第1535回「東日本大震災15年【2】~23歳の語り部」
ゲスト:語り部 岩倉侑さん

西村)きょうは、東日本大震災のシリーズ2回目をお届けします。ゲストは、東日本大震災で被災し、自身の避難生活や震災の教訓などを語り継いでいる岩倉侑さんです。
 
岩倉)よろしくお願いいたします。
 
西村)岩倉さんは現在23歳。社会人1年目ですね。
 
岩倉)はい。この春で2年目になります。
 
西村)今はどちらにお住まいですか。
 
岩倉)兵庫県西宮市に住んでいます。
 
西村)どんなお仕事をしているのですか。
 
岩倉)大阪のインフラ企業で働いていて、毎朝新大阪に出社しています。
 
西村)岩倉さんが経験した15年前の3月11日のことを教えてください。
 
岩倉)当時、宮城県の石巻市という海が近い町に住んでいました。小学校の2年生の終わりの3月の出来事でした。8歳のときです。
 
西村)何をしているときに揺れが起こったのですか。
 
岩倉)教室で「帰りの会」をしている最中に揺れが来ました。3分間ほど揺れが続いたのですが、小学生の力では支えられないほどの揺れが襲ってきたのを良く覚えています。
 
西村)どう行動したのですか。
 
岩倉)避難訓練していたように机の下に潜ったのですが、2~3mほど離れたところまで机ごと動いてしまいました。
 
西村)ケガはなかったですか。
 
岩倉)ケガはなかったです。
 
西村)良かったです。そこからどうしたのですか。
 
岩倉)すぐに教室から校庭に逃げました。その後、学校の裏にあった高台に避難しました。小学校から海までは、子どもの足で10分かからないくらい海に近い場所だったので、津波から避難するために高台に逃げました。
 
西村)岩倉さんが通っていた小学校は、宮城県石巻市にある門脇小学校。今は震災遺構になっていますね。高台とは、裏の日和山のことですか。
 
岩倉)そうです。小高い丘のような場所です。
 
西村)日和山に避難したときは、大津波警報は出ていたのですか。
 
岩倉)出ていました。校庭の防災無線のスピーカーからずっと大津波警報のサイレンが鳴っていました。
 
西村)日和山への坂道を登っていたとき、どんな気持ちでしたか。
 
岩倉)何にも考えていませんでした。最初の揺れ以降もかなり強い揺れが何度もやってきて。揺れに耐えながら高台に逃げることに気持ちが向いていたと思います。
 
西村)日頃からの避難訓練で、みんなで逃げる練習をしていたのですね。
 
岩倉)はい。全員で高台まで逃げて、列の最後尾の人が山の中腹くらいまで来たら学校に戻る...という訓練をずっとしていました。
 
西村)どれぐらいの頻度で訓練をしていたのですか。
 
岩倉)1学期に1回ぐらいのペースでやっていました。
 
西村)避難訓練の成果が出て、みんなでさっと行動して、逃げることができたのですね。
 
岩倉)実際に揺れたあとに逃げる経験は初めてだったのですが、訓練より時間がかかったなどの混乱はなく、スムーズに避難することができました。
 
西村)やっぱり訓練は大切ですね。
 
岩倉)「地震が起きた時にこうしよう」と想像しているだけでは、人は動けない。訓練と同じように行動することしかできないのだと感じました。
 
西村)みんなで日和山に登ってその後どうなったのですか。
 
岩倉)頂上にある少し広めの公園まで登り切りました。避難が終わったときにちょうど津波がやってきました。津波そのものは見ていませんが、波が高台にぶつかったときの凄まじい音と衝撃は覚えています。波が自分の足元の山を切り崩すような感覚があって。高台に逃げられたけど、「死ぬんじゃないか」と思いました。
 
西村)小学2年生でそんな経験をしたのですね...。門脇小学校の児童224人は校内にいましたが、津波が来る前に日和山に避難して全員が無事だったとのこと。学校はどうなったのですか。
 
岩倉)2m前後の津波が学校にも到達しました。さらに津波火災もありました。津波と火事は水と火なので、同時に被害を受けるイメージはあまりないと思います。津波で流れてくるゴミや瓦礫に火がついたり、流れてくる車のガソリンが漏れて、引火して火事が起きたり。その火が校舎にも燃え移りました。
 
西村)自宅はどうなったのですか。
 
岩倉)海と小学校の中間にあった自宅は津波と火災でなくなってしまいました。約2ヶ月後のゴールデンウィークに初めて自宅の目の前まで行きました。そのときにはもう土台しか残っていませんでした。
 
西村)家族は無事でしたか。
 
岩倉)わたし含めて6人家族、全員無事で生き残ることができました。
 
西村)良かったですね。家族とはいつ、どれぐらいのタイミングで会うことができましたか。
 
岩倉)祖父母と妹の3人とは、地震発生直後に避難した高台で合流することができました。
 
西村)会ったときの気持ちは、覚えていますか。
 
岩倉)高台に迎えに来てくれるとは思っていなかったので、「何でここにいるの」と驚いたのを良く覚えています。それと同時に、家族といるとすごく安心でした。本当に「来てくれてありがとう」という気持ちでした。
 
西村)家族は、小学校で地震が起こったら日和山に避難することを知っていたのですか。
 
岩倉)知らなかったです。祖父母と妹がわたしを迎えに小学校まで来たのですが、すでにわたしは高台に逃げていたので、それを追いかける形で高台に来て頂上で合流したという流れです。
 
西村)そうだったのですね。日頃からどこに避難するか、連絡手段などを共有しておくことが大切だと思います。何よりも家族が無事で本当に良かったです。
 
岩倉)両親は、地震発生当時は、石巻市にいませんでした。母は宮城県・仙台市に用事で行っていて、父は単身、群馬県で働いていました。地震の知らせを聞いて、翌日の3月12日には2人とも一緒に町に戻ってきました。夜通し車を運転して。12日の昼ごろには石巻市にいたらしいのですが、わたしと再会できたのは3日後の3月14日でした。
 
西村)そうだったのですね。お父さんとお母さんに会うまでは不安だったのではないですか。
 
岩倉)祖父母と妹がいたので、心配で仕方ないということはありませんでした。ただ両親の姿がないことは、わたしも妹も気づいていたので、もしかしたら2人がいるところは自分のいるところよりもっと大きな被害があって、もしかしたら亡くなったのではないかと感じていました。
 
西村)両親と会えたときはどうでしたか。
 
岩倉)映画のワンシーンのように抱き合ったことを良く覚えています。わたしは、震災の当日に高台の避難所に移ったのですが、震災の3日後、両親はその避難所に来てくれました。畳敷きの柔道場に100~200人がぎゅうぎゅう詰めで避難をしていて。両親は、避難所を転々と探す中で、柔道場に行きついて迎えに来てくれて。「ここにいたんだ!」とみんなで抱き合ったのを覚えています。
 
西村)その後は、家族でその避難所にいたのですか。
 
岩倉)別の避難所に行きました。
 
西村)ご飯は食べられましたか。
 
岩倉)両親と会うまでの3日間は、1回しか配給がもらえませんでした。
 
西村)1回だけだったんですか!何を食べたのですか。
 
岩倉)家族4人に紙コップ一杯の水、小さいバナナ、カロリーメイトが渡されたのですが、「避難所の人全員分に行き渡るかわからない。とりあえず届いたものを配っただけだから、まだ食べるな」と言われました。なので、実際食べたかは覚えていません。
 
西村)配る方も混乱していたのですね...。家族はその後どうしたのですか。
 
岩倉)家族6人で海から数km離れた内陸側の避難所に移り住みました。津波が来た感覚から、もう家には戻れないことは察していたので、もっと食料が豊富にある避難所に行くことにしました。
 
西村)岩倉さんが語り部を始めたのは、いつどんなきっかけだったのですか。
 
岩倉)大学1年生の秋ごろに始めました。地元を離れて名古屋の大学に進学したのですが、名古屋は津波の被災経験がある人がいないエリアで、東北の語り部の話を聞きたいという声をたくさんいただいて。少しずつ自分の経験を語るようになったのがきっかけです。
 
西村)最初に話したときはどうでしたか。
 
岩倉)初めての経験で緊張したのを覚えています。今まで自分の話を聞いた人から「ためになったよ」と言ってもらうことが初めてだったので、自分の経験は無駄ではなく、誰かの防災の役に立てた、とうれしく感じました。
 
西村)語り部をやってみて感じたこと、発見したことはありますか。
 
岩倉)自分の記憶が整理されました。最初は、漠然とあったことを喋っていたのですが、伝えるためにどうしたら良いのかを考えるうちに、事実と気持ちの関係、経験したことを整理して捉えられるようになりました。それは語り出したからこそできたことです。
 
西村)番組を聞いている人の中には、大きな地震を経験していない人多いと思います。どんなことを伝えたいですか。
 
岩倉)いつも簡単なひらがな5文字で伝えています。「すぐにげる」です。この5文字を意識して日々の生活してほしい。「避難リュックの用意」「避難ルートの見直し」ほかにも大切なことはたくさんあるのですが、たくさん覚えていても、実際、災害が起きたときは、なかなか実行できない。備えがない外出先で災害に遭うかもしれない。どんなケースにも対応できる「すぐにげる」という5文字を意識することが大事だと思います。
 
西村)まずは「すぐにげる」ですね。備えの話もしてくれました。岩倉さんはどんな備えをしていますか。
 
岩倉)食料・水はもちろん、避難所に支援物資として届きにくいものを準備しています。
 
西村)どんなものが届きにくかったですか。
 
岩倉)衛生用品などその人ならではの必要なものはなかなか届きません。高齢者と一緒にいるなら、高血圧の薬、介護が必要な場合は、紙オムツ、赤ちゃんと一緒にいるなら、常温保存できる液体ミルクとか...。粉ミルクはお湯かがないと避難所で作れません。支援物資は、みんなに必要なものが中心で、個別で必要なものは、なかなか届かないんです。ましてや、スーパーやドラッグストアは、災害時は開いてないので手に入れにくい。自分で事前に用意しておくことが重要です。
 
西村)しっかりと普段からの備えを確認・準備しておくことが大切ですね。岩倉さんどうもありがとうございました。