第1310回「戦争に隠された大地震」
オンライン:兵庫県立大学 環境人間学部 教授 木村玲欧さん

西村)あさって、12月7日は、ある大地震が起きた日です。戦時中の1944年(昭和19年)12月7日、紀伊半島沖を震源とする東南海地震が発生しました。死者・行方不明者1223人という大変な被害となった地震にも関わらず、当時ほとんど報道されなかったといいます。なぜなのでしょうか。
きょうはこの"隠された地震"について詳しい兵庫県立大学 環境人間学部 教授 木村玲欧さんに電話をつないで、被災者のインタビュー音声も交えてお送りしていきます。

木村)よろしくお願いいたします。
  
西村)木村さんは、この大地震について調査・研究し、「戦争に隠された震度7」という本にまとめました。1944年12月7日に起きた東南海地震は、どのような地震だったのでしょうか。
 
木村)東南海地震は、紀伊半島沖のいわゆる「南海トラフ」で起きた海溝型の地震。1944年昭和19年は、日本がまだ戦争をしていて、敗戦の色が濃くなってきたときに起きた地震でした。12月7日の午後1時36分に紀伊半島沖でマグニチュード7.9という大きな地震が起きました。
 
西村)かなり大きな地震ですね。
  
木村)揺れは、近畿・東海地方の広い範囲で震度5、三重県から静岡県の沿岸部で震度6、被害報告をもとにした計算では、一部の地域では一番強い揺れに相当する震度7となり、沿岸部を中心に大きく揺れて、津波も発生したといわれています。
 
西村)津波も発生していたのですね。
 
木村)三重県の尾鷲町(現・尾鷲市)では、地震の後10分ほどで最大9mの津波が襲ったといわれています。
 
西村)東南海地震について、恥ずかしながら全く知りませんでした。どのような被害があったのでしょうか。
 
木村)津波と地震の揺れ、両方の被害が沿岸部を中心に襲いました。静岡、愛知を中心に揺れによって家が全壊したり、愛知の軍用機の工場が潰れて、当時働いていた学徒動員の学生が下敷きになって死んでしまったり。大きな津波が襲ってきた三重、和歌山では、津波に飲み込まれてしまった集落もありました。船は陸にあがって家をなぎ倒しました。1223人が死亡・行方不明となったといわれています。
 
西村)木村さんの著書「戦争に隠された震度7」の本の中には当時の写真が載っています。津波が襲った三重県尾鷲町で、家が潰れて瓦礫の中で下をむいて何かを探している人も。本当に大変な状況だったということがこの本からも伝わりました。
 
木村)あたり一面瓦礫の山で、どこが道だったのかが全くわからないような状況。人々は瓦礫の上にのぼって、人や大切なものを探していました。途方もない被害が襲ってきたのです。
  
西村)このような大きな地震が起きたら、今なら新聞の1面で大きく報じられますよね。当時はどのように報じられていたのでしょうか。
 
木村)実は、翌日の新聞では「被害はほとんどない」という記事が片隅に載るだけで、被害の写真も全く掲載されませんでした。
 
西村)それは驚きです。
 
木村)新聞記事には「昨日海辺で地震が起きたが被害はほとんどなかった」「人々は復旧に向けて着実に活動している」とあり、被害がないということを全面的に押し出した報道がされていました。
 
西村)なぜ正しく報道されなかったのでしょうか。
 
木村)原因の一つには、日本が戦争をしていたということにあります。戦時中の報道統制下で自由に報道することができませんでした。戦争に勝つことが最優先なので、戦争に影響が出る地震の被害というものは、隠すべきものとされました。さらに、不運なことに被害が大きかった東海地方は、軍需工場が集まる地域。被害を敵国に知られるわけにはいかなかったのです。
 
西村)当時、伝えなければいけないという使命を感じて取材をした新聞記者はいなかったのですか。
 
木村)被災地で情報収集をして、地震の情報を使えようした記者が拷問を受けたことも。中には帰ってこなかった記者もいるという。
 
西村)戦争に勝つことが最優先で、報道する内容が統制されていたということなのですね。
 
木村)この地震は戦争に隠された大地震。大きな被害が出たにも関わらず、知らない人が多いという結果になったのです。
 
西村)1944年当時、地震にあった人はどのような体験をしたのでしょうか。今回、被災者にお話を伺うことができました。三重県熊野市在住の鈴木美文さん(83歳)です。鈴木さんは現在の熊野市にあたる荒坂村という海沿いの町で地震にあいました。当時は6歳でした。
 
音声・鈴木さん)揺れで立っていられなかった。棚のものがどんどん落ちてきて、パニック状態になりました。外には14~15人の大人が集まっていてそこへ行きました。1人のおじさんが「まだ(揺れが)来るかもわからんから舟にのれ!」と。そしたら、かなり下に船がありました(海の水位が下がっていた)しばらくしたら、「津波というものが来るかもしれない。高いところへ逃げよう」と大きな声が聞こえたので、船べりを走って陸へ上がりました。母親と一緒に、割れてでこぼこな道路をこけたり、滑ったりしながら100mぐらい進みました。階段を上がっているときに下を見たら、排水溝から噴水のように波が吹きあがっていました。でも津波というものを知らないから、怖いという気持ちはぜんぜんなかったんです。ところがしばらくよどんでいた海水が次の瞬間に引き始めた。引くというよりも落ちるように。ゴウゴウバリバリと家財道具を引っ張って流れていく。港の半分ぐらいまで海の底が見えて、第2波がやってきたのです。第1波が引くときに、はじめて津波の怖さを知り、足がすくんだことを今も記憶しています。
 
西村)77年前の12月7日午後1時36分に起きた東南海地震当時のお話でした。鈴木さんは、当時6歳。これだけ覚えているということは、恐ろしい記憶が刻まれているのでしょうね。津波は繰り返し何度も押し寄せてきたといいます。鈴木さんや周りの人は当時津波について知らなかったが、漁師のおじさんが「津波というものが来る」と言って、逃げるように促してくれたということです。木村さん、鈴木さんの話を聞いてどんなふうに感じられましたか。
 
木村)貴重な体験談をこうして伝えてくれてありがたく思います。ポイントは2つあります。1つは漁師のおじさんに津波の知識があり、何をすれば良いかがわかっていたこと。もう1つは、みんなに逃げるという実行力があったこと。これがたくさんの人の命を救ったのだと思います。周りの地域には津波を知らなかった人もたくさんいました。揺れの後、沿岸部でじっとしていて津波に巻き込まれてしまった人や、家の中で片付けをしたり、大切なものを袋に詰めたりしているうちに津波に流されてしまった人も。漁師のおじさんが「津波が来る!逃げろ!」としっかりと声掛けをしたことは、人の命を救った素晴らしい行動だと思います。
 
西村)それは時代を経た今でも変わらないことですよね。
 
木村)揺れたら「海から遠く高いところに逃げる」この基本は、時代を超えて伝わる教訓だと思います。
 
西村)地震と津波から命が助かった後、被災した人々は1944年当時、どんなふうに過ごしていたのでしょうか。引き続き、三重県熊野市で被災した鈴木美文さんの声をお聞きください。
 
音声・鈴木さん)その頃は「情報管制」といって、津波があったことを外へ出せませんでした。ボランティアも救援物資もない状態。被害を受けなかった人が手伝いに来てくれて、救援物資もある程度くれました。戦争で働き盛りの男の人はいないし、老人と女性、子どもだけだったので、復興もなかなか進まず大変でした。わたしら子どもは、保存されていたさつまいもがあちこちに落ちていたので、それを拾って集める役。そのサツマイモを焼いて非常食にしていまいた。そのうちB29がどんどんやってきて。それが怖かったですね。
 
西村)大きな地震や津波の被害だけでも大変なのに、B29がやってきて。さまざまな恐怖があったということがわかります。鈴木さん一家は地震の後、親戚の家で居候したということです。当時、避難所のような場所は鈴木さんの地域にはなかったそうです。
木村さん、地震の被害が隠されるということは、支援の手が届かないということにも繋がるのですね。
 
木村)報道されないということは、地震があったことも被害があったことも伝わらないので、人を派遣しようとかものを送ろうという発想には繋がりません。被災者は、自分たちで助け合って過ごすしかなかったのです。この地域は、農家もたくさんあったので、食料や井戸水もある程度あり、住民同士で助け合いながら乗り切ったのです。
 
西村)当時、地元の自治体は被災者の支援を行っていたのでしょうか。
 
木村)地元の自治体も資材不足の中、仮設住宅を建設したり、資材を住民に提供したりしていました。食料の配給等、支援がありましたが限界がありました。そんな中で人々は頑張っていくしかなかったのです。
  
西村)お年寄りと女性、子どもだけで復興していくのは、大変だっただろうと想像できます。日本は、これほどの大きな被害を隠していたということですが、アメリカは本当に東南海地震のことを知らなかったのでしょうか。
 
木村)地震の波というのは世界中に伝わります。日本は報道統制という形で押さえ込んで、何も知らせませんでしたが、地震の波は世界各地で観測されました。アメリカは、地震翌日のニューヨーク・タイムズで「日本で地震が起きて、壊滅的な被害を受けた軍事工場もあるかもしれない」を大きく報じられていたのです。
  
西村)日本では隠されていた地震でも世界の人々は知っていたということなのですね。南海トラフ地震は過去にも繰り返し起きていて、今も発生の危険が日に日に高まっています。戦時中に起きた東南海地震のことを私は詳しく知らなかったのですが、当時「報道統制」されていたことは、後世の私たちにも影響があると思うのですが、木村さんはどのように感じられますか。
 
木村)報道統制がされていたので、この地震の正確な被害は実は今でもわかっていません。実は、東南海地震の37日後の1月13日にも愛知県の三河地方で三河地震という直下型の大地震が発生して、2000人以上の人が亡くなる被害がありました。その後、日本は復興期、高度経済成長期の中で、経験を伝えていく機会がなく、地元でも地震の被害を知らない人がたくさんいます。
 
西村)戦時中の報道統制下でも木村さんの本には当時の写真が載っていますよね。こっそり撮って残してくれた人がいたのでしょうか。
 
木村)写真は何枚か残っています。当時、カメラは高価なもので、ほとんどの人は持っていませんでした。たまたま家に古いカメラやフィルムがあった人がこっそり撮っていて、人に伝えることなく手元に置いておいたものが今に残されていることも。当時のことを伝えようと写真や文章に記録してくれた先人たちがいるのです。
 
西村)今回、お話を伺った鈴木さんも津波体験を3冊の冊子や絵本にまとめて今に伝えてくれています。地震や津波のことを知って、命を守ってほしいと話していました。私たちは今、当たり前のようにたくさんの情報を受け取っていますが、やはり正しい情報は命を守るものなのだなと思いました。
 
木村)地震は毎日自分の回りで起こるものではありません。人生においても何回も経験するものはないので、過去にいろいろな地震があったということをさまざまな人の体験談から理解して、自分の未来の備えに繋げてほしいです。これは、間接的被災体験といって、直接被災しなくても間接的に人の話を聞いて知ることによって自分の経験を選ぶことができるという貴重な行為になると思います。
 
西村)きょうは兵庫県立大学 環境人間学部 教授 木村玲欧さんにお話を伺いました。