第1388回「5月は熱中症に注意」
ゲスト:MBSお天気部 気象予報士 前田智宏さん

西村)5月17日(水)に大阪では今年初の真夏日を観測しました。5月にも関わらず30度を超える暑さ。熱中症にならないかと心配です。
きょうは、熱中症の予防法についてMBSお天気部 気象予報士の前田智宏さんにお話を伺います。
 
前田)よろしくお願いいたします。
 
西村)この1週間、暑かったですね。
 
前田)急に暑くなりましたね。5月17日(水)の大阪の最高気温が30.3℃。今年初めての真夏日となったほか、内陸部では35℃近くとなり、近畿地方では猛暑日に迫る暑さのところもありました。
 
西村)5月なのにこんなに暑いとは。
 
前田)意外と5月は30℃を超えることがあります。雨が続いて気温が低い中で、急に気温が上がると熱中症のリスクが高くなります。
 
西村)温度差に体がついていかないですよね。天気予報を見ていると、ここ数年「熱中症警戒アラート」という言葉をよく聞くようになりました。
 
前田)熱中症警戒アラートは、2021年から発表されるようになりました。近年、過去にない暑さにより、熱中症のリスクは高まってきています。国は危険視して、暑さに対する警報=熱中症警戒アラートを出すようになりました。
 
西村)熱中症警戒アラートはどんなときに出されるのですか。
 
前田)熱中症警戒アラートは暑さ指数に基づいて発表されます。気温だけではなく、湿度と輻射熱(照り返しの熱の効果)を加味して、導き出される数値が暑さ指数。暑さ指数はこの3つの割合から算出されるのですが、気温は1割、輻射熱が2割、残りの7割は湿度なんです。
 
西村)気温よりも湿度が重要なのですね。
 
前田)湿度が高いと汗が蒸発しにくいので、熱を発散することができません。暑さ指数は湿度が重要なのですが、この時期は空気がカラっとしていますよね。だから熱中症警戒アラートが発表されるまでの暑さ指数には達していないんです。
 
西村)熱中症警戒アラートが出ていないけど、熱中症には気をつけないといけないですよね。
 
前田)兵庫医科大学の服部先生のお話では、今年は特に熱中症に注意警戒が必要だということです。この3年間、コロナ禍で自粛生活が続いていた影響で、体の水分を蓄える筋肉量が全世代で落ちています。
 
西村)ステイホームが続いて、以前にくらべて運動する機会も少なくなっていますよね。わたしも運動不足を感じています。
 
前田)筋肉量が落ちているということは、汗をかきにくくなっているということ。気温が高くなくても熱中症に注意が必要です。暑さに対応できない体になってしまっている可能性があるからです。晴れて日差しの強い日は、特に熱中症に注意が必要です。強い日差しのもとでは気温がそれほど高くなくても体感温度が上がります。1ヶ月後の6月21日の夏至にむけて太陽のパワーも強くなってきているので、直射日光をいかに避けるかが、この時期の熱中症対策のポイントです。
 
西村)帽子をかぶる、日傘を使う、日陰を歩くというのも効果的ですか。
 
前田)はい。木陰に入るだけでも体感温度が変わります。この時期はうまく日差しを避けることを心がけてください。農作業や学校の体育の授業での熱中症も心配されます。体調管理に気を付けましょう。
 
西村)バーベキューの予定もあります。久しぶりの野外レジャーで気持ちも高まりますけど、そういうときこそしっかりと熱中症対策をしないといけませんね。何かおすすめの予防法はありますか。
 
前田)暑い時期に向けて、暑さに強い体作りをしていくことが大切です。
 
西村)コロナ禍で運動不足になっている人も多く、筋肉量が落ちてきているからこそ、暑さに強い体作りをしなければいけませんね。
 
前田)暑さに対する適応能力を高めていくことを、「暑熱順化」と言います。暑さに慣れていくという意味です。
 
西村)どんなことをしたら良いのでしょうか。
 
前田)汗をうまくかけるようになるために、日常に少しずつ運動を取り入れていきましょう。ウォーキング、ジョギング、サイクリング等を暑い昼間に行うのではなく、涼しくて活動しやすい朝や夕方に行うと良いです。
 
西村)朝焼けや夕焼けも綺麗ですし。夜は月を見ながらランニングやサイクリングをするのも良いですね。
 
前田)気分転換にもよさそうですよね。もっと手軽なのは、お風呂に浸かることです。
 
西村)お風呂ならすぐできますね。
 
前田)暑くなってくるとシャワーで済ませてしまいがちですが、しっかり湯船にお湯をはって入浴することが大事。10~15分ほど浸かって体を温めれば、汗をかく練習になります。
 
西村)お湯の温度は何℃ぐらいが良いですか。
 
前田)40度くらいが良いです。肩までしっかり浸かりましょう。入浴の前後には、コップ一杯のお水、スポーツドリンクなどで水分補給を忘れずに。
 
西村)入浴の後だけではなく、前後に水分補給をするのですね。
 
前田)入浴前に水分をとっておくと、汗をかくための水分が補われます。
 
西村)熱中症は、室内にいるときも注意が必要と聞きます。
 
前田)熱中症は外でバタっと倒れるイメージがありますが、室内で静かに体調が悪くなっていくパターンが多いです。高齢者に多いので、周りの人も気をつけてあげることが大事です。気温の高い時期は、エアコンなどをうまく使って室内の温度を下げましょう。
 
西村)室温は何度ぐらいがちょうど良いですか。
 
前田)25~28℃ぐらいが適温です。28℃だと高すぎる場合は、自分の体温と相談しながら調節してください。これからエアコンを使う頻度が増えてくると思うので、今のうちに正常に動くか確認をしておいてください。
 
西村)いざ使わないといけないときに動かない、掃除をしていなくてカビが充満...なんていうことも。
 
前田)今は、エアコンの試運転にオススメの時期です。少し低めの16~18℃に温度設定をして、10分ほど運転してみてください。きちんと冷たい風が出ているか、異常を示すランプが点滅していないか等を確認しましょう。気になる場合は、さらに30分ほど運転し続けて、室外機から水漏れがしていないか、変な臭いや異音がしないかも確認。6月になるとエアコンの点検や修理がすごく増えるそうです。暑いシーズンに間に合わない、なんてことにならないように早めにエアコンを動かしておきましょう。
 
西村)これを機にエアコンの掃除もして、室外機もきちんと動くかチェックしておこうと思います。高齢者以外にも熱中症に注意するべき年代はありますか。
 
前田)子どもは地面からの熱を受け取りやすいので十分に注意が必要。ペットも散歩のタイミングを考えて、熱中症に注意をしましょう。肉球を火傷してしまう例もあるようです。
 
西村)外にいるとき以外でも、室内で集中してパソコンに向かっているときなどついつい水分補給を忘れることがあります。
 
前田)作業に没頭してしまって午前中1度も水を飲んでない、ということもよくあると思います。そんなときこそ、意識的に時間を決めて水分補給をしてください。アラームを1時間おきに設定して、鳴ったらコップ一杯の水分をとる。自分が忘れないための工夫をしましょう。
 
西村)水分補給のためにアラームを設定する方法は、おじいちゃんやおばあちゃんにも伝えたいですね。
 
前田)1リットルのボトルを用意して、仕事を始めてから帰るまでに飲みきることを心がけるという方法もオススメです。
 
西村)今の時期、紫外線にも注意が必要ですか。
 
前田)地上に届いている紫外線にはUVA(紫外線A波)とUVB(紫外線B波)の2種類があります。しわやたるみの原因になるのが、UVA。5月は真夏と変わらないぐらいのUVAが地上に届いています。紫外線量が増えるのが4~5月。初夏の紫外線対策のポイントは、室内でもなるべく日焼け止め対策をすること。太陽の高度が完全に高くなっていないので、西日など横から入り込んでくる光が多いです。
 
西村)オフィスや教室、車の中でも油断できませんね。
 
前田)しわやたるみの原因になるUVAは、窓ガラスを通り抜けて入ってきます。ちょっと油断していたら肌が真っ赤になることもあるので要注意です。日やけ止めは去年のものが残っている人も多いのではないでしょうか。
 
西村)去年のものは使っても良いのですか。
 
前田)変な匂いがしたり、変色したりしていなければ使っても大丈夫。目安として、未開封でも3年以内には使い切ってください。開封したものは、なるべく早めに使い切りましょう。
 
西村)3年以上経っているものは、肌トラブルにもつながるということで注意が必要ですね。
 
前田)これから梅雨シーズンになりますが、曇りでも6割くらい、雨でも2~3割の紫外線が地上に届いています。晴れていなくても、紫外線対策・UV対策は心がけてくださいね。
 
西村)紫外線対策、熱中症対策に気をつけていきましょう。美味しいものをしっかり食べて、お風呂にもゆったり浸かって、暑さに強い体を作っていきたいと思います。
きょうは、MBSお天気部 気象予報士の前田智宏さんにお話しを伺いました。

第1387回「石川県能登地方の地震~長周期地震動とは」
オンライン:名古屋大学名誉教授 福和伸夫さん

西村)今月5日、石川県能登地方で観測されたマグニチュード6.5、最大震度6強の地震。この地震では、ビルやマンションの高層階が大きくゆっくりと揺れる長周期地震動が観測され、階級と地域名がはじめて緊急地震速報で伝えられました。長周期地震動とは、どんな現象なのか。また緊急地震速報が出た場合、わたしたちはどのような行動をとるべきなのか。
きょうは、名古屋大学名誉教授 福和伸夫さんにお聞きします。
 
福和)よろしくお願いいたします。
 
西村)今月5日に石川県能登地方で発生した地震はどんな地震ですか。
 
福和)2年以上にわたって群発地震が起きていたエリアで起きました。今回は、これまでの群発地震の中で最も規模が大きいマグニチュード6.5でした。今もたくさん地震が起きているので、これからさらに大きな地震が起きる可能性も。
 
西村)今後も注意が必要ということですね。
 
福和)震源が海側に広がり始めています。海側には活断層もたくさんあるので注意が必要です。
 
西村)今回初めて緊急地震速報で伝えられた長周期地震動とは、どんな揺れのことですか。
 
福和)2011年の東日本大震災のときに大阪府咲洲庁舎がすごく揺れましたよね。震源の東北から大阪は700~800km離れていますが、咲洲庁舎は往復3m揺れました。長周期の揺れは、高層ビルを揺らしやすいんです。揺れが往復する時間のことを周期と言います。往復3秒で50cmならゆったりした揺れですが、同じ3秒で部屋の端から端まで往復したら、全力疾走しても間に合わないぐらいすごいスピードになりますよね。そのような長周期の揺れに弱いのが超高層ビルや石油タンクの中の油です。
 
西村)石油タンクの中の油ですか。
 
福和)例えばコーヒーが入ったカップを左右にゆすると、コーヒーがチャポチャポしますよね。その周期は短いですが、お風呂のバスタブの中で体を前後に動かすとお湯がチャッポンチャッポンと大きく揺れます。これは周期が長いですよね。そのように、大きなタンクの中にある油が数秒以上の長い周期で揺れると、タンクの蓋が大きく動揺して、引火して大火災を起こすことがあります。それが2003年の北海道・十勝沖地震のときに、苫小牧の石油タンクが燃えた状況です。
 
西村)福和さんは揺れの実験をしたことがあるそうですね。3m揺れると部屋の中はどんな状況になるのですか。
 
福和)いろいろなものが移動します。キャスターの机はすごい勢いで動きます。立っていられないので、這いつくばるしかない。これは本当に怖いです。咲洲庁舎は10分以上揺れていました。ビルは揺れが大きくなるまでに時間がかかります。ゆっくりとした揺れからじわじわと何分もかけて凄まじい揺れになっていきます。それがずっと続いて、いつになったら収まるのかわからない恐怖感に襲われます。
 
西村)そのうち止まるかな...と思っていても、どんどん大きな揺れになっていくのですね。
 
福和)1度揺れると収まりにくく、そのうちに次の余震が起きてまた揺れます。
 
西村)恐ろしいですね。震源から遠い場所の高層ビルも大きく揺れてしまうのはなぜでしょうか。
 
福和)いくつかの理由があります。一つ目は、巨大地震ほど長周期の揺れが起きるからです。なぜかというと、断層が滑る時間が長くなるからです。断層のずれが少なければ、ずれ初めてずれ終わるまで早いので周期は短い。断層が1mぐらいずれる場合は、1秒ぐらいかけてずれる。断層が10mぐらいずれる場合は、10秒ぐらいかかる。長い時間ずれ続けると長い周期になります。二つ目は、長周期の揺れは、波長が長いということ。地面を輪切りにしてみると波になっています。その波の長さを=波長と言います。波長が短いとすぐに波が小さくなる。振動数が高い波、あるいは周期が短い波は波長が短いので、遠くまで伝わらないんです。それに比べて、波長が長いと揺れが遠くまで伝わる。長周期の揺れは、波が小さくならないので大阪まで伝わってしまうんです。さらに大阪の地面はプリンのようになっていて、そのプリンの厚さが何kmもあります。プリンはお皿の上に置いて、左右にゆすると大きく揺れますよね。プリンを上から順番に食べていって、薄くなるとブリブリと揺れます。物が厚く堆積していると長い周期で揺れて、薄いとガタガタという揺れになるんです。震源から700~800km離れていても、大阪平野は5~6秒周期の揺れを大きく増幅させてしまう。
 
西村)わたしたちはそんなところに住んでいるのですね。
 
福和)暑いとき、イライラしてくると下敷きを短く持って小刻みに揺らしますが、下敷きを長く持つとゆったりと仰げますよね。まさにそれが超高層ビル。大阪には長周期の揺れに弱い超高層ビルがたくさん建っています。大きな地震ほど長周期の揺れとなり、それが遠くまで伝わり、大規模な堆積平野で大きく増幅されて、さらに超高層ビルの中で増幅されます。
 
西村)「遠い場所で起きた地震だから関係ない」ではないですね。今年2月から緊急地震速報に長周期地震動が加えられました。
 
福和)これは東京や大阪を救うための情報です。東京や大阪の超高層ビルに勤めている人や、タワーマンションに住んでいる人たちは、この情報によって救われます。特にエレベーターに乗っている人。
 
西村)エレベーターに乗っていたら本当に恐ろしいです。この速報では、気象庁が揺れの強さを階級1~4で評価していて、このうち、階級3と階級4の発生が予想された場合に速報が出ることになっています。
 
■階級1 つり下げたものが大きく揺れる
■階級2 歩行が困難・棚の本が落下
■階級3 立っているのが困難・キャスター付きの家具が大きく
■階級4 立っていられない・未固定の家具が移動、転倒
 
高いビルにいるときに、この速報を受けたらどのように行動したら良いでしょうか。
 
福和)まずは、エレベーターホールなど家具がない広いスペースに移動してください。トイレもオススメです。トイレは、狭い箱になっているので、左右に振られても両手をつっぱれば何とかなります。
 
西村)鍵が閉まって出られなくなりませんか。
 
福和)扉は開けておいてください。
 
西村)用を足していないなら大丈夫ですね。
 
福和)高層ビルの中は手すりがあまりなく、しがみつく場所がないので這いつくばるしかなくなります。どこに避難すれば良いかを揺れてから考えていてはダメ。飛び地のようなところで緊急地震速報が出ているなら、そこは長周期地震動階級が大きい場所となります。
 
西村)飛び地というのは、震源地から離れている場所ということですか。
 
福和)そうです。12年前に今のシステムがあったら、地図上の東北地方に加え、離れている大阪にも緊急地震速報の色が出ているはずです。それによって、大阪は長周期地震動階級が大きいと判断できます。超高層ビルの中にいたら、これから強い揺れが来る覚悟をして、安全なスペースに移動することができる。エレベーターに乗っていたら、その時点でボタンを押すことができる。超高層ビルのエレベーターの高層階は、途中階には止まりません。最寄りの階がないのです。だから早い時点でボタンを押さないとダメ。そのためにこの緊急地震速報があります。エレベーターは揺れを感知してから止まるようになっていますが、途中階がない超高層ビルでは意味がない。この情報をぜひ活用してください。
 
西村)とにかくボタンを押して、止まったところで避難するのですね。
 
福和)もしも閉じ込められたら、ずっと助けてもらえないことを理解してあせらないこと。
 
西村)あせらないためにもカバンの中に飲み物などを入れておいた方が良いですね。
 
福和)僕は、いつもカバンの中には飲み物と携帯トイレを入れています。満員のエレベーターには乗りません。
 
西村)それも大切な備えですね。万が一、高層ビルで長周期地震動を感じてしまった場合、揺れが収まったら、ビルの外に降りて避難しても良いですか。階段を駆け下りたくなってしまいます。
 
福和)高層ビルの避難階段はあまり広くないです。避難階段は、火災が起きたときの避難用に想定されています。高層ビルはある階が燃えても他の階には燃え移らないように設計されています。高層ビルの非常階段は1フロアの人たちが逃げられるぐらいの幅しかないんです。あせってみんなが非常階段に殺到すると危険です。下りている最中にも次々と余震が来る。そういうことが起きるということを頭の中においてください。
 
西村)日頃からの個人レベルの備えはもちろん、ビルを管理する側や会社の上層部も避難誘導について、改めて相談しておかなければいけませんね。今後、心配されている南海トラフの巨大地震でも同じようなことが起こるかもしれません。

福和)凄まじいことが起きると思います。東日本大震災のときは、大阪と震源は700km以上離れていましたが、今度は震源域まで100kmぐらいしかない。距離が1/6~1/7になったら揺れは6~7倍になります。超高層ビルは揺れるということは知っておいた方が良いと思います。
 
西村)きょうは、長周期地震動について、名古屋大学名誉教授 福和伸夫さんにお話を伺いました。

第1386回「郵便局長と取り組む子どもの防災」
オンライン:アイリンブループロジェクト 代表 菅原淳一さん

西村)日本全国どこにでもある郵便局は、わたしたちにとって身近な場所。実は、郵便局長の半数以上は防災士の資格を持っています。そんな郵便局長と一緒に保育園や幼稚園の防災計画を作る活動が始まっています。
きょうは、この取り組みを進めるアイリンブループロジェクト 代表 菅原淳一さんにお話を伺います。
 
菅原)よろしくお願いたします。
 
西村)菅原さんは、宮城県・利府町在住の芸術家だそうですが、なぜ子どもの防災活動をはじめたのですか。
 
菅原)アートの力で東日本大震災の教訓を伝えられないかと思い、2014年頃、活動を始めました。東日本大震災で犠牲になった佐藤愛梨ちゃんのことは、娘と同じ名前ということもあり、気になっていました。2015年5月に愛梨ちゃんが亡くなった現場に手を合わせに行ったら、マーガレットの花が100~200輪咲いていて、その花を1輪持ち帰ったんです。1週間もすると枯れてしまったのですが、庭に埋めたらなんと2ヶ月後に目が芽吹いて花が咲いたんです。アートの代わりにその花を使って、東日本大震災の教訓を伝える活動がアイリンブループロジェクトの核になっています。
 
西村)今、お話にあった佐藤愛梨ちゃんについて、改めて紹介します。東日本大震災発生当時、幼稚園に通っていた愛梨ちゃん(当時6歳)は、本来乗るはずのなかった幼稚園のバスに乗せられて、津波被害に遭い、犠牲になりました。母親の佐藤美香さんに番組でお話を伺ったこともあります。愛梨ちゃんと菅原さんの娘さんが同じお名前であるという縁から、佐藤美香さんと一緒に活動を始めたということです。アイリンブループロジェクトでは、どのような防災活動をしているのですか。
 
菅原)株分けをして増やした花を持って、全国で東日本大震災の教訓を伝える講演活動をしています。2017年、愛知県・弥富市からはじまり、毎年20件ほど講演をしていました。でもこれからだというときに、コロナ禍になり活動ができなくなりました。
 
西村)郵便局の郵便局長と一緒に防災活動をしているとのこと。芸術家である菅原さんと郵便局とのつながりは何だったのですか。
 
菅原)2020年から活動がストップしてしまいましたが、大規模災害のリスクが減るわけではありません。何かしなければと思ったときです。わたしは、子どもの頃から切手を集めていて、郵便局によく遊びに行っていました。宮城県・利府町の郵便局長と防災活動について話しをしていたら、「実は、郵便局長は半分以上が防災士の資格を持っているんですよ」と聞いてびっくりして。「幼稚園・保育園の防災意識をもっと高めれば、愛梨ちゃんのような悲劇は繰り返さないのでは。なにか一緒にできないか」と話したら協力したいと言ってくれて。それで、2021年の夏に宮城県・塩竈市に地域の幼稚園・保育園、行政が集まって、防災会議をして、10月以降に幼稚園・保育園の避難訓練に参加することに。それがスタートです。
 
西村)なぜ、郵便局長は防災士の資格を持っているのでしょうか。
 
菅原)郵便局は地域のために役立ちたいという理念があります。災害時に役に立ちたいということで、防災士資格を取っているみたいですが、実際はほとんど活用されていないのが現実。もったいないと思います。

 
西村)ペーパードライバーのようなものですね。
 
菅原)そうなんです。郵便局長だけではなく、防災士の資格を持っているたくさんの人から「地域との関わり方がわからない」という声がよく聞こえてくるんです。事例を作って、その人たちを巻き込めたらと思っています。アイリンブループロジェクトから派生した「こども防災の日をつくる会」も立ち上げました。
 
西村)「子ども防災の日をつくる会」は、アイリンブループロジェクト菅原さん、愛梨ちゃんのお母さんである佐藤美香さん、郵便局長のほかにもメンバーがいるのですか。
 
菅原)東日本大震災で36%が浸水した多賀城市にも協力してもらっています。浸水エリアにも幼稚園・保育園がたくさんあったので。多賀城市民活動サポートセンターと一緒に活動しています。多賀城市の危機管理課、区長、社協のみなさんにも興味を持ってもらっています。
 
西村)活動について具体的に教えてください。
 
菅原)まず町内会長、市民活動サポートセンターなどで打ち合わせをします。幼稚園・保育園の避難訓練で防災士の目線で、避難ルートや避難行動について、助言させてもらえないかと。幼稚園・保育園の避難訓練の予定とマッチングすると、実際に幼稚園・保育園の避難訓練時の避難ルートを下見します。危機管理課やこども支援課なども一緒に。実際に歩くと危険な箇所が結構あることに気がつきます。避難ルートにブロック塀や川があることも。そこで別のルートを探すときに、郵便局長が力を発揮します。郵便局は配達をしているわけですから、住所のプロですよね
 
西村)防災士の資格を持っている郵便局長が防災士の目線でアドバイスをしてくれるのですね。
 
菅原)わたしたちよりも安全な場所をすごく知っているんです。もっと安全で短時間で避難できる場所に気づくことも。これは本当に目からウロコで。やっぱり郵便局の人たちはすごいなと感じました。
 
西村)郵便物を配るだけではなく、日頃から安全に気をつけながら、街を見て配達をしているのですね。防災士の資格を持つ郵便局長、保育園の園長、職員、市の担当者など地域のみなさんと避難ルートを確認しながら、子どもたちも一緒に避難訓練をしたのですか。
 
菅原)はい。避難ルートの下見から1週間~10日後に避難訓練をします。津波は、地震発生から30分後に来るのか、1時間後に来るのかで避難ルートが異なります。情報がすごく大事。1時間後なら安全なところまで歩けるけど30分しかない場合は、高い建物の上に避難した方が安全な場合もあります。そういうことも確認しながら訓練をします。
 
西村)参加者からはどんな感想がありましたか。
 
菅原)幼稚園・保育園側だけの目線ではなく、ほかの目線を入れるとで、危険な場所に気づくことがあったと。時速3~4kmのゆっくりした速度で歩くからこそ気づくことも多いと思います。
 
西村)子どもの目線だからこそ、危ないポイントもわかりそうですね。
 
菅原)雨の日、避難ルートに木が倒れている場合、散歩の出先で災害に遭った場合、などを想定した避難訓練も行いました。子どもにとって危険なことは、天候・時間帯にもよるのだとわかりましたね。
 
西村)地域のことを知り尽くした郵便局と一緒に訓練をするのは、心強いのでは。
 
菅原)郵便局長は全国にいるということもメリットです。幼稚園・保育園側からは声が上げづらい。郵便局長は、仕事柄さまざまな企業や団体とつながっていてサポートしてくれます。有事の際は、近くの人たちが助けになります。近くの個人団体とつながりが持てた、街作りにつながった、という話も聞いています。
 
西村)地域全体の防災力を上げていくきっかけになりますね。
 
菅原)そうなんです。ただ単に避難訓練をやるのではなく、みんながそれぞれの力を発揮しています。有事の際だけの付き合いではなく、企業・団体とつながりが持てることで、日ごろの取り組みやイベントで協賛してもらうこともできますし、さまざまなメリットがあります。
 
西村)この活動は宮城県内のみで行われているということですが、関西をはじめ、全国に広がると良いですね。今後はどのように展開する予定ですか。
 
菅原)大阪の企業とはじめようという話があります。2023年度は、全国で活動したいと思っているので、大阪で活動することは今年の目標です。
 
西村)大阪から全国へ広がっていくと良いですね。大阪での具体的な活動が決まりましたら、またぜひ出演してください。
 
菅原)南海トラフや首都直下型地震が懸念されているので、そのような災害が起きる前に、この取り組みをどんどん広げて、地域に埋もれている、防災に関わっている人が活躍できる縁をつないでみたいです。
 
西村)きょうは、郵便局長と一緒に保育園や幼稚園の防災計画を作る活動をしている、アイリンブループロジェクト 代表 菅原淳一さんにお話を伺いました。

第1385回「GWに家族で楽しみながらできる災害への備え」
オンライン:徳島ママ防災士の会Switch 代表 瀬戸恵深さん

西村)きょうのゲストは、徳島ママ防災士の会Switch 代表 瀬戸恵深さんです。瀬戸さんは、子育てをするママさん防災士として、徳島県内の子育て世帯に災害の備えの必要性を発信しています。
きょうは、ゴールデンウィーク中にお子さんやお孫さんと楽しみながら取り組むことができる災害の備えについて教えてもらいます。
 
瀬戸)よろしくお願いいたします。
 
西村)徳島ママ防災士の会Switchは、どんな活動している団体ですか。
 
瀬戸)徳島県内で子育てをしている現役ママたちとともに、防災士の資格を持つメンバーが学びの場を作り、防災の大切さや備えについて発信しながら、親子で防災意識の向上を目指す活動をしています。
 
西村)防災の勉強は、難しそう...と思ってしまいますよね。
 
瀬戸)いつかは起きてしまう災害。難しいことは子どもたちが一緒にやってくれないので、親子で楽しみながら防災を学んでいます。
 
西村)瀬戸さんは、徳島のラジオ局で防災番組を担当していて、家族で楽しみながらできる災害への備えについて発信しているそうですね。ゴールデンウィークに家族でできる災害への備えについて教えてください。
 
瀬戸)一つ目は、非常用簡易トイレを使ってみること。一度使ってみるとすごく楽しいので、是非やってみてほしいです。
 
西村)非常用簡易トイレは、準備していても使ったことがない人もいると思います。わたしは1回試したことがありますが、子どもたちと一緒に体験したことはありません。
 
瀬戸)実際に用を足すのは難しいので、お茶や紅茶など色がついていて香りがするものを使います。液体を簡易トイレに流し込むとどのように変化していくのかを子どもたちと一緒に見てみてください。かなり盛り上がりますよ。
 
西村)簡易トイレには凝固剤が使われていますよね。液体を入れるとどうなるのでしょう。
 
瀬戸)液体を入れるとゼリー状になります。乳幼児を子育て中のお母さんは「オムツに似てる!」と言う人が多いです。どうなるかわかっていると、いざというときも使いやすいですよね。ゴールデンウィークに遠出する人も多いと思いますが、簡易トイレを車に載せておくと、渋滞中に子どもたちがトイレに行きたくなったときに便利です。日頃から使用することで、防災の意識を高めると同時に、備えを身近に感じることができます。
 
西村)理科の実験みたいで楽しそう!
 
瀬戸)簡易トイレは、災害時も燃えるゴミとして捨てることができます。中に入っている小さなビニール袋に用を足すのですが、小さい子どもはやり辛いことも。そんな気づきもあります。ぜひチャレンジしてみてください。
 
西村)ほかにはどんな備えがありますか。
 
瀬戸)時間がある人は、「パーソナルカード」を作ってみてください。
 
西村)パーソナルカードにはどんな内容を書くのですか。
 
瀬戸)その名の通り、それぞれのパーソナルな情報を書き記しておくカードです。親と子はいつも一緒にいられるわけではありません。子どもが大きくなると子どもと離れてしまう時間はどんどん増えていきます。そんなときに災害が起きる可能性もあります。これは、親と子が離れているときに、子どものために親ができることを詰め込んだカードです。名前、生年月日、血液型、住所、普段使っている薬やアレルギーの有無。さらに、親がすぐに駆けつけられないときに、その子のそばにいる人へのお願いも書けるようになっています。
 
西村)「エフエムびざん」のホームページからダウンロードしたパーソナルカードがわたしの手元にあります。可愛らしいイラストが描かれていて、カラフルで楽しいですね。
 
瀬戸)徳島県・鳴門市在住のイラストレーターさんが作ってくれました。とてもかわいらしいデザインなので楽しみながら書くことができます。これをベースに別の白い紙に好きな色やシールで自由に作ることもできます。親子で会話しながらうめていくと自然と防災意識が高まります。親子で会話をすることで、子どもがどんなことに不安に感じているのかがわかるし、書いておかなければならないこともわかります。個性や特性を書いておくと、子どもが一人ぼっちになったときに、そばにいる人が助けてくれるきっかけになるかもしれません
 
西村)これは高齢者にも役立ちますね。
 
瀬戸)イベントで配布したときに、おじいちゃんやおばあちゃんが「わたしたちにもいるなあ」とよく言ってくれます。
 
西村)薬を書く欄もありますね。わたしの母も薬をたくさん飲んでいますが、意外と薬の名前って覚えてないものですよね。
 
瀬戸)非常事態になると思い出せないこともあります。家族みんなでパーソナルカードを作って持っておくと良いと思います。
 
西村)持病や障害など災害時にサポートが必要な人も記入すると良いですね。自分や子どもがリラックスできる方法を記入しておくのも良いかも。このパーソナルカードはどこに入れておいたら良いですか。
 
瀬戸)災害はいつ起こるかわかりません。普段持っているカバン、園児なら通園バック、小学生ならランドセルなどに入れておいてください。子どもたちに目的をしっかりと伝えておきましょう。不安があれば、先生に一言伝えておくと良いですね。
 
西村)パーソナルカードは濡れないように防水ケースに入れた方が良いですね。パーソナルカード以外に一緒に入れておくと良いものはありますか。
 
瀬戸)パーソナルカードは紙なので口が閉じられる名札ケースなどに入れておきましょう。そこに家族写真を入れておくと心の支えになります。離れてしまったときに、第三者が家族の顔を知ることができるので再会が速まることも。家族写真は定期的に更新しておくと良いです。
 
西村)パーソナルカードは、エフエムびざんのホームページからダウンロードできます。これを参考にして、オリジナルのカードを作っても良いですね。ゴールデンウィークにほかにもやっておくと良いことはありますか。
 
瀬戸)時間があるときに、非常用持ち出し袋の見直しをしてみてください。小分けのお菓子を入れておくと良いです。小分けのお菓子は衛生面も良く、避難先で子どもに少しずつお菓子を与えることができるので重宝します。普段使っていて安心できるおもちゃも非常用持ち出し袋の中に入れておくと良いですよ。
 
西村)安心できるおもちゃは大切ですね。
 
瀬戸)乳幼児を子育て中のお母さんが持っているマザーズバッグは、それが既に非常用持ち出し袋だと思うので、そこに足すものを改めて考えてみてください。
 
西村)おじいちゃん、おばあちゃんは、「災害時に避難所でも遊べそうなもの」という視点でお孫さんにおもちゃを選んでプレゼントするのも良いかもしれません。大人が安心できるものを入れておくのも大切ですね。
 
瀬戸)大人が必要なものは、わたしは普段から小さなポーチに詰め込んでカバンに入れています。最近ならマスクや除菌シート。普段も使えて災害時にも役立ちます。いざというときにも使えるものをいくつかピックアップして、防災ポーチを楽しみながら備えてみてください。
 
西村)防災ポーチに入れておくもので、オススメのものはありますか。
 
瀬戸)普段飲んでいる薬、寒いときに体を温めることができるエマージェンシーシート。最近は小さく折りたたんで保管できるものがあります。歯磨きシートも便利です。
 
西村)断水で歯磨きができないときに使うシートですね。
  
瀬戸)女性ならメイク落としシートや汗拭きシートをポーチに入れておくと役立ちます。カイロや絆創膏、小さなホイッスルもポーチに入れています。
 
西村)地震で倒壊した家屋に閉じ込められたときに、ホイッスルで助けを呼ぶのですね。
 
瀬戸)はい。いざというときに使えます。
 
西村)子どもたちのバックに入れるときは使い方も説明しておきましょう。ゴールデンウィークに実家に帰る人、お孫さんを迎えるおじいちゃん、おばあちゃん、一人暮らしの人も、時間がある休日に、きょう教えていただいた備えを実践してみてはいかがでしょうか。
きょうは、徳島ママ防災士の会Switch 代表 瀬戸恵深さんに、ゴールデンウィークに楽しみながらできる災害への備えについてお聞きしました。

第1384回「『地震保険』の落とし穴」
オンライン:地震保険調査事務所 主席相談員 阿藤博祐さん

西村)みなさんは、地震保険に加入していますか。地震保険は、建物や家財の損害補償など災害時の備えになりますが、場合によっては正しく鑑定されず、本来受け取れるはずの保険金が受け取れないなど落とし穴もあるそうです。
地震保険の再鑑定などを行っている地震保険調査事務所 主席相談員 阿藤博祐さんにお話を伺います。
 
阿藤)よろしくお願いいたします。
 
西村)阿藤さんはどのような活動をしているのですか。
 
阿藤)「地震保険を申請したけど保険会社から支払いをしてもらえなかった」「金額に満足がいかない」等の相談があったときに、建築士や損害登録鑑定人の資格を持った団体職員が再鑑定を行い、保険金が上方修正して支払われるようにお手伝いをしています。東日本大震災翌年の2012年から全国で調査をしています。
 
西村)鑑定のセカンドオピニオン的存在なのですね。再鑑定ができるということに驚きました。
 
阿藤)再鑑定は保険契約者の権利として認められています。特に費用はかかりません。
 
西村)地震保険に入っている人は全国でどれぐらいいるのでしょうか。
 
阿藤)世帯加入率は約70%と言われています。
 
西村)その数字について、どう思いますか。
 
阿藤)少ないと思います。
 
西村)地域によっても差があるのでしょうか。
 
阿藤)宮城県・福島県・岩手県など大きい地震が起きた地域は加入率が上がります。
 
西村)東日本大震災の前は、地震保険に加入してなかった人も多かったのですね。地震保険は地震保険のみで契約することができるのでしょうか。
 
阿藤)単独で加入することはできません。火災保険にオプションで地震保険を付けることが多いです。
 
西村)地震保険に加入すると、地震で被災して損害を受けた場合、何が補償されるのですか。
 
阿藤)建物の構造や損傷の規模によります。木造住宅と鉄骨の住宅ではポイントが異なります。建物に生じたヒビを数えるなどの鑑定をして、一定の損傷の割合を超えた場合、見舞金を受け取ることができます。
 
西村)家財も対象になりますか。
 
阿藤)建物と家財は別々に保険に加入する必要があります。建物の保険のみだと地震で家財が壊れても補償されないケースがあります。建物の保険に加入せずに家財の保険だけ加入することもできますが、建物、家財どちらも加入する人が多く、その方が補償も手厚くなります。
 
西村)保険料はどれくらいですか。地域や家の構造によっても異なるのでしょうか。
 
阿藤)地域、建物の構造、延床面積の3つの要素を鑑みて計算されるので一概には言えません。
 
西村)どのような地域なら高くなるのでしょうか。
 
阿藤)今後5~10年で地震のリスクが高い地域。木造住宅より鉄筋コンクリートの住宅の方が高くなります。建物の値段が高い場合は、保険料も高くなります。一番安いのは、地震のリスクがない地域の小さい木造の家です。
 
西村)賃貸か持ち家かによっても変わりますか。
 
阿藤)賃貸は、家財の保険のみ加入できます。建物の保険は大家さんが加入しなければなりません。
 
西村)その場合、保険料は少し安くなるのでしょうか。
 
阿藤)家財の保険だけなので、建物と家財両方に加入している人と比較すると多少安くなります。
 
西村)家財の保険だけならいくらくらいですか。
 
阿藤)賃貸で火災・地震保険に加入すると2年間で約2万円。2年間の地震保険(家財)だけなら約4000~5000円です。
 
西村)持ち家の場合は、例えば、大阪府の木造一戸建てなら、建物と家財の両方の保険に加入するといくらくらいですか。
 
阿藤)木造住宅でも地震保険に何年加入するかでも異なります。1年だけなら約4~5万円です。
 
西村)この保険料をかけたとして、受け取れる額の上限はいくらぐらいですか。
 
阿藤)火災保険が上限2000万円で、地震保険が1000万円ぐらい。査定によって全損になった場合、1000万円を受け取ることができます。2018年の大阪北部地震のときの保険料を受け取った人の平均は40~50万円。一部損壊で50万円を受け取った人が一番多かったです。
 
西村)鑑定は、どんなところをチェックするのですか。
 
阿藤)建物の構造によって異なりますが、一般的に多い木造住宅でお話すると、基礎、外壁のヒビが大きい要素になります。建物全体を100%としたときに、3%以上損傷していたら一部損壊で、掛け金の約5%である40~50万円が受け取れます。
 
西村)鑑定をお願いする前に何か準備しておくことはありますか。
 
阿藤)自分で家の周りをきちんと確認して、ヒビがある場所などを伝えることが大事です。
 
西村)写真を撮っておくのも良いですね。
 
阿藤)思い出しにくい場合は、写真を撮っても良いと思いますが、写真の提出を求められることはありません。きちんと伝えられるようにしておくことが大事です。一番良くないのは、家の中で待っているなど、鑑定人にまかせきりになること。手間ですが、自分も一緒に確認して、「ここもヒビがありますね」などと伝えることが非常に重要です。
 
西村)大阪北部地震、東日本大震災など大きな地震の直後は依頼が殺到して、鑑定人が来るタイミングが遅くなることもありますか。
 
阿藤)すぐに来てくれますが1軒につき、3~5分で帰ってしまう場合が多いです。
 
西村)たくさん依頼が来るからですね。30分ぐらいかけて道具を使って調べるのかと思っていました。
 
阿藤)本来は1時間ぐらいかけてきちんと見なければなりませんが、直後は依頼数が多く、どうしても簡易的になります。そんなときにこそ見落としや漏れが起きやすいのです。
 
西村)でも再鑑定はなかなか言いにくいですよね。
 
阿藤)ある鑑定会社の鑑定人に支払いできないと言われ、別の鑑定人に再鑑定してもらったら支払いますと言われたケースも。1回目の鑑定結果は何だったのだろう思いますが、こういうことが平気で起きてしまうので、再鑑定はお願いした方が良いです。
 
西村)資格をとるなど鑑定人になるのは、大変なイメージがあります。
 
阿藤)損害登録鑑定人という資格には実技試験がありません。ペーパーテストだけです。
 
西村)鑑定人によって差も生まれそうですね。
 
阿藤)鑑定人の経験値によって異なります。ペーパーテストは、工業高校の電気や機械のテキストを丸暗記して100点中60点取れれば合格。専門的な実技はありません。
 
西村)今までの大きな災害で再鑑定によって鑑定結果が変わった例はありますか。
 
阿藤)東日本大震災のときは、70万から700万円になった例もあります。これは4回の再鑑定で認められました。
 
西村)同じ会社に再鑑定をお願いしたのですか。
 
阿藤)毎回異なる会社にお願いしています。
 
西村)再鑑定をお願いするときのポイントを教えてください。
 
阿藤)保険会社に再鑑定をお願いした場合、1回目の鑑定人が来ます。その場合、1回目の判断が間違っていることは認めづらいので、同じ判定をされることになってしまうのです。
 
西村)それはなんだかモヤモヤしますね。
 
阿藤)必ず、「別の鑑定会社の別の担当者でお願いします」と伝えてください。
 
西村)再鑑定のときも自分も一緒に確認して、納得がいかない点はアピールした方が良いですか。
 
阿藤)はい。契約者の声をしっかり伝えることは重要です。
 
西村)納得がいかなかったら更にお願いしても良いのでしょうか。
 
阿藤)無制限にお願いする人はあまりいませんが、納得いくまでお願いしてください。再鑑定の件数の制限はありません。
 
西村)地震保険に加入しておいたら安心ですよね。いろいろな備えを平時から心がけていきましょう。
きょうは、地震保険の落とし穴について、地震保険調査事務所 主席相談員 阿藤博祐さんにお話を伺いました。

第1383回「トルコ・シリア地震2ヶ月...復興への課題は?」
ゲスト:NPO法人 CODE海外災害援助市民センター 事務局長 吉椿雅道さん

西村)2月6日未明、トルコ南東部を震源とするマグニチュード7.8の大きな地震が発生し、5万人以上が犠牲になりました。多くの建物が倒壊した現地はどんな状況なのでしょうか。
きょうは、地震発生直後から現地に入り、支援活動を続ける神戸のNPO法人「CODE海外災害援助市民センター」事務局長 吉椿雅道さんに聞きます。
 
吉椿)よろしくお願いいたします。
 
西村)CODE海外災害援助市民センターは、阪神・淡路大震災をきっかけに生まれたNPOなのですね。
 
吉椿)28年前の阪神・淡路大震災のときに世界約70カ国から支援をいただき、被災地の市民が立ち上げた団体です。
 
西村)海外でも支援活動をしているのですか。
 
吉椿)海外の途上国で復興支援を担っています。99年にトルコで起きた地震のときも支援をしてます。
 
西村)今回のトルコ・シリア地震で、吉椿さんはいつ現地入りしたのですか。
 
吉椿)地震の5日後に現地に入り、ガズィアンテプを拠点に、被災地のカフラマンマラシュやアディヤマンなど3ヶ所の被災地を回りました。
 
西村)そのとき、大学生のスタッフも一緒に行ったそうですね。
 
吉椿)海外の被災地で学んでもらうために、インターンの大学生と一緒に行きました。
 
西村)地震から5日後の現地はどんな状況でしたか。
 
吉椿)カフラマンマラシュは、あちらこちらで政府の組織が人命救助を行っていました。被災者は焚き火を囲んで家族の帰りを待っていました。僕もその輪に入れてもらったのですが、28年前の阪神・淡路震災の避難所を思い出しましたね。炊き火を囲みながら泣いている人もいて。でもときどき笑い声も聞こえてきました。トルコの人が紅茶を振舞ってくれて、いろいろなお話を聞かせてくれました。
 
西村)食事はどうしていましたか。
 
吉椿)ほとんどの店が閉まっていました。倒壊した家屋も多く、ライフラインも止まっていました。避難所ではボランティアやNGOが炊き出しをやっていたのですが、僕らにも「食べて」と言ってくれて。
 
西村)自分たちのことだけでも精一杯なのに。優しさが身にしみますね。
 
吉椿)トルコは親日国なので、僕が日本人だとわかると来てくれて、100人以上と写真を撮りました。トルコの人たちはボランティアなどでお互いを支え合っていて、すごいなと思いましたね。
 
西村)こちらの報道ではかなり寒いと報じられていましたが、どれぐらいの寒さでしたか。
 
吉椿)ダウンジャケットを着ていても寒かったです。夜中はマイナス6度まで下がります。被災者はテントの中で薄い絨毯の上に寝ているので、下からの冷えがものすごくて。日中はぽかぽかとあたたかいのですが、寒暖差がありテント暮らしは大変でした。
 
西村)吉椿さんたちは、日本から温かいものを持っていったそうですね。
 
吉椿)寝袋やテントの中に敷くキャンプマット、テントなどを提供しました。
 
西村)どんな反応がありましたか。
 
吉椿)とてもよろこばれました。ときどき雨も降っていたので、カッパやダウンジャケットも提供しました。
 
西村)その後もう1度現地に行ったそうですね。
 
吉椿)地震から約1ヶ月半経った3月21日に行きました。そのときには、がれきはほとんどなくなっていて、広大な仮設住宅村ができていました。ものすごいスピードで復旧・復興が進んでいたんです。それでもまだ200万人の人がテント暮らしをしていて、仮設住宅入居者はわずかに7万人程度でした。
 
西村)被災者の数はどれくらいですか。
 
吉椿)被災者は1560万人。多くの人がイスタンブールや郊外の親戚の家などに避難しています。被災地に残っている人は少ないのですが、残っている人は行き場がないので、ほとんどの人がテント暮らし。仮設住宅に入っている人は少ないです。
 
西村)最近の現地の気温は?
 
吉椿)夜は0度近くになりますが、昼間は温かいです。標高が高いので日が暮れると寒くなります。
 
西村)ライフラインはどれぐらい復旧していますか。
 
吉椿)甚大な被害を受けたカフラマンマラシュは、地震直後はライフラインがすべて止まっていましたが、1ヶ月半後にはかなり復旧していました。でも多くの人たちは戻ってきていません。余震も多いし不安なのだと思います。ライフラインが戻ってもすべてのスーパーが空いているわけではないので、生活し辛い状況です。
 
西村)残っている建物はあるのですか。
 
吉椿)あります。応急の危険度判定をしていますが、適当にやっているのではないかという不安もあって、多くの人は戻らない。テントの方が安心という人も多いです。
 
西村)大きな余震もありましたし、さらに豪雨もあったそうですね。
 
吉椿)3月16日に激しい雨が降りました。田んぼや畑があった軟弱地盤に簡易舗装して仮設住宅を立てているので、豪雨で地面がくぼんで傾いていました。
 
西村)それは不安ですね。食事はどうしていましたか。
 
吉椿)僕たちが行ったときは、イスラムの人が1ヶ月間、日中の飲食を絶つラマダンの時期でした。日が暮れると食べることができるので、避難所や仮設住宅に炊き出しの車両が来ていて、長蛇の列になっていました。
 
西村)被災者の不安は、1回目とくらべて変化していましたか。
 
吉椿)仮設住宅に入居している人に話を聞くと、高齢者や障害を持った人が優先的に入居できることになっているけど、それによって家族が分断されているとのことでした。高齢者のおばあちゃんが先に入居しても息子夫婦はまだテントで暮らし...といったように。仮設住宅には1~2年は住めますが、政府は今後、恒久住宅を1年以内に32万戸建てる予定で、政府が6割負担、被災者が4割負担なんです。若い人は、仕事を再開して働けば何とかなるかもしれませんが、高齢者にとっての4割はかなり厳しい。仮設住宅にやっと入れても将来、復興住宅に4割のお金を払えるのかという不安もあります。まだ住宅ローンが払い終わってないのに、地震で家が潰れて新しい住宅にお金を払わなければならない人も。
 
西村)新しい家は買い取りになるのですね。まさに二重ローンになってしまいますね。カフラマンマラシュの人口はどれぐらいですか。
 
吉椿)200万人です。中心部だけでも100万人。耐震不十分な住宅が多く、高層マンションがたくさん倒壊しています。
 
西村)地方はどのような状況ですか。
 
吉椿)都市部や被害が甚大なところが優先的になっていて、シリアの国境や周辺の農村部はほとんど手付かずの状態。未だにがれきもあり、仮設住宅もほとんどできていなくて、多くの人はテントで寝ています。
 
西村)現地のNGOと一緒に仮設住宅で女性や子どもたちの生活サポートをしたそうですね。
 
吉椿)仮設住宅の中はとても狭いのでストレスがかかります。シリア難民やクルド人などいろいろな人が一緒に仮設住宅やテントで生活すると、どうしても民族的な軋轢が顕著になり、喧嘩がおこることもあります。女性・子どもが痴漢や盗撮にあうことも。
 
西村)神戸の子どもたちからプレゼントを届けたそうですね。
 
吉椿)神戸のある小学校の子どもたちがトルコの子どもたちに手紙を書いてくれました。トルコ語に訳してくれた子もいました。それをトルコに届けたら、子どもたちが奪い合うように「欲しい!」と言って、すごくよろこんでいました。
 
西村)阪神・淡路大震災の後に生まれた「しあわせ運べるように」を神戸の子どもたちが歌った映像も届けたそうですね。
 
吉椿)避難所のあるカフラマンマラシュの学校で子どもたち見せたのですが、「感動した」と言っていました。トルコ語の翻訳も入れて。同じ被災地ということで共感できるところがあるのだと思います。
 
西村)2ヶ月でここまで復興していることにびっくりしましたが、取り残されてつらい思いをしている人もたくさんいると思います。今後の課題も見えてきたのでは。
 
吉椿)政府主導ですごいスピードで復旧・復興が進んでいることは、一見良いことではありますが、被災者の気持ちをきちんと考えられているのかという疑問はあって。ひとりひとりの声が反映されていない現状はあります。
 
西村)トルコでは1999年に大きな地震で4万人以上が犠牲になりました。その教訓は生かされていますか。
 
吉椿)「過去から学んでいない」とある大学生が言っていました。1999年の地震の後に耐震基準ができて、2018年に耐震基準が刷新されているにも関わらず、多くの建物が倒壊したということは、基準が守られていないということ。民間業者と政府との癒着もあります。そんな政権を支えているのは国民。その大学生は「みんなが反省すべきだ」と言っていました。政府を責めるだけではなく、国民一人一人がもっと反省し、学ぶべきだと言っていましたね。
 
西村)トルコは大統領選挙も控えていますし。
 
吉椿)選挙前ということで政治的な影響もあり、政府は1年間で32万棟も復興住宅を建てると大きな話をしています。選挙が終わっても継続されるのか懸念されています。市民が復興をどのように担っていくかが重要。
 
西村)何か与えてもらうではなく、自分たちでやっていこうということですね。
 
吉椿)僕たちはトルコの人たちがやりたいという思いをサポートしていく必要があると思っています。
 
西村)これからはどんな支援を予定していますか。
 
吉椿)これからしばらく仮設住宅での生活が続きます。現地のNGOが3ヶ所で250個ずつ仮設住宅を提供していて、その中にお母さんや子どものケアセンターを作ろうとしています。イスラム文化圏は、女性が社会に進出できる機会が少ないので、女性の職業訓練プログラムを作ったり、子どもたちの心のケアをしたり。仮設住宅のストレスフルな生活によってDVも増えているので、男性に対しての教育プログラムも考えています。僕たちも関わって、さまざまな災害復興のノウハウを学び合えたらと思っています。
 
西村)トルコ・シリアと日本は遠く離れていますが、今、日本にいるわたしたちにもできることはありますか。
  
吉椿)関心を持ち続けること。直後はたくさんの寄付をいただいたのですが、最近は報道も少なくなって、関心が薄れてきていると感じます。阪神・淡路大震災や東日本大震災のとき、トルコは支援をしてくれています。1870年に起きた和歌山沖のエルトゥールル号座礁事故のときに和歌山の人は、トルコの人を助け、その後イラン・イラク戦争のときはトルコが恩を返そうと、日本人をイランから救出したんです。そのような過去の助け合いの歴史をこの震災をきっかけにもう一度思い出して、関心を持ち続けながら助け合っていくことが大事だと思います。
  
西村)寄付をすることもできますか。
 
吉椿)常に寄付を募集しています。Facebookやホームページで情報発信をしているので読んでみてください。1人1人の声を大事にしたいと思っています。共感してもらえたらぜひ寄付をお願いします。
 
西村)寄付に関して、詳しくは「CODE海外災害援助市民センター」のホームページをご覧ください。
https://code-jp.org/
きょうは、神戸のNPO法人「CODE海外災害援助市民センター」事務局長 吉椿雅道さんにお話を聞きました。

第1382回「アレルギーのある人の災害への備え」
オンライン:認定NPO法人 アレルギー支援ネットワーク 常務理事 中西里映子さん

西村)かゆみやじんましん、重い場合はショック状態などの危険な症状を起こすアレルギー。特定の食べ物やダニ、花粉などアレルギーを引き起こすアレルゲンの種類はさまざまです。
きょうは、アレルギーのある人の災害への備えについて、認定NPO法人 アレルギー支援ネットワーク常務理事 中西里映子さんに聞きます。
 
中西)よろしくお願いいたします。
 
西村)認定NPO法人アレルギー支援ネットワークでは、どんな活動をしているのですか。
 
中西)アレルギー専門の医師や研究者、管理栄養士や看護師などの専門職、アレルギー児の親などで構成するNPO法人で、名古屋に事務所があります。アレルギー患者や家族の相談に答えたり、地域の患者会の運営のサポートをしたり、学校の先生や保育士、給食の調理師を対象にアレルギーの研修講座を17年にわたり開講するなど、アレルギーに関する正しい情報の普及を行っています。
 
西村)災害時に備えが必要なアレルギーにはどんなものがありますか。
 
中西)災害時は十分に入浴できないことによるアトピー性皮膚炎の悪化、瓦礫の粉塵や埃による喘息の悪化などさまざまな困りごとがあります。その中でも特に備えが必要なのは、食物アレルギー。避難所で最初に配布されるのは、菓子パンや牛乳です。卵、牛乳、小麦のアレルギー患者は食べることができませんし、避難所にアレルギー対応の備えが必ずあるとは限りません。
 
西村)避難所に行けばなにか食べるものがあると思ってしまいますが、配られても食べられないものもあるのですね。子どもに多いアレルギーは何ですか。
 
中西)子どもに多いアレルギーは、卵、牛乳、小麦。最近では、ピーナッツなどの木の実類のアレルギーが増えています。最近はクルミのアレルギーも多いです。
 
西村)ほかにはどんなものがありますか。
 
中西)食物アレルギーは、食品中に含まれているタンパク質が原因。タンパク質が含まれている食品は何でもアレルギーになる可能性があります。卵、牛乳など消化酵素で壊れにくいものはアレルギーの原因になりやすいです。ほかには、花粉と果物のタンパク質が似ていることにより、口腔内で間違って反応してしまう「口腔アレルギー症候群」というものもあります。花粉症の人がパイナップルやメロンを食べると、口がイガイガしたり、唇が腫れたりすることがあります。それは、食物に含まれるタンパク質が原因ではなく、花粉と生の野菜や果物のタンパク質が似ていることによりおこります。最近、花粉症が増えているので、そのような事例も増えています。
 
西村)今年は花粉の量が例年の10倍とも言われています。今年初めてそのような症状が出た人もいるかもしれませんね。
 
中西)生の野菜やフルーツに反応するので、加熱したものは大丈夫です。
 
西村)包装されている食品にはアレルギー表示の義務があるのですか。
 
中西)アレルギー反応が出ると重篤な症状になる食品が表示されていて、卵、乳、小麦、エビ、カニ、蕎麦、落花生の7品目が含まれている場合は表示義務があります。パッケージ化された食品は表示義務がありますがレストランやファーストフード、パン屋さんなどの対面販売は、表示義務がないので誤食する可能性がありますし、表示が間違っていることもあります。パッケージ化された商品は表示義務があり、罰則規定もあるので、メーカーがきちんと表示をしています。つまりパッケージ化されたものを食べた方が安全ということです。
 
西村)食物アレルギーがある人は、避難所ではパッケージ化された商品の表示をチェックしてから食べることが大切ですね。
 
中西)最近は、7品目にくるみが加わった8品目が表示義務になっています。それだけアレルギーの人が増えているということです。
 
西村)阪神・淡路大震災や東日本大震災では、避難所でアレルギーがある人への対応はきちんとされていたのでしょうか。
 
中西)当時は、アレルギーに対する認識が低かったこともあり、東日本大震災のときに、受け取る側が認識できておらず、アレルギー対応の物資が一般物資の中に紛れてしまい、アレルギー患者に届かなかったことがたくさんありました。その後は、やみくもに送るのではなく、きちんと受け入れ体制を整えてから送ることが大事だと学び、熊本地震や西日本豪雨のときには、小児アレルギー学会の先生を中心に送り先を決めて物資を送りました。東日本大震災の教訓を生かした対応がされてきています。
 
西村)受け入れる側の自治体の対策も進んできているのでしょうか。
 
中西)国の指針の要援護者には、アレルギー患者も含まれています。園や学校のガイドラインにもアレルギー対応について書かれています。徐々に日頃からアレルギー対応が進んできていると思います。
 
西村)包装された食品にしかアレルギーの表示義務がないので、アレルギー患者は、避難所で炊き出しを食べるのは難しいのではないですか。
 
中西)食物アレルギーの患者は、炊き出しは食べません。何が入っているかわからないからです。炊き出しにも原材料表示が必要だと指針にも書かれています。日頃からアレルギー患者が声を上げて周りの人に伝えていくことが大事。自治体も指針を理解して、日頃から表示をしてアレルギー対応のものを備える。自治体も患者も努力することが必要です。
 
西村)災害時の大混乱の中では、スムーズにいかない場合もあるかもしれません。炊き出しにアレルゲンの表示をしても、もし間違っていたら、アレルゲンの誤食が起きる可能性もありますよね。間違って食べてしまった場合、食物アレルギーのある人は、どうなってしまうのですか。
 
中西)じんましん程度の人から重篤な症状が出る人までさまざま。複数の臓器に症状が出るアナフィラキシーという状態が一番重篤な状態です。重篤な患者は、「エピペン」という自己注射器を持っていることが多いのですが、災害時はすぐに救急車が来てくれるかわからないので、絶対に誤食をしないことが大事。あやしいものは食べないことです。
 
西村)家族も含めて、自分が食べるものに気をつけることが大事ですね。災害時に避難所で子どもたちが何もわからずに食べてしまって、アナフィラキシーが起こることもあるかもしれないので、周りの人も気をつけておかなければならないですね。
 
中西)自分のアレルギーについて、周りの人に伝えるための緊急時の「お願いカード」というものあります。これはホームページから送料負担のみで無料で注文することができます。子どもが親と離れてしまったときに、アレルギーのことがわかるようにアレルギーの種類や緊急時の連絡先を書けるようになっていて、水に濡れても破れない防水の紙で作っています。子どもがアレルギーについて自分で伝えられる年齢になるまでは、ランドセルや名札に入れて携帯させると良いです。
 
西村)このようなカードのことを周りの人も知っておくことが大事ですね。改めてアレルギーのある人に必要な災害時の備えを教えてください。
 
中西)まずは自分で備えること。ハザードマップを確認して、津波や河川の氾濫、土砂崩れがない安全な地域に住んでいる人は、自宅避難を考えてほしいです。電気・ガス・水道が復旧するまでの1週間~10日は自活できるように水、トイレ、食料、電源の備えをしておいてください。
 
西村)食料の中に、米粉のパンや缶詰などアレルギー対応のものを用意しておかないといけませんね。
 
中西)アレルギー患者は、しっかりと備えをしていると思うのですが、トイレや電源や水は不十分なことが多いです。
 
西村)ほかにできる備えはありますか。
 
中西)災害時に最初に助け合うのは隣近所の人たち。自分や子どもに食物アレルギーがあることを周りの人に伝えておきましょう。地域がどんな備えをしているのか、避難所開設の訓練をしているのか。地域の状況をまず知っておくことが重要です。アレルギーのことは言い辛いと思うのですが、周りの人に知ってもらうことが大事ですし、自宅避難をする場合は、そのことを周りの人に知らせておきましょう。日頃からつながりを持っておくことが大事です。
 
西村)自治会や子ども会に参加すると、同じアレルギーのある子どもや家族がいる人とのつながりもできるかもしれません。日頃からの近所付き合いは大切ですね。
 
中西)自宅避難ができない地域に住んでいる人は、どこに避難をするかを平常時に考えておきましょう。知人や友人、親戚の家でも良いですが、そこに備えをしておく必要があります。災害が起きてからでは遅いです。
 
西村)優先順位を決めて家族で話し合っておきましょう。まずはハザードマップを確認して、安全なら、自宅や誰かの家に避難することを優先。それでも避難所に行かなければならない場合は、地域の自治体にアレルギー対応の備蓄品があるかを確認しておきたいですね。その場合、どのように確認したら良いのでしょうか。
 
中西)市町村のホームページを見て、備蓄を担当している防災課や防災危機管理課に電話で確認しましょう。ホームページに一覧表が掲載されている場合もあります。もしアレルギー対応の備蓄品がなければ、置いてほしいという要望を出す。患者として声を上げることはとても大事です。市民が声を上げると叶えてくれるケースがとても高いです。市民の要望を知らなくて備えていないこともあるので、声を上げることが大事だと思います。小児アレルギー学会が提唱しているアレルギー対応の備蓄についての資料を活用していただくのも良いですが、アレルギーポータルサイトに災害時の備えについての資料がありますので、そちらも是非ごらんください。
 
西村)間違って誤食してしまうと命に危険が生じることもあるので、気をつけたいですね。
きょうは、アレルギーのある人の備えについて、認定NPO法人 アレルギー支援ネットワーク常務理事 中西里映子さんにお話を聞きました。

第1381回「サステナブルな防災備蓄缶」
ゲスト:但馬漁業協同組合 参与 丸山和彦さん

西村)災害対策の一つとして、普段食べているものを少し多めに購入し、食べた分を買い足すというローリングストックが推奨されています。きょうは、ローリングストックにも最適な缶詰を紹介します。サステナブルで美味しいと注目を集めている缶詰に使われているものは、のどぐろやカニなど、これまで備蓄食としてはあまり見かけなかった高級な海の幸。なぜこのような缶詰を作ったのか、開発者の但馬漁業協同組合 参与 丸山和彦さんに聞きます。
 
丸山)よろしくお願いいたします。
 
西村)丸山さんが開発した缶詰がスタジオにあります。「但馬漁協がつくった缶詰め」のかに飯、のどぐろ飯、にぎす飯、はたはた飯、ほたるいか飯、鰰(はたはた)ご飯です。どれも炊き込みご飯なんですね。
 
丸山)但馬漁協で開発している魚醤でたき込んだ炊き込みご飯の缶詰です。通常の魚醤は塩と魚で発酵させるのですが、但馬漁協の魚醤は、麹を使って発酵させています。
 
西村)いつ頃から開発をはじめたのですか。
 
丸山)魚醤は10年ぐらい前から。缶詰は2019年から開発を始めて、2020年7月に完成しました。
 
西村)缶詰は賞味期限が長いですが、この缶詰は何年ぐらいもつのですか。
 
丸山)賞味期限は製造から3年間です。
 
西村)災害の備蓄にもピッタリですね。
 
丸山)備蓄食としてもPRしようと動いています。湯煎をして食べるということが条件になるのですが。
 
西村)先日わたしも試食しました。カセットコンロでお湯を沸かして、火を止めた鍋に缶詰を入れて蓋をして、10分でできあがります。缶詰の蓋を開けると2歳の娘が「お魚だ!」と笑顔になりました。のどぐろ飯は小さな切り身が真ん中に入っています。ご飯がふっくらしていて、魚の旨味が口の中に広がって、魚醤のコクもあってとても美味しかったです。こんな高級な魚を災害時に食べることができたらうれしいですね。
 
丸山)美味しいものを食べて、少しでも元気を出してもらえたらという思いも込めて作っています。
 
西村)ほかにもいろいろな種類があるのですね。丸山さんはどれが一番オススメですか。
 
丸山)ハタハタの魚醤で炊き込んだハタハタ飯です。身は脂がのっていてとても美味しいですよ。
 
西村)魚とご飯を一緒に食べるとこんなに美味しくなるのですね。
 
丸山)魚は臭みがあって調理が面倒ですが、ご飯と一緒に炊くと簡単に美味しく食べられるというメリットがあります。
 
西村)栄養も旨味も逃さず食べることができますね。普段の食卓にのどぐろのような高級魚が出てくることはなかなかないです。なぜこのような高級な魚を使って缶詰を作ろうと思ったのですか。
 
丸山)この缶詰に使っている魚は市場に出回らない魚なんです。魚は通常、漁師が船の上で選別をして梱包して、港に持ち帰って、競りにかけられますが、サイズの小さいものや形の悪いものは、浜揚げしてもお金にならないのですべて海に廃棄してしまうんです。
 
西村)もったいないですね。それはどれぐらいの量ですか。
 
丸山)漁獲量の約30%です。うまく利用すれば食べられるのですが、サイズが小さいと処理が大変なので売れないんです。漁師もそれをわかっているので持って帰りません。
 
西村)例えば蟹なら、足が折れていたり、取れていたりすると市場に出回らないのですか。
 
丸山)蟹の場合は、高級な松葉ガニは、1~2本折れていても流通に乗るのですが、香住ガニ(紅ズワイガニ)は、松葉ガニと比べると値段が安いので、足が折れていたり、甲羅が潰れていたりすると商品価値がなくなります。そのようなものは廃棄の対象になります。
 
西村)もったいないですね。
 
丸山)獲れても漁師の収入にならないんです。最近は漁業をやめる人が増えています。廃棄する魚に価値が見出せて、収入になれば、漁業を続ける漁師も増えるのではないかと、漁業者の支援を目的に商品の開発を始めました。魚を船上で選別して持って帰るのは、非常に手間がかかります。ある程度の値段で購入してあげないと持って帰ってくることができません。漁師も獲れたものを少しでも買ってもらえたらありがたいということで、協力してもらっています。
 
西村)市場に出回っていなかった魚を利用して缶詰を作って、漁師もわたしたちも笑顔になる。これがサステナブルな缶詰の秘密だったのですね。缶詰は何種類あるのですか。
 
丸山)21種類あります。
 
西村)水産資源の有効活用と産学連携の取り組みとして、香住高等学校 海洋科学科の生徒と一緒に缶詰の共同開発をしたそうですね。香住高等学校 海洋科学科の篠原健悟先生に開発当時の生徒の様子についてインタビューしました。
 
音声・篠原健悟先生)生徒たちは、未利用魚を使って缶詰を作ることに興味を持って、いきいきと開発に取り組んでいました。骨まで食べられる魚の炊き込みご飯は、過去に食べたことがなかったので、新鮮さもあり美味しかったです。水産高校なので普段から実習で加工もしています。備蓄食料などについて関心を持つことは、自分や周りの人の身を守ることにもつながるということを防災教育の中で教えています。
 
西村)サステナブルな取り組みと防災を一緒に学ぶことができて、家族や友達と防災のことを話すきっかけにもなりますね。災害備蓄食として、2020年度からホタルイカ飯と鰰(はたはた)ご飯の缶詰を合計1万缶購入した豊岡市の担当者にもお話を伺いました。
 
音声・豊岡市担当者)新型コロナウイルス感染症の拡大によって水産物の消費が落ち込んでいたので、後押しできる取り組みはないかと検討していました。但馬漁協が開発した缶詰は長期の保存が可能で、災害時の備蓄食料に適していると考え、購入しました。
 
音声・ディレクター)鰰(はたはた)ご飯の缶詰はノンアレルゲンの商品ですね。
 
音声・豊岡市担当者)災害時の食事は種類が限られているので、いろいろな人に対応できるように、新たなバリエーションを加えました。
 
西村)豊岡市が災害の備蓄用に購入した鰰(はたはた)ご飯の缶詰はグルテンフリーなのですね。
 
丸山)ほかの炊き込みご飯の缶詰は、小麦と大豆で発酵させた魚醤を使っているのですが、鰰(はたはた)ご飯の缶詰は、「こうのとりを育む会」の米麹で、ハタハタと塩を漬けて発酵させた魚醤を使っています。小麦・大豆を使っていないのでグルテンフリーになります。
 
西村)小麦アレルギーを持っている人も食べることができる缶詰が市で備蓄されていると安心ですね。高校生と一緒に作ったことによって、アイディアが広がったり、気付いたりしたことはありましたか。
 
丸山)商品開発をしている漁協の企画開発部には製造のノウハウが全くありません。香住高校が缶詰を作っていることを聞いていたので、「何かできませんか」と先生に魚を持ち込んで、缶詰作りを始めました。生徒も地元の漁業について興味があったそう。「学校の授業では知ることができない課題を再認識し、アイディアを出すことができて、非常に勉強になった」と言っていました。
 
西村)一緒に作ったものを食べたときはいかがでしたか。
 
丸山)いろんな種類の炊き込みご飯を作ってもらったのですが、「なにか一味足りないな」というのが最初の感想です。そこからいろいろと意見を出し合って、最終的にこの形になりました。
 
西村)この缶詰はどこで買うことができますか。
  
丸山)漁協の通販サイトで購入できます。グルテンフリーの鰰(はたはた)ご飯の缶詰は、お試し価格の680円で販売しています。ほかの缶詰は800~1000円で販売していて、兵庫県内、但馬エリアの道の駅などでも購入できます。
 
西村)香住高等学校 海洋科学科の生徒のみなさんも漁業が身近になったのでは。漁師になりたいという高校生も出てくるかもしれませんね。
 
丸山)そうなればありがたいですね。
 
西村)今までは捨てられていた未利用魚が缶詰になって、美味しく食べられるというのは、素敵な取り組みですね。災害時に食べる楽しみが生まれるのも良いですね。
 
丸山)災害時に気持ちが落ち込んだときに、美味しいものを食べて元気になってもらいたいです。
 
西村)食べる楽しみがある缶詰ならローリングストックの循環にもつながりますね。わたしもいろんな種類を食べてみたいです。友人へのプレゼントにも良いですね。
 
丸山)ギフトセットや地元のお米とセットにしたものもあります。
 
西村)兵庫県香美町の美味しいものを災害時の備蓄に。みなさんも是非試してみてください。
きょうは、サステナブルで美味しい災害用備蓄缶を開発した但馬漁業協同組合 参与 丸山和彦さんにお話を伺いました。

第1380回「東日本大震災12年【4】福島原発事故 母子避難12年」
ゲスト:原発賠償関西訴訟原告団 代表 森松明希子さん

西村)東日本大震災12年のシリーズの4回目は、原発事故避難がテーマです。
きょうは、福島県郡山市から大阪に母子避難している森松明希子さんがゲストです。 森松さんは、原発賠償関西訴訟原告団の代表で、東日本大震災避難者の会「Thanks&Dream」を主宰しています。
 
森松)よろしくお願いいたします。
 
西村)森松さんが大阪に避難して12年。改めて経緯を教えてください。
 
森松)2011年3月11日は、福島県・郡山市に住んでいました。 夫と0歳の娘、3歳の息子と家族4人で暮らしていました。息子は幼稚園に入園する直前で、娘は生後5ヶ月でした。
 
西村)新たな春に向けて準備していたときに東日本大震災が森松さん一家を襲ったのですね。
 
森松)わたしたちは原発から60km離れた郡山市に住んでいました。地震で家が壊れて、夫の職場の病院に1度目の避難をしました。そこで福島第一原発が爆発したニュースを見たんです。郡山市は、原発から60km離れているので、強制避難区域に指定されませんでした。当時は原発から同心円上2~3km 以内の人が強制的にバスに乗せられて、防護服を着た人たちに連れ出される映像をニュースで見ていました。そのうち20~30km以内にも屋内退避命令が出ました。わたしたちにも避難指示や避難勧告が出るのは時間の問題だと思っていたんです。外側の人が我先に逃げると全ての人が助からないと思い、政府の指示を待っていました。でもこの12年間で、60km離れた郡山市や県庁所在地の福島市には、1度も避難指示は出ていません。そんな中、なぜ避難をするに至ったかと言うと、0歳と3歳の乳幼児を抱えていたからです。 0歳はまだ外遊びすることはありませんが、3歳児を部屋の中から一歩も出さない生活はむずかしくて...。
 
西村)当時3歳だった息子さんはどんな様子だったのですか。
 
森松)幼稚園の行き帰り以外、一歩も外に出さないという生活は、虐待をしているようなものです。外で思いっきり走りまわりたいし、きれいなお花、石ころや葉っぱや虫を触りたい年頃でした。でも通園時に外に出たとしても「触っちゃダメ」と言わなければならないのです。
 
西村)原発事故の影響でいろんなものが汚染されているかもしれないから、触ることもできないのですね。
 
森松)放射性物質が飛び散っているため、外遊びが禁止されていました。3月末には原発から200km離れた東京の金町浄水場の水道水が汚染されたというニュースもありました。空気が汚れているだけではなく、放射性物質が土壌や浄水場に落ちて、水道水も汚染されています。水を飲むことも外遊びで地面を触ることもはばかられるという状況で暮らしていました。
 
西村)当時0歳の娘さんはおっぱいやミルクを飲んでいたと思います。放射性物質で汚染されているかもしれない水道水でミルクを作って、娘さんにあげなければならないことに葛藤があったのでは?
 
森松)食べ物も飲み物もない中、幸い蛇口をひねったら水道水が出たので、必死で水を飲むことで、母乳を止めないようにしていました。おっぱいで0歳の娘の食事をつないでいたのです。地震で哺乳瓶も割れてしまい、粉ミルクも売っていません。とにかく水を飲んで母乳を出して子どもの命をつないでいたときに、「水道水から放射性物質が検出された」というニュースを見て衝撃を受けました。水道水しか飲み水はなかったので、体に悪い放射性物質が含まれているとわかりながら、子どもたちにも水を与えていました。
 
西村)その後どうしたのですか。
 
森松)子どもたちを一歩も外に出さないという生活は、成長にも影響が出るし、特に3歳の子どもには不可能です。5月のゴールデンウィークは幼稚園もお休みになるので、家から一歩も出られないのは困ります。そこで夫がわたしの出身地である関西にわたしと0歳と3歳の子どもたちを出してくれたんです。夫は仕事があるので、わたしたちを関西に届けてからすぐに福島に戻りました。5月のゴールデンウィークを利用して、福島を脱出することができたんです。
 
西村)そこから12年経ったのですね。
 
森松)最初は子どもたちに外遊びできる環境を与えるための一時避難のつもりでした。関西に来て、関西のローカルニュースと福島県内のニュースの内容の違いに驚きました。福島にいたときにいちばん知りたかった情報は、福島県内では知ることができずに、関西に出てきて初めて、原発事故や汚染の状況、今後の見通しについて知りました。過去に事故を起こしたチェルノブイリ原発を例にした検証、食べ物や飲み物・土壌の汚染が子どもたちに与える影響や健康被害の問題も、関西では特集を組んできちんと報道されていたんです。福島県内では、とにかく「がんばろう」ばかり。震災から復興する町のようすも大切なニュースではあるのですが、子ども被ばくさせないための情報は流れてなかったんです。関西に避難して、外から福島を見ることができたわたしは、その頃始まった除染作業についても知ることができました。最初に除染作業に取り掛かったのは郡山市なんです。
 
西村)森松さんが住んでいた場所ですね。
 
森松)隣の学区あたりで作業が始まりました。 除染をしなければならないところに住んでいたという事実を、現地に住んでいたわたしたちは知りませんでした。小学校に子どもを通わせている保護者が声を上げ、土を5cm剥いで少しでも線量を下げる除染作業が始まり、福島全土に広がりました。そんな環境に住んでいることさえも、現地に住んでいたら知らされないんです。とにかく「みんなでがんばろう」と言うだけ。わたしたち住民が知りたいのは、客観的な汚染の事実と被ばくから身を守る方法です。
 
西村)福島から関西へ脱出して、一気に暮らしが変わったと思います。避難した人もいれば、とどまらざるを得なかった人もいたのでしょうか。
 
森松)我が家は、避難をしているわたしたち母子と、福島にとどまった父親というふうに、家族の中で選択を変えています。移住避難をした家族もいますが、福島県外に知り合いや親戚がいなくて、避難できないママ友達も多いです。それは強制避難ではないから起こる問題です。強制ではないので移住先もそれぞれの判断に任されます。避難しなくても大丈夫と思っている人もいるかもしれませんが、ママ友達の多くは避難したくてもできない人ばかりです。ローンを抱えてどこに行けばいいのか、避難先での生活はどうなるのか――わたしが母子避難をすることを報告したときに 「ありがとう」と言ってくれたお母さんがいました。
 
西村)なぜですか。
 
森松)「原発がさらに爆発したり、なにかあったりしたときに、大阪にいる森松さんの元へ子どもを連れて避難できるから、決断してくれてありがとう」と背中を押してもらったんです。その言葉を聞いたときに、なんて不合理で不平等で不条理なことが起こっているんだろうと思いました。子どもを被ばくや放射能から守りたい気持ちは一緒なのに、決断したくてもできない人、決断した人の先を頼っていくしかない人がいる。こんな構図はおかしいと思いました。そのような人の声は、報道にされることはなかったし、むしろ「復興の妨げになる」「後ろ向きだ」というバッシングを受けて、口をつぐまざるを得ない状況になりました。
 
西村)森松さんは大阪でさまざまな思いを抱えながら子ども2人と生活をする中で、国と東京電力に損害賠償を求める訴訟を起こしました。これはいつ、なぜ起こしたのでしょうか。
 
森松)避難をして約2年たった2013年9月に、国と東京電力に民事訴訟を起こしました。原発事故の影響で関西に避難をしてきた人たちによる原告団ができました。国と東京電力の違法性を追及して、原発被害の事態を明らかにし、それに見合った損害賠償を求めるという形で、国家賠償請求訴訟を提起しました。
 
西村)原告団にはさまざまな人がいるそうですね。
 
森松)単身で避難をしている若い人、高齢の夫婦、我が家のような母子だけの家族、一家で移住をしている人など、100人の避難者がいれば、それぞれの背景や家族構成・状況もさまざま。家族のために仕送りをしたり、避難生活の費用を捻出しなければいけない人もいます。いろんなケースがあるということを知ってほしいです。ひとたび原発が事故を起こせば、故郷が汚染をされて、地域のコミュニティも壊されます。避難をするには費用がかかりますが、強制避難の人でもお金が足りない状況なのに、自力で避難費用を捻出しなければならない人が圧倒的多数であるということも、社会で共有してもらいたいです。これも原発被害のひとつだと思っています。
 
西村)社会で共有するために、メディアで語るとかSNSで伝える避難者もいますが、なぜ森松さんは裁判を起こさなければならないと思ったのですか。
 
森松)避難をすることも基本的人権だと思っているからです。健康を享受する権利、健康を守る権利など、健康に関する権利は、生きていく上でいちばん基本的な権利だと思います。この国には、権利侵害があったときに、司法裁判所に訴えることができるシステムがあるわけですから、きちんと声を上げなければいけません。社会に対して、裁判官にきちんと訴えて、司法判断を下してもらう。司法判断が間違っていれば、また声を上げていかなければいけません。避難をしたくてもできない人がいます。被ばくをしたくない、健康を享受したい、子どもだけは被ばくさせたくない、それらは全て基本的人権の中の健康に関する権利です。その権利は絶対に守られなければいけないと思うので、裁判所に申し出ることにしました。 提訴から丸10年かかって、やっと裁判官の面前で被害や避難の実態を訴える本人尋問の段階まで来ました。避難をしてきた人たちの生の声をたくさん聞くことができますので、ぜひ傍聴に来ていただきたいです。
 
西村)本人尋問が始まるのはいつですか。
 
森松)5月24日です。わたしは午前10時から大阪地方裁判所の法廷で証言台にひとりで立って被害を訴えます。何も資料を見ずに自分の記憶だけで裁判官に訴えなければいけないという局面になります。
 
西村)原発の新規建設や運転期間を60年まで延長するなどの方針が政府から新たに発表されました。この動きに関してどう感じますか。
 
森松)遺憾で残念です。誰も責任を取らない状況のまま、それを良しとして原発回帰をするというのは、被害者を踏みにじる行為です。
福島県の県境で放射能汚染は止まりません。広い範囲の人々に影響を与え、地域を破壊しています。原発周辺地域の人々だけを犠牲にして、何の反省もなく、誰も責任を取らないまま、被害の実態の共有もなされないままでは、同じ被害が繰り返されてしまいます。それは避難をしている人も被災地でとどまっている人も福島県民も、誰も望んでいないことです。

 
西村)きょうは、原発賠償関西訴訟原告団 代表 森松明希子さんにお話を伺いました。

第1379回「東日本大震災12年【3】釜石の教訓を伝える語り部」
電話:語り部 菊池のどかさん

西村)今月のネットワーク1・17は東日本大震災の教訓について考えます。
地震発生後、即座に避難行動をとったため、市内全域で学校にいた小中学生全員が助かった岩手県釜石市。「釜石の奇跡」と度々メディアで報道されましたが、地震から12年がたった今、当事者はあの日のことをどう振り返るのでしょうか。
震災当時、釜石東中学校の3年生で現在、地元で語り部をしている菊池のどかさんに話を聞きます。
 
菊池)よろしくお願いいたします。
 
西村)地震が起きた12年前の3月11日午後2時46分、菊池さんは何をしていましたか。
 
菊池)当時、中学3年生でした。放課後に近くの公衆電話から母にお迎えのお願いをしていました。電話の向こうから緊急地震速報の音が聞こえてきたので、揺れる前に地震に気付きました。
 
西村)お母さんの携帯電話から聞こえてきたのですか。
 
菊池)自宅の固定電話にかけていたのですが、電話の近くにあったテレビの音が聞こえてきました。
 
西村)そのとき、お母さんは何と言っていましたか。
 
菊池)揺れがあまりにも大きくて、すぐに電話が途絶えてしまって。はっきりとは聞き取れませんでした。
 
西村)周りはどんな様子でしたか。
 
菊池)私のそばには4人ほど同級生がいたのですが、同級生たちは近くにあるものに捕まって一生懸命揺れに耐えていました。わたしは、公衆電話から閉じ込められないように一度外に出て受話器を戻したのですが、揺れがあまりにも大きくて受話器が戻ってきたのを覚えています。
 
西村)長い時間揺れましたよね。その後どのように避難したのですか。
 
菊池)その後は、部活をしていた生徒たちが校庭、校舎、体育館からそれぞれの判断で一時的に校庭に集まりました。点呼を取っていると、1人の先生が「点呼は取らなくていいから早く走れ!」と叫んだので、その指示に従ってすぐに避難を始めました。
 
西村)どこに避難したのですか。
 
菊池)学校から約1.1km離れている市指定の避難場所です。そこで津波を見たので、そこからさらに上にある海抜44mの高い場所に避難しました。
 
西村)2段階避難をしたのですね。事前にそのような避難訓練をしていたのですか。
 
菊池)最初に逃げた場所までの避難訓練しかしていませんでした。
 
西村)さらに高いところに避難したのは、先生の指示だったのですか。
 
菊池)そうです。そこで小学生と中学生が合流して、当時学校にいた全員の無事が確認されました。最初はそこにとどまるつもりだったのですが、何度も繰り返し余震が起きていたので、地域の人から「もっと高いところに行った方がいい」という声があり、校長先生が避難の最終判断をしてくれました。
 
西村)その指示を聞いて、小学生の手を引いて歩いていているとき、菊池さんはどんな気持ちでしたか。
 
菊池)津波が来るまで約30分とは言われていましたが、そのときは何分経過しているのかもわかりませんでしたし、もしかしたら10分で津波が来る可能性だってある。時間がないという切迫感や焦りがありました。でもこの子の手を離してはいけない、守りたいという気持ちもあって。どこに避難したら助かるのかを一生懸命考えながら、安全なところを探しながら歩いていたのを覚えています。
 
西村)学校は津波にのまれたのでしょうか。
 
菊池)学校は津波にのみ込まれました。わたしたちのいるとことから学校の位置は見えなかったのですが、学校がある場所より山の方まで津波が迫っているのを見たので、もう学校はないということはわかりました。
 
西村)あのとき避難行動をとっていなければと考えると、すごく恐ろしい気持ちになりますね。1回目に避難した場所は、津波にのみ込まれたのですか。
 
菊池)1回目に避難した場所は、最後の生徒が出発した1分30秒後にのみ込まれたと後日聞ききました。そのくらい切迫した状況に置かれていたのです。
 
西村)その話を聞いたときはどう思いましたか。
 
菊池)防災学習では「1分1秒を無駄にするな」とずっと言われてきました。でも本気にしていない部分もあったんです。本当に1分1秒で命が変わってしまうんだ、ということを自分が体験をして実感しました。
 
西村)2段階目の避難場所の高さをもう1度教えてください。
 
菊池)海抜44mです。学校から1.6km離れているところまで避難しました。その時は、右の山、左の山、線路...というようにみんなバラバラに避難しました。
 
西村)みんなそれぞれの判断で走って、無我夢中で逃げたのですね。
 
菊池)その時には周りに地域の人もたくさんいて、全員で1000人以上が一気に避難しました。1000人が一緒に避難できる場所がなかったので、それぞれが自分の判断で場所を見つけて避難しました。
 
西村)車で避難した人もいましたか。
 
菊池)車で避難した人もたくさんいて、わたしたちが走っていた道も渋滞が起きていました。津波が来た時点では、車で避難した人も山に着いていて無事でした。
 
西村)山に避難してどれぐらい時間がたってから家族に会えたのですか。
 
菊池)お父さんお母さんの無事も全くわからないまま、避難所で1人で過ごしていた中学生もいました。繰り返し余震が起きていて、手入れがされていない山は落石や倒木の危険性がありました。町は津波でのみ込まれていて戻ることができないので、一番高い場所にある道路に避難していました。
 
西村)菊池さんも道路に避難したのですか。
 
菊池)一度山に登ったのですが、落石が怖かったので道路に下りました。
 
西村)家族で道路に避難していたのですか。
 
菊池)わたしは、家族の安否がわからない状況で避難していました。周りには、家族と会えた人もいました。
 
西村)菊池さんは友達と一緒に夜を明かしたのでしょうか。
 
菊池)そこからさらに9km離れた避難所まで、中学生、小学生たちと一緒に歩いて避難し、そこで一晩過ごしました。
 
西村)当時のメディアは、小中学生全員が助かった釜石市のことを「釜石の奇跡」「奇跡の子」と報じていました。中学生が小学生の手を引いて避難している様子をわたしも見て、すごく冷静に避難しているように思ったのですが。
 
菊池)冷静ではあったと思いますが、あんなに長い揺れは経験したことがなかったので、周りには泣き叫んでいる人や過呼吸になる人もいました。
 
西村)菊池さん自身はどうでしたか。
 
菊池)わたしは避難所まで走っているときに何度も余震が起きていたので、津波だけではなく落石も心配でした。川の近くを走っていたので、川から遡上する津波が来たらどうしようかと。
 
西村)避難場所は事前に決まっていて、避難経路もわかっていたのですか。
 
菊池)学校の避難訓練のときは、必ず決められた避難経路を走って、避難場所までのタイムを図っていました。
 
西村)どれぐらいの頻度で避難訓練していましたか。
 
菊池)年に1~2回、津波避難訓練をしていましたが、事前告知がない避難訓練だったので内容的には特殊だったと思います。
 
西村)避難訓練をするとわかっている状況だと、少しふざけている子もいて、先生に怒られたことを覚えています。事前告知のない避難訓練の方が、防災スイッチが入るような気がしますね。
 
菊池)何度か失敗することもありましたが、失敗をしたおかげで課題が見えたので、それを改善したことが震災のときに活かされたのだと思います。
 
西村)どのような失敗だったのですか。
 
菊池)普段は教室で点呼して避難するのですが、一度掃除時間中に避難訓練をしたことがあって。さまざまな場所で1年生から3年生までの縦割り班で活動していたんです。一度教室まで戻って点呼をしようとした人たちと、掃除の班で点呼をして外に出た人たちと、とりあえず外に出てウロウロしていた人たちがいて。いつもと異なる状況で訓練をしたことによって、教室に戻らずに点呼をして避難するにはどうしたらいいのか、を考えるきっかけになりました。
 
西村)失敗から学ぶことは大きかったのですね。当時、中学生が小学生の手を引いて避難している様子が報道されていましたね。
 
菊池)小学校が隣接していたので、避難場所まで小学生と手をつないで避難する訓練をしていました。震災が起きた日は、小学生の避難が少し遅れてしまって、わたしたちだけ先に避難していたので、途中から小学生と合流して手をつないで避難しました。
 
西村)その様子が「釜石の奇跡」「奇跡の子」と報じられていました。菊池さんも高校生になった頃、多くのメディアに答えていましたよね。そのように報じられていることをどう感じていましたか。
 
菊池)亡くなった児童や、児童を親に引き渡そうと残っていて亡くなってしまった事務員さんもいたので、"奇跡"と呼ばれることによって、犠牲者がいた事実を隠してしまっているようで違和感を抱えていました。
 
西村)確かに"奇跡"というと全員が助かったという印象が残りますね。そのような思いが心の中にあったのですね。
 
菊池)助かったことを喜んでくれることには感謝しましたが、その中で、犠牲者もいるということを考えなければいけない思うし、次の災害に備えて伝えていこうと思いました。
 
西村)同じように被災した人たちの反応はいかがでしたか。
 
菊池)みんなが助かるために伝え続けてほしいと応援してくれる人もいれば、まだ前向きになれないという人もいました。被災地・被災者と一口で言ってもいろいろな感想を持つ人がいます。
 
西村)菊池さんは、今はどのような活動をしているのですか。
 
菊池)今は釜石市や三陸鉄道の沿線付近のガイドをする仕事をしています。
 
西村)震災を経験していない子どもたちにどのように釜石の教訓を伝えていきたいですか。
 
菊池)わたしたちも親の世代も震災を知らない世代でした。震災の経験はなかったのですが防災について学習をしていたことによって助かることができたので、震災のことを伝えるというよりは、どうしたら助かるのかを簡単に楽しく伝えていきたいです。そして、ここでみなさんがどんな思いで生きてきたかを伝えたいです。
 
西村)わたしも菊池さんの話をぜひ聞きに行きたいと思います。またお会いできることを楽しみにしています。
きょうは、釜石市で語り部をしている菊池のどかさんに釜石の教訓について伺いました。