ゲスト:一般社団法人「健太いのちの教室」田村孝行さん
西村)きょうは、東日本大震災のシリーズ3回目をお届けします。ゲストは宮城県女川町で、津波により当時25歳の息子さんを亡くされた田村孝行さんです。
田村)よろしくお願いいたします。
西村)息子さんの健太さんは、震災当時、親元を離れて女川町の七十七銀行に勤務していました。銀行から走って1分のところに高台がありましたが、支店長の指示で屋上へ避難し、津波にのまれて亡くなりました。田村さん、改めて当時の状況を教えてください。
田村)15年前、息子は東京の大学を卒業し、七十七銀行女川支店に勤めていました。女川町は震度6弱の地震に見舞われました。宮城県には6mの大津波警報が発令され、防災無線から鬼気迫る呼びかけが行われていました。銀行は10mの2階建てでした。地震発生時、支店長は不在。行員は指示のないまま片付けをしていました。2人いたお客さんは、自らの判断ですぐに避難していったそうです。
西村)片付けた後どうなったのですか。
田村)2時46分に地震が発生した約10分後に支店長が戻ってきました。息子は地震が起きたあと、いつでも逃げられるように銀行の入口の扉を開けていたらしいんです。しかし、帰ってきた支店長は、先輩の行員と息子に「扉を閉めなさい」「書類を金庫にしまいなさい」「屋上に行って、海の様子を見ていなさい」と指示を出したんです。扉を閉めてしまったので、企業管理下の密室になってしまいました。
西村)息子さんはいつでも外に逃げられるようにしていたのですね。屋上に避難してからどうなったのですか。
田村)行員は13人いました。1人のパートさんは、「子どもが小さいから帰りたい」と何度も折衝して帰りました。残った13人は、だんだん津波が迫ってきて、屋上にあがりました。町の指定避難場所は銀行から260m先の海抜16mの高台にある4階建ての病院。裏には標高50mの堀切山があります。ゆっくり歩いても3分の場所です。目の前の堀切山には、街の人が集まってきている。息子は「高台に避難しよう」先輩の行員に言ったそうです。この話は、奇跡的に助かった1人の行員から銀行を介して聞いた話です。その人は、海に流されて、岩にしがみついていたところを漁船に助けられたそうです。12人が犠牲になりました。4人は見つかりましたが、8人は今も行方不明です。
西村)息子さんは、裏の高台に逃げなかったということですか。
田村)逃げたくても逃げられなかった。支店長の指示命令で動くことができなかったんです。息子も「本当にここで大丈夫なのか」と考えていたと思うのですが、やはり企業管理下における指示命令の中では動けなかった。男性は転勤族が多かったですが、女性は現地の人が多かったので、「地震のときは山に逃げなければならない」とわかっていたけど、それが言えなかった。これは、企業管理下の組織の課題だと思います。
西村)銀行の屋上の高さは何mだったのですか。
田村)10mです。その上に電気室があって、30cm幅の垂直のはしごがついた3.5mの塔屋がありました。津波は約30分後に来ました。逃げ場を失った13人の行員ははしごを使って塔屋に登りました。塔屋は畳2枚ぐらいしかない広さで手すりもない。当時は雪が降って寒い中、女性の行員はスカートで登りました。それを堀切山からみんなが見ていました。「なぜ銀行の人は屋上にいるんだ」「こちらに来なさい」と大きい声で呼ぶけど、銀行の人たちは来ることはできなかった。津波がおしよせてきたのが15時25分頃です。
西村)健太さんは同僚に「裏の堀切山に逃げなくていいのか」と話していたのに...。
田村)そのような言葉を残していました。危険性は十分に知っていたんです。行員たちは、13.5mの塔屋からどんどん流されました、最後の行員はスーツの上着を脱ぎ捨てて、手を広げて、特攻隊のように飛び込んだそうです。流木や瓦礫に捕まって何とか急死を得ようしたのだと思います。息子は半年後に見つかりました。
西村)半年も見つからなかったのですか...。
田村)半年後に見つかった息子は、ネクタイにワイシャツ姿でした。わたしは、最後の上着を脱ぎ捨てて飛び込んだ人物は健太なのだろうと思っています。
西村)何mの津波が襲ってきたのですか。
田村)約20mです。遡上するともっと高くなっていたはずです。
西村)屋上は10mしかなかったんですね。
田村)宮城県の情報によると、宮城県沖地震は99%起きるといわれていました。女川町には、5.9mの津波が来ると想定していた。女川町の場所はリアス式海岸。Vの字になっていて、津波が2~3倍に増える。5.9mの2~3倍となると、20m以上の津波が来てもおかしくない。過去にも三陸沖にはそれ以上の津波が来ているんです。でも銀行は10mの建物を安全な場所と判断したのです。
西村)屋上に上がっていれば、大丈夫だろうと...。
田村)銀行によると、震災発生の2年前に防災プランを改定したとのこと。町の指定避難場所は堀切山ですが、堀切山よりずっと低い銀行の屋上も、堀切山と並列した避難場所として使うと付け加えた。緊急時対応プランがあると我々に言うんです。なぜ町の指定避難場所ではなく、民間企業が勝手に決めた屋上が避難場所になるのかが疑問です。
西村)リアス式海岸のため、波が遡上して高くなることは知っていたのでしょうか...。
田村)調べていたのかはわからないのですが、県からアドバイスをもらったと主張していました。しかし、県に照会をすると、一企業に防災プランのアドバイスはしないと。わたしは原因を究明して、改善していかなくてはならないと思いました。そして、女川支店の行員の家族全員に手紙を書いて、みなさんを集めて家族会を作ったんです。銀行との話し合いは5回ほどしましたが平行線。曖昧にしてしまう。肝心なことを濁らせてしまう。「支店長判断はやむを得なかった」「想定外の津波のためしょうがない」と言うんです。あまりも冷たくて話し合いは紛糾しました。
西村)田村さんはその後「健太いのちの教室」という団体を立ち上げて、働く人の命を守る企業の防災対策の必要性を訴え続けているのですね。南海トラフ巨大地震、首都直下地震など、これから大きな地震が予想されています。同じ過ちを繰り返さないために企業はどんな取り組みをすれば良いと思いますか。
田村)わたしたちが法人を立ち上げたのは、息子が命をかけて教えてくれたこの教訓を生かすため。大企業の心を動かすためです。人命第一の企業文化を作っていかなければならない。愛情や優しさによる人の心があれば、経済合理性よりも命を優先するはず。根本は企業のあり方。風通しの良い、誰もが柔軟に語り合えて仕事ができる職場環境を作ることが命を守ることにみつながっていく。日本はどうしても組織の中に同情圧力や縛りが出てきますよね。
西村)当時25歳で若い息子さんは、なかなか意見が言いにくかったのかもしれないですね。
田村)上意下達といった日本古来の良くない風潮が最悪の結果を招く可能性もあります。これを変えていきたいと思っています。
西村)自分の意見を受け止めてもらえる職場の環境作りが大切ですね。
田村)あとは具体的な対策が必要。コンサルタントに任せるのではなく、個々のリスクを自分で調べること。みんなで意見を出し合って、即効性のある訓練を繰り返しながらバージョンアップしていく。より実効性にやっていかなければ、いざというときに体は動きません。わたしたちの事案をケーススタディとしている静岡銀行では、各支店のリスクを出して、行員全員で意見を出し合いながら、避難場所や備蓄を進めています。静岡県は津波の危険性もあるので、シェルターを設置するなど、人命第一の備えをしているんです。地域の人々と一緒に訓練もしています。一番すごいのは、マニュアルを変えたこと。七十七銀行は、資産保全がメインでした。例えば、有事の際には「本部に連絡する」「書類をしまう」など。これが縛りになって体が動かなかった。でも静岡銀行は、「有事の際は金庫や店舗の施錠も不要」と言い切った。本当に命を守るためのマニュアルに変えたんです。第1は従業員、そしてお客さん。七十七銀行にも変わって欲しいのですが...。いつかは変わってくれると思っています。わたしは銀行を責めも、憎みもしていません。銀行と一緒にこの事案に向き合って、安全啓発に努めていきたいと思っています。
西村)田村さんどうもありがとうございました。
