川小学校で助かった4人の児童のうちの1人です。当時震災後、唯一息子だけが新聞やテレビに出て、あの日のことを伝えました。地震が起きてから津波にのまれるまでの状況を知るためには、息子に聞くしかなかった。つらかったと思いますが息子を頼らざるを得なかったのです。
 
西村)息子さんは、本当につらい中で証言をしてくれたのですね。哲也さんは、当時の状況についてどのように話していましたか。
 
只野)息子は避難中、行き止まりで立ち往生している子どもたちの中にいました。学校周辺の釜谷地区に住んでいたので、民家の庭先から県道側に抜けられることを知っていた息子は、道路の向こうの民家が津波で破壊され、土煙を上げるようすを見たそうです。息子はあわてて行った道を山に向かって戻りました。2mぐらい急な山を登っていたとき、津波にのみこまれるというよりも、川からあふれた津波に打ち上げられて助かったそうです。
 
西村)その後、学校や教育委員会はどんな話をしたのでしょうか。
 
只野)第1回目の石巻市教育委員会の遺族説明会が4月9日に行われました。11人のうち1人だけ助かった教務主任の先生が当時の状況について、説明をしてくれたのですが全部嘘だったのです。
 
西村)それはどういうことですか。
 
只野)その先生と一緒に助かった3年生の男の子がいました。うちの息子は震災後もスポーツ少年団で柔道をしていたのですが、その子も一緒に練習をしていて。ある日息子が「あいつ、『津波にのまれてない』って言ってるよ」と言うんです。詳しく聞いてみると、その子は、川からあふれる津波が見えたので山に登ろうとしたら、先生がコンクリートのたたきの1段目にいて、「こっちだよ」と手招きしたので、自力で駆け上って助かったと話していると。その先生は津波にのまれていないのに遺族の前では、「津波にのまれて、瓦礫に挟まれたけど助かって、近くにいたその男の子と一緒に山で野宿した」という説明をしたんです。実際は日が暮れる前に2人で山を越えて民家にお世話になっていた。
 
西村)その話は証拠になりますね。
 
只野)民家の家主も「(ふたりが)津波にのまれていなくて、濡れてないから母屋に入れた」と話している。それだけではなく、「(子どもたちを)なぜ山に登らせなかったのか」という遺族の問いに対して、「地震で木がバキバキに折れていたので山に登れなかった」という回答をしています。地震で揺れても木が折れるはずはありません。説明は全て嘘だったんです。
 
西村)そのような保護者説明会のようすは、公開中のドキュメンタリー映画の中で見ることができます。この映像は、只野さんが撮影したものだそうですね。
 
只野)第1回目・2回目の遺族説明会以外は全てわたしが撮ったものです。
 
西村)最初から撮っておこうと思っていたのですか。
 
只野)1回目・2回目は記録を残すことができなかったのですが、議事録は質問者と回答者の字しか起こさないから映像に残すことにしました。周りの人の話も残すためには、音声・映像の記録を残す必要があると思って撮り続けてきました。
 
西村)たくさんの映像が残されています。それだけ多くの時間をかけて戦ってきたのですね。でも保護者説明会は打ち切られたのですよね。
 
只野)第2回目の遺族説明会で、遺族が帰った後の囲み取材で教育委員会から伝えられました。2回目は、「きょうは1時間で終わらせていただきます」という説明から始まって、話し合っている最中に一斉に退出していくんです。「話の途中なんですけど」と言ってもおかまいなしです。遺族は帰らざるを得なかった。心が折れました。家族を亡くし、家も流された人もたくさんいる中で、そのような扱いをされたことが信じられなかったです。
 
西村)怒りが募った遺族は2014年3月10日、宮城県と石巻市に損害賠償を求める裁判を起こしました。なぜ裁判をしようと思ったのですか。
 
只野)裁判の前に、文科省が指導・監視の元、第三者検証委員会が行われたのですが、遺族の検証以上の結果は出せませんでした。第三者というと有識者が入って正しく検証されることはなく、大川小学校事故検証委員会では、津波工学の有識者がPTSDについて、精神科の先生が津波の検証をするなど問題ばかり。国を挙げて遺族の検証を潰しにきたと思いました。
 
西村)2019年に最高裁で「平時からの組織的過失」が確定。遺族の原告団が勝訴しました。
 
只野)あの日だけの問題ではないということです。宮城県は、(近い将来)99%の確率でマグニチュード8クラスの地震が来るから、避難訓練マニュアルの整備をするようにという通達を2003年に出しているんです。大川小学校の津波避難マニュアルに、「近隣の空き地または公園」という記載はあったのですが、そのような場所は実際にはない。存在しない場所が津波の避難場所になっていたんです。あの日は、津波が来る45分前にどこに逃げるかという話し合いが始まったようです。高台に避難場所を設定して訓練さえしていれば、2時52分に大津波警報が鳴ったときに避難していれば、ロスタイムにはならなかった。近づいてはいけない海・川を避難場所に選択することはなかったはずです。事前のお達し通りに避難訓練をしていなかったことが判断ミス・ロスタイムを生んだということです。
 
西村)実際には避難訓練をしていなかったのですよね。
 
只野)はい。避難訓練はしていないけど、石巻市には避難訓練をしたと伝えていた。石巻市も、「近隣の空き地または公園」という場所がどこかを確認していないので、嘘のマニュアルを見抜けなかったんです。きちんとフィードバックをしていれば、マニュアルが偽物だということを見抜けたはず。石巻市や教育委員会がきちんと確認をしていれば、偽物のマニュアルのままあの日を迎えることはなかったでしょう。
 
西村)「なぜあのとき校庭にとどまったのか」は明確になったのでしょうか。
 
只野)なっていません。それを知ることが裁判をした最大の理由です。本当の話を聞きたい。裁判をして勝ってその先に行くしかないと思って、やりたくもない裁判をしました。今回の映画を通じて、「あの日から何があって、なぜ裁判になったのか」を多くの人に理解してもらいたいです。お金ではなく真実を知りたいというところを理解してもらいたい。
あの日から大人たちや教育関係者してきたこと―
生き残った息子に見せたくなかったです。本来であれば二度とこんな悲劇を繰り返さないために、防災訓練の必要性を教える立場の人がうちの息子の証言に対して「デタラメだ」「記憶は変わるものだ」というんです。あの日、どうしたら子どもたちを助けられたかを大人や教育関係者が考えなければならないのに「仕方なかったでしょ」と片づけようとした。自分としては、あの日の真実がわかってない、説明されていないのに、伝承の段階に進んでいいのかと思っている部分もあります。

 
西村)今も語り部として活動されていますよね。
 
只野)何がいけなかったのかを認めて、改めてからの伝承だと思っています。
 
西村)只野さんをはじめとした遺族や弁護士の戦いを記録したドキュメンタリー映画『「生きる」大川小学校 津波裁判を闘った人たち』
関西では、大阪・十三の第七藝術劇場、京都・烏丸の京都シネマ、神戸・元町の元町映画館で上映中です。ぜひご覧ください。
きょうは、大川小学校 児童津波被災遺族原告団 共同代表 只野英昭さんにお話を伺いました。