第1316回「阪神・淡路大震災27年【2】~追悼続ける遺族と若者」
ゲスト:崔敏夫さん

西村)阪神・淡路大震災27年のシリーズ2回目。きょうは、小さな追悼式を続ける遺族と、それを手伝う若者たちの想いをお伝えします。神戸市須磨区の千歳地区では、震災で住宅の9割が倒壊または焼失し、47人が亡くなりました。自治会が主催する1月17日の朝の追悼行事は、震災20年を区切りになくなったのですが、きょうのゲスト、崔敏夫さん(80歳)ら有志が小さな追悼式を続けています。崔さんは震災で次男の秀光(スグァン)さんを亡くしました。崔さんはどのようなお気持ちで27年を過ごしてきたのでしょうか。崔さん、よろしくお願い致します

崔)よろしくお願いします。

西村)亡くなった次男の秀光さんは、当時20歳。どんな息子さんでしたか。

崔)三人兄弟の次男の秀光には、朝鮮大学の先生になるという夢がありました。その夢を実現できずに震災で亡くなりました。本当に残念です。

西村)当時20歳ということは、成人式の直後だったのでしょうか。

崔)1月15日が成人式でした。神戸の成人式に出席しようと同級生たちと1月13日に神戸の実家に帰ってきていました。

西村)神戸以外にお住まいだったのですか。

崔)東京の大学で寄宿舎生活をしていました。

西村)阪神・淡路大震災が発生した1月17日に東京に戻る予定だったのですか。

崔)本当は1月16日に帰る予定でしたが、1日延期して17日に帰ることになりました。まさか震災で亡くなるとは、夢にも思わなかった。言葉で言い表すことのできない無念を感じます。

西村)なぜ1日延期になったのですか。

崔)1月13日の夕方に家に帰ってきたとき、息子がうれしそうな表情をしていたことを今でも鮮明に覚えています。14日に西神戸の地域の成人式に参加して、地域代表の決意表明をしたそう。そして、15日の県の成人式にも参加しました。帰ってきたときから少し風邪気味で、体調を崩していました。息子は、持病で喘息を患っていました。私も喘息を患っていたので、苦しさはよくわかります。母親は、「16日に大学に帰る約束をしているのだから、帰らないと」と言っていたのですが、成人式に参加して、2次会にも行ってしんどそうにしていたから、「17日に帰ったらどないや?」と私が言ったんです。そして17日に帰ることになったのです。

西村)そうだったのですね。亡くなる前日は、秀光さんとどんなふうに過ごしたのですか。

崔)16日はずっと寝ていました。夜10時頃に息子が「明日帰らなあかんし、汗もかいているし、銭湯に行きたい」と言ってきたんです。今まで息子に誘われたことがなかったからうれしかった。家から銭湯までは200mくらい。10時過ぎで空いていました。お互いの背中をこすり合いながら、大学生活のことや卒業したら何になりたいのかという話をした記憶があります。はっきりと内容は覚えていないのですが、会話が弾んだことを覚えています。

西村)その和やかな時間の数時間後、崔さんの自宅は、阪神・淡路大震災の強い揺れに襲われて全壊。1階で寝ていた秀光さんが亡くなってしまいました。明日で阪神・淡路大震災から27年になりますが、どのような気持ちで1月17日を迎えるのでしょうか。

崔)10月の初めぐらいからだんだん気持ちが憂鬱になります。27年はあっという間。1月17日は、息子を亡くしたことを感じながら、自分がどう生きていくのかを考えさせられる日です。

西村)そのように過ごしてきた27年の中で、崔さんは毎年、1月17日に千歳公園での追悼を続けています。この追悼式を地元の若い人たちが手伝っているそうですね。

崔)息子が亡くなった年齢と同じ20歳の長谷川豊くんが手伝ってくれています。千歳公園のモニュメント前に地域住民が集まって続けてきたのですが、20年を区切りにやめることに。47人の尊い命が亡くなって、息子もその中に含まれます。少しでも亡くなった人たちの意思を継ぐべきだと思い、有志や若い世代の子たちと協力しながら、その後も続けることになったのです。
 
西村)スタッフが崔さんのお手伝いをしている長谷川豊さん(20歳)に話を聞きました。なぜ手伝うようになったのかを話してくれました。
 
音声・長谷川さん)小学校4年生のとき、震災の授業にすごく興味持って、先生にいろいろ話を聞きました。先生が「興味があるなら、行ってみたら」と千歳地区の震災セレモニーを教えてくれたんです。それから参加し始めて、毎年恒例になりました。自分の生まれ育った町でこんなに大きい地震があったのかと。それなら毎年手を合わせようと思いました。中学3年生のとき、追悼式が終わった後に、「太田中学校の学生か?」と崔さんに声をかけられました。崔さんも太田中学校出身で大先輩。「きょう太田中学校に話しに行くから、名前を教えて」と話しをしたのがきっかけです。
 
音声・スタッフ)追悼式にはずっと参加してきたのですか。
 
音声・長谷川さん)そうですね。習慣になっています。年が明けて、これがないと始まらないという不思議な感覚。1.17の日は朝早く行って、準備から手伝っています。ろうそくの準備、石碑の花壇の整備や掃除など。ろうそくで1.17の数字を作るときのペットボトルも作ります。崔さんたちがやると時間かかるので、崔さんから「手伝ってくれへんか」といわれて、ぼくが友達に声をかけて手伝っています。

 
西村)小学生の時に初めて追悼に参加したという長谷川さん。毎年来ているのを崔さんは知っていたのですね。
 
崔)20年目までは地域の住民がたくさん集まっていて、人も多く、暗くて、彼が参加していたことはわからなかったんです。21年目に彼が友だちと来ていた日は、母校の太田中学校で語り部をする日でした。早朝の追悼式で「君どこの中学校?」と初めて声をかけました。「太田中学校です」というので、「きょう太田中学校で語り部するで」という会話をしました。来てくれたことが本当にうれしかったんです。そして、中学校で語り部が終わった後に、「今朝の千歳公園の追悼式に長谷川豊くんが参加してくれました」と紹介し、全校生徒の前で感想を聞いたら答えてくれて。繋がりが深くなったのはその日からでしたね。それから彼に連絡して、公園のモニュメントの花の植え替えや雑草抜きなどを毎年手伝ってもらうようになりました。若い人の力が必要でした。「仲間に声をかけて一緒にやります」と言ってくれてうれしかったし、心強かったですね。
 
西村)長谷川さんも先週、成人式に参加したといっていました。崔さんの息子さんが生きていたら、今47歳。孫世代にあたる長谷川さんをはじめ、若い世代のみなさんが手伝ってくれています。長谷川さんは、どんな思いで崔さんのお手伝いをしているのかを聞いてみました。
 
音声・長谷川さん)ぼくたちは、どれだけ頑張っても阪神・淡路大震災を経験できない。被災した気持ちや身内を失った気持ちは、その人にしかわからないと思います。そんな話をするのも億劫になる人もいると思う。でもぼくに息子の話や、崩れた建物の話、みんなで助け合った話などをしてくれるのを聞いていると、忘れてはいけないと思うんです。語り継いでいく人がいないと、記憶は薄れていく。話では伝わるけど本当の生々しい状況は伝わらない。そんな人たちが感じたことをできるだけ覚えておこうと、いつも話を聞いています。27年たって震災のことがだんだん忘れられていると感じます。その日起こったこと、自分の家族がなくなったことは、身内じゃないと知れないこと。そんな話をぼくにしてくれていると思うとありがたい気持ちになります。どこの馬の骨かもわからないガキンチョに話してくれる。うれしいしい気持ちになります。ぼくらの周りの同世代の人たちに「手伝ってくれ」と頼ってくれる。ありがたいなと思いながら、できることは全部していこうと思っています。崔さんが式典を開催できなくなっても、自分ぐらいはずっと手を合わせていこうと思っています。
 
崔)ありがたい言葉ですね。語り部は年をとっていくので限られた時間しかありません。私も今年80歳。あと何年できるかわかりません。若い世代にどれだけ伝え、広めてもらうかが一番大きい課題だと思います。彼らのように行動で示してくれるということは、簡単にできることではありません。伝え聞き、一緒に行動する中で、自分の肥やしになっていくと思うのです。そんな機会を私たちがいかに作っていくか、彼らがいかに対応してくれるか、それしかないと思います。これはずっと続いていくもの。震災27年を迎える中で、震災を語ることも大事ですが、それより自分自身がどのように生きていくか、震災とどのように向き合うのか。震災を忘れない、自分の命は自分で守るという気持ちを1人でも多くの若者に持ってもらえたら、いざというときに、大きな力が発揮できると思います。人間1人では何もできません。知らない人より知っている人のほうが助けやすい。だからコミュニケーションや繋がり、出会いを大切に、大きくしていくことが大事だと思っています。
 
西村)そんな想いで、崔さんが有志のみなさんや長谷川さんと続けている千歳公園での追悼式。今年も開催されるのですか。
 
崔)今年も長谷川くんに電話して、手伝ってと声をかけています。5時頃に集まる予定です。参加者は15~6人くらい。47年の尊い命を大切しながら、息子の分まで頑張りたいと思っています。
 
西村)私も手を合わせに行っても良いですか。
 
崔)来てください。大歓迎です。
  
西村)ありがとうございます。お忙しいと思いますが、体調を崩されないようにしてください。
きょうは、小さな追悼式を続ける遺族と若者たちと題して、崔敏夫さんにお話を伺いました。崔さん、ありがとうございました。