第1428回「冬の地震 寒さへの備え」
ゲスト:国際災害レスキューナース 辻直美さん

西村)元日に発生した能登半島地震では、電力などのライフラインが途絶える中、厳しい寒さが被災者を苦しめました。29年前の1月17日には、阪神・淡路大震災が発生し、東日本大震災が発生したのは3月11日でした。冬場に大きな地震が発生すると揺れや津波から逃れられたとしても、寒さが原因で命を落としてしまうことがあります。
きょうは、冬の災害時に命を守る「寒さへの備え」と健康を維持するための避難所での過ごし方について、国際災害レスキューナースの辻直美さんにお話を伺いきます。
 
辻)よろしくお願いいたします。
 
西村)能登半島地震では、避難所での寒さが問題になっていますね。
 
辻)寒さ対策のテクニックや知識を得ることが必要です。暑さはどうにもならないことがありますが、寒さは、あるものを組み合わせて暖を取ることができます。
 
西村)知識の備えも大事ですね。寒い時期は、健康被害へのリスクも高くなりますか。
 
辻)近年、低体温症が問題になっています。低体温症は命に関わる重い病気。でも回避できる方法はあります。
 
西村)特に注意が必要なのはどんな人ですか。
 
辻)高齢者です。寒さに鈍感になりがちなので、体が冷えているということに自覚がなくなります。
 
西村)なぜ鈍感になるのですか。
 
辻)代謝が悪くなるからです。血流が悪い人は手先が冷えています。たくさん着込んでも、今度は温かくなったことがわからなくて、脱水症状になることもあります。
 
西村)気をつけてあげないといけないですね。
 
辻)声掛けが大事です。「寒くない?」「暑くない?」と聞いてあげましょう。
 
西村)低体温症の症状について詳しく教えてください。
 
辻)体の表面ではなく、内臓など身体の深部の体温が35度以下になる症状です。身体に触れるとすごく冷たいです。じわじわと体温が下がるので、本人はあまり自覚がないことが多いです。
 
西村)家族でなければ手を触れたりする機会はないかもしれません。見た目でわかる症状はありますか。
 
辻)シバリングと言って、悪寒で歯がガチガチと震える症状が現れます。体が冷えたときは、筋肉を思いっきり震わせて熱を発生させようとするからです。そうなるとすぐに対応しなければなりません。ボーっとする、吐き気・めまいがする人も。
 
西村)脳にはどんな症状が現れますか。
 
辻)思考が明確ではなくなり、受け答えがゆっくりになります。同時に痛覚や暑い・寒いも鈍感になります。周りの人がつねったり、叩いたり、さすったりして声をかけないと判断ができないこともあります。
 
西村)1人で在宅避難している人や1人で避難所にいる人は、自覚がないまま進行してしまうこともありますね。
 
辻)症状が進むと死に至ることもあります。防災はモノを買うことだけではなく、基本はまずコミュニケーション。ええ感じの人になりましょう。ええ感じの人って心に残りますよね。そんな人が、返事がないとか、見かけないことがあると気になって助けに行くでしょう。挨拶しても返事を返してくれない人はダメです。家庭でも同じこと。家族間でも外でも声をかける・かけられることで自分の存在をわかってもらうことは防災の基本です。
 
西村)声かけてもらったらきちんと受け止めて、笑顔で返すことも大事ですね。
 
辻)ええ感じの人になると助かる率が上がります。挨拶や声かけは家族間、自分自身にも大事。自分自身に対しても無理していないか声をかけましょう。
 
西村)災害時は無理しがち。「わたしよりもっと大変な人がいるから」と我慢してしまう人も多いですよね。
 
辻)無理すると結局、人に迷惑がかかります。7~8割ぐらいで頑張ればいい。無理をしないことです。
 
西村)高齢者には、声掛けが必要。自覚がある人は周りにヘルプを出す。
 
辻)「みんなも寒いよね?」ではなくて、「わたし寒いです!」って言ってください。
 
西村)その一言が命を救うのですね。震えている人には毛布をかけたら良いですか。
 
辻)まずは、温めること。毛布で覆うのも良いですがアルミのレスキューシートも便利です。でも元々冷えている人はレスキューシートをかけただけでは温まらないんです。
 
西村)平常時に一度レスキューシートを使ってみたことがあります。結構温かかったですが、これは体温がある人の場合なのですね。
 
辻)体温が下がっている人は血液が冷たくなっています。血液は、体の表面に近いところにある静脈と動脈が外の空気と触れて冷えます。熱中症は反対。なので、熱中症のときに冷やすところを逆に温めれば良いわけです。
 
西村)どこを温めたら良いですか。
 
辻)首の後ろ・脇の下・足の付け根・手首・足首です。一部だけあたためても意味がありません。首の後ろだけ温めても、冷たい血液がぐるっと体を回って首の所に戻ったときにはもう冷たくなっています。原始的ですが、首の後ろ→脇の下→足の付け根...という風に中継リレーをすることです。
 
西村)5つの中継点をしっかりと温めれば良いのですね。温めるときのポイントや温めるときに便利なものはありますか。
 
辻)新聞紙やざらばん紙を手でくしゃくしゃにして、手首・首・足首・腰などに巻いてください。それだけで温かくなります。
 
西村)くしゃくしゃにするのがポイントですか。
 
辻)くしゃくしゃにして、紙の繊維をたち切ることで、新聞紙の中に空気のミルフィーユが作られます。繊維の周りに空気を取り込んだ紙が血管のある皮膚に当たることで温かくなります。その上にアルミホイルやゴミ袋を巻くと熱が逃げません。タオルやストール、マフラーでも良いです。
 
西村)他にも何か使えるものはありますか。
 
辻)どこの家にもある45Lのゴミ袋を服と服の間に着てください。一番外側ではなく、洋服を着ている上に袋をかぶって、その上にもう1枚アウターを着てください。そうすると自分の体の熱を外に逃がさないので温かくなります。
 
西村)非常用持ち出し袋の中にゴミ袋・新聞紙・アルミホイルを入れておくと良いですね。
 
辻)わざわざ災害用に買ってくるのではなく、家の中にあるもので防災グッズを作りましょう。
 
西村)意外と使えるものがたくさんあるのですね。
 
辻)わたしは、防災リュックには、家の中にあるものを詰め込んでいますよ。だから使ってもすぐに補充ができます。日頃から使っているので、使い勝手がわかっているものばかり。自分の使い心地の良いものしか入っていません。選び抜かれたものが自分を守ってくれるという安心感があります。
 
西村)普段使い慣れているものが入っていると心強いですね。
 
辻)例えばちょっと高級なカレーとか。大きな災害のときだけではなく、日常生活の中でも気持ちを上げてくれるものを入れています。災害時は、体だけではなく心も冷えます。心を温めるために、好きな香り・好きな味などを準備しておきましょう。
 
西村)それは、在宅避難でも避難所でも同じですね。
 
辻)今回の能登半島地震で、「避難所には何もない」ということがわかったと思います。床と屋根しかありません。避難所には、必ず自分の場所があって、全てが用意されていると思っている人が多いですが、1人1人に毛布があるかはわからない。まして、それぞれのニーズに合わせた寒さ対策は用意されていません。全部自分で何とかするしかないのです。
 
西村)避難所で健康に冬に過ごすためには、ほかにどんなものが必要ですか。
 
辻)温かいご飯が食べられる環境づくり。冷たいものばかりを食べていると本当に身体が冷えます。キャンプグッズや固形燃料、カセットコンロなど調理グッズがあれば良いですね。自分1人で用意して食べるのも気が引けると思うので、周りの人も一緒に鍋をするとか。そこでまた絆もできると思います。1人で何とかするのではなく、周りを巻き込んでみんなで復興していくことです。
 
西村)1人で避難所にいるおじいちゃんやおばあちゃんにも声をかけてあげて。
 
辻)避難所には自分の気持ちを出さないようにしていて、声をかけられても泣くこともできない人が多いです。人の心に触れて、温かいものを食べて、新聞紙を巻いて体が温かくなってくると、女性はたいてい泣きますが、男性は怒り出します。それがやっと心が溶けたサイン。やっとイライラできたのだなと思います。
 
西村)温かい食べ物を食べて、みんなでワイワイと話すことは、心を溶かす防災なのですね。
 
辻)心が溶けると泣く・怒るという感情表現になることを知っておけば、自分が今度は不安にならない。怒りだした人には背中をさする、なでる、手をにぎる、目を見て「大丈夫」と声をかける。不安が取り除かれると次は泣きます。泣いたときは、そばで話を聞いてあげると今度は笑い出します。
 
西村)心を保つための知恵があれば、心も体も健康に、寒さから命を守ることができますね。
 
辻)それらは救援物資では来ません。だから自分で用意しておきましょう。わたしが考案した「3・3・3の法則」というものがあります。最初の3は、「3秒嗅ぐ」。好きな香水などお気に入りの香りを探しておいてください。その香りを嗅いだだけで、3秒で気持ちを切り替えることができます。次の3は「3分触る」。ふにゃふにゃ・プチプチしているものなど触ったら落ち着くものを3分触ってください。最後の3は「30分見る」。推しの写真や漫画・小説・絵本・写真...何でも良いです。PCやスマホなどのデジタルではなく、アナログなものを用意しておきましょう。普段からそういうものを使ってイライラしたときに心が落ち着く成功体験をしておくことが大事。大きな地震や災害が起きて、不安になったときに役立ちますよ。
 
西村)「3・3・3の法則」を日頃から試して、災害時にも役立てたいです。心も体も温めて、健康に過ごしていきたいと思います。
きょうは、国際災害レスキューナースの辻直美さんに、冬の地震への備えについてお聞きしました。

第1427回「南海トラフ地震 大阪に津波が来るのはいつ?」
取材報告:MBS報道情報局 福本晋悟記者

西村)きょうは、今後必ず起こる南海トラフ地震の津波についてです。「地震が起こっても、津波が来るまでには時間がある」と思っている大阪在住の人にぜひ聞いていただきたいです。
スタジオにMBS報道情報局 気象災害担当 福本晋悟記者に来ていただきました。
 
福本)よろしくお願いいたします。
 
西村)南海トラフ地震の津波では、大阪駅の周辺でも浸水が予想されていますね。
 
福本)南海トラフ地震の津波は、「徳島県や和歌山県には大きな津波が来るけど、大阪府には大きな津波は来ない」と思い込んでいる人もいると思います。でも最悪の場合、大阪駅周辺でも津波による2mの浸水が想定されています。
 
西村)「海から離れているから大丈夫」というわけではないのですね。
 
福本)浸水するエリア・浸水の深さ・津波が来る時間などが書かれている津波ハザードマップがみなさんの自宅にも届いていると思うので確認してください。
 
西村)南海トラフ地震が起きた場合、大阪には何分後ぐらいに津波が来ると書かれているのですか。
 
福本)大阪府の南部に津波が来るのは、地震から約1時間後と書かれています。大阪市内は、住之江区で110分後と書かれています。ただ、これは最初の津波が来る時間ではありません。この時間は1mの津波が来るまでの時間。つまり、数10cmの低い津波はもっと早く来るということは書かれていないのです。
 
西村)110分後と書かれていたら意外と余裕があると思ってしまいますがそうではないのですね。
 
福本)大阪市のハザードマップが手元にあるので見てみましょう。
 
西村)「南海トラフ巨大地震による津波(+1m)は発生後、110分で大阪市域に到達すると予想」と小さい字で書かれていますね。
 
福本)これは1mの津波は110分後に来ると意味です。大阪市、大阪府・岬町、大阪府・泉南市は1mと書かれていますが、ほかの9つの市と町には、書かれていません。
 
西村)例えばどこですか。
 
福本)例えば関西空港がある泉佐野市です。津波到達時間は何分後と書いてありますか。
 
西村)津波到達時間81分後。最大津波水位3.8mと書かれています。
 
福本)津波到達時間81分後と書かれていますが、何mの津波が来るのかは書かれていません。これは1mの津波が来るまでの時間です。津波到達時間81分後と書いてあると、最初の津波が来るのが81分後だと思ってしまいませんか。
 
西村)はい。結構時間に余裕があると思ってしまいます。
 
福本)ハザードマップに書かれている津波到達時間は、多くの場合「1mの津波が来るまでの時間」となっています。では1mの津波はどれくらい危ないと思いますか。
 
西村)東日本大震災では数10mの津波が来たので、1mはそこまで危ないと思わないかも...。
 
福本)国の資料によると、1m以上の津波に巻き込まれた場合、ほとんどの人が亡くなるとされています。東日本大震災では5~数10mの津波が来たので、1mと聞くと低いように感じるかもしれませんが1mはわたしたちの腰の高さくらいです。
 
西村)1mって結構高いですね。
 
福本)ものすごい速さと圧力の水がやってくるのですから、1mの津波でも流されてしまうと命を落としてしまいます。普通の波と津波は全く違うもの。ハザードマップ書かれている「1mの津波」とは、命を落としてしまうというレベルの津波です。1mの津波が来るまでの時間がハザードマップに書かれているということは、低い津波はもっと早く来るということ。大阪府は、2013年に、市ごとに1mの津波が来る時間と20cmの津波が来る時間の両方をデータとして公表していました。しかし、20cmの津波が来る時間はハザードマップには反映されていません。大阪の住之江区に1mの津波が来るのは110分後とされています。では、20 cmの津波は地震から何分後に来ると思いますか。
 
西村)20 cmの津波は大人の足首ぐらいの高さですよね。もっと早く来ると思うので80分後ぐらいでしょうか。
 
福本)正解は68分後です。1mの津波より42分早く来ると想定されています。
 
西村)予想より早いですね。
 
福本)関西空港のある泉佐野市では、1mの津波は81分後、20cmの津波は31分後に来ると想定されていて、50分も差があります。この時間差を聞いていかがですか。
 
西村)もっと早く逃げなければと思います。80分もあるのなら、子どもを迎えに行こうとか、おやつを取りに帰ろうとか、買い物に行っておこうとか...と思ってしまいますが、そんな余裕は全くないですね。
 
福本)大阪市内には、地震が起きてから110分後に津波が到達すると思っている人が多いと思います。子どもを学校に迎えに行く、防災用品を家に取りに行く、近所の人を助けに行くなどの想定をしているかもしれません。でも実は20cmの津波は、数10分後には来るということが公表されていたんです。地震が起きてからの行動を改めて考える必要があります。では、20cmの津波はどれくらい危ないのか。大人ならどうなると思いますか。
 
西村)大人なら踏ん張ったら流されずに耐えられるのではないでしょうか。
 
福本)20~30cmの津波がどれくらい危ないのかを、東京・中央大学理工学部で津波の研究をしている有川太郎教授の実験施設で体験してきました。わたしは身長182cm・体重が82kgあります。足元に20~30cmの津波を約10秒間再現してもらいました。
 
西村)20~30cmの津波はどれぐらいの高さがありましたか。足首ぐらいでしょうか。
 
福本)水しぶきも出るので、膝まではいかないぐらいの高さでした。その津波に10秒間おそわれました。踏ん張ろうと思ったら踏ん張ることはできたのですが、左足が後ろに50cmほど流されていきました。
 
西村)それぐらいの勢いがあるのですね...。
 
福本)たった10秒間だったので、どうにか踏ん張ることはできたのですが。身長152cmの女性スタッフにも体験してもらったところ、1秒も踏ん張ることができずに流されてしまったのです。
 
西村)小柄の女性や子ども、高齢者や足腰の弱い人は流されてしまいますね...。怖いな。
 
福本)次に40~50cmの津波も体験してみました。40~50cmの津波は、津波が来るとわかっていても踏ん張ることもできずに流されてしまいました。津波の高さは膝くらいでした。
 
西村)そんなに恐ろしいとは。体験しないとわからないですね。
 
福本)実験では津波が前から来るとわかっている状態で、たった10秒間。でも実際の津波は、いつ来るかわからないし、時間も数10秒では収まりません。津波から逃げているときは、後ろ側から津波が来てもっと危ない。きれいな水だけではなく、物や車なども流されてきます。避難するときは、絶対に津波に襲われてはいけないということを改めて感じました。海水浴場などにいる人が、海の様子を見ようととどまってしまった場合、1mの津波より早く20~30cmの津波が来て、津波におそわれてしまう可能性があります。
 
西村)昔、ニュースの映像で、津波注意報が出ているのに釣りを続けている人がいましたね。
 
福本)去年12月にフィリピン沖で大地震があり、愛知県・和歌山県・徳島県などに津波注意報が出ました。愛知県の沿岸地域で、大勢の人が海に足をつけた状態で釣りをしていました。市の防災担当の人が避難するように言ったのですが、釣りをしていた人は避難しなかったそうです。幸いそのときは大きな津波が来ませんでしたが、20~30cmの津波の怖さを知っているので、あのような行為は絶対やめるべきだと思います。
 
西村)20~30cmの津波でもこれだけ怖いのに、ハザードマップには1mの津波のことしか書かれていないのはなぜですか。
 
福本)20~30cmの津波について、ハザードマップに載せることは難しいそうです。それについて、泉佐野市に取材をしました。現在のハザードマップには20~30cmの津波のことは載っていないのですが、ひとつ古いハザードマップには載っていたんです。
 
西村)なぜ今のハザードマップには載っていないのですか。
 
福本)割愛した理由は3つ。1つ目は、防災ハザードマップの情報量が増えたという点。高潮・洪水・ため池決壊...などたくさんのハザードマップがあります。泉佐野市ではハザードマップは冊子になっていて、約40ページもあります。
 
西村)結構ありますね...。
 
福本)津波に使えるページ数にも限界があります。そんな中、20~30cmの津波の情報は割愛せざるを得なかったのです。2つ目は、防災情報をなるべくシンプルにわかりやすく伝えたいという理由。たくさんの津波到達時間を載せるのではなく、1mの情報だけを載せた方がわかりやすいからです。3つ目は、20~30cmの津波の浸水想定地域を載せると、海水浴場や沿岸地域だけになってしまうという理由。20~30cmの津波の浸水想定地域だけをマップにしてしまうと、「うちの家は大丈夫」と思う可能性があるので、大きな被害が出ると想定されている1mの津波の浸水想定地域のみを載せています。それに合わせて、1mの津波が来るまでの時間をハザードマップ上に載せています。なので、泉佐野市なら、津波到達時間81分後と書かれているのです。
 
西村)その話を取材で知って、どう思いましたか。
 
福本)インターネットのハザードマップなら、さまざまな想定で調べることができますが、住民に紙で配るハザードマップにあれもこれも載せるわけにはいきません。掲載する情報を厳選しなければならない。防災担当の人の苦労が垣間見えました。全ての情報を載せて、辞書のような分厚いハザードマップを作ることは得策ではないと思います。
 
西村)分厚いハザードマップは読み辛いですね。
 
福本)ハザードマップに書かれている津波到達時間は、あくまで1mの津波が到達する時間。20~30cmの津波はもっと早く来るということを啓発する必要があります。20~30cmの津波は、1mの津波より30分以上早く来るということを知った上で、地震が起こったらすぐ避難する。警報が出たらすぐ避難する。これは、大阪のみなさんが南海トラフ対策でできることだと思います。
 
西村)「すぐに避難する」という基本に立ち返って、頭に置いておかないといけませんね。
 
福本)東日本大震災のときのような大きな津波ではなければ、被害が出ないと誤解している人もいるかもしれません。今回の取材を通して、1mの津波は命を落とすレベル、20~30cmの津波でも流される、命を落とす可能性が十分あるということがわかりました。実は大阪府は、来年度をめどに、津波の被害想定を改定する予定があります。その中で、20~30cmの津波についてもっと啓発する必要があるという話が出れば、ハザードマップも変わっていくかもしれません。
 
西村)ハザードマップは、どんどん変わっていくもの。しっかりチェックをして、いろんな想定をして、行動することが大切だと思いました。「まずは逃げる」この基本を改めて押さえておきたいと思いました。
きょうは、MBS報道情報局 気象災害担当 福本晋悟記者にお話を伺いました。

第1426回「阪神・淡路大震災29年【5】~浪曲で伝える災害の教訓」
ゲスト:浪曲師 菊地まどかさん

西村)ネットワーク1・17では、29年前に発生した阪神・淡路大震災の特集を、去年の暮れからお送りしています。
今回は、阪神・淡路大震災の教訓を浪曲で語り継ぐ活動をしている浪曲師の菊地まどかさんに、スタジオにお越しいただきました。

菊地)よろしくお願いいたします。

西村)浪曲を知らない人のために、浪曲とはどんなものなのか教えてください。

菊地)浪曲とは、明治時代初期から始まった大衆芸能です。当時は、浪花節とも呼ばれていました。江戸末期に四天王寺で初めて浪曲を披露した浪花伊助の字を取って、浪花節と名付けられたという説もあります。三味線の伴奏に乗せて歌う部分を"節"、語る部分を"啖呵"と言います。それにお客さまの拍手を交えて三位一体の芸となります。「忠臣蔵」などのお話や人情噺などさまざまな題材があります。頭の中で想像しながら、登場人物に自分を当てはめて聴いても楽しいですよ。
 
西村)まどかさんは、阪神・淡路大震災の浪曲を伝えているのですよね。
 
菊地)師匠が室戸台風の話の浪曲を持っていたのをきっかけに、台風や地震の話もはじめました。「稲むらの火」の話や阪神・淡路大震災の話、東日本大震災の南三陸町の「命のらせん階段」の話などいろいろな作品があります。「稲むらの火」の話は、「稲むらの火の館」の館長さんからぜひ浪曲にしてほしいという話をいただき、「津波てんでんこ」という言葉を入れて完成した防災浪曲です。
 
西村)阪神・淡路大震災の浪曲は、オリジナルで作ったのですか。
 
菊地)「稲むらの火」と同じ作家さんに作っていただきました。北淡震災記念公園の米山総支配人の意見も取りいれて完成した作品です。実際にあった出来事も織り混ぜています。淡路市(旧北淡町)を何度か訪れて勉強したり、地元の人の話を聞いたりしました。
 
西村)被災者の話を取り入れた浪曲になっているのですね。
 
菊地)先日、1年以上あたためていた作品を北淡震災記念公園で初披露しました。浪曲を聴いたあとに「災害を免れて家は倒壊しなかったけど、今日の浪曲を聞いて、改めて備えをしようと思いました」と言ってくれる人もいました。
 
西村)ぜひわたしたちにも浪曲を聴かせてください。
 
菊地)全部やると30分以上あるので、かいつまんでやりますね。
 
西村)タイトルは「1995年冬(阪神・淡路大震災)」。倒壊した自宅で生き埋めになった高齢女性を家族や住民らが力を合わせて救出するようすを表現しています。それでは、お願いします。
 
菊地)♪浪曲披露♪
 
【浪曲あらすじ】
1995年1月17日午前5時46分、兵庫県の明石海峡を震源とするマグニチュード7.3の巨大な直下型地震が発生。
震源に近い淡路島の最北端、旧北淡町は震度7の激震に襲われた。
 
柱が倒れ、壁が落ち、1階がつぶされてしまった古い木造住宅。
2階にいた幼い健治と父母は、1階にいた祖母を助け出そうと声をかけるが、祖母の声は聞こえない。
そのとき、瓦礫に埋もれていた祖母は、暗闇の中で見つけた灰皿をたたいて音を出し、助けを求めた。
駆け付けた消防団により、無事救出された祖母。
消防団は普段から町を巡回していたため、祖母の部屋をすぐに探し当て、素早く救助することができた。

 
西村)ありがとうございました。
 
菊地)本来はもっと長くて30分以上あります。三味線の伴奏はなしで、物語のキーワードを抜粋して入れました。
 
西村)初めて生で浪曲を聴きました。目の前にシーンが浮かんできました。たくさんの人物が登場して、まどかさん1人で演じているとは思えなかったです。
 
菊地)まだまだ師匠のようにはいかないんですけども...一生懸命、演じました!
 
西村)わたしもお話の中の家族の一員として、おばあちゃんを助けている気持ちになりながら聴いていました。浪曲の中には灰皿をたたいて助けを求めるシーンがありましたね。
 
菊地)わたしは、防災士の免許を取って、日々備えについて考えています。笛とライトは必ずカバンの中に入れています。実際に瓦礫に埋もれた場合、どんな状況になるかはそのときになってみなければわからないと思いますが...。物語の中でおばあちゃんは、真っ暗闇の中、手探りで灰皿を見つけました。体力が落ちて声が出せなくなっていく中、灰皿を必死に叩いて音を出したんです。子どもは耳がいいので、それに気づいて、お父さんに「おばあちゃんはここや!」と知らせました。ここはもっとゆっくり聴いて、「自分ならどうするか」を考えてほしいシーンです。
 
西村)「自分ならどうするか」を考える時間はすごく大切ですね。三味線が入るとさらに臨場感も出るのでしょうね。
 
菊地)浪曲は、聴きながら頭で想像してもらう芸。伴奏の時間もたっぷりあるので、頭の中を通り過ぎるのではなくて、自分だったらどうするかをしっかり考えてほしいですね。
 
西村)浪曲を聴いて、消防団の人もすごいと思いました。
 
菊地)米山総支配人や地元の人に聞くと、消防団は日々町の巡回をしているそうです。どこに何人住んでいるか、おばあちゃんの部屋がどこにあるか...なども調査しているから、災害時にいち早く救助ができる。まだ救助されていない人のこともきちんと把握できると聞きました。わたしの地元では、隣近所の人のことをそこまで把握できていないと思います。災害時にまわりの人に気づいてもらうには、普段からの近所のお付き合いが大切だということを教えてもらいました。みなさんもなるべく近所の人と挨拶をして、行事があったら参加してほしいですね。
 
西村)旧北淡町といえば、39人が亡くなりましたが、助かった人もたくさんいたのですね。
 
菊地)瓦礫の中から300人以上が助かりました。それもみなさんの協力や普段から防災訓練をしていたおかげです。いつ自分が助ける側、助けられる側になるかわからないと考えておかなければなりません。
 
西村)浪曲を通して、これからどんなことを伝えていきたいですか。
 
菊地)浪曲は、身近で聴く機会が限られていると思いますが、浪曲を通じて物語を深く知ることができます。わたしは、師匠から受け継いだ古典だけではなく、防災浪曲もやっています。学校などで阪神・淡路大震災の物語を披露したあとには、「リュックの中を定期的に確認してください」「家に帰ったら家族でお話してください」と子どもたちにお話しています。温かい家族の物語もしているで、ぜひ親子で足を運んで、生の浪曲を聴きに来てもらえたらうれしいです。
 
西村)ありがとうございました。きょうは、阪神・淡路大震災の教訓を浪曲で語り継ぐ活動をしている浪曲師の菊地まどかさんにお話を伺いました。

第1425回「能登半島地震1か月~被災地の現状と必要な支援」
オンライン:兵庫県立大学 大学院 教授 阪本 真由美さん

西村)甚大な被害をもたらした能登半島地震の発生から1ヶ月が経ちました。2月1日現在で1万4000人以上が避難生活を送っています。被災地以外の地域に避難する2次避難は、あまり進んでいない状況です。
きょうは、被災者への支援や調査を続けている兵庫県立大学大学院 教授 阪本真由美さんにお話を伺います。
 
阪本)よろしくお願いいたします。
 
西村)阪本さんはいつ頃から被災地に入ったのですか。
 
阪本)これまでに2回被災地に行っています。地震が起きた翌日の1月2日~8日。2回目が1月18日~25日です。
 
西村)翌日に被災地に入ったのですね。どうやって入ったのですか。
 
阪本)わたしは「全国災害ボランティア支援団体ネットワーク」というNPO活動もやっています。被災地支援を行うボランティア団体をサポートするネットワークです。今回は被害が大きく、たくさんの団体が支援に駆けつけようとしていました。そのような人たちをサポートするためにNPOと一緒に被災地に向かいました。
 
西村)サポートとはどんなことをするのですか。
 
阪本)ボランティア団体の活動状況、支援の手が足りない場所の情報共有が主な目的です。被害の範囲が広いので、支援が届きにくい場所があります。そのような支援のムラを調整する活動をしています。
 
西村)そのような調整はすごく大切だと思います。団体の車で移動したのですか。
 
阪本)はい。NPOは、昨年1月に石川県と災害時に協力して活動するという協定を結んでいます。そのような経緯もあって、まずは石川県庁に行き、災害対応の状況について情報共有しながら、今後の対応方針を相談しました。金沢までは、高速道路を使って車で向いました。
 
西村)金沢から先の道路状況はどうでしたか。
 
阪本)道路状況はとても悪かったです。能登半島を縦断する「のと里山海道」は、今回の地震によって通れなくなりました。それを避けて一般道で移動するにも、道路には亀裂や陥没、段差があって前に進めません。被災地から避難する車も向かう車もパンクしたり、段差に引っかかって横転したり...大変な状況でした。
 
西村)町のようすはいかがでしたか。
 
阪本)石川県珠洲市は昨年5月の地震でも被害を受けていますが、当時と比べても被害状況が悪いです。まず、道路事情が悪く、被災現場に入っていけない。電柱や倒壊した住宅が道を塞いでいて、あたり一面に被害が広がっています。さらに津波被害を受けているところも。被害が複層的で大変な状況です。
 
西村)複層的というのはどのような状況ですか。
 
阪本)地震による家屋の倒壊だけでなく、土砂災害、津波による浸水被害など、さまざまな形の被害がある状況です。
 
西村)被災者のようすはいかがでしたか。
 
阪本)地震が起きたのは正月。帰省していた家族が家でゆっくり過ごしているときにいきなり大きな揺れが来ました。津波から慌てて逃げて、その後は避難所生活。自宅がどうなっているのかもわからない。支援物資が全く届かない状況で、みんなで持ち寄ったもので生活しています。とにかく辛いという話をたくさん聞きました。
 
西村)不安が続く中、発災直後は、食事、トイレなどはどうしていましたか。
 
阪本)食事は、みんなで壊れた家から持ち寄れるものを持ち寄って生活していました。通信環境も悪く、誰がどこにいるのかもわからないので、いる人たちで精一杯のことをしていました。断水で水洗トイレは流すことができません。それでも何とかトイレはキレイに使おうと努力していました。水洗トイレにビニールシートをしいて、排泄物を新聞紙にくるんで処理していました。水も掃除道具もないという厳しい状況でした。
 
西村)発災直後は里帰りをしていた若い世代も多かったと思いますが、地震発生から1ヶ月経った今、被災地の状況も変わってきているのではなでしょうか。
 
阪本)被災地の状況は日々刻々と変わっています。直後に比べると生活環境は少しずつ良くなってきていると思います。まだ温かい食事は出ていませんが、支援物資が届いたり、仮設トイレや避難所のパーティションが設置されたりと住環境は少しずつ良くなってきています。家族ごと広域避難する人もいて、被災地にいる人の数は減ってきています。金沢市、野々市市など石川県の中でも比較的被害が少なかったエリアには、広域避難する人が増えていて、新しいコミュニティができています。広域避難している人は、被災地の状況をとても心配していて、毎日ニュースを見たり新聞を読んだりして、情報を手に入れようと一生懸命です。
 
西村)広域避難をしている人たちは、どのような場所に行っているのですか。
 
阪本)さまざまなケースがあります。家族や親せきがいるところに避難している人も。石川県が2次避難先として、ホテルや旅館などの宿泊施設を確保しているので、ホテルや旅館などに避難している人もいれば、地域別にコミュニティ単位で金沢市の避難所に行っているケースもあります。
 
西村)広域避難をしている人は、どんなことに困っていて、どんな支援が欲しいと言っていますか。
 
阪本)生活環境はとても良く、何でも手に入るし生活は楽になったのですが、被災地の家や家族が心配だと言っています。
 
西村)食事はどうしているのですか。
 
阪本)2次避難先では、弁当や温かい食事も提供されています。避難所の場合は食事が提供されますが、ホテルなどの宿泊施設では、それぞれで生活していると思います。食事が出るところと出ないところがあるので。
 
西村)毎日お金がかかりそうですね。
 
阪本)避難所も洗濯機があるところとないところがあります。洗濯機がないとコインランドリーで洗濯しなければならないので、お金がかかります。
 
西村)2次避難先は自分で選べるのでしょうか。
 
阪本)人それぞれです。地域単位で避難所に避難しているところもあります。
 
西村)おしゃべりできる友達や親しい人が近くにいない場合は、ひとりで悩みを抱え込んでしまいそうですね。
 
阪本)まとまって避難している人たちは、仮設住宅などの心配事も共通しているので、情報共有ができていると思います。しかし、ホテルなどに避難している人たちへの情報提供は十分にできてないので、気になるところですね。
 
西村)ホテルでは自治体や看護師、ボランティアなど相談・支援してくれる人はいるのでしょうか。
 
阪本)そのような体制の整備は十分にできてないと思います。そのためには、誰がどのホテルにいるのかという情報が必要。情報集約ができないのでアプローチできない状況にあります。
 
西村)県外に行った人などは、情報がわからない場合、要介護者、障害者などへの支援が行き届かなくなりそうですね。
 
阪本)1.5次避難という仕組みがあります。障害者、高齢者など普段から介護サービスを使っている人に避難先を紹介する仕組みです。ケアマネージャーの情報を避難先に引き継ぎ、避難先でも介護サービスが継続して受けられるような取り組み。しかし、支援を必要とする人が多くて、まだ十分につなぎきれていません。
 
西村)2次避難や1.5次避難をしたいけど、自宅にとどまっている人も多いのでしょうか。
 
阪本)「自宅が心配だから」「家族が被災地にいる」などさまざまな事情を抱えて、被災地に残っている人もいます。
 
西村)家族の仕事によっては、残る人もいそうですね。
 
阪本)行政の職員など災害対応に従事する人が家族にいる場合は、被災地に残ることが多いです。
 
西村)倒壊した自宅にとどまるなど危険な状況の中、気温も厳しく、断水もしています。大変な生活をしているのではないですか。
 
阪本)一旦は2次避難したけど避難先に馴染めなくて自宅に戻った人もいます。自宅避難で支援が必要な人に関しては、今後、1件ずつ訪問して、支援につなげる努力をしていかなければなりません
 
西村)人と人の心をつなぐことが大切ですね。支援をする人たちの人数は足りているのですか。
 
阪本)被災地は道路状況や住宅環境も悪くて、支援者の滞在先を確保することが難しいです。今支援に入っている人はほとんどが自己完結で滞在しています。車中泊をしながら、1週間以上お風呂にも入れずに支援している状況。支援者向けの滞在先の確保は、これからの課題です。
 
西村)一般のボランティア受付開始が始まったというニュースを見ましたが、そのような現状があるのですね。例えばわたしが個人でボランティアに行くとしたら、どこまで電車で行って、どうやって被災地に入り、どんな活動をすることができるのでしょうか。
 
阪本)比較的道路事情が良い地域は、ボランティアの受付が始まっています。自家用車で行くか、復旧している地元の鉄道で被災地に行くことができます。しかし、奥能登は道路事情、宿泊施設の状況が依然として悪いです。道路の復旧状況を見ながら、都市部からボランティアバスを運行できるかを検討しているところです。実現するともっとボランティアに行けるようになると思います。
 
西村)被害が大きい珠洲市や奥能登にいち早く入りたいところではありますが、現在は難しい状況が続いているのですね。ボランティアバスが早く整備されて、多くの人が足を運べるようになりますように。交通網の復旧はこれからでしょうか。
 
阪本)これから被災地では、瓦礫の除去や復旧工事が始まるので、ますます渋滞すると思います。個人の車で被災地に駆けつけるよりは、ボランティアバスをピストン輸送させるなど効率よく道路を使っていくことが大事。
 
西村)今後必要になってくる支援は何ですか。
 
阪本)本当に被害が大きいので、復旧・復興にはとても時間がかかると思います。阪神・淡路大震災と比べても、今回の被害はかなり大きい。息の長い支援をすることが大事です。住宅を再建するだけではなく、そこに住む人たちのつながりを取り戻す、観光地としての復興など、長いプロセスで寄り添って歩いていくことが大事。ボランティアも今だけではなく、来年も再来年も続けて、息の長い支援をしてくれるとうれしいです。
 
西村)お手伝いに行くだけではなく、観光として旅行に行って、美味しいものを食べて経済を回していくこともできます。お取り寄せや募金などいろんなことができるのではないでしょうか。
きょうは、被災地で支援や調査を続けている兵庫県立大学大学院 教授 阪本真由美さんにお話を伺いました。

第1424回「阪神・淡路大震災29年【4】~震災を読みつなぐ」
ゲスト:震災を読みつなぐ会 KOBE 代表 下村美幸さん

西村)今月のネットワーク1・17では、29年前に発生した阪神・淡路大震災の特集をお送りしています。
きょうのゲストは、阪神・淡路大震災に関する手記や詩の朗読を続けているボランティア団体「震災を読みつなぐ会KOBE」代表 下村美幸さんです。
 
下村)よろしくお願いいたします。
 
西村)「震災を読みつなぐ会KOBE」では、どんな活動をしているのですか。
 
下村)小学校・中学校で活動しています。3年前から始まった道徳教育の中で、子どもたちが残した大事な記録を読ませていただいています。
 
西村)「震災を読みつなぐ会KOBE」は、いつ設立されたのでしょうか。
 
下村)今から19年前になります。
 
西村)ということは震災から10年目の年ですね。
 
下村)はい。震災から10年目の年は、神戸の建物は見事に復旧していました。でもみなさんの心の復旧はまだまだでした。亡くなった人も多かったので、みなさん口を閉ざしていました。わたしは趣味で朗読をしていたので、何かできないかと思いました。学校に行くと先生たちも協力してくれて。わたしたちは場所があってこそ活動できます。活動場所の提供をしていただくまでは、いろいろな支援がなければできませんでした。会員のみなさんの力で一歩一歩進んで歩んできた会です。「震災を風化させない」「震災を伝えなければならない」という想いだけでやってきました。
 
西村)これまでに朗読してきた手記や詩は、何作品ぐらいあるのですか。
 
下村)485作品あります。小学生用・中学生用に仕分けをしたリストがあります。それ以外にもみなさんが持っている作品を読んでいこうと思っています。
 
西村)「伝えていきたい」という想いでみなさんが残してきた手記や詩を是非、リスナーにも聞かせてください。きょうは、2つの手記を持ってきてもらいました。ひとつ目のタイトルを教えてください。
 
下村)「オレの手 髪を染めた少年 てれくさそうに」です。
 
西村)では、朗読をお願いします。
 
下村)
「オレの手 髪を染めた少年 てれくさそうに」
 
オレ あの日な 近所の婆ちゃん助けた
ガレキに埋もれた中から六人も助け出した
あんな時は手首つかまなあかんねん
顔も 体も まっ黒になったで
空もまっ黒やった
 
オレ五日目にな 避難所にたずねて行ったで
ホカホカカイロ持って行った
そうしたら婆ちゃんな
「兄ちゃんの分あるんか おおきにおおきに
ほんまにやさしいなあ 兄ちゃんの手は温かいなあ」
言うて涙流した
 
オレ あんなこと言われたん初めてや
周りのもんに 嫌われてると思って毎日過ごして
自分の手が温かいか冷たいか
そんなこと関係なかった
 
オレ あんなこと言われたん初めてや

 
西村)ありがとうございます。これは阪神・淡路大震災当時の実話なんですよね。手記を書かいた人はどんな人ですか。
 
下村)震災についてたくさんの聞き書きをしている車木蓉子さんという人です。これは手記ではないかもしれませんが、悲惨な状況だった神戸の街で、人々が助け合っていたことがわかる作品です。短い作品ですが「髪を染めた少年てれくさそうに」というようすが目に浮かびますよね。
 
西村)やんちゃな男の子だったのでしょうね。
 
下村)ピアスをしているような男の子だったのかもしれません。当時は、みんなが「何か役に立たなあかん」「何かせなあかん」と思う状況だったのだと思います。ボランティア元年と言われた阪神・淡路大震災当時、100万人近い人が神戸にきてくれました。今回の能登半島地震や熊本地震、東日本大震災で何か役に立ちたいとたくさんの人がかけつけるきっかけになったのだと思います。
 
西村)この少年は、今まで自分は周りの人に嫌われていると思っていて、心を閉ざしていたけど、助け合いの心でつながった温かい気持ちにふれて、人生が変わったのでしょうね。当時の過酷な状況での助け合いのようすも目に浮かんできました。続いていてもう1作品読んでいただきます。
 
下村)今から読むのは、震災から10年目の「1・17のつどい」で、遺族の今 英男さんが読んだあいさつです。
 
「英人よ」
 
あれから九年が過ぎて、三千二百八十八日目の朝。白い雪とともに迎えました。あの日も今朝のように凍てついて暗くて...。
九年がうそのように過ぎました。
 
英人よ。今年も来れました。母さんと二人で。
 
この日が過ぎないと、私のうちにはお正月が来ません。
あの年は一緒に初詣に行ったね。
あの時の写真が最後になりました。
 
あれから私の家のお正月が変わりました。年の暮れに年賀状は書かなくなりました。初詣も行けなくなりました。
今日この日神戸に来ると、やっと年が明けます。
決して良いことではないけれど、そんな習慣が私の家にはつきました。
 
今年も来ました。おかげさまで来れました。
神戸の三ヶ所にある、慰霊碑の君の名前を指でなぞるだけなのに。
今日からまた十年目を刻み始めます。三千二百八十八、三千二百八十九、三千二百九十、三千二百九十一...、もう数えるのはやめます。
あの日のことはやっぱり本当で、あの東灘の下宿の前の車の中で見た凍てついた月。間断のないサイレン。しかし奇妙に静かな風。
被災された多くの方々の記憶の中に、しっかりと残っていることと思います。
 
英人。君のふるさとの金沢は、今年は雪が本当に少ないです。
好きなスキーには帰らないでいいよ。
 
あのままの君の部屋。泥のついたまま真ん中で折れてしまっているスキー。今年は片付けようと思う。
テニスのラケットに、ボールも空気がなくなって寂しそうだ。
大学の軟庭のパートナーだったK君が結婚したそうだ。お母さんからお葉書をいただいた。
それだけ年がたったんだね。
 
今日こうして被災された多くの方々と一緒に、こんな記憶も大切に、大切に語り継いで...。
失った多くの物、多くの宝、多くの優しさ。
決して決して忘れない。
 
あの日を決して忘れないよ。今日の日も決して忘れない。
 
英人よ。君への思いは、神戸のたくさんの方たちと共に生き、大好きだった神戸のまちと一緒にあります。
君のふるさとで、神戸という名前を聞くだけで、心が震え、このまちを私達はいつまでも愛します。
 
英人よ。息子よ。私たちの誇りで、大切な記憶。
 
今日は祈りをこめて花を捧げたいと思います。
また来ます。神戸に。
そのためにも、父さんも母さんも、体を大事にして十年目を歩みます。
また来ます、神戸に。またの日を楽しみに。

 
西村)英人さんは金沢から神戸に進学して被災し、犠牲になりました。英人さんを想うお父さんの想いを伝えてもらいました。お正月の話がありましたが、別のご遺族からも「1月17日が来ないと正月が始まらない」という話をよく聞きます。震災から10年目の「1・17のつどい」から、さらに19年が経っています。このときに亡くなっていなければ、英人さんは結婚して子どもがいて、今さんも孫と一緒に楽しい正月を過ごしていたことでしょう。あの日、あのときに同じように人生が変わってしまった人がたくさんいました。わたしたちがメディアを通して取材をしても、その人たちの想いを知る機会は少ないです。ここまで赤裸々な気持ちを語るには、勇気がいることかもしれません。語ってくれたことに感謝します。そして、それを読みつないでくれている下村さん、ありがとうございます。
 
下村)10年の節目で語ることができるまで、今英男さんも時間がかかったのでしょう。あの日、あのときの月の光、風の音まで記憶にとどめているのです。今さんにとっては、10年という年月に関係なく、あの日がそのまま切り取られている。英人くんが亡くなってから「きょうで何日目」とずっと数えていたんです。10年間、毎日毎日数えていたなんて、なんと尊い命だったのでしょう。でも今年で終わりにしよう、10年目でやめようと思ってこの文章を書いたんです。それまで毎日「きょうで何日目」と思っていたのかと思うと...すごいですよね。
 
西村)若い世代にも届けている「震災を読みつなぐ会KOBE」。来年震災から30年。この先は、どんな活動をしていきたいですか。
 
下村)残された大事な手記を発信することで、震災を風化させないようにと10年近く活動してきましたが、この会を設立したときから、いつか児童・生徒がこれを読みつないでほしいという想いはありました。学校や教育委員会からも賛同を得ていたのですがなかなか実現しなかった。しかし最近では、学校に残された手記を探してもらって、児童・生徒に読んでもらっています。
 
西村)児童が先輩の手記を読んでいるのですね。
 
下村)手記がない学校には、作品を学校に持っていって児童に読んでもらうこともあります。今は、先生と打ち合わせしながら、一緒に作品を選んでいます。児童・生徒が読みつなぐことで、震災は風化することはないと思っています。児童・生徒は練習しなくても、きちんと気持ちをこめて読んでくれるんですよ。朗読させたいと考える先生も多くなってきました。ありがたいことです。
 
西村)子どもたちは、震災を経験していなくても、読みつなぐことで自分ごとにすることができますね。これは、神戸だけではなく、全国・世界で広まっていってほしい活動です。
きょうは、阪神・淡路大震災に関する手記や詩の朗読を続けているボランティア団体「震災を読みつなぐ会KOBE」代表 下村美幸さんにお話を伺いました。

第1423回「阪神・淡路大震災29年【3】~阪神・淡路大震災29年の神戸で」
オンライン:「1.17KOBEに灯りをinながた」実行委員
      FMわぃわぃ 総合プロデューサー 金千秋さん

西村)1月17日は各地で追悼行事や防災イベントが行われました。神戸市長田区で毎年1月17日に行われている「1.17KOBEに灯りをinながた」は、早朝5時46分ではなく、夕方5時46分に黙祷が行われ、地元の子どもや若い世代がたくさん参加しています。鉄人28号の大きなモニュメントが立つ広場で行われたこの追悼行事にわたしも参加してきました。
きょうは、「1.17KOBEに灯りをinながた」実行委員で、長田のコミュニティメディア「FMわぃわぃ」総合プロデューサーでもある金千秋さんにお話を伺います。
 
金)よろしくお願いいたします。
 
西村)「1.17KOBEに灯りをinながた」は、なぜ早朝ではなく、夕方の5時46分に黙とうを行うのですか。
 
金)「FMわぃわぃ」があるカトリックたかとり教会では、カトリックの聖歌とともに1月17日の早朝5時46分に1分間の黙とうをする追悼行事が行われています。1996年からロウソクを灯しているのですが、地域とともに始めたのは1999年から。「FMわぃわぃ」は、多言語放送をしていて、外国人、耳の聞こえない人、目の見えない人、車椅子の人、難病の人となどさまざまな人たちが参加しているラジオ局です。障害のある人は車椅子で朝早くに電車に乗って来ることは難しいので、いろんな人たちが参加しやすい夕方5時46分に実施することになりました。当時は、JR新長田駅前の広場でやっていたので、電車を降りてきた人、お買い物帰りの人がたくさん立ち寄ってくれました。
 
西村)わたしは、1月17日に長田のピフレホールであるゴスペルコンサートに毎年参加していて。コンサートが終わった後、広場に「ながた」の文字が灯籠で灯されているのを見て参加したのが最初でした。会社帰りや買い物帰りに立ち寄って参加している人も多いと思います。制服姿の学生さんも多いですよね。若い世代が多く関わっているのはなぜですか。
 
金)最初はカトリックたかとり教会でロウソクを作っていましたが、近所の高取台中学校や駒ヶ林中学校、「FMわぃわぃ」で放送中の小学生の番組の子どもたちも「ロウソク作りをやりたい」という声がありました。さらにほかの番組担当者からも参加したいと声が上がり、ありがたいことに、小学校、中学校、幼稚園、保育園からも「震災の話をしてほしい」「3歳の子どもにもロウソク作りをさせてほしい」というような話がありました。子どもたちは、12月にロウソクを作り、1月17日の学校帰りに自分が作ったロウソクが燃やされているようすや拝んでいる人を見る。それを26回続けています。当時3歳の子どもはもう29~30歳です。小学校の先生になっている人もいます。続けることでこの行事が若者へ伝わっていったのだと思います。
 
西村)うれしいお話ですね。今回、ロウソクを作った小中学生が、灯篭を並べる手伝いに来ていました。駒ヶ林中学校の1年生2人のインタビューをを聞いてください。
 
音声・西村)灯籠作りに参加してみてどうでしたか。
 
音声・男子中学生)震災後も想い続けている人がたくさんいるのだなと思いました。
 
音声・西村)自分が生まれる前の震災についてどんなふうに思っていますか。
 
音声・男子中学生)おばあちゃんやママも震災を経験しています。家がなくなって、車中泊をしていた人もいたと聞きました。おばあちゃんの家も全焼したそうです。そんなふうに悲しい想いをした人、命を落とした人もいたのだなと思いました。
 
音声・西村)学校でロウソクを作ったのですか。
 
音声・女子中学生)学校で作りました。お手伝いの人たちや班のみんなで協力して作ったけど難しかったです。ペットボトルが足りなくなったけどできました。
 
音声・西村)ペットボトルの灯籠を作って文字をかたどって並べたとき、どんな気持ちになりましたか。
 
音声・女子中学生)この行事は、地震後からずっと続いています。形も変わってきているらしいけど、ずっと続いているのは、地域の人や学校の協力があるからだと思いました。
 
西村)金さん、今の声を聞いていかがですか。
 
金)涙が出そうです。今は次世代の人がロウソク作りを受け継いでくれていて。クリスマスやお寺で使って残ったロウソクを12月に集めて。お店の人もロウソクを残しておいてくれるんです。それを溶かして、子どもたちが集めた卵パックに注いで、卵型の小さいろうそくを作ります。そして会場にロウソクを置いて、火を灯すと心に染みるんです。ロウソクの光を見つめることで、来年、再来年、10年先にいろいろなことを想い出すだろうなと。26回続けてきて実感しています。
 
西村)当日お手伝いした中学生だけではなく、ロウソク作りに携わっている人や家族も関心を持つでしょうね。
 
金)2リットルのペットボトルは水ではなく、お茶などが入っている大きなものが必要なんです。この寒い時期に約1000本のペットボトルを集めるのは結構大変。酒屋さんがお客さまにお願いして何百本と集めてくれています。ありがたいです。
 
西村)ロウソク作りのときに、金さん自身も語り部として話をするのですか。
 
金)わたしみたいな震災経験者や先生以外にも、震災を経験していない大学生も実行委員会に参加しています。震災を経験していなくても伝えることができる若い世代の語り部もいます。
 
西村)神戸大学の4年生のボランティアにどんな想いでイベントに参加したのか話を聞きました。神戸大学の学生です。
 
音声・大学生)わたしは元々東北の地震に興味がありました。神戸から東北に向かうにあたり、神戸で起きた震災を知らずに東北に向かうのではなく、神戸のことをよく知ってから東北の人と交流したいと思い、神戸の人と関わっています。今朝、5時46分の追悼を見ていると、一見元気そうに見える人でも悲しいことを経験している人はたくさんいるのだと感じます。そのような人たちと同じ想いを共有することはできませんが感じ取ることはできたらと思って参加しています。
 
西村)ボランティアスタッフの話をお届けしました。金さんいかがですか。
 
金)神戸大学というと、1995年当時、たくさんの学生がいろいろな地域で自主的にボランティア活動をしていました。コロナ禍があって、この3年間は、活動がなかなかできなかったのですが、今年は、大学が地域貢献に力を入れて、1月17日は、大学が休みになり、たくさんの人が参加してくれました。地域で大学が果たせる役割として、命を守ることの歴史を伝えられるようになってとてもうれしいです。神戸大学だけではなく、神戸常盤大学、兵庫県立大学、去年までボランティアサークルとして参加してくれていた神戸国際大学との連携もあります。大学生が社会人になる前に神戸の震災や復興の知恵を日本中、世界中に伝えてくれるのはとてもうれしいことです。
 
西村)心強いですね。このように、「1.17KOBEに灯りをinながた」には、若い世代や子どもも多く携わっています。なぜ若い世代を巻き込むことができるのでしょうか。工夫していることはありますか。
 
金)実行委員会には、大学、小学校、中学校、幼稚園など学校関連以外にも、タクシー会社、市民活動団体、障害者団体、アートの仕事をしている人、酒屋さんなど長田を中心としたさまざまな地域のさまざまな職種の人たちが集まっています。そこから幅広い世代につながっているのだと思います。
 
西村)いろんな立場の人がいるからこそ、想いを共有してみんなで作り上げていくことができるのですね。来年は震災から30年。震災を経験していない若い世代にどのように阪神・淡路大震災を伝えていきたいですか。
 
金)自治会、婦人会、子供会などたくさんの人たちとのつながりの中で伝えていっています。長田の住民の中には、外国人もたくさんいます。立て看板やチラシに外国語で紹介文を記載したり、参加を呼びかけたりしています。
 
西村)世代、国籍、障害のあるなしも問わずにたくさんの人が参加しているのですね。
きょうは「1.17KOBEに灯りをinながた」実行委員で、長田のコミュニティメディア「FMわぃわぃ」総合プロデューサーでもある金千秋さんにお話しを伺いました。

第1422回「阪神・淡路大震災29年【2】~能登半島地震でも明らかになった『進まない耐震化』」
オンライン:元・神戸市職員 一級建築士 稲毛政信さん

西村)今月17日で、阪神・淡路大震災の発生から29年。阪神・淡路大震災では、亡くなった人の8割が建物の倒壊などによる圧迫死でした。今回の能登地震でも、国の耐震基準を満たさない多くの建物が倒壊しています。
きょうは、耐震化の必要性について、元・神戸市職員で1級建築士の稲毛政信さんにお話を聞きます。
 
稲毛)よろしくお願いいたします。
 
西村)1995年の阪神・淡路大震災当時、神戸市の職員だった稲毛さんは、どんなお仕事をしていたのですか。
 
稲毛)交通局で地下鉄海岸線をつくっていました。駅舎の内装設計などを担当していました。
 
西村)稲毛さんの自宅は、阪神・淡路大震災当時、どちらにあったのですか。
 
稲毛)阪神西宮駅から1km北にありました。
 
西村)被害が大きかった地域ですね。地震当日のことを教えてください。
 
稲毛)わたしは、離れに寝ていて無事でした。長男と次男が母屋の2階にいて次男は助かりましたが、高校2年生だった長男が屋根の下敷きになって亡くなりました。それから耐震化について調べるようになりました。
 
西村)倒壊した家はどんな家だったのですか。
 
稲毛)築50年のいわゆる旧耐震の家でした。耐震の新基準が定められた1981年以前の建物は壁が少なく、耐震性がなかったのです。
 
西村)息子さんが亡くなりもうすぐ29年になります。今の気持ちはいかがですか。
 
稲毛)残念です。近所の人がたくさん助けに来てくれました。わたしの家は壊れましたが、隣の家は何ともなかったのです。隣の家は、1981年に定められた新しい耐震基準に基づいて建てられた建物でした。それ以降に建てられた建物はほとんど倒れていません。戦後の貧しさで、住む家もなかった時代。1950年にできた建築基準法では、壁の量は現在の基準の半分でした。
 
西村)厳しい時代だったのですね。
 
稲毛)1981年以前に建てられた建物は、壁の量が少ないので新基準まで改修しなければなりません。
 
西村)先日の能登半島地震では、多くの木造住宅が倒壊してしまいました。
 
稲毛)1995年12月に耐震改修の促進に関する法律ができて、耐震改修が始まったんです。まだ28年しかたっていませんが、その間にかなり技術的な発展がありました。すごく安く耐震改修ができるようになったんです。
 
西村)いくらぐらいで耐震改修できるのですか。
 
稲毛)耐震改修費の全国平均は、220万円です。
 
西村)改修が必要な建物は、戦後建てられた木造2階建ての住宅ですか。
 
稲毛)はい。上が重たいと地震で揺れてつぶれてしまいます。
 
西村)能登半島地震では、珠洲市や七尾市で、2階の屋根瓦が歩いている人の膝下にあるという状況をテレビで見ました。
 
稲毛)220万の内訳は、耐震診断、改修設計が約50万円。残りの約170万円が工事費の全国平均です。地域による差はほとんどありません。
 
西村)補助金は出るのですか。
 
稲毛)たくさんでます。石川県は、改修工事費に150万円の補助金が出ます。全国一位ではないでしょうか。兵庫県も多くて、西宮市は100万円の補助金がでます。設計や耐震診断にも20万円の補助金が出ます。合計170万円は補助金が出ることになります。220万から引いた約50万円で耐震改修ができるということです。
 
西村)そんなに補助金が出るのになぜ能登地震でたくさんの木造住宅が潰れたのでしょうか。
 
稲毛)地震の経験が少なく、耐震改修をしていた家が少なかったのでしょう。耐震改修は簡単です。壁を強くするだけなので間取りが悪くなることはありあません。
 
西村)今回、能登半島地震で多くの住宅が被害を受けました。珠洲市は高齢者が多い地域で、耐震化率は全国平均の87%を大きく下回る51%だったそうです。全国の約1割の住宅はまだ耐震化ができてないということについてどう思いますか。
 
稲毛)伝統構法による古民家や町屋はほとんど耐震化ができていません。伝統構法の家は、瓦が落ちて、大きく傾いてもくずれない性質があります。それに対する簡便な設計法が2002年にできました。
 
西村)関西でもやはり気をつけた方が良いですか。
 
稲毛)全国で耐震化が必要です。大きな古民家なら耐震改修に約200~300万円の費用がかかります。京都市などは町屋に補助金が出るところもあるのですが、全国的にはまだまだ。戦後に建てられた軸組構法の建物もたくさん残っています。100万円ぐらいあれば耐震改修ができます。
 
西村)「阪神・淡路大震災や大阪北部地震を乗り越えたから大丈夫」と思っている人もいるかもしれませんが、そうではないのですね。
 
稲毛)前の地震でいたんでいるので、差し込み式になっている柱や梁が外れかけているところもあるかもしれません。
 
西村)建物がダメージを受けている可能性が高いのですね。
 
稲毛)危険ですね。でも耐震改修をすれば大丈夫。新築の建物と同じ強度になるように、腐っているところやいたんでいるところは取り替えて、補強していく。バランスよく計算しながら設計していきます。最近はソフトで耐震設計ができます。高知県では、4~5年前から耐震改修に積極的に取り組んでいます。高知県は、南海トラフ地震が起きたらすぐに津波が来るといわれていますが、家が倒れていたら逃げられません。できるだけ天井や床を剥がさない安い構法もできているので、耐震改修はやらないと損です!
 
西村)耐震化を進めるためには、防災意識を高めることが大事。補助金がもっと出るようになれば、できる人が増えそうですね。みなさん今一度、自宅の耐震について考えてみてはいかがでしょうか。
きょうは、元・神戸市職員で1級建築士の稲毛政信さんにお話を伺いました。

第1421回「元日の震度7~令和6年能登半島地震」
電話:映画監督 有馬尚史さん

西村)1日1日午後4時10分ごろ、石川県志賀町で震度7を記録する地震があり、北海道から九州にかけて広い範囲で揺れを観測しました。地震の規模はマグニチュード7.6と推定されています。気象庁は石川県能登地方に一時、大津波警報を発表し、輪島港では1.2m以上の津波を観測。兵庫県北部には津波警報、京都府には津波注意報が発表されました。兵庫県豊岡市と京都府舞鶴市でそれぞれ40cmの津波が観測され、震源から遠く離れた近畿地方でも津波が観測されました。能登半島の北部では、2007年に最大震度6強を観測する地震があり、ここ数年も大きな地震が続いていました。この一連の地震は、地下に存在する水の影響で、地下の断層が滑りやすくなっていたことが原因とみられています。現地の今の状況はどうなっているのでしょうか。
きょうは、現地で避難生活を続けている人に話を聞きます(1月5日収録)。能登半島でドキュメンタリー映画を撮影していて、今回の地震に遭い、現在、避難所で生活している映画監督の有馬尚史さんです。
  
有馬)よろしくお願いいたします。
 
西村)有馬さんは今どこにいますか。
 
有馬)避難所となっている石川県珠洲市蛸島町の蛸島小学校にいます。
 
西村)地震が起こった当日、1月1日のようすをおしえてください。
 
有馬)去年から何度か珠洲市に入り取材をしていました。今回は年末年始のようすを撮りに来ていました。復興の兆しが見えてきていて、元旦は神社やお寺も年越しムードで。忘年会や年始の食事会に誘われて参加したんです。「これから復興していくだろう」という気持ちで撮影していたところでした。
 
西村)そして、1月1日の午後4時10分頃に大きな地震がありました。そのとき有馬さんはどこにいたのですか。
 
有馬)わたしは撮影に協力をしてもらっている宿舎にいて、年越しから朝まで撮影続きだったため仮眠していました。最初に震度4~5の地震があって、目が覚めたんです。すぐに家を出る準備と撮影の準備をしていたところに震度7の地震が来ました。家の中のものがめちゃくちゃに倒れて、そこからどんどん揺れが強まり、家中のものが崩れて危険なのですぐに家を出ました。
 
西村)息つく間もない状況で、大きな揺れが襲ってきたのですね。
 
有馬)最初の揺れは「ちょっと強めかな」という程度だったのですが、震度7の揺れは想像を越えていました。身を整える余裕は全くなかったです。裸足で飛び出しました。
 
西村)そのとき、有馬さんはどんな体勢で揺れに耐えていたのですか。
  
有馬)出るときもフラフラでした。何とか出ることができたあとは床に這いつくばって揺れに耐えていました。窓ガラスが割れて道路に散乱していました。
 
西村)怪我はなかったですか。
 
有馬)幸い怪我はなかったです。
 
西村)近所の家はどんなようすでしたか。
 
有馬)向かいの家の人が出てくるところだったので、すぐに家のドアを開ける手伝いをしました。その人たちも恐怖に怯えていて、揺れが収まるまではパニック状態。小学校の校庭の小屋も傾いていました。
 
西村)それぐらい大きな揺れだったのですね。
 
有馬)去年の地震を経験している人たちは、「去年の比ではない」と言っていました。去年の地震でも崩れた家が何軒かあり、生き埋めになった人もいたのですが、今回の地震は、そのとき一番被害の大きかった家が街全体に広がっているような状況でした。
 
西村)去年の地震は最大震度6強を観測しましたが、今回の珠洲市の震度はいくつでしたか。
 
有馬)蛸島町の震度は7と発表されていました。6強と7の差はかなり大きかったようです。「7以上だ」という人もいて。この世の終わりのような揺れを感じました。最初の揺れが収まってすぐに震度7の揺れがきて、余震がすぐにきました。近所の人が「津波が来るぞ!」と車で逃げてきたので、わたしも車で逃げる段取りをして高台まで行ったのですが、途中の道がふさがっていて道路は地割れだらけ。車を擦りながら逃げました。
  
西村)車で逃げている人は多かったですか。
  
有馬)輪島は海から起伏のない街で、高台は山側に1か所のみ。徒歩では間に合わないので車で逃げる人が多かったです。
 
西村)高台にはどんな人が集まっていたのですか。
 
有馬)蛸島町は高齢者が多いのですが、高台には、子どもから大人、高齢者までたくさんの人が避難してきていました。
  
西村)地震の前の蛸島町は、どんな街だったのですか。
 
有馬)海がきれいな港町です。黒瓦が特徴的な木造の家が並ぶ古風で素敵な街でした。
 
西村)有馬さんが滞在している避難所の蛸島小学校はどんなようすですか。
 
有馬)5日午前現在、4日夕方からようやく電源車が来て、蛸島小学校のみ電気が通りました。上下水道はまだ通っていない状況で、給水車も来ていないので、持ち寄った水で何とかしのいでいる状態です。有志の人が届けてくれるものや県の物資も少し入ってきました。
 
西村)物資にはどんなものがありましたか。
 
有馬)食料や水、ウェットシートやオムツなどの衛生用品、衣服や毛布などです。
 
西村)小学校の避難所には、水や缶詰などの食料、毛布、災害用トイレなどは備蓄されていなかったのですか。
 
有馬)全くありませんでした。地震の揺れが落ち着いてから瓦礫からものを取り出し、持ち寄ったもので炊き出しをする人もいました。3日目ぐらいまでは、1日におにぎり2個ぐらいでしのいで、ほかに食べるものがある人は食べていました。トイレは全く使えないので、汚物を袋に貯めています。それは現在も続いています。
 
西村)避難所には何人ぐらい集まっているのですか。
 
有馬)約700人が小学校の体育館や各教室で過ごしています。車中泊を含めると、実際はもっといると思います。
  
西村)運動場で車中泊をしているのですか。
 
有馬)体育館や教室に入り切らない人が運動場で車中泊をしています。運動場は車で埋まっているので、別のところで車中泊している人もいます。暖房が効くので車中泊の方が良いという人も多いです。わたしは撮影機材の充電が必要なので車中泊をしています。
 
西村)車中泊をしていて不自由に感じることはありますか。
 
有馬)ガソリンが不足しています。潤沢に使うことができないので、寒くなってきたら起きてエンジンをつけて...を繰り返しています。体勢も苦しく、夜は冷えるのでなかなか寝付けません。
 
西村)毛布の配布など、寒さ対策はされていないのですか。
 
有馬)物資が届き始めてからは毛布も配られましたが、最初は毛布がなかったので、車のエアコンでなんとかしのいでいました。
  
西村)避難所の体育館はどんなようすでしたか。
 
有馬)人がひしめきあっていて、隣と隣の隙間もない状態。昨日の夕方までは電気がきていなかったので、車の電源から引っ張ってきた1本のライトで薄暗く照らしていていました。
 
西村)電源車がやってきて、今は明かりがついているのでしょうか。
 
有馬)昨日の夜に電源車がきたので、学校全体が明るくなりました。
 
西村)被災者のみなさんの反応はどうでしたか。
 
有馬)「電気つきましたね!」と声をかけたら「電気ついてた?」という反応で、それどころではなさそうな雰囲気でした。今朝から電気がきて、電気のありがたみを感じています。
 
西村)余震が続く不安もある中、みなさんどんな暮らしをしているのでしょうか。
 
有馬)今は1日2回の炊き出しをする中で、衛生面等の問題をみんなで共有して解決しています。物資が届いたらそれを仕分けして。落ち着く暇がないです。
 
西村)役割分担をしてみなさんで動いているのですね。家に帰って片付けしている人もいますか。
 
有馬)日中は家に戻る人もいます。片付けというより、避難所生活に使えそうなものを取りにいっています。全壊している家がほとんどなので、片付けするというレベルではないです。
 
西村)潰れてしまった家の下から使えるものを探しているのですね。毛布やお菓子など...
 
有馬)台所に食べ物があるという人がいて、屋根の上を登って食料を取りに行く手伝いをしました。いろんなものが足りていない状況です。わたしにできることはこうやって発信していくことだと思って動いています。
 
西村)今足りないものは何ですか。
 
有馬)水が足りていません。食料は徐々に入ってきていますが、約700人いるので1ヶ月もたないと思います。ガソリンも不足しています。蛸島小学校には電源車がきましたが、もう1か所の避難所にはまだ電源車がきていません。電源確保のためにガソリンが必要です。歯ブラシ、アルコール除菌シート、マスクなど衛生面で必要なものも不足しています。衛生用品があると感染症を防ぐことができます。体調が悪い人の対応するのも被災者。みんなが被災者なのでいつかもたなくなると思います。
 
西村)支援団体はまだ入ってきていない状況ですか。
 
有馬)少しずつ入ってきていますが大人数の団体はまだ入ってきていません。珠洲市全体でたくさんの被害がありましたが、街にいるわたしたちは今何が起きているのかわかっていません。電波が悪く、電話がやっとつながる状況なので全く情報がつかめないんです。外部からの連絡もしづらいと思うのですが、何とかうまく情報を提供する手段があれば。親族がいる人は外部からの情報を伝えてあげてください。みなさん全く情報がない中、手探りで生きています。
 
西村)電話はつながるのですね。
 
有馬)はい。インターネットはつながりにくいです。
 
西村)親族や友達がいる人は、電話をしてあげると安心するかもしれないですね。
 
有馬)情報だけでも提供できれば何か変わるような気がします。
 
西村)きょうは、現地で避難生活を続けている映画監督の有馬尚史さんにお話を伺いました。

第1420回「阪神・淡路大震災29年【1】~若者による震災語り部隊」
ゲスト:あすパ・ユース震災語り部隊 代表 池田拓也さん
    メンバー 灘高校2年生 平野遥人さん

西村)6434人が亡くなった阪神・淡路大震災。来年1月17日で発生から29年が経ちます。被災地での追悼行事はピーク時の4割にまで減り、次世代へ震災の体験や教訓をどのように語り継ぐのかが課題となっています。そんな中、震災を経験していない若者たちによる語り部の活動が始まっています。
きょうは、若い世代の語り部活動を行う、あすパ・ユース震災語り部隊 代表 池田拓也さんとメンバーの平野遥人さんにスタジオに来ていただきました。
 
池田・平野)よろしくお願いいたします
 
西村)おふたりは、語り部活動以前から交流があったのですか。
 
池田)わたしは灘中高の教員をしています。先生と生徒の関係です。
 
平野)僕は灘高校の2年生です。

 
西村)「あすパ・ユース」という名前にはどのような意味があるのですか。
 
平野)神戸市灘区の地域共生拠点「あすパーク」を拠点に震災の語りをする若者という意味で、この名前になりました。
 
西村)震災語り部隊はいつ頃発足したのでしょうか。発足のきっかけについても教えてください。
 
池田)2022年に発足しました。わたしは「あすパーク」に正会員として設立前からかかわっています。「あすパーク」がある場所は、阪神・淡路大震災の時に避難所や仮設住宅があった場所なので、そこで何か震災にかかわることがしたいと。わたしは若者に携わる仕事をしているので、ぜひ若者を巻き込んでやりたいと思っていました。
 
西村)阪神・淡路大震災に関心を持っている生徒はいましたか。
 
池田)阪神・淡路大震災は、生徒たちが生まれる前の出来事なので関心を持つ人はなかなかいなかった。しかし、生徒たちが学校の行事で東北に行ったときに、「自分たちが住んでいる神戸のことをもっと知りたい」という声があり、この活動を始めることになりました。
 
西村)番組では、先週12月23日、神戸市灘区で行われた震災語り部隊の活動を取材しました。若者たちが事前に震災経験者から聞き取った体験談を、震災の被害を受けた神戸市灘区の成徳地区を歩きながら語り継ぐという活動です。10代のみなさんが語りをしているようすと、参加者のインタビューをお聞きください。
 
音声・若者)きょう、進むルートを言っていきます。最初に行くのは、成徳小学校。2番目は大和公園、最後に徳井会館を回って、ここに戻ってこようと思います。では、お願いします!
 
音声・若者)ここは大和公園です。震災当時は避難してきた人がここでテントを作って暮らしていました。しかし、ここに2階建ての仮設住宅ができることになり、全員どいってもらったんです。自分たちが入居できると思っていたのに、灘区の人たちは一切入れず、長田の人が入ることになって。仮設住宅の管理人さんがいない時間に揉めごとが起こったそうです。今は公園になり、小学生が野球をしていますが当時はそんなことがありました。
 
音声・若者)あそこでバーベキューをしていたそうです。「最初の1週間は豪華な食事ができた」とあそこの自転車屋さんから聞きました。
 
音声・参加者)みんな食べ物を持ってきてね。そのそこいらで何か焼いていました。震災直後はうちもお肉やウナギやらいっぱいあったな。それがなくなると貧しくなりましたけど。
 
音声・参加者)わたしは東灘区の住人ですが家は一部損壊だけで済みました。家族にけが人はいませんでした。

 
音声・番組ディレクター)このように若い世代が震災を伝承することについてどう思いますか。
 
音声・参加者)震災は、考え方や生活の手段など人間の生きていく基本が問われます。きょうの説明を聞いていると、そこをつかんでくれたと思う。それは災害に関わらず、日常の暮らしの中でも生かされると思います。
 
音声・参加者)経験していないことを語り継ぐことができなかったら、戦争や災害など同じように悲しいことが起き続ける。震災を経験していない若い世代が経験している世代から話を聞いて、下に受け継いでいくという活動は有意義だと強く思います。

 
音声・番組ディレクター)この活動に参加してみてどう思いましたか。
 
音声・参加者)僕は、震災の記憶が薄れていっています。当時30代だったのですが、当時の記憶はほとんどないし、語り継ぐこともありません。当事者も年を取っていきます。今後、備えについても考えていかなければならない中で、若者たちが活動してくれるのは良いことだと思います。
 
西村)震災を経験した参加者が当時を語っている場面もありました。世代を超えたコミュニケーションの場になっていますね。平野さん、この活動を始めてみてどう感じますか。
 
平野)僕はこの活動を始めるまで兵庫県にあまり接点がなくて。この活動を始めて、たくさんの人と出会って話を聞くことができました。世代を超えた交流ができる活動はなかなかないと思うので楽しんでやっています。
 
西村)あすパ・ユースのメンバーには、どんな人たちがいるのですか。
 
平野)基本は高校生ですが、高校生のときに参加して現在大学生の人もいます。こないだは小学生の人も入ってきました。さまざまな学校・世代の人たち参加しています。
 
西村)阪神・淡路大震災など生まれる前の震災体験について、家族から話を聞いたことはありましたか。
 
平野)両親が兵庫県出身で、父が長田に住んでいて大変だったという話を聞いたことはあります。活動を始める前は簡単な話しか聞いたことがなかったので教科書で学ぶこととあまり変わりませんでした。
 
西村)あすパ・ユースに参加しようと思ったきっかけは。
 
平野)池田先生が授業で参加を呼び掛けてくれました。面白そうだなと思って参加しました。
  
西村)参加してから気持ちの変化はありましたか。
 
平野)地区のことをもっと知りたいし、もっとうまく喋れるようになりたいです。できれば長く続けたいと思っています。
 
池田)この活動の良いところは卒業がないこと。社会人になった人も来てくれました。所属が変わってもできる活動はなかなかないと思っています。ずっと続けてほしですね。
 
西村)平野さん、震災を経験してきた人から聞いた体験談の中で心に刻まれているエピソードはありますか。
 
平野)乙女塚温泉という温泉があるのですが、被災して設備が壊れて水は止まったけど、温泉のお湯は出たそうなんです。その話がとても印象的でした。地震が起きたときは、「何とかなる」という気持ちが大事と聞いたことがあって。震災が起きて絶望することもあると思いますが、人の温かさを感じることもあると思います。僕も「何とかなる」という精神でいられるようしたいと思いました。語り部活動に参加してなかったらたくさんの大人とかかわる経験もできていないと思います。さまざまな人から話を聞いて交流した経験は自分の糧になると思います。
 
西村)「話を聞いて自分の言葉で伝える」ということをやってみていかがですか。
 
平野)震災の経験を聞くことが僕らにとっては経験になる。それを僕たちの言葉で伝えていくので、普通の語り部(自分の経験を語る語り部)とあまり変わらないと思っています。
 
西村)先ほどの取材音声の中で、この活動に参加した震災経験者が「震災の記憶がだんだん薄れてきている、震災を経験していない人が自ら先頭に立って語ってくれてことはありがたいこと」と言っていました。平野さん、それを聞いてどう思いますか。
 
平野)若い世代が語ることに対して思っていることを聞けてよかったです。
 
西村)世代を超えたコミュニケーションがそれぞれの思いを深め、そして成長させていくのですね。
 
池田)震災体験は、若者だから聞くことができると思っています。今の若者は、みんなコロナを経験しています。コロナの経験を10年後の世代に伝えるとき、罹患したこと以外に自由に移動できなくなったり、マスクが必須になったりした空気感を伝えることが大事。この活動の良いところは、これまで語ってこなかった人に出会えるところです。語り部というと、悲惨な体験を語り継ぐ人が多く、メディアもそんな語り部ばかり取り上げます。でもメディアもアクセスできない人に彼らはアクセスできるんです。「自分の経験なんて語る価値がない」「大変な思いはしていない」という人も多かれ少なかれ大変な思いをしているはず。人と比較するのではなく、ストレートに話してもらう。震災時の些細なことこそ風化しています。被災者は若者に喋りながら「あれもあったこれもあった」と思い出していきます。小さな出来事にもすごく大事なことが含まれているし、そんな空気感が若者に伝わります。それはほかの活動にはないことなのかなと。期待を上回る成果が出ていると思っています。
 
平野)この語り部は、たくさんの参加者と話しながらできるところが良いと思っていて。僕たちが準備して話すことだけでは気付けないことを気づかせてもらえる活動です。
 
西村)わたしもみなさんの活動を聞きに行きたいと思いました。池田さん、今後の活動予定はありますか。
 
池田)語るために学ぶこともしながら、月1回、先ほどの音源のような活動をしています。1月に実施する予定のカフェ企画もあります。これは語り部というよりは、多世代交流する中で、阪神・淡路大震災のことを若者に語ってもらう企画。この企画は、フランクにいろんな話が聞けるので若者にも好評です。成徳地区を対象にしていますが、若者と喋りたい人はふらっと来てほしいです。参加費は無料です。
  
西村)平野さん、この活動を通して今後の目標があれば教えてください。
 
平野)2024年の1月17日にまたいろんな人から話を聞く機会があると思うので、節目は大事にしたいです。この経験を生かしていけたらと思っています。
 
西村)きょうは、若い世代にある阪神・淡路大震災の語り部活動を行う、あすパ・ユース震災語り部隊 代表 池田拓也さんとメンバーの平野遥人さんにお話を聞きしました。

第1419回「防災士資格取得後の課題」
オンライン:岩手大学 名誉教授 齋藤徳美さん

西村)きょうのテーマは防災士です。防災士とは、2003年にスタートした民間の資格で現在、26万人を超える人が取得。しかし、資格をうまく活用できないという悩みも多いそうです。
きょうは、防災士の養成研修講座で講師を務める岩手大学 名誉教授 齋藤徳美さんにお話を伺います。
 
齋藤)よろしくお願いいたします。
 
西村)防災士の資格制度はどのようなきっかけで生まれたのでしょうか。
 
齋藤)阪神・淡路大震災など大きな災害が起きると、行政のフォローだけでは安全の確保が難しくなります。民間の人も防災の知識を持って減災に役立ててほしい。防災士は国の資格ではなく、日本防災士機構が認定する資格です。地球は生きています。風水害も地震も火山の噴火も起きる。自然災害は止めることはできません。わたしたちにできるのは被害を少なくする減災という働きかけだけ。防災士という資格はその取り組みの一環です。
 
西村)防災士にはどのような役割があるのですか。
 
齋藤)災害が起きたときにお互いに助け合う、避難場所の運営を手伝うなどさまざまな危機管理の手助けをすること。災害が起きる前に、安全を確保するための知識を地域の住民に持ってもらいたい。そんな啓発の役割もあります。
 
西村)町内会長さんなどが多く受講しているイメージがあります。
 
齋藤)当時はそのような人々を対象に進めていましたが、特に東日本大震災以降は、一般の人も、「何かしたい」という使命感を持った人が手を挙げるケースが多くなりました。
 
西村)実際に防災士の資格を取得する場合、どのような勉強をするのですか。
 
齋藤)資格を取得するには、防災士教本で自習をしてレポートを提出。さらに2日間にわたって、教本の中の12の講義を対面で受講します。
 
西村)12の講義とはどのような勉強をするのでしょうか。
 
齋藤)災害発生の仕組み、公的機関や企業等の災害対策、自助・共助、防災士制度などの講義を受講します。
 
西村)地震だけではなく、さまざまな災害について勉強するのですね。
 
齋藤)風水害・地震・津波・火山噴火などの自然災害について学びます。
 
西村)その講座は、何時間受講するのでしょうか。
 
齋藤)1コマ約1時間で、2日間受講し、試験を受けます。合格すると防災士の資格が得られます。ただし消防署、日本赤十字社が行っている救急・救命の実技講習も別途、受講する必要があります。
 
西村)自主的に地域の消防署などに行って受けるのですか。
 
齋藤)受講すると証明書がもらえます。
 
西村)おさらいすると、購入した教本で実習して、12時間(6時間×2日間)の講義を受けて、勉強して試験を受ける。さらに地域の消防署などが主催している救急・救命講習の受講も必要なのですね。
 
齋藤)自習後はレポートの提出も必要になります。
 
西村)結構ハードルが高いですね。
 
齋藤)受講生は自ら資格を取ろうと意欲を持った人が多いので合格率は高いですよ。勉強する意欲を持っている人ばかりなので、居眠りもなく、講義をするこちらにも熱が入ります。受験した人はほぼ全員、防災士になることができます。
 
西村)小さい子どもがいる人などは、対面授業の講座のために2日間家を空けるのはなかなか難しいのでは。
 
齋藤)50人の受講生がいれば、講座を開いてくれる自治体もあるので交通費や宿泊費をかけずに受講することもできますよ。
 
西村)それはうれしいですね。自治体からの補助で費用が安くなることもあるのですか。
 
齋藤)東日本大震災以降は、自治体が積極的に防災士を育成しています。自治体の危機管理だけでは啓発も防災の実務的な対応もとても手が足りません。町内会・集落・事業所・学校などで防災士を育成するために、自治体が受講料を負担するケースも多いです。授業料を個人で負担するケースもありますが、自治体主催の場合はほとんど補助されます。
 
西村)大阪府の防災士養成講座について調べてみたのですが、今年度の費用は、受講料、教本代、受験料、登録料も込みで2万2000円とあります。大阪府が防災士を養成しようと呼びかけているようです。防災士の資格を取得した人は、資格をどのようなことに役立てて活動しているのでしょうか。
 
齋藤)資格を取ったものの「どのように役立てたら良いのかわからない」という人も多いと聞いています。資格を取った人を市町村が把握して、危機管理の対応、防災訓練の呼びかけ、避難時の誘導など具体的に動いてもらうことが必要です。岩手県では、津波対策として、避難場所の整備などいろいろなことを地域住民と一緒にやっていかなければ安全の確保が難しいです。防災士の資格を持った人たちに率先して動いてもらって、組織的な体制を作ることを行政に強く呼びかけているのですがまだ十分ではないのが現状です。
 
西村)行政の防災担当が少ないと大きな災害が起きたときに混乱を招いてしまうかもしれませんよね。大阪府が主催している防災士養成講座に参加した人の名簿などがあると思うのですが...。そのようなネットワークはまだ整っていないのですね。
 
齋藤)小さな市町村なら補助をして資格を取ってもらっているので、防災士の情報は掌握できるはずです。自治体が情報を活用するしくみを構築してくれたら、さまざまなことが可能になると思います。
 
西村)個人としてはどのようにつながりを広げていけば良いのでしょうか。
 
齋藤)都道府県ごとの日本防災士会では、資格取得後に受けられるスキルアップの講座があり、地域の防災の講義や訓練への派遣など実行動に結びつけていくことができます。この防災士会は資格を取った人が自ら会費を支払って登録しなければならないのですが、ぜひ資格を取った人は、防災士会に登録して、さまざまな活動に参加してほしいです。
 
西村)年会費はいくらですか。
 
齋藤)全国組織のところは年会費5000円。正直言って少し高いかもしれません。
 
西村)私もそう思いました。
 
齋藤)日本は地震も多発するし、火山も多い。日本列島の面積は地球上の400分の1しかありませんが、地震や火山によるエネルギーは世界の1割近く。災害列島では、国民の命を守るのは国の責任。国が率先して自然災害に対する減災システムに力を入れて、資金的な援助をすることが必要だと思います。
 
西村)南海トラフ巨大地震が近い将来必ず起こると言われている中で、防災士にはどのような役割があると思いますか。
 
齋藤)どんな災害がいつ起きるか、そのときにどうすれば命を守ることができるか。毎日心配していたらとても生活できませんが、災害時にどのように命を守るかは日本列島に住む日本人として身に着けておかなければなりません。普段から災害対策をしておく必要があります。そのために防災士がいろんな役割を果たしてくれるということが期待されます。
 
西村)きょうは、防災士の養成研修講座で講師を務める岩手大学 名誉教授 齋藤徳美さんにお話を伺いました。