第1334回「災害時のトイレ対策」
ゲスト:NPO法人「日本トイレ研究所」代表理事 加藤篤さん

西村)関西でもたびたび地震が起こっていますが、みなさんはトイレの備えをしていますか。
きょうは、災害時のトイレ問題に取り組んでいるNPO法人「日本トイレ研究所」代表理事 加藤篤さんにお話を伺います。
 
加藤)よろしくお願いいたします。
 
西村)「日本トイレ研究所」を設立したきっかけや経緯についておしえてください。
 
加藤)排泄は人間の生命や尊厳に関わる大切なこと。デリケートな話題で声に出しづらい問題でもあります。子どもの排泄、災害時のトイレ、街中のトイレのバリアフリーなど「トイレ」という切り口で、社会をより良くしていきたいという思いで取り組んでいます。
 
西村)トイレは生きるために欠かせないものですよね。災害時のトイレ問題はどんなものがありますか。
 
加藤)大きな災害が起きると、停電、断水になり、水洗トイレの多くは使えなくなってしまいます。
 
西村)なぜ使えなくなるのですか。
 
加藤)水洗トイレは、レバーをひねれば全てを解決してくれるものですが、電気も流す水も必要です。さらに排水管、下水道、浄化槽など汚水が流れていく先もしっかり機能していなければ使えません。
 
西村)災害時には、お風呂に溜めた水をトイレに流すと良いと聞いたことがあります。
 
加藤)大きな災害が起きた直後は、状況が把握できるまで一旦トイレの使用を控えましょう。なぜなら無理に流すと、下の階の人に迷惑がかかるかもしれないからです。
 
西村)下の階はどうなってしまうのでしょうか。
 
加藤)もし地盤沈下が起きて、排水管の先が潰れていたら、みんなが水を流すと汚水の行き場がなくなって、逆流して、1階のトイレから溢れることも考えられます。わかる範囲で確認することが必要です。
 
西村)「震度5以上はトイレの水を流さない」などの線引きはあるのですか。
 
加藤)建物の古さ、設備、耐震化の状況、建物が建っている場所の地盤によっても影響が異なります。一概には言えませんが、状況がわからないときに、トイレの水を流すのは控えた方が良いです。
 
西村)東日本大震災のときもトイレ問題はありましたか。
 
加藤)水洗トイレが使えなくなり、たくさんの人が困りました。トイレが使えなくなっても排泄は必要。過去には、災害後3時間以内に約4割の人がトイレに行きたくなったというデータがあります。水も飲めない、食事もとれない状況で、自分の命を守り、安全な場所に避難している中で、4割の人がトイレに行きたくなるのです。すごく早い段階でトイレ対応をしなければならないのですが、水洗トイレは使えません。水が流せなくなった便器に排泄せざるを得ないので、あっという間に大小便で満杯になり、不衛生になってしまいます。
 
西村)溢れてきてしまいますよね。
 
加藤)バケツや衣装ケースに排泄した人もいると聞きました。
 
西村)臭いも広がるし恥ずかしいですよね。
 
加藤)排泄するのも見られるのも運ぶのも嫌ですよね。トイレが不衛生になると感染症が広まります。トイレが不便になるとトイレに行かなくて済むように、水分を取ることを控えてしまいます。そうなると脱水します。ただでさえ体調が良くない状況で、水分を取らないでいると脱水を起こして、エコノミークラス症候群になってしまいます。
 
西村)熊本地震で車中泊をした人が長時間同じ体勢でいたことにより、エコノミークラス症候群を発症したという話もありました。
 
加藤)窮屈な姿勢で水分を取らずにじっとしているのはよくありません。災害時でもしっかり水分を取って、歩いてトイレに行くことがエコノミークラス症候群の予防になります。安心して行けるトイレをしっかり確保することが必要です。
 
西村)やはり災害時のトイレを準備しておくことが大事ですね。避難所には仮設トイレが整備されるのではないのですか。
 
加藤)市町村が避難所に仮設トイレを配備してくれますが、災害時のトイレは何で運ぶと思いますか。
 
西村)トラック?
 
加藤)そうです。災害時は、地盤沈下、建物倒壊、火災発生で大混乱。帰宅困難者もいて、トラックが通る道路がどうなっているのわかりません。広域な災害になればなるほど、各地で仮設トイレが必要になります。数も間に合いません。東日本大震災のときに被災した自治体29市町村にとったアンケートでは、3日以内に仮設トイレが行き渡ったところは34%。4日以上かかったところが7割。最も日数がかかったところは65日でした。
 
西村)2ヶ月以上!その間、バケツや衣装ケースなどをトイレとして使っていたのですか...。
 
加藤)少しずつ届くので、全体に行き渡ったのが65日ということです。
 
西村)でも行列もできるでしょうし、仮設トイレは、狭くて段差もあるのでお年寄りや子どもは使いにくそうですね。
 
加藤)仮設トイレは、工事現場などで使うために開発されているので、子どもやお年寄りにとっては使いづらいです。障がいがある人は使えない。
 
西村)目が不自由な人も使いづらいですよね。本当にトイレは大事ですね。
 
加藤)国土交通省は、仮設トイレの中でもワンランク上の仮設トイレのことを「快適トイレ」という名称に定めています。洋式で電気もついていて、サニタリーボックスも設置されている使いやすいトイレのことです。災害時に仮設トイレを調達するときは「快適トイレ」を依頼することも必要です。
 
西村)コロナ禍もあって、自宅や車中避難が主流になっています。私たちはどんな備えをすれば良いのでしょうか。
 
加藤)トイレに大切なことは安心です。真っ暗闇の中、雨が降っている中、エレベーターが止まっているときなどに外のトイレにいくのは大変。自宅のトイレを有効活用しましょう。そのときに便利なアイテム携帯トイレです。携帯トイレとは、袋式のトイレのことで、自宅の便器に取り付けて排泄し、袋の中に吸収シートや凝固剤を入れて、大小便を固めるものです。そうすることでいつもと同じように自宅のトイレで排泄することができます。建物が大丈夫なら、携帯トイレを備えておくことで自宅での避難生活が継続できます。これはとても大事なこと。
 
西村)携帯トイレは100円均一でも見かけます。いくつぐらい用意しておくと良いのでしょうか。
 
加藤)一度、1日にトイレに行く回数を数えてみてください。
 
西村)1日何回くらい行っているかな...?
 
加藤)人によって異なると思いますが、自分がトイレに行く回数を知っておくことが大事。目安としては、1人1日約5回×最低で3日分。できれば7日分あると良いと思います。
 
西村)ということは15回×家族分ということですね。量も多いですし、値段も高くなりそうですね。
 
加藤)安心してトイレを使えなければ、水も飲めなくなってしまう。そう考えると1個あたり100~200円で安心を確保できるのならリーズナブルなのでは。
 
西村)携帯トイレを使った後は、どのように捨てたら良いのでしょうか。
 
加藤)基本的には燃えるゴミとして捨ててください。市町村によって異なるので確認してみてください。
 
西村)携帯トイレは蓋付きのゴミ箱に入れる方が良いでしょうか。
 
加藤)はい。大小便が入っているので、どうしても臭いがします。庭やベランダなど生活空間と離れたところに、蓋付きの容器に入れて、雨や日光が当たらないように保管してください。
 
西村)我が家では、携帯トイレ以外にも、使えなくなった子どものオムツやペットシーツ、猫のトイレ用の砂なども活用しようと思っているのですが、それらは使っても良いですか。
 
加藤)人の排泄物なので、オムツは代用できると思います。基本的には、人が使っているもので代用する方が良いですね。
 
西村)トイレットペーパーも要りますよね。どれぐらい備蓄したら良いのでしょうか。
 
加藤)トイレの回数と同じで、1回当たりどのくらい使うのか、一度手に巻き取ったトイレットペーパーを伸ばしてみてください。それを測った長さ✕回数✕日数を出すと、1ヶ月でどのぐらい要るか計算できます。人によって安心できる量は変わると思いますが。
 
西村)実際にやってみたいと思います。災害時のトイレ対策として、私たちが今すぐできること、今すぐやっておいた方が良いことは何ですか。
 
加藤)まずは家族や会社の人、友人と災害時のトイレについて話すことが大事。その上で、自分の排泄を知ることが大事なので、トイレに行く回数を数えたり、トイレットペーパーの長さを測ったりしてみて、携帯トイレやペーパーを備えることは絶対必要です。
 
西村)停電してしまったらウォシュレットも使えなくなるから、その分トイレットペーパーも多く必要になりそう。多めに備えておくことも大切ですね。
 
加藤)トイレは窓がない場合が多いので真っ暗になります。空間全体を照らしてくれるランタン、両手が空くヘッドライトなどの照明も備えておいてください。
 
西村)ライトは、枕元には置いていましたがトイレには置いていませんでした。トイレにもランタンやヘッドライトを準備したいと思います。
きょうは、災害時のトイレ対策について、NPO法人「日本トイレ研究所」代表理事 加藤篤さんにお話を伺いました。
 

第1333回「大学生が小学生に防災出前授業」
ゲスト:関西大学 学生団体KUMC 防災教育班 
    社会安全学部 新3年生 牧野葵さん
    社会安全学部 新3年生 至田圭織さん

西村)きょうは、防災教育をテーマにお届けしていきます。子どもたちに防災を伝える活動をしている大学生のおふたりに来ていただきました。
関西大学 社会安全学部の新3年生で、学生団体KUMCのメンバー、牧野葵さん(20)至田圭織(20)さんです。よろしくお願いいたします
 
牧野・至田)よろしくお願いします。
 
西村)学生団体KUMCはどんな団体ですか。
 
牧野)KUMCは社会安全学部と総合情報学部に属している約180名のメンバーで構成されていて、防災教育版班、ハザード班、イベント班の3つの班にわかれて活動しています。
 
西村)おふたりは何班ですか?
 
至田)わたしは全部に入っています。
 
牧野)わたしは防災教育班とハザード班に入っています。
 
西村)おふたりはなぜ防災を学ぼうと思ったのですか。
 
牧野)私は高校2年生の時に大阪北部地震を経験しました。自分が知っている町が変わった姿で報道されているのを見て、初めて災害に対して恐怖を感じました。それがきっかけで勉強してみたいと思い、この学部を志望しました。
 
西村)大阪北部地震では実際に揺れを感じましたか。
 
牧野)感じました。
 
西村)そのときどう思いましたか。
 
牧野)怖かったです。ちゃぶ台の下に滑り込みました。
 
西村)実際に体験したことも含めて防災を学ぼうと思ったのですね。至田さんは?
 
至田)わたしは第1志望で関西大学の社会安全学部に入りました。社会安全学部では、自然災害以外にも社会災害についても学ぶことができます。その中で防災の勉強していくうちに興味を持ちました。
 
西村)KUMCの防災教育班はどのような活動をしているのですか。
 
牧野)防災教育班は、主に私たちが属している社会安全学部がある高槻市の小学校をメインに防災授業を行っています。学校から依頼を受けて、打ち合わせを行って、パワーポイントで教材を作り、小学校に出向いたりオンラインで授業を行ったりしています。
 
西村)コロナ禍でなかなか対面授業が難しいのですね。どんなテーマで授業をしているのですか。
 
牧野)最近は水害や地震について。土砂災害について触れることが多いですね。
 
西村)実際にどんなふうに授業しているのか聞いてみましょう。スタッフが先日取材をしてきました。3月2日に高槻市立磐手小学校5年2組の子どもたちに至田さんが授業をしている様子です。
 
音声・至田)防災授業をしたいと思います。よろしくお願いします。2018年に大阪北部地震があったのですが覚えていますか?
 
音声・子どもたち)覚えてる!震度6弱のやつやろ?
 
音声・至田)大阪北部地震では震度6弱の地震が起きました。大きな地震が起きたらどうなると思いますか?
 
音声・子どもたち)ブロック塀が倒れてくる!
 
音声・子どもたち)家が壊れる!
 
音声・子どもたち)地面が割れる!
 
音声・子どもたち)津波!

 
西村)大阪北部地震は今から4年前。児童のみなさんは1年生の頃です。よく覚えていますね。
 
至田)わたしも授業をしていて驚きました。
 
西村)オンラインでの授業ですが、子どもたちの反応はすごく良いですね。コロナの影響でオンラインの授業が多いのですか。
 
牧野)私たちは子どもたちと比べると外出範囲が広いので、依頼を受けたときに、オンラインか対面か希望を聞くようにしています。やはりオンライン希望の学校が多く、私たちの健康のことも考えて基本的にはオンラインで授業を行っています。
 
西村)牧野さんは同じ時間に、隣の5年1組の子どもたちに授業を行っていました。1組ではどんな話をしたのですか。
 
牧野)1組でも同じパワーポイントを用いて授業をしました。クイズをやったのですが、先生から難しい問題をお願いされて。作るときに私たちが小学生のときにできなかった問題を考えたのですが、子どもたちはすぐ答えてしまって。驚かされる場面がありました。
 
西村)それはどんな問題だったのですか。
 
牧野)災害用非常伝言ダイヤルの電話番号を月の3つの中から選んでください。
1番 117
2番 711
3番 171

 
西村)正解は?
 
牧野)3番 171です。
 
至田)「忘れていない(171)」と覚えてね、と紹介しました。
 
西村)そういう語呂合わせだったのですね!防災や災害は難しいという声も聞きますがクイズ形式で楽しく学ぶって良いですね。
 
牧野)楽しく学んでもらうのが一番と思っています。
 
西村)オンラインの授業ではパソコンの画面越しに子どもたちと話しますよね。難しいと思うことはありますか。
 
至田)小学生の声が聞こえにくいことがあります。答えてもらう人に前まで来てもらうなど工夫はしているのですが、コミュニケーションがいづらいことも。
 
西村)牧野さんはどうですか。
 
牧野)わたしも授業をやるときは、コミュニケーションがしづらいと常に感じています。本当は、1人1人の表情を見て授業を進めたいのですが、パソコン1台の画面に生徒全員が映っている状態なので。
 
西村)みんなの表情がわかりにくいこともありますよね。牧野さんはどんな工夫をしてわかりやすく伝えているのですか。
 
牧野)楽しんで覚えてほしいと考えているので、授業では子どもたちに問いかけをたくさんするようにしています。例えば「大きな地震が起きたらどんなことが起こると思う?」「非常用持ち出し袋の中には何を入れたらいいと思う?」などです。
 
西村)実際に磐手小学校5年2組の子どもたちが答えていますので聞いてください。
 
音声・牧野)非常用持ち出し袋は避難するときに持っていくものです。中には生きるために必要なものを入れておきましょう。みんなどんなものをいれたらいいと思う?
 
音声・子どもたち)お金!
 
音声・子どもたち)非常食!
 
音声・子どもたち)ラジオ!
 
音声・子どもたち)飲料水!
 
音声・子どもたち)薬とか包帯!
 
音声・子どもたち)懐中電灯と電池たくさん!
 
音声・子どもたち)手袋!
 
音声・子どもたち)携帯トイレ!
 
音声・牧野)みんないっぱい出てくるねー!

 
西村)みんなたくさん答えてくれていますね。懐中電灯だけではなく、電池もたくさんというのは大きなポイント。携帯トイレと答えた子がいましたが、知らない子もいるのでみんなと一緒に考えることはすごく大切ですね。今聞いていただいたのは、至田さんが授業をした5年2組の子どもたちだったのですが、牧野さんも同じ質問をしたそう。子どもたちはどんなふうに答えていましたか。
 
牧野)答えてくれる内容はほとんど同じでした。生きていくために何が必要かと聞いたので、食べ物や飲み物という答えが多かったです。
 
西村)まずは何が大事かを考えることも大切なことだと思います。実際におふたりは非常持ち出し袋を準備していますか。
 
牧野)非常持ち出しセットを取り寄せて家に置いてあります。
 
至田)私も家族と一緒に防災リュックを作って玄関の近くに置いて、すぐに持ち出せるようにしています。
 
西村)中に入れるものは、家族会議で決めたのですか。それともそれぞれが必要と思うものを入れていますか。
 
至田)購入したセットのほかに必要と思うものを入れています。
 
西村)至田さんが非常持ち出し袋にプラスしたものは何ですか。
 
至田)わたしは目が悪いので眼鏡を入れています。新しい眼鏡に買い替えたときに前に使っていたものを入れています。
 
西村)古い眼鏡を捨てるのではなく、非常用持ち出し袋に入れておくのですね。ほかに入れておいた方がいいと思うものはありますか。
 
牧野)コロナ禍では、マスクは絶対に必要。消毒液や除菌シートは小さいものでもいいので入れておいたら良いと思います。わたしも以前作った非常用持ち出し袋に入れていなかったと思うので確認します。
 
西村)今だからこそ必要なものもありますね。みなさんも、今一度チェックしてみてはいかがでしょうか。
おふたりは、子どもたちにこれからどんなことを伝えていきたいと思っていますか。
 
牧野)子どもたちに防災知識をもってもらいたいですが、それ以外にも実際の災害の写真を見たときに、自分ならどう行動するかを考えながら授業を受けてもらえたらうれしいです。
 
西村)大きな地震にあったことがない人には、想像できるツールが大事になってきますよね。至田さんは授業をしていて、子どもたちから教わったことや気づいたことはありますか。
 
至田)授業でクイズを作成したときに、知らなかったことや新しい発見がありました。
 
西村)それは何だったのですか。
 
至田)地震のときに避難する場所として、ガソリンスタンドは危ないと思っていたのですが、危なくないということを初めて知って。
 
西村)それはどんなクイズだったのですか。
 
牧野)「地震のとき逃げる場所として、一番安全な場所はどこでしょう?」というような問題だったと思います。
ガソリンスタンドは、ガソリンを扱っているので、簡単に壊れないように頑丈に作られています。災害時に避難する壊れにくい場所として最適。

 
西村)私も知らなかったです。クイズを通して防災を伝えているおふたり。子どもたちの反応はいかがですか。
 
牧野)磐手小学校の授業で川の増水に関して話をしたのですが、通常時の川の写真の後に増水時の川の写真を見せたんです。「雨が降るとこうなりますよ」と。そのとき「オー!」と歓声があがったんです。それがすごくうれしかったです。
 
西村)自分ごとに置き換えるきっかけにもなりますね。至田さんは印象的な反応や感想はありましたか。
 
至田)「クイズが楽しかった」などクイズに関する感想が多くてとてもうれしかったです。
 
西村)みんなで楽しみながら学ぶことの大切さを改めて感じますね。コロナ禍で活動がしにくい状況もあると思いますが、今の状況からどんなふうに変わっていったら良いと思いますか。
 
至田)わたしたちは、オンラインでしか防災授業をやったことがないのですが、子ども同士が意見交換できたら、子どもが主体的になれると思っています。
 
西村)牧野さんはこれからどんな活動をしていきたいですか。
 
牧野)今は子どもたちに向けて防災授業をしていますが、高齢者に向けた活動もできたらと考えています。先日「むすび塾」のオンラインミーティングに参加したのですが、そのときに高齢者の中には、災害時に逃げない選択を取る人がいると聞いて。逃げない選択肢をとらせないためにはどうしたらいいのか考えました。
 
至田)わたしも高齢者に向けて防災を伝えていきたいと思っています。わたしたちは防災を伝えていく立場ですが、学んでいくことも大事なので、語り部さんなどに話を聞いて、防災についてもっと知っていきたいです。
 
西村)学びを深めていくからこそ、子どもたちや高齢者に伝えられることも変わっていきますよね。わたしもラジオでみなさんに防災を伝えていますが、学んで、リスナーのみなさんと一緒に考えていきたいと思いました。これからもまた活動について聞かせてください。
きょうは、子どもたちに防災を伝える活動をしている関西大学 学生団体KUMC 防災教育班 牧野葵さんと至田圭織にお話を伺いました。

第1332回「子どものための災害備蓄レシピ」
電話:元・帝国ホテル総料理長 田中健一郎さん

西村)みなさんは、災害用備蓄食品はどんなものを、どれくらい用意していますか。普段から多めに食材や加工品をストックしておいて、食べたら買い足す「ローリングストック」を実践している人もいると思います。
我が家も、レトルトカレー、パスタソース、焼き鳥の缶詰などを備蓄しています。そのまま食べても美味しいのですが、グルメな子どもたちにも美味しいと言ってもらえるにはどうしたら良いのでしょうか。
そこできょうは、ひと手間加えるだけで備蓄用食品が美味しい料理に早変わりする「災害備蓄レシピ」を考案した元・帝国ホテル総料理長 田中健一郎さんにお話を伺います。田中さん、よろしくお願いいたします。

田中)よろしくお願いします。

西村)田中さんは長年帝国ホテルで総料理長を務め、去年、ホテルを退職したフランス料理のエキスパート。災害には、いつ頃、どんなきっかけで関わるようになったのですか。

田中)2004年の新潟県中越地震のときに、ホテルの料理長たちと何かできないかという話になりまして。食事で少しでも元気になってもらいたいという想いで、チームを組んで被災地に行って料理を作ったことがきっかけです。

西村)被災地の料理といえば、豚汁やカレーなどの炊き出しをイメージします。プロの料理人が集まって作るメニューはどんなものだったのですか。

田中)被災地で一段落した頃、少しでも食べる楽しさや美味しさに興味を持てるようになったときに、帝国ホテルをはじめ、主要ホテルの料理長が現場に行って、フランス料理を作りました。

西村)被災地でフランス料理ですか! どんな被災地に行ったのですか。

田中)新潟県中越地震、東日本大震災、熊本地震のほか大雨災害の被災地にも行きました。「一般社団法人 料理ボランティアの会」を発足し、「できる人が、できることを、できるだけ」の3D精神で活動しています。無理ぜずに継続することが大事だと考え、現在に至っています。

西村)被災地のみなさんは、フランス料理を食べてどんな表情をしていましたか。

田中)仮設住宅で調理を作っていたら、今まで輪に加われなかったおじいちゃんやおばあちゃんが出てきてくれたこともありました。お子さんたちが喜んでくれたのはもちろん、お母さんたちが本当に喜んでくれました。

西村)どんなポイントで喜んでいましたか。

田中)被災地では、目の前のことで精一杯。食べるものは、おにぎりや菓子パン、即席麺。そんな中、我々が作った温かい美味しい料理を食べて「久しぶりに食べるということは、楽しくて、うれしくて、幸せなことだと感じた」と感謝の言葉をたくさんいただきました。

西村)明日の暮らしに不安を感じているみなさんにとっては、幸せな時間になったでしょうね。

田中)我々の方が逆に元気をもらっていました。そんな経験を続けています。

西村)そんな中、田中さんが災害備蓄食品に注目したきっかけは?

田中)賞味期限の問題や管理の問題で、全国で年間約25万食の災害備蓄品が廃棄されています。そこで経済産業省から相談に乗ってほしいという話がありました。
「子ども食堂」の活動を始めようと思っていた矢先。災害備蓄品を子どもたちに美味しく食べてもらうメニューを開発することを思いつき、試行錯誤を続け、いくつかレシピが出来ました。


西村)我が家の災害備蓄品は、レトルトカレー、パスタソース、うどんの乾麺、パスタ、焼き鳥の缶詰、鯖缶、フルーツ缶...いろいろあるのですが、なかなかアレンジするところまではいかなくて。気がついたら賞味期限が切れていて廃棄することも。子どもたちに缶詰をそのまま食させても「美味しくない」と言われてしまいます(笑)。簡単に美味しく栄養バランスの良い食事を作ることができないかと考えてきた中で、田中シェフ考案の災害備蓄レシピが救世主になりました。賞味期限間近の缶詰でも簡単に美味しく作ることができるのは助かりますね。ワクワクしながら実際に作ってみました。

田中)ポイントは3つあります。備蓄品はほとんどが大人の向けの味付けなので味の濃さに気をつけること。誰でも簡単に作ることができること。そして一番大事なのは、子どもに喜んで食べてもらえること。
この3つを押さえておくことが重要です。


西村)確かに子どもが喜ぶ料理は、大人も美味しいと思うものがほとんどですよね。災害備蓄食品は、大人向けで味が濃いということも考慮された子どもも喜ぶレシピ。いくつかある中から2つのメニューを紹介したいと思います。
まず一つは、「アルファ化米の五目ご飯オムライス」です。

田中)アルファ化米は備蓄品中には必ず入っていると思います。お湯を入れて15分ぐらい蒸して、そのまま食べられます。アルファ化米は普通のお米に比べて、パサパサして舌触りが良くない。ピラフにすることによって、この欠点をカバーすることができます。

西村)知りませんでした。

田中)レストランのオムライスはチキンピラフが多いですよね。チキンピラフのかわりに、焼き鳥の缶詰を粗目に刻んで、中のつけ汁も捨てずに茹でたアルファ化米と混ぜます。軽くフライパンで炒めるときも油は入れなくて大丈夫。焼き鳥のタレには油分が含まれているからピラフのようになります。ケチャップを入れたり、少し胡椒を振ったりしても美味しいです。バターを少し加えてみても良いですね。フライパンで火にかけなくても、ボールで全部混ぜ合わせてお皿に盛って、電子レンジで温めても十分。

西村)このレシピは、災害時に作る想定ではなく、電気やガス、水道などが通っている平常時に作ることを想定しているのですか。

田中)平常時も災害時も作ることができます。

西村)カセットコンロがあれば、停電していても作ることができますね。

田中)アルファ化米の器の中に、刻んだ焼き鳥とケチャップを入れて味付けをしても大丈夫です。

西村)アルファ化米の袋は、結構丈夫ですものね。洗い物も少なくて済みます。簡単で子どもたちと一緒に作ることができました。

田中)それが大きなポイント。お子さんたちと一緒に料理を作ることでコミュニケーションが生まれます。

西村)卵をかき混ぜるなど簡単な作業が多かったので、子どもたちも楽しんで作ってくれました。オムライスは、ワクワクするメニュー。ケチャップで絵を書いて楽しんでいました。

田中)それは楽しいと思います。

西村)これはぜひ、日常のメニューに加えたいと思いました。簡単なのに美味しいというのが良いですよね。焼き鳥の缶詰のタレが良い仕事をしてくれます。

田中)ほとんど味付けしなくても焼き鳥のタレで十分旨味が出ます。

西村)ニンジン、ゴボウ、こんにゃくが入った五目ご飯のアルファ化米を使うことによって、栄養面のバランスも取れます。アルファ化米は最近いろんな種類が出ているので、五目ご飯もストックしておくと良いですね。
続いては「牛肉の大和煮缶詰のポテトグラタン」です。

田中)これは「アッシェ・パルマンティエ」というフランス料理の家庭料理からヒントを得たレシピです。本来は、コンビーフを刻んで入れるのですが、大和煮の牛肉の缶詰を刻んで使います。タレは捨てずに取っておきます。ジャガイモは茹でてください。粉状のマッシュポテトを使っても良いです。粉状のマッシュポテトに規定通りの量の水か牛乳を入れて、大和煮を入れて合わせて、溶けるチーズを振ってオーブンで色がつくまで焼き上げます。

西村)簡単ですね。混ぜる工程は子どもたちも進んでやってくれました。ジャガイモは、ちょっと濡らしてラップでくるんでレンジでチンしました。ジャガイモを潰していく作業も楽しかったみたいです。大和煮の缶詰のタレを使うので簡単。ピザ用チーズは、冷蔵庫の隅に眠っていることも多いですしね。
きょうは、2つのメニューを紹介しましたが、子どもに美味しく食べてもらうコツは何でしょうか。

田中)お母さんやお父さんと一緒に料理を作るということが大事。最近は、ひとりで食事をする小学生・中学生や、外食に慣れて味の濃いものを美味しいと感じる子どもが増えています。お母さんと一緒に会話しながら作ってほしいですね。
「どう?」と味の感想を聞くと「美味しい」ではなく、「やば!」「かわいい」と言う子どももいます。料理を「かわいい」というのは、わたしには理解できないんですけど。味の前に視覚から入っているんですね。


西村)盛りつけなどの見た目ですね。

田中)料理は、美しければ、可愛ければそれに越したことはないのですが、五感を使って味わうことが大事。まず鼻で匂いを嗅ぐ、舌で味わう、触れてみる、音で聞く、そのように五感を使って言葉で料理を表現する訓練をさせましょう。
「このプリンは、ツルンとしているね」など。ただ「美味しい」ではなく「舌触りがいい」など五感を使った表現を上手く子どもから引き出すこと。そのような訓練をすると、料理を通じて、コミュニケーション能力が身に付きます。


西村)田中さんは、災害備蓄食品を使ったレシピを通じて、どんなことを伝えていきたいですか。

田中)毎日、日本国民ひとりがお茶碗1杯のご飯を捨てています。それだけ食べ物を無駄にしているんです。SDGsも含めて、食べ物に対する感謝の気持ちをもっと持っていただきたいと思います。

西村)災害時の食事は本当に大切。美味しく食べられて、みんなの笑顔に繋がる備えをしていきたいと思います。また災害備蓄食品を無駄にすることなく、美味しく食べることを日常で楽しむことが大切だと今回、改めて気づきました。
きょうは、貴重なお話どうもありがとうございました。災害備蓄レシピを考案した元・帝国ホテル総料理長 田中健一郎さんにお話を伺いました。

第1331回「長田の復興伝えつづけた和田幹司さんをしのぶ」
取材報告:新川和賀子ディレクター

西村)阪神・淡路大震災の発生から27年を迎えようとしていた去年12月、神戸市・中央区の東遊園地にある「慰霊と復興のモニュメント」の銘板に、神戸市・長田区の男性の名前が新たに刻まれました。去年10月、77歳で亡くなった和田幹司さんです。
和田さんは、震災で大きな被害を受けた神戸市・長田区で被災し、復興のまちづくりや震災の語り継ぎに力を注いでいました。「ネットワーク1・17」にも何度もご出演いただきました。
きょうは、和田幹司さんの過去のインタビューを紹介しながら番組を進め、和田さんをしのんでいきたいと思います。
番組ディレクターの新川和賀子さんと一緒に進めます。新川さん、よろしくお願いします。

新川)よろしくお願いします。
和田幹司さんが亡くなったのは去年10月です。「和田幹司さんをしのぶ会」が予定されていたのですが、コロナの影響で2度も延期に。ようやく今月6日に「和田幹司さんをしのぶ会」が行われ、わたしもお邪魔してきました。まず「和田幹司さんをしのぶ会」の様子を聞いてください。今月6日に神戸市・長田区の旧二葉小学校の講堂で行われ、約150人が参加しました。
和田さんが長く携わってきた追悼行事「1・17KOBEに灯りをinながた」の実行委員長を和田さんから引き継いだ、金宣吉(きむ・そんぎる)さんが語った言葉を聞いてださい。


音声・金さん)1・17という震災で大きな被害を受けたこの町の想いを次世代に語り継ぐ、多くの人がさまざまな祈りや追悼の気持ちを集めることができる日を引っ張っていただきました。「グローカル」「グローバリズム」を踏まえた多様性を尊重することを和田さんほど体現してこられた方はいないと思います。広い世界を見て、それでも多くの偏見を持たず、年齢を重ねても次世代にたくさんの想いを持ちながら、それを地域の中で実現していった。私たちは和田さんの思いを少しでも引き継いでいきたいと思っています。和田さん、空の上から見守っていただければと思います。ありがとうございました。

西村)次世代にたくさんの想いを伝えてきた人だったのですね。

新川)本当に地域の人に愛されていた人だったと改めて感じました。和田幹司さんを改めて詳しくご紹介します。
和田さんは、親しみを込めて"わだかんさん"と呼ばれていました。優しい笑顔が素敵で、ハンチング帽がトレードマークでした。神戸市・長田区の生まれ育ちで、大学卒業後は大手カメラメーカーのミノルタに勤めていました。10年以上海外赴任をしていて、アメリカやヨーロッパなど世界を股にかけて働くビジネスマンでした。日本に戻ってきた2年後に震災がありました。


西村)海外で長く暮らした後に被災したのですね。

新川)長田区の自宅で、阪神・淡路大震災にあいました。今から4年前、2018年1月14日放送の「ネットワーク1・17」に出演時の音源をお聞きください。

音声・千葉キャスター)和田さん自身も神戸市・長田区で被災をされて。

音声・和田さん)当時51歳で会社員でした。火事にはあわずに、両親も子どもたちも無事で、家だけが全壊したという状況でした。貸していた近所の家屋も全壊。仕事をしながら立て直す作業がつきまといました。


西村)大変な状況だったのですね。

新川)自らも被災しながら、長田の町の復興に関わっていきます。震災発生から2ヶ月後、まず取り組んだのは、被災者に向けた情報を掲載する地域の「ミニコミ誌」の発行をお手伝いすること。最盛期には週に1回、1万部を発行するほどだったそう。

西村)みなさん楽しみにしていたのですね。

新川)地元の有志と一緒に3年間、ミニコミ誌の発行を続けました。和田さんはカメラを片手に長田の人々や町を取材。カメラメーカーに勤めていたこともあって、写真は得意だったそう。変わりゆく長田の町をずっと撮り続けました。定点撮影は、ミニコミ誌が休刊した後も20年以上続けました。ほかにも長田で生まれた多言語放送のコミュニティラジオ「FMわぃわぃ」にパーソナリティとして出演したり、地区の暴力団追放運動の先頭に立って活動したりと、長田のまち作りに深く関わってきました。

西村)和田さんは、いろんな人と笑顔で話している姿が印象的でした。わたしは、和田さんには一度しかお会いできなかったんです。新長田駅前の追悼行事でお会いしました。そのとき初めてお話ししたのですが「毎年来てたんですよ!」伝えると「そうやったんか!」とうれしそうに話してくれて。優しい語り口と温かな笑顔が今でも印象に残っています。

新川)和田幹司さんは、JR新長田駅前で毎年1月17日に行われている追悼行事「1・17KOBEに灯りをinながた」に、会社を定年退職された後から本格的に関わっていきました。2004年~2019年まで実行委員長を勤めていました。追悼行事がはじまったきっかけについて、以前番組でお伺いしました。

音声・千葉キャスター)「1・17KOBEに灯りをinながた」という催しは、いつからどんな経緯ではじまったのですか。

音声・和田さん)神戸は震災から3年経った頃でも、夜中に明かりが灯っていてなくて真っ暗で。せめて1月17日の夜ぐらいは家に電灯をつけて明るくしようと「神戸に灯りを1・17」という集まりが三宮で開かれました。そして、4年目の1999年から長田でもやろうと。1月17日の夜中に、家の電灯を消さずに寝たことを覚えています。それをきっかけに「1・17KOBEに灯りをinながた」の追悼行事を1999年からはじめました。神戸を明るくしたいという気持ちからはじまった行事なんです。

音声・千葉キャスター)震災から4年経っても神戸は暗いイメージだったのですね。

音声・和田さん)復興住宅が完成し出したのが震災から3~4年目。仮設に入っていた人が落ち着いてきたのが、4~5年経ってからですから。3~4年目はまだ暗い状況が続いていましたね。


西村)街の明かりを灯すことが、被災者の心の灯を灯すことにも繋がっていそうですね。

新川)「1・17KOBEに灯りをinながた」は、毎年1月17日の夕方に行われています。JR新長田の駅前にペットボトルで作られた灯籠で「1・17ながた」とひらがなで書いた文字が形づくられ、中のろうそくに火が灯されます。地震が起きた早朝ではなく、夕方の5時46分に黙とうが行われます。

西村)なぜ夕方に行われるのですか。

新川)会社帰りや学校帰りの人が気軽に追悼行事に参加できるように、夕方に駅前で開催されています。

西村)わたしが参加したときにも、会社帰りの人や若い人が多い印象でした。ろうそくを並べたり、募金を呼びかけたりしている人の中にも、若い学生さんの姿が多かったです。

新川)若い人が多いのは、長田の追悼行事の特徴です。被災者が高齢化していて、震災後20年を過ぎた辺りから追悼行事を取りやめた地区も多い中、長田では和田さんが若い人に伝え続けることを意識していました。和田さんが震災23年を迎えた2018年1月に、番組で話してくれました。

音声・和田さん)子どもたちに伝えていくことがこの行事にとって一番重要だと思っています。最近では、小学校・中学校・保育園・幼稚園あわせて7校ぐらいで、1月17日に使う1万個のろうそくを作ってもらっています。駒ヶ林中学校の校長先生や教頭先生も理解を示していただき、授業の一環として、2時限潰してろうそく作りをしてくれています。中学生が手伝ってくれて、早く準備ができる。うれしいですね。

音声・千葉キャスター)実際に震災を体験した高齢世代だけではなく、体験していない中学生や若い世代も一緒にこの集いを作っているのですね。

音声・和田さん)今年は20回目になります。中には、大学生、社会人になった人や消防団に入っている人もいます。わたしはもう74歳。我々年寄り組も頑張っていますが、支えてくれる若い人が自然に集まってくるのがこの行事の特徴。ろうそくを作るという神聖な気持ちを持ってもらうとともに、なぜろうそくを作るのか、なぜ手を合わせるのか、なぜ6400人の方が亡くなったのか、どうしたら自分たちが安全に生きることができるのか、そんな話もしています。今年からは語り部も若い人たちにやってもらっています。若い人に継承していきたいという気持ちでやっています。


西村)幅広い世代のみなさんが参加して語り継ぎをしている。素敵ですね。

新川)当日の設営だけではなく、毎年12月から子どもたちと一緒にろうそく作りの作業をしています。寄贈された使い古しのろうそくを溶かして卵のパックに注いで、形を作っていくという地道な作業。追悼行事には1万個ものろうそくが必要なので、和田幹司さんたち実行委員会のメンバーが学校を訪れ、子どもたちにろうそく作りを指導していました。ろうそくを作る前には必ず震災の話をして、ろうそくを作る意味や追悼の意味を伝えているんです。わたしも以前、ろうそく作りの現場を取材しました。震災後23年の2017年12月です。新長田駅近くの駒ヶ林中学校で、ろうそく作りをしている様子をお聞きください。

音声・指導スタッフ)これで作っていきます。最初にそそぐ量は、パックの半分くらい。

音声・子ども)あ~やりすぎた、難しい...


西村)楽しそうですね。

新川)楽しくワイワイと作業していました。わたしが取材したときは、子どもたちに指導するスタッフにも若い人がいました。このことについて和田さんに現場で話を聞きました。

音声・新川)きょうは、ボランティアさんは何人ぐらい来ているんですか。
 
音声・和田さん)11人ぐらい。実行委員とその家族やお子さんも。今年は教職員のOB・OGにもお願いして、元学校の先生が2人来てくれています。
 
音声・新川)震災を知らない世代が増えていますね。
 
音声・和田さん)神戸の小学生・中学生には「神戸や長田にいる私たちは何かやらないと」というように、身についているような気がします。10年以上学校に寄せていただいています。風物詩みたいな行事になってきていて。ありがたい話です。我々が来たら「ろうそく作りのおじさんや!おばさんや!」と言ってくれるようになって。町を歩いていたら、手を振ってくれる子どもたちもいます(笑)。

 
西村)地域に根付いたものになってきているのですね。

新川)このときは、30代の地元の社会福祉協議会の人や、20代の実行委員のお子さんも参加していて、若いスタッフが子どもたちに丁寧に教えていました。震災の話もしていました。

西村)ろうそくを作るだけなら「作らされている」となりそうですが、作る前に震災の話をするとによって、ろうそくに込める想いも変わってくるでしょうね。

新川)そうですね。このとき取材した長田区の駒ヶ林中学校で、小学校1年生4人にお話を聞いています。

音声・新川)きょうは、どんなことを考えてろうそくを作りましたか。

音声・男子生徒)一生懸命頑張って作ったので、震災で亡くなった人に気持ちが伝わったらいいなと思って。

音声・女子生徒)話を聞くまでは、地震ってどんなのかわからなかったけど、話を聞いてよくわかりました。将来もし地震が起きたら、きょう習ったことを生かして、自分の命やみんなの命を守れるようにしたいです。

音声・男子生徒)お母さんの親戚が震災で亡くなったので、よく話を聞いていました。大切な人が死んでしまう怖さを改めて感じました。

音声・女子生徒)こういう行事を後輩も続けていけるように、自分たちがちゃんとしていこうと思いました。年配の方が来て話してくれて重みを感じます。6000人ぐらい死んでいるって聞いて。大変だなと感じました。
 
西村)「大切な人が亡くなってしまう怖さを知った」これはわたしも番組を通じて感じたこと。実際にお話を聞く、語り継ぐことは大切ですね。
 
新川)この子どもたちも今は高校生。きっとこのときのことを覚えていて、今も意識を持ってくれていると思います。駒ヶ林中学校では今も毎年追悼行事を手伝っています。この2年間はコロナの影響でいつもより追悼行事を縮小していたのですが、さまざまな形でお手伝いは続けていて、来年1月も震災28年に向けてお手伝いをする予定ということです。4年前に番組に出演していただいた和田幹司さんもこんなふうに話していました。
  
音声・和田さん)「なんで卵パック持って行くの?」「学校でろうそく作りするねん」と親子で会話をすることで、震災の話をするきっかけになります。新長田の駅前は鉄人広場もあって、毎月のように行事が行われています。1月は震災がテーマ...というふうにいろんな大人が集まって何かやっている。駒ヶ林中学校の生徒は、新長田駅前に近いこともあり、ペットボトル灯篭を並べにきてくれています。校長先生も教頭先生も恒例行事にしますと力強く言ってくれています。
 
西村)家族でさりげなく震災の話をするきっかけを作ってくれているのが、素敵だなと思いました。
 
新川)和田幹司さんは、追悼行事以外にもさまざまな地域の活動に参加して、先頭に立ってきました。みんなの背中を押して、みんなが主体的に活動に参加できるような場作りをしていて。それが長田という地域に根付いてきたのだと思います。和田さんが長い時間かけて築いてきたものは、確実に町に根付いていると思います。若い世代がこれからも追悼行事などを通じて、震災を語り継いでいってほしいですね。
 
西村)和田さんが伝えてくださったことを、長田以外の全国・海外の人にも伝えていけたらと思いました。この番組でも和田さんの想いを大切にしていきたいと思います。きょうは、新川和賀子ディレクターと一緒にお送りしました。

第1330回「熊本地震6年【2】~倒壊した家、しなかった家」
オンライン:工学院大学建築学部教授 久田嘉章さん

西村)熊本地震の発生から6年が経ちました。この地震では、4月14日と16日に2度の震度7を観測して、276人が亡くなりました。熊本県益城町では献花台が設けられ、住民らが花を手向けました。
被災した益城町の役場は今も仮設のプレハブ庁舎のまま。熊本県では先月末の時点で95人が仮設住宅で暮らしています。
熊本地震では、長く続いた避難生活によるストレスで亡くなる人や孤独死も相次ぎました。
亡くなった276人のうち、建物が崩れるなどして亡くなったのは50人で、残りの226人は災害関連死でした。全体の8割が災害関連死で亡くなっています。
 
今、益城町で暮らしている方はどのような状況でどんなお気持ちなのか。益城町の守り神、木山神宮の禰宜(ねぎ)矢田幸貴さん(40)に電話でお話を伺いました。
 
木山神宮は、益城町の中心部、木山地区にあります。益城町の役場や、当時避難所になっていた総合体育館もある地域です。木山神宮は、江戸時代に神殿が建立されました。長い間地域を見守り続けてきましたが、熊本地震で境内の全ての建造物が全壊しました。
私が3年前に訪れたときは、神殿の屋根だけが残っていて、賽銭箱も白いテントの下にポツンと置かれていて。これが神社だったのかな...と思うような場所になっていたんです。
 
矢田さんも自宅が全壊し、避難生活を送る中で木山神宮の再建が始まりました。益城町は9割の住民が被災。さまざまな建物が全半壊し、6年経った今もいたるとことで工事が行われています。
そんな中「変わりゆく街の中で、神社が変わらない役割を果たすべきなのでは」と考え、神殿建設時の部材を約7割、再利用して新たに耐震免震構造を加えて、先月ようやく再建。震災前の姿が取り戻されました。
 
再建まで6年かかったのは、まず地域のみなさんの自宅の再建を進めてほしいという願いから。最後に神社の工事に取りかかるように町役場にお願いをしたそうです。神殿の再建にかかった費用は約2億円。そのうち1億5000万円は公的補助でまかない、神社の負担分は5000万円。それでも大きな額ですよね。そのうち800万円以上は全国からの寄付が集まり、ようやく再建工事を行うことができました。でもこれは神様が祀られている神殿のみです。拝殿など他の施設の建設費用は、今もYahoo!の支援サイトで寄付金を受け付けています。
 
蘇った神殿の後ろには防災公園を建設中です。これは益城町の指定緊急避難場所として使われます。もともと木山神宮の竹林と住宅と空き地があった場所に作られていて、テントなどが収められている防災倉庫、水を手動でくみ上げるポンプやマンホールトイレもあります。「子どもたちが笑顔でのびのびと遊ぶ憩いの場になれば」という思いが込められていて、来年の3月に完成予定です。
 
益城町のスローガンは"ありがとう"。「恩返しができる復興をしたい」と町のみなさん。
木山神宮の禰宜・矢田さんは「地震の記憶を風化させず、災害に強いまちを作っていきたい」と力強く語ってくれました。
きょうのネットワーク1・17は、熊本地震のシリーズ2回目をお送りします。
 
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西村)発生から6年が経った熊本地震は、観測史上初めて2回の震度7を観測し、多くの住宅が倒壊しました。被害を受けた建物にはどのような特徴があったのでしょうか。当時、活断層の周辺で建物の被害について調査をした専門家にお話を伺います。工学院大学建築学部教授 久田嘉章さんです。
 
久田)よろしくお願いいたします。
 
西村)久田さんは熊本地震の後、どこでどのような調査をしたのですか。
 
久田)活断層が地表に現れた益城町、西原村、南阿蘇村などで住宅の被害を調査しました。
  
西村)田んぼに大きな亀裂が入っていましたよね。あれは活断層が動いて地表に現れたということなのでしょうか。
 
久田)規模の大きい活断層で、マグニチュード7ぐらいの地震が起きると地表に断層が現れます。被害には2種類あります。地震の揺れによる被害、断層のずれによる被害です。その調査をしました。
 
西村)まずは地震の揺れによる被害についてお聞きします。熊本地震は震度7を2度も観測しました。大きな揺れによる住宅の被害にはどのような特徴があったのでしょうか。
 
久田)木造住宅は耐震性の違いで被害が異なりました。耐震性に関わる建築基準法は、1981年に改正されました。そして、阪神・淡路大震災を受けて2000年にも改正されました。建てられた時期がその前後、中間、後かによって建物の被害の様相が大きく異なりました。
 
西村)1981年の改正は、どのように定められたのでしょうか。
 
久田)震度6強程度の揺れで、建物が倒壊して人が死なないように改正されたのが81年基準です。2000年基準も基本的に同じなのですが、81年基準(新耐震)でも阪神・淡路大震災で倒れる家があったので、2000年基準でさらに厳しくしました。明らかに被害の様子は違いました。
 
西村)熊本県の益城町で木造住宅はどれぐらい倒壊していたのですか。
 
久田)81年基準より前に立てられた建物(旧耐震)は、約3割にあたる28%の建物が倒壊していました。81年基準(新耐震)で倒壊した建物は約9%。2000年基準では2%。建物がきちんと作られていれば、ほぼ倒壊する被害はでないということがわかったんです。
 
西村)一番新しい2000年の基準で建てられた家は丈夫ということですね。2000年は、どのように改正されたのでしょうか。
 
久田)81年基準で弱いと言われていた基礎を鉄筋コンクリートにすること、耐震壁をバランスよく配置すること、建物がバラバラにならないように柱や梁の接合部分に金物を取り付けること、の3点が定められました。
 
西村)そのような基準は今まではなかったのですか。
 
久田)あったのですが強制力がなかった。工務店や大工さんバラバラだったので、必ずやってくださいというふうに変わったんです。2000年基準によって倒壊するような大被害はなくなりました。
 
西村)2000年基準が大事ということですね。
 
久田)熊本地震では、仮設住宅や避難所で亡くなる人がたくさんいました。地震の直接的な被害で亡くなった人は50人ですが、その後、約230人が災害関連死で亡くなっています。命は守ることができても、その後に住み続けられるようにする対策が大切。そういう意味でも、2000年基準はすごく重要です。
  
西村)家が倒壊して避難所生活になると体調崩す人も多いですよね。災害関連死に繋がることは防ぎたい。新しい基準で建てられた丈夫な家に住むことは大事なことなのだと感じます。
もう一つの断層による被害についてお聞きします。熊本地震では、田んぼや道路に地割れができて、目に見える形で活断層が現れていました。活断層の近くや真上に住んでいると建物の被害は大きくなるのでしょうか。
 
久田)被害が出ます。ずれの大きさにもよりますが、50cm以上ずれたところを調べると、半分近くは大きな被害を受けていました。
基礎が丈夫でなければ引きちぎられるような被害が出てしまうんです。

 
西村)引きちぎられるような被害とは、どのような状況になるのですか。
 
久田)断層をはさんで地面が右と左にずれてしまいます。建物が引きちぎられるまではいかないのですが、歪んでしまいます。あるいは、上下にずれて傾いてしまう場合も。
 
西村)恐ろしいですね。ずれた活断層の真上に立っていた住宅でも壊れなかった家はあるのですか。
 
久田)2000年基準は基礎が鉄筋コンクリートなりました。丈夫なコンクリートに鉄筋が入ることで、引きちぎられる力に耐えられる丈夫な基礎になります。特に「ベタ基礎」という底全面を鉄筋コンクリートの板状にすると、地面がずれても建物は変形しなくなります。傾く場合もありますが、建物そのものが丈夫なら元に戻すこともできます。
  
西村)「ベタ基礎」の他にも、基礎の種類はあるのですか。
 
久田)ぐるっと鉄筋コンクリートで囲む「布基礎」というものもあります。地盤が変形するような被害が出るところは、木造住宅は「ベタ基礎」がおすすめですね。断層のずれに対しては一番丈夫だと思います。
もう一つ、2000年には「品確法」(住宅の品質確保の促進等に関する法律)もできて、住宅の性能を表示する「耐震等級」もできたんです。

 
西村)「耐震等級」はよく住宅の宣伝で聞きますね。
 
久田)耐震等級1が2000年基準、耐震等級2が2000年基準の1.25倍、耐震等級3は2000年基準の1.5倍になります。
  
西村)2000年の耐震基準の1.5倍丈夫になったのが耐震等級3なんですね。
 
久田)益城町の調査では、耐震等級3の建物16棟のうち、14棟が無被害。2棟が軽い被害でした。
 
西村)すごいですね。ほぼ被害がなかったということですね。
 
久田)逃げる必要がない。住み続けられる建物になったということです。
 
西村)耐震等級3が重要ということですね。住み続けられる家に住みたいという気持ちが高まってきました。「ベタ基礎」や耐震等級3が有効だということはわかったのですが、丈夫な家を建てるとなると、お金がかかるのではと心配になります。
 
久田)デザインにもよりますが、普通の家なら、数十万プラスで耐震等級を上げたり、強い基礎にしたりすることが可能です。耐震には壁が重要なのですが、構造用鋼板という板の壁をうまく張って、バランスよく配置するとすごく丈夫な家になります。
 
西村)もっとお金がかかるのかと思っていました。数百万円増えるなら諦めるかもしれないけれど、数十万円なら、家族の命を守るためにプラスしようかなという気持ちになります。
 
久田)工務店やハウスメーカーに相談すると必ず対応してくれるので、相談してみてください。
 
西村)工事の期間は長くなるのですか。
 
久田)それはほぼないです。
 
西村)デザインによるという話がありましたが、どのようなデザインなら耐震性が弱くなってしまうのですか。
 
久田)建物の耐震性は1階が重要です。1階に広いリビング、開放的な窓、吹き抜けなどがあると壁が少なくなって、耐震度が下がってしまいます。しかし構造計算すれば、耐震度をあげることも可能。一部鉄骨を入れるなどすると、さらに数100万はかかってしまうかもしれませんが。
 
西村)そのようなことを知った上で相談することが大切なんですね。住んでいる家が古い場合、後から強くすることはできるのでしょうか。
 
久田)耐震診断、耐震工事をして、少なくとも1981年基準の倒壊しない家にしましょう。自治体によって金額は異なりますが補助金が出ます。地震の後に住めなくなっても命を守る対策はできると思います。
 
西村)まずは命を守ることができるように。自治体の窓口に相談すると良いですね。
最後に改めて、熊本地震の被害の例から、私たちの住まいの備えで必要なことを教えてください。
 
久田)活断層マップを確認して活断層の上に住むのは避けるのが望ましいですが、そうは言っても、その場所に建てなければいけないときもあるし、活断層の正確な位置もわかりません。しっかりした基礎の耐震性の高い家に住んで命を守るということが第一。コロナ禍もあるので、なるべく避難しないために家を丈夫にすることです。家具の下敷きにならないように室内の安全対策をして、備蓄をしっかりして。在宅避難が原則になりつつあることを理解いただきたいです。
 
西村)避難所に行くと感染の不安もありますし、大都市ではそもそも避難所が不足しています。
 
久田)全然足りていません。みんなが避難したらすぐにパンクしてしまうので、避難しない対策していただきたい。それにはまず丈夫な家に住むということが大事ですね。
 
西村)まずは地震の揺れから自分たちの命を守る、家具の倒壊などを防ぐためにチェックをする。被災した後の生活を守るために改めて家自体を見直す。それらが一番大切な備えなのだと感じました。
きょうは、工学院大学建築学部教授 久田嘉章さんにお話を伺いました。

第1329回「熊本地震6年【1】~災害関連死」
オンライン:「最期の声~ドキュメント災害関連死」著者 ノンフィクションライター山川 徹さん

西村)今月14日で 熊本地震の発生から6年を迎えます。熊本では地震の被害で直接亡くなる方に比べ、被災後のストレスや病気の悪化などで亡くなる「災害関連死」が4倍にものぼりました。
きょうは、関連死について10年にわたって取材し「最期の声 ドキュメント災害関連死」を出版したノンフィクションライターの山川徹さんにお話を伺います。

山川)よろしくお願いいたします。

西村)改めて「災害関連死」について教えてください。

山川)「災害関連死」とは、精神的なストレスや避難所の環境の悪化などによって持病が悪化したり、感染症に感染したりすることで亡くなってしまうケース、震災後に仕事や家族を失った喪失感や絶望から自ら命を絶ってしまうケースです。
「災害関連死」を国が定義づけたのは熊本地震の3年後の2019年4月。阪神・淡路大震災から「災害関連死」という枠組みが生まれましたが、それから24年間かかったということです。


西村)「災害関連死」は多いのでしょうか。

山川)豪雨災害でもたくさんの人が関連死にカウントされています。阪神・淡路大震災から26年の間に5000人以上の人が「災害関連死」として認められています。

西村)「災害関連死」はどういった流れで申請するのですか。

山川)岩手県・大船渡市の34歳の男性は家が半壊。地域の復興作業に関わっていましたが数日後に倒れて亡くなりました。家族は34歳で持病もなかったので、死の原因は震災によるストレスしか考えられないと役所に申請書を提出。自治体が医師や弁護士からなる審査会を開いて、震災がどれだけ死に影響を与えたのかを審査し「災害関連死」を認定するという仕組みになっています。

西村)熊本では地震の被害で亡くなる人に比べて、「災害関連死」が4倍にものぼったとのこと。

山川)全体の死者に対して「災害関連死」の死者は、熊本は80%。東日本大震災は17%。熊本地震では「災害関連死」が多いことがわかると思います。

西村)山川さんは東日本大震災以降、10年にわたって「災害関連死」と認定された家族や関係者に取材をしています。その中で、熊本地震ではどんな人に出会いましたか。具体的な例を紹介してください。

山川)本でも取り上げましたが、心臓に持病を持っていた4歳の女の子がいました。心臓病は手術で完治して、一般的な生活ができると言われていました。しかし手術後に熊本地震に遭い、病院で治療を続けられなくなりました。病院が老朽化していて倒壊の恐れがあったからです。その後、福岡の病院に移送中に体調が悪化し、熊本地震の5日後に命を落としてしまったのです。
お母さんにお話を伺ったのですが「なぜ老朽化していた病院に入院させてしまったのか」「福岡の病院への移送手段は適切だったのか」と後悔をお持ちで、非常につらい取材でした。病院に耐震設計がきちんとされていれば治療を継続できたはずだし、きちんと準備がされていれば今も元気だったのではないか思います。


西村)人工呼吸器をつけるなどの準備が十分に揃っていなかったということですか。

山川)普通の救急車で運べなかったそうです。自衛隊の搬送用救急車も検討されたのですが揃わなかったとのこと。人の命を守る最後の砦である病院に十分な耐震設計がされていなかったということが一番の問題点だと思います。

西村)この女の子は「災害関連死」と認められたのですか。

山川)もちろん認められました。なぜ娘が亡くなってしまったのかをきちんと考えてほしいとお母さんが話してくれました。同じような病気で、同じような状況で入院している子どもは日本中にたくさんいる。入院している病院を地震が襲ったとき、そのような子どもたちを助け、治療を継続できる仕組みを作ることを考えて欲しいと。この言葉に感銘を受けました。

西村)同じ思いをしている家族や本人のために話をしてくださったのですね。これからの災害への備えに生かしてほしいと心から思います。女の子のお母さんは「災害関連死」を申請できることは知っていたのですか。

山川)10数人の遺族に取材していますが、熊本地震のお母さんに限らず「災害関連死」という言葉を知っている人はいなかったです。熊本地震に関して言えるのは、3.11などで「災害関連死」という言葉が世間的に大きく周知されて、行政機関や「災害関連死」をサポートする人たちが問題意識を共有した中で起きた災害だということです。

西村)熊本地震は車中泊をする人がたくさんいました。エコノミークラス症候群や避難所での持病の悪化という事例も多かったのでしょうか。

山川)多かったと思います。エコノミークラス症候群は、2004年の新潟中越地震で初めて注目されて「災害関連死」と結びつけられるようになりました。その後、新潟大学で被災時にエコノミークラス症候群を減らす取り組みがなされ、熊本地震では、保健師や看護師団体が車中泊をしている人に「水分取りましょう」と声をかけてまわったり、弾性ストッキング(血栓を防ぐストッキング)を配ったりする活動をしていたそうです。そのように「災害関連死」を防ぐ活動は進んでいると思います。

西村)山川さんは、熊本地震のほかにも東日本大震災の被災者にもたくさんの取材をしているということで、具体例を聞かせてください。

山川)関連死を取材するきっかけになった事例です。僕は山形県出身で宮城県・仙台市の大学に通っていたので、知り合いがたくさん被災しているというのもあり、3.11直後から現場に入って取材をしていました。取材で知り合った人が震災後に体調を崩して障害を負ってしまった、自殺とおぼしき亡くなり方をしてしまった、という話がたくさん耳に入ってきたのが2012年の春頃。
そんな中で、知り合いの地元の記者から「家族全員を失った10代の少年が、家族の骨壺を持って海に飛び込んで自殺した」という噂を聞いたんです。それが本当なら非常に痛ましい話。当時は噂だったので、現場に行って調べてみたのですが、その死が自殺だったのか事故死だったのかも明らかになっていなくて、災害と関係性があるのかもわからなかったんです。
災害が原因で自殺したという人もいれば、持病を苦に亡くなったという人もいて。どのような悩みや動機があったのかはわからず、10代の少年が家族を失った後に亡くなってしまったという事実だけがありました。災害に関連していないのかもしれませんが、震災から数ヶ月後に、少年が行方不明になって遺体で発見されたのなら、周りの人は慎重に検証しなければいけない。彼のような少年は、今後の震災でも出てくる可能性がある。彼の死を検証する必要があると思って調べていくうちに「災害関連死」という問題に出会ったのです。その少年の死はいちばん印象に残っていますね。


西村)実際に「災害関連死」として認められなかった人もいるのですか。

山川)何人か知っています。家族が災害後に体調が悪化したり、生活環境の変化が原因で亡くなってしまったりした申請者は、助けてあげられなかったという後悔を持っている人が多いです。だからこそ、大切な人の死は災害が原因だと証明したくて申請する。でも認定されずに納得できないという人にたくさんお目にかかりました。

西村)認められなかった事例を教えてください。

山川)基礎疾患がある人は自己管理が足りないのでは、という議事録があることも。体重が平均より重く、高血圧で基礎疾患持ちの50代の男性が亡くなったときは認められませんでした。その後、奥さまが納得できないと行政を訴えて裁判になり、裁判の結果、関連性なしの判定がくつがえって、その男性は「災害関連死」が認められました。

西村)本の中に書かれていた陸前高田市の川澄優さんの事例ですね。

山川)川澄さんは、健康に生活をしていて、夫婦でリサイクルショップを営んでいましたが、津波で店が流されてしまった。陸前高田市では、仮設商店街を建設する予定があったのですが、なかなか建設が進まず、川澄さんは焦りを覚えていました。娘さんが学齢期だったこともあり、すぐに事業を再開するべく、重機の免許を取って、本来行政がすべき工事を自らやろうとしていました。復興に前向きで、焦りもあったのだと思います。そのような状況で体調を崩してしまいました。

西村)大きな病気になったのですか。

山川)震災から8ヶ月後の11月に胸に強い痛みを覚え、心筋梗塞という診断を受け手術を受けました。亡くなったのは、その1ヶ月後の12月だったと思います。

西村)なぜ、川澄さんは「災害関連死」と認められるまでに時間がかかったのでしょうか。

山川)議事録を見ると、自己管理ができてない、災害後に薬を飲むのを怠ったとあります。いわば自己責任論。災害は一つの要因として挙げられていて、ストレスはみんなにあると。心筋梗塞とストレスとの因果関係は、循環器系の医師に聞かなければ判定できないなどという議事録が延々と続くんです。人の死を判断するという切実や真剣さが感じられない議事録。僕も非常に憤りを覚えました。遺族にとっては大変な憤りだったのではないかと想像します。

西村)「災害関連死」を認定するには、たくさんの課題があるのですね。

山川)申請主義という問題があります。申請しなければ「災害関連死」は認められません。「災害関連死」は、検証することで、次の災害で「災害関連死」を減らすための対策や支援についてのヒントを得ることができます。たくさんの事例を収集して、亡くなった原因の調査や検証をすることが非常に重要だと思います。その中で、ハードルとなっているのが申請主義。自分の家族が「災害関連死」と思っていない遺族もいますし、制度を知らない遺族もいます。
仮設住宅で亡くなったケースも申請しなければいけないんです。避難中に亡くなっているのに。せめて避難所や仮設住宅で亡くなった場合は、行政や専門団体が「災害関連死」の調査を遺族に呼びかける配慮があってもいいのではと思います。


西村)当たり前にやっていることだと思っていました。

山川)少なくとも東日本大震災ではそのような支援はありませんでした。個人的な訪問ケアや見守りの看護師によるアドバイスはあったかもしれませんが。

西村)山川さんの著書「最期の声 ドキュメント災害関連死」。なぜこのタイトルにしたのでしょうか。

山川)震災直後から陸前高田市で被災者の法的なサポートをしていた弁護士・在間文康さんが「災害関連死」は、被災した人たちの"最期の声"だと話してくれたんです。それが非常に印象に残っていてタイトルにしました。
取材する中で「自然災害はみんなが苦しいのだから自力で生活再建しなければならない」「高齢者は体が弱いから災害で死んでも当たり前で補償するのはおかしい」という自己責任論は根強くあると感じました。特に「災害関連死」には。
亡くなった人は社会を良くしよう、次の災害に備えようと思って死んでいるわけではない。とても無念だったと思います。その無念を生き残っている僕らがどのように受け止めるのかが問われていると思います。それは僕たち一人一人、社会の問題だと感じました。


西村)貴重なお話をどうもありがとうございました。
きょうは「最期の声 ドキュメント災害関連死」の著者、ノンフィクションライターの山川徹さんにお話を伺いました。

第1328回「東日本大震災11年【6】~全国の若者たちをむすぶ」
取材報告:亘 佐和子プロデューサー

西村)きょうのネットワーク1.17は東日本大震災11年のシリーズ6回目です。防災に取り組む若者たちのオンラインでの交流の模様をお伝えします。亘佐和子記者のリポートです。どうぞよろしくお願いします
 
亘)よろしくお願いします。東日本大震災シリーズの初回2月27日の放送で、宮城県の河北新報社と全国の地方メディアが連携して開催したワークショップ「むすび塾」についてお伝えしました。
 
西村)宮城県東松島市で小学生のときに東日本大震災の津波を経験した現在大学生の雁部那由多さんのお話でしたね。震災前は見えていなかった家庭環境や経済状況があらわになって「震災は僕らに格差を見せた」という言葉が心に残りました。語り部が語っていくことは大変なことで、地元の人や友だちと震災のことを語り合うことの難しさも初めて知りました。
 
亘)雁部さんのお話は、オンラインで行われた「むすび塾」の前半部分。後半は全国から参加した10~20代の人たちのトークセッションでした。北海道から宮崎県まで11人の若い人たちが参加して、自分たちがどのような活動をしているのか、どのような課題や悩みを抱えているのかを話し合いました。それぞれの地元で起こった災害について発表するところからスタート。
まずは、京都で防災に取り組む学生団体、「龍谷FAST」代表 川端麻友さんの発表を聞いてください。

 
音声・川端さん)大阪北部地震について話します。この災害は2018年の6月18日に、大阪北部でマグニチュード6.1の地震が発生し、高槻市や茨木市で震度6弱を観測するなど、近畿圏各地に大きな被害をもたらしました。地震による死者は6人、うち2人がブロック塀の崩落に巻き込まれて死亡しました。当時、私は茨木市に住んでおり、震源地から近い高槻市の高校に通っていました。自分の家も被害を受け、壁にひびが入ったり、食器棚の食器がたくさん落ちて割れたり、電気が落ちてきたりしました。通学路では、屋根がビニールシートで覆われている家屋や、学校のブロック塀が取り壊されていく光景を目の当たりにして、阪神・淡路大震災の映像で見た被害が自分の身に起きるという恐怖を味わいました。
当時、小学生の弟を小学校のグランドまで迎えに行ったのですが、担任の先生に「姉です」と伝えても、姉という証明ができずに一緒に帰れませんでした。運動場にみんな集まっていたので弟の近くにいることはできたのですが、保護者扱いにはしてもらえなくて。年は8つ離れているので、保護できると思っていたんですけど。「一緒に帰りたい」とどれだけ伝えても「親が来るまで待って」と言われて。家に帰らせてもらえないという状況でした。

 
西村)お姉ちゃんが迎えに行っても一緒に帰ることはできないのですね。両親が仕事に行っていて、遠方だったら、電車が止まっていたら...なかなか帰ってこられないですよね。娘が通う保育園では、緊急時にお迎えに行ったときは、保護者を証明するカードが必要なんです。家族はみんな本人との関係性がわかるカードを持っています。保育園によっても違うかもしれませんが。
 
亘)保育園は親が迎えに行く場合がよくあると思いますが、学校では、子どもたちは自分で行って帰るのが基本ですよね。迎えに行く事態が発生したときにどう対応するのかはあんまり考えられていない。何か災害が起こったときに、どのように子どもを引き渡すのか。事前に考えておいたほうが良いと感じました。
 
西村)保護者から学校や保育園、幼稚園に問い合わせることも大事ですよね。
 
亘)もうひとつ報告を聞いてください。2004年の福井豪雨について、29歳の看護師の前川理沙さんの話です。
 
音声・前川さん)今から18年前の2004年にあった福井豪雨について発表します。私自身も被災しましたが、当時は、小学校6年生だったため、家族から当時の話を聞いたり、過去の資料を見返したりして、私なりにまとめた話をさせていただきます。福井市の中心部を流れる浅尾川という大きな川が決壊し、4人が亡くなり、1人が行方不明、19人が重軽傷を負いました。私の実家は福井市内にあり、決壊した川から直線距離で1.6キロほど離れていました。当時、昼には雨が止んで「なんともなくてよかったね」と家族で話していたのですが、午後1時45分頃に浅尾川が決壊して一気に水が街を飲み込みました。
避難指示が出て、私たち家族は町内の集会所にいたのですが、そこも危険だと判断されて、高台の避難所に避難し直しました。外は100センチを超える水がたまって、茶色く濁った水がゆっくり流れていて、長靴やバケツ、自転車などが流されていました。私は全身泥まみれになって、避難先では着替える場所もなく、とにかく早くお風呂に入りたかった、ということを覚えています。
翌日には水が引いて、自宅に戻ると家の中は水だらけ。冷蔵庫が台所からリビングに移動していたり、家の中のものがぐちゃぐちゃになっていたりしました。いくら消毒剤をまいても、泥の臭いがリビングにずっと残っていました。床下の泥出しや使えなくなった家具の運び出しには2週間ほどかかって、一階が普段通りに使えるようになるまでには、1ヶ月以上の時間がかかりました。
当時は、水害に関する知識もなく、家に避難用バックはありませんでした。床上浸水が始まってから避難しましたが、外に水がたまった段階ですぐ避難するなど、早め早めの行動が大切だと感じました。

 
西村)雨がやんで「なんともなくてよかったね」と言っていたら川が決壊したのですね。早めの避難が大切というお話。
 
亘)ほかにも北海道胆振東部地震や西日本豪雨、大型台風の経験などが発表されました。改めて日本は災害列島だということを実感しました。
 
西村)だからこそ、備えないといけませんね。
 
亘)みなさんが地元で防災の活動をする中で、どんな悩みや課題があるかを共有したので聞いてください。まずは名古屋大学の防災サークル「轍」のメンバー、坂上野々香さんの話です。
 
音声・坂上さん)コロナ禍で被災地に向かうのが難しいです。私が所属しているサークルは、先輩が実際に西日本豪雨で被災したことをきっかけにできたサークル。先輩たちはよく現地に行って、実際にその光景を見たり、博物館に行ったりして勉強しているんです。でも自分の代以降の人たちは現地に行ったことがなくて。行きたいと思っているのですが、長期休暇になると毎回、緊急事態宣言が出てしまって。塾でバイトをしているので、外に出て感染するのも怖いですし。被災地に行くことができないということが、自分の中で課題になっています。
 
西村)コロナの影響は大きいですね。現地に行って話を聞きたくてサークルに入たのに。つらいですね。
 
亘)コロナ禍で思うように活動できないというのは、みんなに共通する悩み。それ以外にも共通する課題を抱えています。それは子どもたちにどのように防災を伝えていくのか、興味をもってもらうかということ。
宮崎県わけもん防災ネットワークのメンバー 盛満優雅さんが投げかけた疑問に対して、さまざまな意見が出ましたので、それを聞いてください。

 
音声・盛満さん)クイズなどを用いて楽しく防災を伝えようと考えているのですが、子どもたちが見入ってくれるような内容にするにはどのようなものがいいのかが気になっています。
 
音声・橋本さん)過去に同じ悩みを持っていました。うちの団体では、小学生数10人、幼稚園児数10人が相手に子ども向けの防災講習をしています。わちゃわちゃして収拾がつかなくなる。自分がもし防災講習を受けるとしたら、どのようなものだったら受けても良いと思うかなと考えた時、楽しみたい、遊びたいと思ったんです。楽しみながら体験したことはすごく体に入るのではと感じていて。防災運動会や防災キャンプとか。障害物リレーでバケツリレーをしたり、消火器を使って的を倒すゲームをしたり。楽しみながら防災を取り入れられるようにやっています。
 
音声・坂上さん)過去に子どもたちと一緒にやって、楽しんでもらえたものがありました。「防災ビンゴ」といって、本来は数字でやるビンゴを数字ではなく、非常用持ち出し袋の中身でやりました。まず軍手や簡易トイレなどの候補を紙に書いて、その中から好きなものを選んで、3×3に貼ってもらいます。そこからくじで軍手が出てきたら、丸をつけて...というふうに。ビンゴが出たら景品としてお菓子を渡しました。「僕は軍手を貼る!」というふうに言ってくれるだけでも「軍手がいるんだな」と覚えてもらえると思いますし、楽しんでもらうことで、イベントに参加した記憶が残るだけでもいいと思って。「防災ビンゴ」はやってよかったなと思っています。
 
西村)自分たちで考えて楽しむということですね。子どもたちだけではなく、大人も一緒に楽しむことができそう、と聞いていて思いました。ワクワクしました!
 
亘)私も消火器で的を倒すゲームをやったことがあるんけど、かなり楽しいです。使い方も覚えられますし。体を動かすと自然に覚えられますよね。
 
西村)私も運動会でバケツリレーと防災ビンゴをやりました。楽しかったですし、思い出に残っていますね。
 
亘)「楽しい」がキーワードだなと思います。高齢者のみなさんに防災に関心を持ってもらうにはどうすれば良いかという疑問も出ました。例えば「芋煮会」や体力作りのイベントに防災の要素を盛り込むとか。「防災を前面に出さないけれど防災につながる」内容が良いという意見が出ていました。
 
西村)顔見知りになることが防災につながりますよね。
 
亘)一方で、同じ若者世代にどのように防災を伝えていくのかも共通の課題。
阪神・淡路大震災を伝える若者グループ「1・17希望の架け橋」副代表の長谷川侑翔さんの問題提起に、さまざまな意見が出ましたのでそれを聞いてください。

 
音声・長谷川さん)メンバーは、15~24歳の47人なのですが、この世代はインスタ世代。阪神・淡路大震災が起こった1月17日に向けて、本気の動画を作りました。メディア関係を目指している人に動画編集をしてもらったり、放送部で県の上位に入賞するような人のアナウンス音声を入れたり。SNSは、最初のファーストインプレッションでつかむことが大事。TikTokでは、最初の3秒が面白くなかったら続きを見てもらえないので、つかみを大事にしようと編集したんです。でもインスタ再生数は6000ぐらい。フォロワーは1日で400人ぐらい増えたのですが、それでもまだまだ足りないなと思っていて。若い世代に興味を持ってもらうためには何が必要なのか。みなさんがSNSで興味がひくものはどんなものなのか。何を伝えていったら良いのかといことが疑問点です。
 
音声・雁部さん)伝えることを考えたときに、僕が意識をしているのはメディアを限定しないということです。Twitter、Instagramは会員登録制の交流サイトなので、使っている人と使っていない人に別れてしまうと思うんです。多くの人の目に触れるにはいろいろなメディアを使うこと。例えば新聞に投書してみたり、テレビにも働きかけをしてみたり。もちろんSNSも活用しましたが、とにかく情報を受ける人たちが偏らないように発信することを常々心がけていました。
 
音声・長谷川さん)アドバイスしてくださったことは既にやっていて。全国放送や生放送、さまざまな新聞社にも取り上げていただいているのですが、団体が広まることが目的ではなく、震災自体を若い世代に伝えるという方向性でいきたいです。SNSやメディアで発信すること以外で何かありますか。
 
音声・川端さん)UberEatsが流行っているので、例えば防災グッズや非常食を目立つリュックを背負って、動画を撮りながら届けるとか。配る相手を大学生や一人暮らしに向けて絞ってもいいと思います。「防災イーツ」みたいな。そんなふうに興味をひく企画をしたらおもしろと思っていて、ずっとやってみたいのですが団体が小さくて難しい。
 
音声・橋本さん)うちの団体で気をつけているのは、動画を作るときに、出演者に必ず団体以外の人を入れることです。地域の人や企業の人を入れて。ゲストの人には身近な人がいるので、いろいろな視点で広がっていくと思うんです。多方面に枝を伸ばすような動画を作ることを心がけています。
 
西村)さまざまなアイディアに驚きました。若い世代だからこその意見もありますよね。
 
亘)最初の3秒のつかみが大事というのは知らなかったです。
 
西村)「防災イーツ」はぜひ実現してほしいし、我が家にも届けていただきたいです!
 
亘)楽しそうだし、アピールになりそうですよね。
 
西村)出演者に必ず自分たちの団体以外の人を入れる、さまざまな世代の人たちを巻き込んでつくることによって輪が広がる、という話になるほど!と思いました。
 
亘)知り合いが出ていたら、見よう!となりますよね。他にもいろいろな意見が出ていました。例えば防災動画にスポーツ選手に出てもらうとか。そうするとそのスポーツが好きな人にまた広がっていく。防災に興味がある人以外に広めていくことが大切だと思いました。
 
西村)私たちの番組もそうですよね。
 
亘)「むすび塾」は「人と人を結ぶ」というところから名付けられました。コロナで、人と人がつながることが難しい時期ですが、こうしてオンラインで新たなつながりをつくることができるのだなと改めて思いました。今回は全国の若者を結ぶ試みでしたが、私もこの防災番組の制作者として、防災をどのように伝えていくのか、たくさんヒントをもらいました。
 
西村)コロナで失ったものもたくさんあったけど、得られたこともあったと気づかされました。亘和子記者のリポートでした。

第1327回「東日本大震災11年【5】若者が語る故郷・石巻市雄勝町への思い」
オンライン:宮城県石巻市雄勝町在住 藤本和さん

西村)今月は東日本大震災11年のシリーズをお送りしています。5回目のきょうは、小学5年生の時に、宮城県石巻市雄勝町で被災し、中学3年生から語り部を始めた藤本和さんにお話を伺います。
震災後、人口が減った故郷、雄勝町に戻った藤本さん。22歳になった今、どんな思いで語り部として伝えているのでしょうか。オンラインでお話を伺います。

藤本)よろしくお願いいたします。きょうは、わたしが勤めている「モリウミアス」いう施設から話をさせていただきます。宮城県石巻市雄勝町の一番奥、仙台から車で2時間ほどの場所にいます。

西村)わたしも以前、雄勝町に行ったことがあります。海が見える本当に素敵な町ですよね。

藤本)山と海に挟まれた狭い土地に家がぎっしり建っていました。

西村)雄勝町といえば海が近いので、漁師さんも多いですよね。

藤本)はい。海に近い地区は、ほとんどの人が漁師さんをやっていました。

西村)石巻駅の周辺はお店が立ち並んでいますが、雄勝町は雰囲気が全然違いますよね。

藤本)雄勝町は元々独立町で、平成の大合併で石巻市になった場所。宮城県でも一番東にある町です。

西村)そんな自然豊かな町で育った藤本和さんが、東日本大震災で被災したのは小学5年生のとき。11年前の震災当日は、どちらにいたのですか。

藤本)その時は学校にいて、もうすぐ帰るタイミングで、掃除の時間でした。「やっと授業終わったー!きょう何して遊ぶ?」とかそんな話をしていたと思います。

西村)そんな時、大きな揺れが襲ってきたのですね。

藤本)最初に感じた違和感は音でした。

西村)どんな音だったのですか。

藤本)初期微動と呼ばれる地鳴りの音がしました。それまで聞いたことのない妙に耳に残る音。その瞬間に足元がグラっと揺れて。揺れた瞬間に、12人のクラスメイト全員が机の方向に走って、机の下に潜りました。次に感じた違和感は地震の長さです。「そのうち終わるだろう」と思っていたのになかなか揺れが収まらなかったんです。実際には2分~2分半ぐらいの地震だったと思いますが、もっと長く感じました。本棚から本が落ちてきたり、植木鉢が落ちてきたり、蛍光灯が割れて破片が降ってきたり。いつもとは違う状況に気づき始めてから、いろんなことを考えました。先に家に帰っている妹はどうしているか。専業主婦で家にいる母はタンスに潰されていないか...。そして、みんな津波が来るかもしれないと思っていました。校庭に向かうとき、みんな廊下にかけておいたジャンバーを着たんですけど、自分はロッカーにジャンパーを置いたままにしていて、取りに戻れずにそのままの格好で外に出ました。みんな上靴のまんまで。割れたガラスを踏んで足元がバリバリ鳴っていたことを今も覚えています。

西村)上着を着ていなかったから、寒かったんじゃないですか。

藤本)相当寒かったです。

西村)家族とはいつ頃会えたのですか。

藤本)20~30分後に母が、妹や親戚と一緒に自分がいた小学校まで車で迎えに来てくれました。母と妹と親戚1人と近所のおばあちゃん2人と私で車に乗って、雄勝小学校から川を挟んだ反対側の地区の高台へ。そこで車を停めてNHKのラジオを聴きながら経過を見守っていました。車に乗っていた近所のおばあちゃんが「家の様子を見て来る」と出て行ったので待っていたのですが、そのおばあちゃんが、坂を駆け上りながら戻ってきて「津波が来たから早く逃げろ!」と。慌てて車から飛び出して後ろを振り向いたとき、自分の居場所に続く坂の先の三叉路に水が流れ込んできて、ぐるぐる回っているのを見ました。洗濯機みたいと思ったのを鮮明に覚えています。それを見て、自分たちがいるところも危ないからさらに上に行こうと階段を登って、山を駆け上って、頂上まで行きました。その山には船戸地区のみなさんが逃げてきていて。山の上から津波の方を見ました。海から山(東から西)に向かって、どんどん波が押している状態。茶色い平原のようになっていて、車や電柱がプカプカと浮いて、家が押し流されていく光景を見ました。しばらく経ったら波がだんだん海に戻っていくんです。そのときにびっくりしたのが、津波は引き波の方が強いということ。海から山に行くのが押し波で、海に戻っていくのは引き波。引き波で少し形が残っていた家が粉々になったんです。それが衝撃的でした。残っている家の屋根の上には人がいて、助けを求めているのも見えたのに...。その光景は、親は私に見てもらいたくなかったかもしれないですね。

西村)自宅は無事だったのですか。

藤本)山の上に登って見たときには、もう何もない状態。自宅が流される瞬間は見ていません。

西村)小学5年生でとてもショッキングな光景を見たのですね。その後はどちらで暮らしていたのですか。

藤本)父が石巻市の海沿いで働いていたのですが、無事に震災から3日後に迎えに来てくれました。それから母の妹の家で2年間過ごしました。なので、避難生活は経験していません。

西村)その後、実家はどうなったのですか。

藤本)2年後、内陸の石巻市に家を建てて、ずっとそこに住んでいました。自宅に近い小学校ではなく、無理を言って、雄勝小中学校に通わせてもらいました。毎日バス通学をしていました。

西村)それだけ雄勝が好きだったのですか。

藤本)震災後、ほかの学校に通う気になれなくて。同じ経験をしている友だちと一緒にいたかったんです。

西村)それはなぜですか。
 
藤本)どうしても温度差が発生するんです。内陸には、津波を見てない子たちの方が多い。他の学校に行った子もどうしても合わなくて戻ってくる人も多かったです。新しい人間関係にパワーを避ける状態ではなかったです。
 
西村)そんな想いの中、中学3年生の頃、15歳で語り部を始めたのはなぜですか。
 
藤本)きっかけは、雄勝小学校6年生のときの担任の先生。心に傷を負った子のケアをする震災後教育の中で、自分の震災体験を作文に書くというものがありました。自分は作文が得意で、原稿用紙4~5枚使って綿密に書いていたら、中学校3年生のときに「作文をもとに語り部をしてみないか」と先生が提案してくれました。初めて語り部を行ったのは「被災地ウォーク」。語り部の話を聞きながら雄勝の町を歩くイベントです。そのイベントの第3回に語り部として参加したのが最初です。ボランティアのほか地元の人もたくさん来ていました。そんな人たちにむけて、自分の震災経験や思うことを、原稿用紙を読み上げる形でお話ししました。
 
西村)最初に語ったときはどんな気持ちになりましたか。
 
藤本)語り部を始めたときはあまり何も考えていなくて。得意な作文を大人の前で読んで、褒められてラッキー!と。子どもだったなと思います。
 
西村)今22歳。7年が経ちましたが、語り部として気持ちの変化はありましたか。
 
藤本)最初は軽い気持ちで語り部を初めたのですが、語り部をすることがだんだん重くなってきました
 
西村)それはなぜですか。
 
藤本)だんだん震災のことを忘れていくから気持ちは軽くなっていくだろうと思っていたのですが、語り部をするたびにそのときの光景を思い出して。思い出したことを追加して話を改良していくうちに、自分の想いもどんどん増えていきました。それを繰り返していくと、忘れるどころか、絵具を重ねて重くなっていくようなイメージ。年齢を重ねて自分でお金を稼いで生活をするようになって、震災のときの親の大変さもわかってきました。今は職場で子どもたちに向けてお話することが多いです。
 
西村)職場は「モリウミアス」というところですね。
 
藤本)「モリウミアス」は小中学生を対象にした複合体験施設です。宿泊しながら、漁村の暮らしや漁業体験、林業体験、語り部などを行って、持続可能な生活の仕方を体験してもらう場所。その活動の一環で、私が語り部をすることも多いです。語り部をする前日には、シミュレーションやマインドセットをすることを続けているので、背負うものは大きくなっています。
 
西村)このシリーズの1回目に出演した東松島市で被災した語り部の雁部那由多さん(22歳)が、被災した人たちの間では震災の話はタブーで、今も語れない人もいるという話をしていました。
 
藤本)すごく同感です。私は同級生と震災の話をしたことはほとんどありません。大人ともほとんどしていないと思います。最初の「被災地ウォーク」以外は、地元の人には自分の被災体験を話したことはあまりありません。外部のボランティアの人やお客さまに向けて話すことがほとんど。なぜかというと、震災のことを話すと、どうしても誰かの傷をえぐってしまうことになるからです。同じ東日本大震災を経験していても、全員が全員違う状況を経験しています。自分は家族を亡くしていないから悲観的にはならず、津波を見ましたが、何もなくなった雄勝町を今後どうやって作っていけるかと考えていました。でも自分の隣にいる友だちはお母さんを亡くしていて。全員で話し合ったわけではないのですが、触れて良い場所とダメな場所を本能的に全員が理解していました。震災の話はそれぞれ個人のテリトリー内。だから絶対に触れないし、わたしが自分のテリトリー内の話を話していることに関しては、「すごいね」「尊敬するよ」というふうに好意的に受け止められています。批判されたことは1度もありません。
 
西村)みなさん温かく応援してくれているのですね。
 
藤本)義務感を持ってやっているのではなく、届く場所に届いたらというような、違う意味で軽い気持ちでやっています。
 
西村)震災から11年が経ち、雄勝町の人口は4000人から1000人以下に減ってきているそう。故郷、雄勝町で藤本さんは語り部としてこれからどんなことをやっていきたいですか。
 
藤本)私は子どもに向けて話すことが多いのですが、家で家族といるときに地震が起きたら、津波が起こるかもしれなかったら...などいろいろなケースを想定して災害が起きたときのことを考えてみてくださいと伝えています。
一度、横浜で語り部をしたのですが、あるおばあさんに「高層マンションの一番上に住んでいるのですが、なるべく海から遠く高いところへ逃げてくださいというけど、自分の住んでいるところには多分津波は来ない。遠くに逃げるべき?その場にとどまるべき?」と聞かれたことがあったんです。雄勝町には一番高くて3階建ての建物しかなくて、それを津波が越えているので、答えがわからなくて。これはみんなに考えてもらった方がいいと気がついたんです。東日本大震災を経験しているか否かで、感覚が違うことも理解しています。
家にいる場合でも親御さんがいるときいないときの2パターンあり、通学中も道路にいるとき、電車の中にいるとき、学校に着いた後は、先生がいるときいないとき、などいろいろなケースが考えられます。どんな場所が安全なのか、普段から何を持っておくと、災害時の生活のクオリティを上げられるのか、ということを考えてみてほしいと伝えています。

 
西村)その後の生活も大切ですものね。藤本さんは故郷、雄勝町のためにこれからどんなことをしていきたいですか。
 
藤本)今は「モリウミアス」のスタッフとして、実際にまち作りに関わっています。雄勝町に元々家があった平地は、全部津波で災害危険区域になり、住居を建てられません。そこをどのように活用していくかが問題になっていて、数団体が手を挙げてその場所に作るものを決めて土を入れ始めている状況です。「モリウミアス」では体験農園や野菜を出荷するための農園、ワインとジュースを作るためのブドウ農園を作ろうと考えています。
 
西村)海の街のイメージでしたが、新たな魅力が生まれますね。
 
藤本)新しい産業を生むことも大事ですが、ブドウ農園なら、ワイン好きの人が産地に来てくれることも。観光型の町として作っていくこともありだと考えています。真っ白になったキャンバスに新たに絵を書いていくように、新しい雄勝を作っていくことができたら。自分の親世代が作ってきた町なので、少しでも雄勝町を作る活動に関わり続けていきたいと思っています。
  
西村)もう少し落ち着いたら、藤本さんやみなさんが新たにつくる雄勝町に訪れて、番組でも伝えていきたいと思います。
  
藤本)ありがとうございます。ぜひおいでください。
 
西村)きょうは、どうもありがとうございました。藤本和さんにお話を伺いました。
 

第1326回「東日本大震災11年【4】~NEWS 小山慶一郎さんが見つめた被災地」
オンライン: NEWS 小山慶一郎さん

東日本大震災11年シリーズの4回目は、アイドルグループNEWSの小山慶一郎さんのインタビューをお送りします。
小山さんはテレビ番組の取材などで東日本大震災の被災地に通い続けてきました。東北の街でどんな人たちに出会い、何を感じていたのでしょうか。小山さんが見つめた被災地の11年。今月7日に行ったインタビューをお聞きください。

西村)小山さん、おはようございます。

小山)よろしくお願いいたします。NEWSの小山慶一郎です。

西村)毎日放送「よんチャンTV」(月曜レギュラー)ではおなじみですが、MBSラジオ「ネットワーク1.17」初めての登場となります。
小山さんは、これまで東日本大震災の被災地である東北とどのように関わってきたのですか。

小山)100回以上は行かせてもらっています。

西村)100回以上!

小山)はい。スタッフさんに数えてもらったんです。いろいろな被災地の人たちと関係値を作ることができて、コミュニケーションをとる時間がたくさんあったので、被災地の変化を追うことができました。それは自分にとってとても勉強になる時間でした。初めて取材に行ったのは2011年の4月です。

西村)3月11日に震災が起こった直後ですね。
 
小山)直後でした。まず取材した場所は、仙台空港の近くです。車が転がっていたり、瓦礫が散乱していたりして、まだ何も片付いてない状態でした。そこに立っているだけで足が震えてきたことを記憶しています。現実を目の当たりにしたときに、あまりの恐怖に声が震えてしまうぐらい、怖くなってしまいました。それを経験した人たちがここにいて、大変な状態にあるということは、その現場を見るまで想像できなかったので驚きましたね。
  
西村)実際にその地に立ってみると違いましたか。
 
小山)そこには、いろいろな人の生活があった。子どもたちのおもちゃや家族写真が流されていたりするんです。そこにあった生活がいきなり奪われたことが伝わってきて衝撃的で。言葉を失うという状態でしたね。
 
西村)最初に取材した人、取材した場所は覚えていますか。
 
小山)宮城県・高城の避難所の体育館で、みなさんのお話を伺うことから始めました。後に一人一人お話を聞くようになって。一番長く取材しているのが南三陸町の海鮮料理店。お店が津波で流されてしまって。2011年6月からずっとお付き合いしていて、今も連絡を取り合っています。とても地元の人に愛されていたお店で。店主の高橋さん夫婦が南三陸町の山道で、作業に来る人たちにお腹の足しにとお弁当を販売していたんです。僕はそこに取材に行きました。
そのときの奥さまは、生きる気力を失ったような表情をされていたのがすごく印象に残っていて。同時にすごく心配もしていたんです。でも、仮設の商店街でお店を営業することが決まったとき、奥さまの表情がガラッと変わったんです。笑顔が見られて、目がキラキラしていました。生きる目標ができて、どうにかしようと立ち向かったときに、人が変わる瞬間を僕は何回も見てきました。人って強いんだなと。生きるってすごくパワーが要ることだけど、それを決めた人はこんなに目の力が変わるんだと感じ驚きました。それは僕がずっと被災地を見てきた中で共通して感じたことです。

 
西村)表情の違いからも高橋さんの心の揺れや変化をすごく感じます。最初に高橋さんに会ったときはどんな話をしたのですか。
 
小山)僕はお邪魔している立場。何を聞いていいのか、何が失礼に当たってしまうのかがわからなかった。何かを話すよりも近くにいて、高橋さんが話されるときに、その話に入っていくという形をとりました。「今どうですか?」なんて聞くことはできなかったです。最初は話をするというよりは、高橋さんたちの雰囲気、現状をどのように受け止めているのかを見ていました。
 
西村)まさに寄り添う取材ですね。
 
小山)そこから「うちはこれが美味しいんだよ」とかどんどん話の内容も明るくなっていって。南三陸町のほかの場所に取材に行ったときも、高橋さんのお店には寄るようにしていたんですよ。「今日も来てるよ!」と顔を出すと「また来てるの?」といわれて(笑)。「持っていきな」といつもおにぎりを持たせてくれるんです。テレビの取材ですが、それを超えた関係値を作れたことは、自分にとってすごく良かったと思います。被災地に取材に行くときだけの関係はやめたくて。僕が最初に決めたのは、復興するまでは絶対に寄り添うということ。そんなふうに向き合ってきたつもりです。
 
西村)今、高橋さん夫婦がどのように生活しているのかとても気になります。
 
小山)お店は、仮設から本設なりました。地元のお客さんがどんどん帰ってきて。この前電話で話したのですが僕が喋る隙間がないぐらい喋っていましたね(笑)。
  
西村)うれしいことがたくさんあって、町もどんどん動き出しているのですね。
 
小山)人が変わったかのようで僕もうれしくて。ずっと話を聞いていました。コロナの影響で、行きたくてもなかなか行けないのですが。「いつ来てくれるの?」というメールを5回ぐらいはもらっています(笑)。
 
西村)小山さんのお話を聞いていると、わたしも高橋さん夫婦に会いに行きたい、ご飯を食べに行きたいと思いました。お店の名前は?
 
小山)「志のや」です。「小山くんのラジオを聞いて来ました」といってくれたら、僕にすぐ電話が来ると思います(笑)。キラキラ丼というメニューを食べてほしいです。
 
西村)キラキラ丼!?
 
小山)海鮮丼です。新鮮さが伝わりますよ。カメラの前で食べているときと、カメラが回ってないときに食べている僕のリアクションが一緒だと言って安心していました(笑)。当時仮設の商店街があったのですが、ほぼ全部のお店を取材したので、その商店街に行けばお店の人が全員出てきてくれて。東北の人はお土産をたくさんくれるんです。
 
西村)わかります!これも持って行き!あれも持って行き!って(笑)。
 
小山)いつも両手いっぱいにお土産を持って東京に帰っていました。
 
西村)小山さんにそのお土産をもらった人が東北に思いを寄せるきっかけにもなりますね。
 
小山)美味しいものがあることをどんどん伝えたいと思いました。
 
西村)現在、南三陸町はどうなっているのでしょう。
 
小山)南三陸町にはなかなか行けてないんです。気仙沼は最近お仕事で行ったのですが、すごく変わっていました。
 
西村)高橋さんは、町の様子など話していましたか。
 
小山)町はすごく変わっていると教えてくれました。僕は全く手つかずの状態のときも知っているので、変化を見てみたいです。被災された人に「街が変わっていくのは寂しくないんですか?」と聞いたことがありました。町が片付いて新しくなっていくことは、ありがたくうれしいことだと思うのですが、寂しくないのかなと思って。やはり寂しいみたいです。自分の町で道に迷うと。
 
西村)自分の町だけど、見慣れない景色で道に迷うのですね。
 
小山)全然違う新しい町になる。もう1度ゼロから自分たちの地元を作っていく。そこには複雑な想いもあると思います。復興することは良いことではあるけど、一方で気持ちが追いついていない部分もあると思います。町の復興はどんどん進めていけるけど、心は今でも追いついていない。そこは丁寧に見ていかなければならない部分。そこに気をつけてこれからもお話を聞いていきたいと思います。
 
西村)先ほど気仙沼の話がありましたが、何年ぶりに訪れたのですか。
 
小山)3年弱くらいは行っていなかったのかな。もうすっかり変わってしまって、観光客を待っているくらい町がきれい。夜はイルミネーションが輝いていました。
 
西村)きれいになって、何ができていましたか。
 
小山)商店街が新しくなって、食事ができる場所がたくさんあります。コロナの影響もあって静かでしたが、また落ち着くと賑わうと思います。昔は、海の近くで漁師さんたちが船の管理をしている光景が見られましたが、そこも全部きれいになっていました。
 
西村)漁師さんはどちらに行ったのでしょうね...。
 
小山)そういうところも気になりますよね。また取材をしたいと思います。
 
西村)気仙沼ではどなたかに会うことはできましたか。
 
小山)ずっと取材をしてきた「亀山精肉店」というお肉屋さんの店主さんと会えました。震災の年に生まれた息子さんがいて、僕が会ったときは赤ちゃんでした。息子さんには年齢を重ねるごとに会っているんですけど、7歳ぐらいのときに会ったのが最後でした。そのときに一緒にサッカーをしました。そこから会えてなかったのですが、今回会えたんです。大きくなっていて、僕ばかりテンション上がっちゃって。「サッカーしたこと覚えてる?」と聞いたら、「覚えてるよ!」と。家族は旦那さんが津波で亡くなり、娘さんは今も行方不明です。
 
西村)男の子のお姉ちゃんですね。当時何歳だったのですか。
 
小山)おそらく3歳。息子さんはしっかりお母さんを守っていました。奥さまはつらい時期を経験して、息子さんがいなかったら頑張れなかったと。どうにか育てなければということが自分の背中を押したと言っていました。
 
西村)この11年、母として強く生きてきたのですね。
 
小山)本当に強いお母さんになっていました。有名な「気仙沼ホルモン」をたまに送ってもらったり。そんな交流を続けています。
 
西村)お腹の中にいた子が11歳に。この11年の年月を感じますね。
 
小山)早いな...と僕は思うんですけど、「どうですか?」と聞いたら、「早いけどめちゃくちゃ長かった」と。その中に含まれるものは何かと考えました。一生懸命生きてきた中で、自分の心と向き合っている時間も長かっただろうし。時間の感じ方は人それぞれ違うのだろうなと。
 
西村)息子さんは、震災のことについて学校で習ったり、話を聞いたりする機会はあるのでしょうか。
 
小山)あるみたいですが、震災の記憶は全然ないみたいで。
 
西村)当時は赤ちゃんでしたものね...。
 
小山)お母さんは、震災のことを伝えなければと思っているみたいですが、もう少し年齢を重ねてからの方が理解するかなと言っていました。今話すと怖がってしまうみたいです。僕も息子さんに伝えられる機会がこれからあるかもしれない。僕は当時のことを見てきたので、伝えられることがあると信じています。息子さん含め、震災を知らない子どもたちや現場を見たことがない僕らの世代の人たちもいます。僕ができることをずっと考えています。それは伝えることだと思ってやっています。
 
西村)小山さんが伝えてくれることで、東北に思いを寄せる人がどんどん増えていくでしょうね。
 
小山)3.11のことを話す機会は減ってきていると思う。毎年3.11に改めて考えたり、思いを寄せたりすることで、きっかけを作ることができると思うので、僕ができる範囲でやっていきたいと思います。どこに住んでいても災害は起こる可能性があります。我々は、備える時間をもらっているんです。備えをどこまで考えるか。自分で学んで自分の言葉に説得力を持たせたいと思って、防災士の資格を取りました。3.11が風化しないように僕が伝えることで、どう備えるべきか、何ができるのかを考えるきっかけをつくれたらと思っています。
 
西村)東北を訪れていろいろな人に出会ってきて、震災の備えに繋がるお話がたくさんあると思います。小山さんがきょう伝えるとしたら、どんな備えを伝えたいですか。
 
小山)僕が話を聞いてきた中で共通していることは、家族会議をしておいてほしいということ。備えについて家族で話しているようで話していないと思います。面と向かって、両親や兄弟と「震災が起きたときどうするか」と話しをしているか。頭の中でシミュレーションをして、災害が起きたときの連絡方法、集合場所、それを話しているだけで安心感が違うと思います。
 
西村)そうですよね。
 
小山)自分が住んでいる地域の避難所がどこか知っていますか。どの避難ルートで逃げたら、安全な場所に行けるのか知っていますか。全部調べるのは大変だとしても、まずは家族会議をしておくだけでもきっと違うと思います。

 
西村)それは震災でつらい思いをした人たちが話してきてくれた備えですね。大切にしていきたいですね。
 
小山)当たり前のことを言われた気がしたけどハっとしました。
 
西村)震災11年となりましたが、小山さんはこれからどのように東北のみなさんと関わっていきたいですか。
 
小山)みなさんがこれからどのように生きていくのか。どんな思いで被災地と向き合っていくのか。10年以上経ってからの新たな気持ちを聞いていきたいと思います。僕はプライベートでも行くつもりでいるので、みなさんとお会いして日常を見たいです。当たり前に過ごせない日常を見てきたので、みなさんの当たり前に過ごす日常を見たいという思いがあります。僕が見てきた変化を僕のフィルターを通して知ってもらうことで、1人でも多くの人が被災地に想いを馳せることができると思います。今の立ち位置で僕ができることをこれからもずっと伝えていきたいと思います。
 
西村)きょうのお話を聞いて、「志のや」さんと「亀山精肉店」さんのお取り寄せができるなら、お取り寄せしてみたいです!
 
小山)「亀山精肉店」さんは、お取り寄せできますよ。
 
西村)この後早速チェックしたいと思います!きょうは、お忙しい中ありがとうございました。NEWS小山慶一郎さんにお話を伺いました。
 

第1325回「東日本大震災11年【3】~小児甲状腺がん患者が東電提訴」
オンライン:「311子ども甲状腺がん裁判」弁護団長 井戸謙一さん

西村)東日本大震災、福島第一原発事故の発生から一昨日で11年を迎えました。原発事故の発生から時間が経った今、ある裁判が起こされました。事故による放射線被ばくの影響で小児甲状腺がんを発症したとして、事故当時6~16歳で、福島県内に住んでいた男女6人が今年1月、東京電力に損害賠償を求める裁判を起こしました。裁判を起こした原告はどのような状況におかれていて、裁判で何を訴えるのでしょうか。
きょうは、裁判の弁護団長をつとめている弁護士の井戸謙一さんとオンラインでつなぎ、原告や家族の声を交えて伝えます。
 
井戸)よろしくお願いします。
 
西村)この甲状腺がんの裁判。原告は、どのような状況や思いから提訴に踏み切ったのでしょうか。
 
井戸)裁判を起こしたのは、事故当時6~16歳、現在17~27歳の若者6人。小児甲状腺がんは、中高年には多い病気ですが子どもにとっては珍しい病気です。福島の事故前は、小児甲状腺がんになる子どもは、年間100万人に1人か2人しかいませんでした。福島県には子どもが38万人いるので、福島県内で2年に1人出るか出ないかという計算。ところがこの11年間で今わかっているだけでも293人の小児甲状腺がん患者がいるんです。
子どもが甲状腺がんと診断されたら、何故そんなに珍しい病気にかかってしまったのかと思いますよね。甲状腺がんにかかる一番の原因は被ばくなんです。福島の子どもたちは大なり小なり被曝をしているので、多くの子どもたちや家族は、原因は被ばくではないかと思うわけです。でも、今の福島でそのようなことは口に出せません。そのようなことを口に出すと復興の妨げになり、風評被害を招くといわれて、周りからバッシングされるので、子どもたちや家族は孤立して息を潜めるようにして生活してきたのです。
でも不安だし、このまま立ち止まっているわけにはいかない。何らかの形で前へ進みたいということで、今回6人の若者が「自分が小児甲状腺がんになった原因は被ばく」ということを認めてほしいと決意して裁判を起こしました。

 
西村)今月2日、原告が想いを語るオンラインイベントが行われました。事故当時、6~16歳で、現在の年齢は10~20代という若者です。東京電力を相手に提訴に踏み切った思いについて、原告3人の声をお聞きください。
 
音声・原告女性)高校生のときに甲状腺がんと診断され手術を受けました。しかし、その後再発。遠隔転移もしていて、完治は極めて難しい状態にあります。将来のことを考えると不安で、結婚や出産など先のことは考えられないです。原発事故との因果関係はないといわれていますが、事故後、多くの子どもたちが甲状腺がんになっているのはなぜか原因を認めてほしいです。そしてこの裁判が少しでも孤立しているほかの甲状腺がんのみなさんの力になればと思います。
 
音声・原告女性)11年の間に私のほかに約300人もの子どもたちが甲状腺がんになっています。このような状況にもかかわらず、この甲状腺がんと原発事故との因果関係は認められないと、検査序盤から言われたり、検査縮小、過剰診断論を主張したりする動きがあります。福島県の子どもたちの健康、また私以外の甲状腺がんと診断された約300人の子どもたちのためにも、この裁判に挑み勝つことで、このような動きを止めて、甲状腺検査の継続、または甲状腺がんと診断された子どもたちへのしっかりとしたサポート体制を実現していきたいと思っています。
 
音声・原告男性)僕は男性ですが、なぜ女性特有の甲状腺がんになってしまったのかずっと疑問に思っていました。甲状腺がんに関してさまざまな情報がありますが、どれが真実でどれが嘘かは僕1人では判断できない難しいもの。この裁判を通して何が真実なのかということを証明していけたらと思います。

 
西村)3人の声を聞いていただきました。自分のためではなく、同じように苦しんでいる甲状腺がんになった子どもたちのためにも裁判に挑もうと思ったのですね。
 
井戸)裁判を起こそうと考えたとき、最初の理由は、将来に対する不安だったと思います。将来再発することを不安に思っているからです。それに備えるのは医療保険ですが、もうがんがあるので、医療保険には入ることができない。そうなると、やはり東京電力に補償してほしいという思いがあったのだと思います。そんな中、裁判を起こすことについて悩み決断したのは、これが自分たちだけの問題ではないということがあるからです。自分たちがずっと孤立して苦しんできたように、300人近い仲間が苦しんでいる。自分たちが声を上げることで、そのような人たちに勇気を与えることができるし、自分たちだけが救済されるのではなくて、被爆して病気になった人たちに制度的な補償をしてほしいという思いが裁判を起こす後押しになったのだと思います。
 
西村)福島県は原発事故時点でおおむね18歳以下の子ども約38万人に対して、甲状腺の検査を継続して実施してきました。それによるとがんやがんの疑いと診断されたのは266人。そのうち手術を行ったのは222人と発表していますが、先ほどの井戸さんの話では293人。数が違いますがどういうことでしょうか。
 
井戸)それは福島県民健康調査の枠内でがんと診断された人が266人ということ。その枠外で自主的に病院に行って調べた子どもたちの中で、がんと診断された人が27人います。合計すると293人ということになります。
  
西村)なぜ枠外の検査になってしまったのでしょうか。
 
井戸)福島の人たちには、福島県に対する不信感があります。県民健康調査の診断が信用できないという不信感から、自主的に甲状腺の専門病院に行って調べた人が相当数いるからです。
  
西村)先ほどの原告インタビューの中で、甲状腺がんと原発事故の因果関係は認められないという言葉が印象的でした。福島県の健康調査に関する検討委員会は、甲状腺がんの発症について放射線の影響は考えにくいという見解を出しています。先ほどのインタビューで語られたことと重なりますね。これに関して、井戸さんはどのように考えていますか。
 
井戸)全く説得力はないと考えています。最初はスクリーニング効果の影響といっていたんです。
 
西村)スクリーニング効果とは。
  
井戸)甲状腺がんは、がん細胞ができて、外から見てもわかるぐらい大きくなったり、声が出にくいなどの症状が出たりして、発見されます。それが子ども100万人に1人か2人だったわけです。しかし、スクリーニング検査をすると、症状が出る前のがんを発見してしまうから、たくさんがんが発見されたのだと最初は説明していたんです。
 
西村)以前よりも検査をした人の数が多いからということですね。
 
井戸)症状が出る前に検査をすると、何の症状もないのに調べたらがん組織があることがわかってしまう。そのまま放っておいたら、将来5~10年後にがんが発見されるものを、早い段階で見つけてしまっているという説明をしていたんです。でもあまりにその数が多くてそれでは説明しきれなくなり、過剰診断論が強くなりました。何の悪さもしない甲状腺がんは、スクリーニング検査をしなければ、一生気がつかないまま終わる。しかし、スクリーニング検査をすることによって発見され、がん患者だと思うことがストレスになり、手術をする。そのような手術は必要のない手術で、かえって子どもに負担をかけてしまう。これは子どもの人権侵害なので、県民健康調査のスクリーニング検査をやめるべきだという議論です。今は、過剰診断なのか、被ばくによる過剰発生なのかという議論になってきています。でも過剰診断ではないと私たちは考えています。
 
西村)実際に、幼い頃に甲状腺がんになった人は、どのような生活をしているのですか。
 
井戸)正社員やアルバイトで働いている人もいます。希望の大学に入ったけど手術や体調不良で退学せざるを得なかった人もいますし、希望の会社に就職したけど、手術や体調不良で辞めざるを得なかったという人もいます。自分の描いていた人生設計が狂ってしまったという人が何人もいます。みなさん再発の危険に怯えています。6人中4人が既に再発していて、そのうち1人は、再発を繰り返して、既に4回手術を受けているんです。
 
西村)4回も!
 
井戸)6人中1回手術をした人が2人。2回が3人、4回が1人です。甲状腺がんは、決して軽い病気ではなく、転移すると大変なリスクがあります。肺転移や骨転移をすると命の危険もあります。6人のうち1人は既に肺に転移していることが指摘されています。みなさん今後の人生、将来像を描けない状況に追い込まれていて、転移について非常に不安を抱えています。
 
西村)先ほどの原告インタビューの中で、女性が結婚や出産など将来のことは考えられないと話していましたね。
 
井戸)不妊治療には、甲状腺ホルモンが必要。甲状腺を全摘しているので、ホルモン剤を一生涯飲み続けなければならないのです。 
 
西村)生涯薬を飲まなければならないんですね...。
 
井戸)ホルモン剤の調整というのは、難しくて多すぎても少なすぎてもダメ。お医者さんが調整してくれるのですがうまくいかないと体調が悪くなる。再発しなくても生涯そのような問題を抱えて生きていかなければならないのです。
 
西村)そのような生活を送る子どもを見守っている家族がいます。先日行われたオンラインイベントの中で、原告の祖母、母親が語った声をお聞きください。
 
音声・原告の祖母)私の対策が間違っていたのかなと。もう少し離れていれば、もう少し空気を吸わないようにすればよかったのかなと。甲状腺がんになったときも後悔したのですが、再発したときはさらに後悔しました。
 
音声・原告の母)最初にがんといわれたとき、医者からは取れば大丈夫といわれ疑問に思いましたが、再発を繰り返しました。一生薬を飲み続けなければならない。これはすごく大変なことだと思います。そんな思いを子どもにかせてしまったという気持ちがすごく強いです。

 
西村)私も2人の子どもがいる母親なので、同じ状況になったらどう行動すべきかと考えます。子どもが甲状腺がんになった親御さんは、責任を感じてしまっているのですね。
 
井戸)原発事故が起こったとき、ほとんどの人が子ども守るための知識を持っていなかった。行政からの指示も何もなかったんです。そんな中で、みなさん必死に子どもを守ろうとしたのですが、このような状況になってしまって。自分がもっと知識を持っていれば、有効な対策をとっていればこんなことにならなかったのではないか、自分の不手際のために、知識不足のために子どもをこんな目にあわせてしまった、と親御さんたちは自分を責めています。
 
西村)住民が甲状腺がんの発症を理由に原発事故の被害を訴えたのは、今回が初めて。原発事故の発生から11年目の訴訟で原告はわずか6人です。なぜこれだけの時間がかかったのでしょうか。オンラインイベントで原告の女性が語った声をお聞きください。
 
音声・原告女性)原発事故が起きた当時、「県外に避難したとき、ガソリンスタンドで帰れといわれた」「福島県出身という理由で婚約を破棄された」という話を避難者からよく聞いていて。福島県民という理由だけで、差別される環境が続いていました。それに加えて、復興に向けた動きが強まって、私たちの話題は風評被害に繋がっていると捉えられた10年でした。なかなか声を上げられるような状況ではなかったのですが、時効を迎えてしまったらどうしようもないので、今このタイミングで声を上げることを決めました。
 
西村)このような問題に時効はあるのですか。
 
井戸)一応10年ということになっています。甲状腺がんがわかってから10年と考えるとそろそろ時効が近づいている。このタイミングが最後だという考えがあります。
 
西村)長い時間かかったというのは、それだけ甲状腺がんの人は声を上げることが難しかったのでしょうか。
 
井戸)普通なら、甲状腺がんになった子どもや家族が結びついて家族の会などが作られて、みんなで話し合って裁判しようという流れになります。今の福島の雰囲気の中では、そのような声を上げられないので、横の繋がりがほとんどない。誰が甲状腺がんにかかった子どもなのかがわからないんです。結局家族だけで息を潜めるようにしてずっと生きてきた。そんな状況で、このままでは納得できないから訴訟を起こそうと考え、弁護士に相談する中で、同じような人がいることがわかって少しずつ繋がるまでに11年かかったのだと思います。
 
西村)弁護団長の井戸さんは、今回の裁判にどのような思いを持って挑んでいるのですか。
 
井戸)みなさん大変な思いで決断をしたので、あのとき決意してよかったと思えるような結果を生み出さなければならない。それが弁護団の責任だと思っています。この裁判は決して負けることがあってはならない裁判だと思っています。福島の事故後、住民を被曝させない対策、被ばくによる健康被害の可能性を調査して補償する体制がこの国には全くありません。小児甲状腺がん以外にも、被ばくによる健康被害がある被害者はたくさんいると思っています。そのような国の姿勢を変えていくために非常に重要な裁判だと思って、気持ちを引き締めています。
 
西村)今回の訴えを受けて東京電力は主張を詳しく伺った上で、誠実に対応するとコメントしています。そして福島県は甲状腺がんの発症について、放射線の影響は考えにくいとの見解を示しています。裁判では、がんの発症と原発事故の因果関係が最大の争点になるとみられています。今後の裁判についても注目していきたいと思います。
きょうは、子ども甲状腺がん裁判弁護団長の井戸謙一さんにオンラインでお話を伺いました。