電話:石川県珠洲市在住の大口史途歩さん
西村)目の不自由な人は、地震や津波から避難する場合、どんな困難があるのでしょうか。
きょうは、能登半島地震で被災した視覚障害者にお話を伺います。石川県珠洲市在住の大口史途歩さんです。
大口)よろしくお願いいたします。
西村)大口さんはいつからどんな視覚障害があるのですか。
大口)先天性難病の「網膜色素変性症」という病気です。小さい頃から遺伝子異変があり、発症が早い人と遅い人がいます。わたしは、36歳くらいのときに「網膜色素変性症」と診断されました。今は52歳10ヶ月です。
西村)今はどれぐらい見えるのですか。
大口)お医者さんが目の前に手をかざずと、影が見える程度です。
西村)能登半島地震が発生したときは、どのような状況でしたか。
大口)元旦ということもあり、自宅でのんびりしていました。16時6分ごろに震度5強の地震がありました。「揺れたな。テレビつけようかな」と思った矢先に次の地震が来ました。一歩も動くことができませんでした。横になっていた布団にしがみ付くのが精一杯。家の木材がバキバキと、今までにない音を立てて恐怖を感じました。
西村)不安な中避難したのですか。
大口)強い地震がおさまって、自分が無事であることを確認してから、日頃から用意してあった避難道具を持って下の階に降りようとしました。しかし、崩落した土壁が階段の上を埋め尽くしていました。
西村)どうやって外に出たのですか。
大口)急な階段だと知っているので、座りながら少しずつお尻をずらして降りていきました。
西村)ご家族は無事でしたか。
大口)父も兄2人も無事でした。放送が聞こえてきて、大津波警報と流れていたので、とりあえず逃げようと。
西村)どこに逃げたのですか。
大口)住んでいる場所は、海から200m、山から200mくらいの位置にあります。小高い山の上に津波専用の避難所があるので、みんなでそこへ向かいました。津波が来るかもしれないという恐怖を感じました。歩き慣れている道ですが、液状化現象で穴が開いたり割れたりしていて、足元の状況が悪かったです。白杖をつきながら歩くのですがつまずくこともありました。
西村)なんとか高台に避難し、そのあとはどこかに避難したのですか。
大口)津波がきた様子もないので、16時50分くらいには、特定避難所である母校に行くことにしました。
西村)そのとき雪は降っていましたか。
大口)雪は降っていなかったのですが、前前日ぐらいに降った雪が積もっていたので、歩くのは困難でした。小学の避難所は開設されたばかりで、防災ボランティアも素人なので、玄関の鍵を開けて、「みんな入ってください」というだけ。教室に入って、青いビニールシートに座って一晩を過ごしました。
西村)避難所ではどんな困り事がありましたか。
大口)初日は全然寝られませんでした。寒かった。2日目の朝、家は無事だったので、暖かい服を着ようと自宅へ戻りました。おせち料理に舌鼓を打ちつつ、服を用意して、昼は家、夜は避難所で過ごす生活が始まりました。
西村)おせち料理を食べられる状況なら、家にとどまった方が良かったのでは。なぜ避難所に戻ったのですか。
大口)視覚障害を持っていること、インフラが止まっているという理由からです。
西村)どんなことが困りましたか。
大口)一番困ったのはトイレです。浄化槽式のトイレが液状化現象の影響を受け、浄化槽がコンクリ―トを持ち上げて浮いていたんです。水が流れなくて、自宅のトイレが使えないので学校へ行きました。学校も水が流れないので、防災用の携帯トイレを便座につけて使いました。
西村)携帯トイレは持ち込んだのですか。
大口)特定避難所に指定されていたので、倉庫の中に防災の備蓄がありました。
西村)学校に準備されていたのですね。非常用トイレの袋を便器にかぶせて、その上に用を足して、袋を閉じて、捨てるという流れで使ったのですか。
大口)そうです。使ったら片付けて、次の人のために袋を付けるのですが、わたしは目が見えないので、便座の位置を確認するときに便座の上を触らなければなりません。でも、ルールを守らないのではなく、ルールがわからなくて守れない高齢者が多く、新しい袋を付けるルールが守られていませんでした。わからないから、何もつけていない便座にどんどん用を足していく。そうすると便座の上に汚物が残り、わたしはその汚物をどうしても触ってしまうことになります。水道が出ないので手が洗えません。ウェットティッシュで手を拭くことしかできなくて。そういった苦労がたくさんありました。
西村)他人の汚物を触ってしまって、大丈夫でしたか。
大口)衛生環境も悪く、避難所として機能し始めても、ボランティアも被災者で素人なので、ルールの設定ができずに感染症があちこちで出始めました。わたしも共用のドアノブを触ってしまうのでどんなに綺麗にしていても、雑菌がついている状態で避難食を食べ、口の中に雑菌が入って下痢に。熱と下痢がひどく、大腸炎になりました。
西村)トイレのほかに困り事はありましたか。
大口)避難所は60cm幅のマットレスが1枚あるだけ。そこ以外は他人がいるので移動に苦労しました。本来なら1人で動けるはずなのに、ギュウギュウ詰めに人がいるので、下手に歩けば他人の足や体を踏んでしまいます。
西村)通路は確保されていないのですね。
大口)全然ありません。本来は、避難所の端を通路にして、通れるようにするのが当たり前なのですが、防災マニュアルも中途半端でした。本来なら片側に物が寄せてあれば歩けるはずなのに、両側に物が置いてあるので、白杖を振ることができません。両側に物があるので、誰かの誘導がないとぶつかってしまう。ご飯の配給を受け取りに行く、トイレに行くにしても家族に付き添ってもらわなければならず、移動が困難でした。
西村)避難生活が長く続きましたが、ご家族にお願いはできましたか。
大口)最初は「いいよ」とやってくれるのですが、家族もストレスを抱えているので、夜寝ているときに、トイレで起こすと嫌な雰囲気になります。「面倒くさいな」というのが感じられるようになって。家族にも頼みづらくなっていきました。
西村)今後、避難所運営にはどのような支援やサポートが必要だと思いますか。
大口)東日本大震災や熊本地震の経験を経て、防災に関しての法整備が進んでいますが、能登半島地震で感じたのは、高齢者、障害者に対応したマニュアル作りをしなければいけないということ。障害がある人は何もできなくなってしまいます。
西村)そのためにはどうしてほしいですか。
大口)一刻も早く法整備をし、福祉避難所が機能するようにする。個別避難計画を作ってもらいたいです。
西村)福祉避難所が早く開かれたらよかったですか。
大口)福祉避難所も被災地にあったので動いていませんでした。
西村)開設できない状況だったんですね。だから小学校に行ったんですね。
大口)本来なら、民生委員や個別避難計画に基づいた連絡員が来てくれるはずが、全く機能していなかったのが現実です。
西村)一般の避難所でも障害がある人が来たときの対策を考えておかなければいけませんね。
大口)障害者だから周りから離れるのではなく、障害者だからこそ、自分が障害を持っていること、自分という人間がいることを地域に示しておくことが大事だと思います。それはすごく簡単こと。挨拶をすればいいんです。「おはようございます」「こんにちは」「さようなら」「ごきげんいかがですか」これだけでいいんです。
西村)どんな風に声をかけて助けて欲しいですか。
大口)震災に関わらず、日常も同じですが、急に腕をつかまないでください。親切でやってくれるのはわかるのですが、急に腕をつかまれたら怖いです。「できればお手伝いしましょうか」とまず声をかけてくれたら、「大丈夫です」「お願いします」という対応ができます。
西村)まずは「お手伝いしましょうか」という声掛けから始まるコミュニケーションを大切にしたいですね。大口さんどうもありがとうございました。
