第1506回「天気予報が消えた日~気象学者の遺言」(再放送)
取材報告:亘佐和子プロデューサー

西村)8月15日は終戦の日でした。戦争の体験談を聞いて、改めて平和について考えた人も多いのではないでしょうか。戦後80年の夏を目前に控えた今年6月、1人の気象学者が亡くなりました。元気象庁 気象研究所 研究室長 増田善信さん。101歳でした。ネットワーク1・17では、2021年8月に「天気予報が消えた日」というテーマで、亘佐和子記者による増田さんのインタビューを放送しました。戦争中の体験から、気象の専門家として、戦争と平和の問題に向き合い続けた増田さん。追悼の思いを込めて、4年前のインタビューをお届けします。お聞きください。
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西村)きょうは、この番組でもたびたびテーマにしている天気予報について、いつもとは違う視点でお伝えします。
 
亘)よろしくお願いします。わたしたちの生活の中で天気予報は大切ですよね。
 
西村)そうですね。毎日チェックしています。
 
亘)天気予報がない生活は想像ができないですが、過去に天気予報が秘密にされた時代がありました。
 
西村)なぜですか。
 
亘)1941年12月8日に日本軍が真珠湾を攻撃して太平洋戦争が始まってから、1945年8月に戦争が終わるまで、天気予報は軍事機密として、市民には伝えられなかったのです。戦争で多くの命が失われましたが、大切な天気予報や気象に関する情報が伝えられなかったために失われた命もたくさんありました。今回、この天気予報が軍事機密だった時代のことを証言してくださる人にインタビューすることができました。元気象庁気象研究所 研究室長で気象学者の増田善信さんです。天気予報が伝えられなくなった1941年12月8日、増田さんは18歳でした。京都府宮津市の観測所に勤務していて、出勤する途中にラジオで真珠湾攻撃を知ったそうです。世の中は「勝った、勝った」の大騒ぎ。増田さんは天気図を書く当番にあたっていて、夜の6時、いつものように中央気象台からの無線を聞いて天気図を書こうとしたところ、いつもとは違う数字が読み上げられたそうです。そのときの話をお聞きください。
 
音声・増田さん)その日は、突然全く違った電報が入ってきたんです。「そういえばきょうは開戦の日だ。変更があったのかもしれない」と思い、約200m離れたところにある所長の官舎にいって、「所長さん、変な電報がきましたよ」と言いました。所長は驚かず「おー、来たか」と金庫を開けて、真っ赤な表紙の2冊の本を出したんです。「これを使えば暗号は解読できる」と。その日から天気予報が一般の人には知らされることはなくなり、台風が来ても警報を伝えられず、風向や風速などの気象資料も一般の人には伝えてはいけないことになりました。
 
音声・亘)なぜ一般市民に伝えなくなったのですか。
 
音声・増田さん)市民がスパイ的な行為をして、気象資料をアメリカに渡すかもしれないという心配があったんだと思います。戦争が終わる最後まで、気象管制が続けられました。
 
音声・亘)日本の天気のデータをアメリカに知られてはまずいということですね。
 
音声・増田さん)飛行機で爆撃するときは、相手国の天気を知って、天気のいい日や目標がよく見える日に爆弾を落としていたんです。
 
音声・亘)市民のみなさんは困ったのではないですか?
 
音声・増田さん)いちばん影響を受けたのは漁師。命に関わることがある。特に日本海側は冬の季節風が吹く時、大変危険な状態になります。普通の漁船だと転覆の恐れもある。季節風が吹くときは天気予報を教えてあげたかったができなかった。残念でしたね。
 
西村)漁師という命がけの仕事をする人にとって、天気予報が知らされないのは大変だったでしょうね。
 
亘)日本海側の冬の天気は非常に変わりやすく、晴れていても急に暴風雪に変わることがあります。仲良くなった漁師さんに「明日の天気どうですか」と聞かれることもあったそうです。しかし、教えてはいけないと国から言われているので教えられない。仕方なく、「きょうは天気がいいですが、明日はどうでしょうね」と言って、明日の天気が悪くなることをなんとなくわからせることしかできなかったそうです。それがとても心苦しかったと話しておられました。
 
西村)本当につらいですね。一般の人に知らされない天気予報は、戦争中はどのように使われていたのでしょうか。
 
亘)ひとことで言うと、戦争のために使われました。海軍の航空部隊にとって天気は作戦上、非常に重要でした。増田さんも1944年に海軍に入り、気象隊の一員として航空部隊に天気図の説明をする仕事をしていました。増田さんにとって忘れられないのが 1945年8月の6日・7日・8日の3日間、増田さんは島根県の大社航空基地から沖縄に向けて特攻出撃する兵士に天気図の説明をして送り出しました。
 
西村)特攻とは敵に体当たりする攻撃ですね。
 
亘)兵士が死ぬことが前提になった攻撃。死がわかっている兵士に天気図の説明をして送り出したという増田さんのお話を聞いてください。
 
音声・増田さん)8月6日・7日・8日の3日間、わたしのいた大社基地から沖縄特攻が出されました。兵士が飛行服を着て、白いマフラーをつけて並んでいる。飛行長が「ただいまから那覇空港の敵船、輸送船の攻撃を命ず」という命令を出す。その後、わたしが黒板に貼ってある天気図で天気の説明をしました。大社基地から宮崎県の都井岬を越えて南下し、那覇の上空で魚雷を投下するまでの道筋の天気予報です。那覇上空の天気予報も非常に重要でした。自分の落とした爆弾によって、敵の目標が見えなくなると大変なので、必ず風上に向かって飛行機を侵入させなければならない。風の方向、雲の高さ、雲の量などが非常に重要。那覇の上空の細かい天気予報を教えました。飛行長が「かかれ」と号令をかけると、それぞれが自分たちの飛行機にわかれて乗っていきました。今でもその光景は忘れられません。夕焼けの中を南西の方向に向かって編隊で飛んで行きました。ほとんど帰ることができないのがわかっているのに。こんなことで果たして勝てるのかと思いながら送り出しました。
 
西村)自分が説明した天気の情報が人の命を奪うために使われて、その攻撃する兵士自身も死んでしまう......本当にやりきれない話ですね。
 
亘)天気予報は戦争と密接に関連していて、戦争の歴史の中で発達してきたところもあります。命を守るために使われることもあれば、命を奪うためにも使われる。命に直結する情報なのだと改めて思います。
 
西村)戦争中に天気予報が伝えられなくなっても、自然災害はありましたよね。
 
亘)1942年8月に山口県を襲った周防灘台風がありました。台風が上陸し、夜中に高潮が発生して、死者・行方不明者が1100人を超える大きな被害が出ました。このとき事前に被害が予想されていたのですが、天気の情報は一般の人に伝えられませんでした。増田さんによると、特例で1回だけ暴風警報が発表されたそうです。でも台風の位置、進路などの情報は出されなかった。それで多くの人が高潮にのみ込まれてしまったのです。
 
西村)恐ろしかったでしょうね。どれぐらいの台風がいつ来るかがわかっていたら備えることもできたし、救えた命もあった。
 
亘)守れたはずの命が守れなかったのです。1944年12月7日には昭和東南海地震が起こりました。亡くなった人は1200人を超える大きな被害でしたが、この被害情報も隠されました。
 
西村)なぜ隠されたのですか。
 
亘)日本が大きな被害を受けことが敵に知られるとまずいからです。1945年1月には三河地震が起こり、愛知県などで2300人が亡くなりましたが、この被害情報も隠されました。東海地方は軍事的にも非常に重要な拠点だったので、大きな被害があったことはオープンにしてはいけない情報だったのです。当時、日本が戦争で負け続けていることも隠されていました。とにかく正しい情報は隠される時代だったのです。この時代を振り返って、今どういうことを感じているのか増田さんに聞きました。
 
音声・増田さん)戦後、天気予報が復活したのは、1945年8月22日。最初に東京地方の天気予報が一般市民に伝えられました。わたしは戦争中もいろいろと感じることがありました。「今に神風が吹く。必ず勝つ」という標語がそこらじゅうに貼ってあった。何かにつけて「今に神風が吹く」と先生が生徒に教えていた。気象の専門家として、「神風なんか吹くはずがない」ということがわかっていっても、それを口に出すことができなかった。勇気がなかったと言えばそれまでですが、わかっていながらみんなに伝えることはできなかった。天気予報がなくなるということは本当に大変な事態です。全てが戦争状態になることを意味します。したがって、天気予報が生きているということは、平和な社会が存在しているということと同じ。天気予報は平和のシンボルだと思います。天気予報をなくす事態は絶対に起こしてはならない。
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西村)「天気予報は平和のシンボル」という増田さんの言葉が心に響きました。
増田さんは、戦争中に大切な気象の情報を伝えることができなかった反省から、戦後、平和のために様々な活動をされました。広島に原爆が落とされた後に降った「黒い雨」の裁判では、広島の現場を詳しく調査して、「国が認定した区域よりも広い範囲に黒い雨が降った」ということを証明しました。
増田さんの論文が、黒い雨で健康被害を受けたという原告の主張を支えたのです。
きょうは、戦争と平和と天気について、先日亡くなった気象学者の増田善信さんのインタビューをお届けしました。