第1266回「阪神・淡路大震災26年【5】
                ~被災者の証言集をまとめて」
ゲスト:NPO法人「よろず相談室」理事長 牧秀一さん

西村)阪神・淡路大震災で被災された方、地震で障害を負った方が、どのように地震にあって、その後どう過ごしてこられたのか。20人以上に聞き取りをして、その証言を本にまとめた方がきょうのゲストです。
ご自身も神戸市東灘区で地震にあい、震災発生直後からこれまでずっと被災者の支援をつづけてこられました。NPO 法人「よろず相談室」理事長 牧秀一さんです。
 
牧)よろしくお願いいたします。
 
西村)牧さんには、これまでも何度も番組にご出演いただいています。
「よろず相談室」は、震災発生直後の避難所で、被災者の困りごとやお話を聞く相談室から始まって、その後は、牧さんを中心としたメンバーのみなさんが、仮設住宅や復興住宅の高齢者の見守り活動や、震災で障害を負った「震災障害者」の支援を長年、続けてこられました。
牧さんは、今年の3月に「よろず相談室」の代表を退任され、活動の中心は、他のメンバーの方々に引き継がれます。牧さんが被災者の証言をまとめられた本は、去年12月に発売された「希望を握りしめて~阪神淡路大震災から25年を語り合う」です。被災者の聞き取りのようすを編集して短くまとめたDVDもついています。
なぜ今、被災者の方々の証言を本にまとめようと思われたのですか?
 
牧)ずっと高齢者と関わってきて、たくさんいい話を聞いてきました。その人たちの話を文字にして記録しようと思いながら、本職の高校の教師の仕事が忙しく、なかなかできなかった。そのうちどんどんどん高齢者の方が亡くなっていって。
そんな時に、広島の原爆資料館の映像資料がとてもわかりやすかったと思い出して。映像で「よろず相談室」の記録として残しておこうと思いました。そこで、震災後20年目から5年かけて、22人に話を聞いて、40時間の映像を記録したんです。
最初は外に出す目的のものではなかったのですが、40時間の一部の映像を観たカメラマンの人から「とても自然に話していて、我々には撮れない。これをなんとか社会に出してほしい」という打診があったんです。
外に出さないということが最初の約束だったので、ひとりひとりに説明して。了承してくれた人が15人いました。ひとりで映像を編集するのはとても大変なので、さまざまな知り合いに声をかけて、一昨年の9月に編集会議をしました。その過程で、映像だけではなく、文字としても残そうということになったんです。

  
西村)今、手元に本があります。ずっしり分厚くて被災者方の思いが伝わってくる本。長年お付き合いをされている牧さんだからこそ聞けたお話が、ここに収められていると思いました。
私もおしゃべりの輪の中に入れてもらっているような気持ちになりながら、 DVD を見たり、本を読んだりしました。
今日はこの本についているDVD の中から被災された方の声を紹介して、牧さんにお話を伺っていきたいと思います。
まずお伝えするのは、城戸美智子さん、城戸洋子さん母娘の声です。牧さんが、2016年に聞き取りを行いました。震災当時、中学3年生だった城戸洋子さん。地震で倒れたピアノが頭を直撃しました。当時のようすを母親の美智子さんが語ります。
  
音声・城戸さん)主人が「ピアノが倒れている!」と。近所の人が来てくれてピアノを持ち上げてくれたんです。洋子をさすったけど、うんともすんとも言わなくて。とりあえず外に出そうと毛布でくるんで運んでもらったんです。
洋子はそれから2週間後、やっとレントゲンを撮ってもらって。脳が腫れているということでした。

  
西村)震災直後の停電で、すぐにレントゲンが撮れなかったのですね。
  
牧)一帯が停電していて、水もなく、病院の機能を果たしていなかったんです。病院の中は負傷した人で溢れかえっていました。
  
西村)洋子さんは意識不明の重体で「助かる見込みは3%」と言われた状態から奇跡的に一命を取り留めました。でも、脳に障害が残ってしまったんですよね。
  
牧)一家の中で怪我したのは洋子さんだけでした。顔に傷がなかったので、なんともないと思っていたのですが、ずっと歯を磨くとか、隣の人の髪の毛をつかむとか、考えられないような行動が増えて。それがなんなのかということが全然わからなかったんです。原因がわかったのは6年目でした。
  
西村)震災当時14歳の中学3年生だったので、6年目ということは20歳の頃ですね。
  
牧)名古屋の病院に入院して、初めて高次脳機能障害ということがわかりました。
  
西村)高次脳機能障害とは、脳の損傷により、注意力や記憶力、感情のコントロールなどの能力に問題が生じ、日常生活や社会生活が困難になる障害のこと。周りの人が気づきにくい、見えない障害と言われていると注釈が本の中にも書かれています。
  
牧)高次脳機能障害は、精神障害、知的障害、身体障害の3種類がありますが、洋子さんは3つとも持っているんです。
  
西村)牧さんが城戸洋子さんにお話を聞くようすをお聞きください。
  
音声・牧)寝たままでいたり、リハビリをする毎日の中で、私はどうなっていくんやろう、と考えた?
 
音声・洋子さん)考えた。
 
音声・牧)何を考えた?
 
音声・洋子さん)このままで生きていけるのかなと思った。
 
音声・牧)このままでええんかなと思ってたんや。

 
牧)洋子さんは、バレーボールの選手だったのですが、震災で一転して。洋子さんだけではなく、震災で障害を負った人は、人生がコロッと変わってしまって。大変しんどいと思いますね。
 
西村)どんなことで辛い思をされたのでしょうか。
 
牧)震災は、死ということがやはり重い。一命をとりとめた人は、「生きているだけマシ」と言われる人が多いのです。洋子さんは、震災前は元気だったのに、震災後は後遺症と死ぬまで向き合わなければならない。そんな人たちが「生きているだけマシ」と言われたら傷つきますよね。
 
西村)次にご紹介するのは、神戸市東灘区で被災した坂上久さんです。地震当時59歳で、住んでいた文化住宅が全壊。避難所生活から、仮設住宅を経て、復興住宅に入居しました。一人暮らしの高齢者48世帯が入居する復興住宅です。復興住宅では、震災発生から時が経った復興住宅では、高齢の住民が亡くなっていき、寂しさを訴える人も多くいました。
2015年に牧さんが、坂上さんに聞き取りをしたようすです。
 
音声・牧)あれからずいぶん亡くなってるね。
 
音声・坂上さん)2階で最初からおった人で元気なんは1人だけ。それと、宿替えした90代のおばあちゃん。あとはもう死んでもうた。3階も4階も全部死んでもうた。
 
音声・牧)これから希望みたいなんある?
 
音声・坂上さん)希望なんかあれへん。いつまで生きとうかわからん。1日すんだらホッとしとうだけや。

  
西村)和やかに喋っていますね。牧さんとの関係性が伝わってくるなと思って聞いていました。「希望なんかない」というのは、やはり孤独死という問題が大きいのでしょうか。
  
牧)この建物は1階が店舗で、2階からが住居なのですが、2~5階までほとんど亡くなってしまいました。48人中で6人が孤独死でした。
  
西村)牧さんは孤独死を防ぐ活動をされていたのですよね。
  
牧)ここでは死後4ヶ月で見つかった人がいるんです。そのおっちゃんは、いつも出かけているので、「今日どうしてるの?」ってみんなに聞いたら、「まだどっかふらついているんやろ」と言うので、そうなのかなと思っていたんです。それは5月のことでしたが、4月に亡くなったので、その時にはすでに亡くなっていたんです。7月にベランダに蛆虫が出てきてやっと発見されました。孤独死を防ぐ活動をしていたのに、もう本当にショックでした。
  
西村)坂上さんは、この聞き取りのあと、復興住宅からの引っ越しを迫られました。坂上さんが住んでいた復興住宅は、神戸市が民間から20年の期限付きで借り上げていたマンションで、神戸市が民間に返さなくてはいけなくなったからです。
住民は退去を求められ、坂上さんも2017年に、他の市営住宅に引っ越しました。坂上さんは引っ越し当時、80歳を超えていました。震災から20年以上経って年をとって、また新たな場所に住む、というのは大変なことですよね。
  
牧)20年問題で出ていかざるを得ない人が増えて。引っ越し先は全然知らない人が住んでいる復興住宅。「どうしてるの?」と引っ越した人に聞いたら、「ここで誰とも喋ってへん」と。今は家でポツンと一人でいる。80歳すぎてこんな環境に置かれるというのは酷いし、環境が変わると認知症も出やすくなりますよね。
  
西村)最後にご紹介するのは、神戸市東灘区で被災した山本恒夫さんの証言です。山本さんと牧さんは震災後に牧さんがボランティアで開いていた識字教室で出会って、その後、牧さんが教員として働いていた夜間学校に山本さんが入学して、文字を学ばれたそうです。山本さんは、重い肺の病気を患っておられて、牧さんが聞き取りをした1週間後に亡くなられました。聞き取りの時のようすを少しお聞きください。
  
音声・牧)学校は恒ちゃんにとって楽しかった?
 
音声・山本さん)行ってよかった。
 
音声・牧)入学したのは何歳のとき?
 
音声・山本さん)50歳。
 
音声・牧)50 歳って若いときやん!
 
音声・山本さん)バリバリや(笑)!

  
西村)和やかなムードでお話をされていますね。
今から紹介する音声は、山本恒夫さんが地震の3年後、53歳のときに書いた作文の一部を抜粋して朗読したものです。牧さんが朗読しています。作文は地震が起きた当時のことから始まります。
  
音声・牧)拝啓地震様、山本恒夫
拝啓地震様、私はあなた様の力を初めて知りました。
私たち人間が束になってもかなわないのが、つくづくわかりました。
この阪神・淡路大震災で、数秒で30万人近い人の人生を変えましたね。私もその1人です。

   
西村)山本さんは呼吸器の病気を患っていて、地震の当日、酸素を送る機械が停電で使えなくなってしまい、救急車で病院に運ばれました。自宅は全壊。地震の後3年以上を仮設住宅で過ごしました。作文には牧さんが開いていた識字教室で学んだ日のことも綴られています。
 
音声・牧)拝啓自身様、私はあなた様に愚痴ばかり言ってきましたが、少し感謝をしています。地震に感謝言うと、被災者の方に怒られます。しかし、あなた様の一撃を受ける前までは、私は人生に目標もなく生活していました。私は中学を卒業していますが、漢字の読み書きはほとんどできませんでした。仮設住宅の福祉相談員さんに、「ボランティアにお礼を書いてください」と頼んだところ、「こういうのは自分で書かなあかんよ」と言われました。そして福祉相談員さんの知り合いを紹介していただきました。その方は定時制高等学校の先生でした。ボランティアで識字教室を開いている方でした。私は初め少し抵抗がありました。「今更勉強?」と思う気持ちがありました。しかし、お礼の手紙を書きたいと思う気持ちの方は強かったので、行くことにしました。緊張して教室に行くと、みなさんが温かく迎えてくれて、ホッとしました。私は53歳ですが、ほとんどの生徒のみなさんは私より人生の先輩です。生まれて初めて辞書を見ながら、3日かかって、手紙を書きました。青い封筒で返事が来ました。本当にうれしかった。この喜びは今まで味わったことのない喜びでした。
 
西村)識字教室のボランティアをした先生、というのが牧さんですね。地震で被災された方も、つらいことばかりではなく、山本さんのように希望を持って生きてこられた方も。
 
牧)読み書きがほぼできなかったのに、できるようになって、ボランティアの人に手紙を書くことができるようになった。山本さんの部屋行くと、ファイルにたくさんの手紙を束ねて大切にしていました。
 
西村)お礼の気持ちを伝えたいという思いで行動して、生きがいを見つけられたのですね。山本恒夫さんは作文の最後をこのように結んでいらっしゃいます。
 
音声・牧)地震様、愚痴や感謝をいろいろ言いました。あなた様のおかげで今まで感じたことのない、いろんなことを数多く感じました。でも、もうこれ以上感じたくありません。だから、いつまでもゆっくり休んでください。
 
牧)もうこんな目にあいたくない、という想いで書いたのですね。
  
西村)この作文は、本の中に山本さんの直筆で載っています。きっとここを消して、書き直したのかな?とかそんなことも伝わってきます。
牧さんは、被災者の方々との交流を続けてこられて、20人以上の証言の聞き取りをして、改めてどんなことを感じましたか。
 
牧)高齢者や震災障害者と話をしましたが、みなさん違う人生を送ってきたのだと改めて思いましたね。
つらいというのは、みんな一緒です。それをどう乗り越えるのか、乗り越えられないのかは人それぞれ違うと、改めて20人の話を聞いて思いましたね。

 
西村)出版された当時は震災後25年ですが、25年も経ったのではなく、現在進行形なのですね。
 
牧)これで終わっているわけではない。この人たちは今も生きているんです。これからどうなるのだろうということを考えるとしんどいことなのだと思います。
 
西村)つらいことだけではなく、時には和やかに吐き出す場所があった。それを牧さん「よろず相談室」のみなさんが作ってらっしゃったからこそ、被災者のみなさんは明るく話せる人生になったのかな、とこの本を読んで感じました。
 
牧)長いこと関わってきたので、和やかに話せる雰囲気になってきたのかなと思います
 
西村)牧さん、いろんなお話を聞かせていただきまして、どうもありがとうございました。 NPO法人「よろず相談室」理事長の牧秀一さんをお迎えしました。