第1432回「災害時の医療ボランティア」
取材報告:亘佐和子プロデューサー

西村)きょうの特集では、災害時の医療について考えます。災害が発生した時、医療機関に平常時の何倍もの数の患者が来ることが予想されます。一方で、医療機関のほうはどうでしょうか。
休日や夜間なら医療スタッフは少なく、建物が倒れたり路面が割れたりして道路が寸断され、医師や看護師が出勤できない事態が考えらえます。「病院に医療従事者がいなくて診療ができない」という災害発生直後の状況をどう乗り切れば良いのでしょうか。そのひとつのアイデアとしての「医療ボランティア」について、番組プロデューサーの亘佐和子記者が報告します。
 
亘)よろしくお願いします。
 
西村)災害発生時の病院の状況は本当に大変ですね。
 
亘)電気や水などのライフラインが止まり、地震で機材が倒れたり散乱したりします。医療スタッフが出勤してこられない中、大勢の患者、家族、近所の人たちがどんどん来ます。よく野戦病院のようだと言われますが、本当に大変な状況になります。
 
西村)その場合、どうすれば良いのでしょうか。
 
亘)例えば、災害派遣医療チーム「DMAT」が駆けつけたり、重篤な患者は被災地の外の病院に搬送したり、いろいろな手立てがあるわけですが、そのような助けが入る前、災害発生の当日~翌日ぐらいまでをどう乗り切るか。そのアイデアの一つを紹介します。先月、西宮浜の防災フェスタを取材しました。この防災フェスタは、楽しく学んで災害に備えようということで地元の住民が企画。防災用品・災害時のレシピの紹介、消火訓練、給水訓練などさまざまなコーナーがあり、西宮市役所、消防、警察、自衛隊が参加する大規模なイベントでした。その中で、きょう紹介する医療ボランティアの訓練も行われました。
 
西村)西宮浜といえば、埋立地ですよね
 
亘)西宮市にある人工島です。ヨットで太平洋横断した海洋冒険家の堀江謙一さんのヨットがある新西宮ヨットハーバーがあることでも有名です。西宮浜には約7000人が暮らしています。市の中心部とは、西宮大橋という橋でつながっています。災害が起こったときにこの橋が壊れたり、周辺が浸水したりして通れなくなると、西宮浜は孤立してしまう。実際に阪神・淡路大震災のときは、橋脚が壊れて、通行止めになっていました。この西宮浜には協和マリナホスピタルという中規模の病院があります。ここの医療スタッフはほとんどが西宮浜の外に住んでいます。橋が壊れたら病院に駆けつけたくても来られないかもしれない。しかし、西宮浜に住む医療従事者がいます。西宮浜の外で働いている人、現役引退しているも人もいますが、災害発生時に西宮浜にいるのであれば、その場所で、医療の専門知識を生かしてボランティアができるのではないかと。この医療ボランティアを西宮浜で募集したら、10人以上が手を挙げました。そこで先月の防災フェスタで、顔合わせも兼ねて、初めて模擬診療をやってみようということになったのです。
 
西村)どんな場所でどんな訓練が行われたのですか。
 
亘)防災訓練は、西宮浜義務教育学校で行われました。義務教育学校とは、小学校6年間と中学校3年間の9年間を一貫教育する普通の義務教育の学校。西宮市の指定避難所になっている体育館の中に、診療所を開くイメージで訓練をしました。西宮浜には消防局の浜分署という拠点もあり、消防車も常時1台あるので、消防も訓練に参加しました。患者役をしたのは、島の唯一の病院である協和マリナホスピタルのスタッフ。いろいろなタイプの9人の患者を受け入れるという訓練でした。訓練のようすを聞いてください。
 
音声・患者)胸が痛くて...どうしよう...
 
音声・医療ボランティア)お名前は?
 
音声・患者)〇〇です
 
音声・医療ボランティア)年齢をおしえてください。
 
音声・患者)55歳です。
 
音声・医療ボランティア)歩けますか?
 
音声・患者)少しなら。
 
音声・医療ボランティア)大丈夫ですか?
 
音声・患者)痛い!痛い!
 
音声・医療ボランティア)アレルギーの有無は、意識のあるうちに聞き取らないと聞き取れなくなります
 
音声・医療ボランティア)薬物アレルギーや食物アレルギーはありますか。
 
音声・患者)ないです。
 
音声・医療ボランティア)西宮浜の小学校の体育館です。救急隊がもうじき到着します。
 
亘)「胸が痛い」と言っていたこの女性は、急性心筋梗塞という診断でした。この後、救急隊が実際に到着し、ストレッチャーに乗せて搬送するところまで、訓練をやりました。

 
西村)とても深刻な状況ですよね。
 
亘)途中で「アレルギーの有無は意識のあるうちに聞いておいて」という言葉がありました。これは医師が看護師に言っていることです。今回は患者さんに関わる部分だけを編集していますが、他にも次々いろいろな人がくるので、同時並行で診療を進めていく状況でした。この患者役をした人に感想を聞いてみました。
 
音声・患者役女性)この先どういうふうに運ばれていくのか全くわからなかったので不安でした。最初に声掛けをしてもらって安心はしたのですが。全くイメージができないことが不安でした。

 
西村)顔見知りの看護師や医者もいないから余計にパニックになるでしょうね。
 
亘)避難所の一角で、騒がしい中で診療をしますし。医療スタッフ同士も初めての顔合わせで、どんなスキルがあるのかわからない人とチームを組んでやっていくことになります。患者さん役のインタビューをもう1つ聞いてください。地震の揺れで手をついて骨折してしまった人の役です。
 
音声・医療ボランティア)手首を骨折していますが、固定するためギブスがないのであるもので工夫。ダンボールをサイズに合わせてハサミで切って包帯で固定しています。
 
音声・亘)実際やってみて、不安だったこと、大事だと思ったことはありますか。
 
音声・医療ボランティア)救急で運ばれる患者や心筋梗塞・意識不明状態で運ばれてくる人が立て続けに来ます。優先順位を決めながら、先生と看護師で声かけながら対応していたところがリアル。危機感を感じながらやりました。

 
西村)処置に使うことができるものも限られていますよね。
 
亘)医療資機材がないので、今回はギプスの代わりにダンボールで腕を固定しました
 
西村)ダンボールは使えるのですね。わたしたちも実践しておきたいですね。
 
亘)いろんなものが足りない中で、重篤な患者、心肺停止の患者も来ます。インタビューした人の場合は、命に関わるような怪我ではないので待ち時間が長くて、その横を重篤な優先順位の高い患者さんが通っていく状況。トリアージという言葉が阪神・淡路大震災でもよく知られるようになりましたが、これが災害時の医療のリアルです。そして、今回の訓練で印象的だった事例を聞いてください。
 
音声・医療ボランティア)この人の娘さんが倒れたのですが、意思疎通が難しいようです
 
音声・医療ボランティア)お名前は?
 
音声・認知症患者)は?
 
音声・医療ボランティア)お名前を教えてください。
 
音声・認知症患者)ウ・エ・ヤ・マ!娘が倒れた!わたしどうする。
 
音声・医療ボランティア)娘さんは今どこにいますか。
 
音声・認知症患者)家!
 
音声・医療ボランティア)家はどこ?普段のんでいる薬とかもわからない。何もわからない。
 
音声・医療ボランティア)今まで病気しました?
 
音声・認知症患者)は?聞こえない。わからん。だれ!
 
音声・医療ボランティア)では福祉の方に。
 
音声・認知症患者)え!どこへ行くの!
 
音声・医療ボランティア)歩けないんですね?
 
音声・認知症患者)どこに連れて行くの!
 
亘)認知症で耳が聞こえにくい高齢の女性という設定でした。一緒に住んでいる娘さんが怪我か病気で動けなくなり、パニックになってこの診療所に来たという設定です。この人が災害医療の対象者なのかはわかりませんが、このような人も診療所に来るわけです。この女性に応対した医師役、名演技だった認知症患者役の人に気づいたことを聞きました。
 
音声・亘)この認知症の人に対する情報が全然ないですね。
 
音声・医療ボランティア役男性)紹介できるところもないし。でもこの人をほっとくわけにいきません。
 
音声・亘)お疲れ様でした。名演技でした。訓練をしてみてどうでしたか。
 
音声・認知症患者役女性)自分のことをなにもわかってくれていないので不安でした。認知症で耳も遠い役なので「なに?なに?」という感じでやってみました。
 
音声・亘)普段そういう人たちと接しているのですか。
 
音声・認知症患者役女性)訪問看護をしています。普段からの備えが必要だと思います。外出するときは、身分証明書や大事なことを書いた紙をもっていく。お守りの中に入れておくとか。
 
音声・亘)西宮浜にもそういう人は大勢いるのですか。
 
音声・認知症患者役女性)高齢の認知症の一人暮らしはたくさんいます。スーパーに買い物に行くなど日常生活はできでも、お薬手帳はどこ行ったわからなくなる。
 
音声・亘)地震が起こって、家族が怪我でもしたら...。
 
音声・認知症患者役女性)パニックになると思います。

 
西村)お互い何にもわからないのは困りますよね。
 
亘)お互い不安ですよね。台本では、この人は福祉避難所に行ってもらうことに。でも実際に福祉避難所は開設されているのか。そして誰が決定して、この人を福祉避難所に移送するのか。どうやって連絡を取るのか。課題は山のようにあります。
 
西村)能登半島地震のときも、「福祉避難所が震災で被害を受けて開設できない」というニュースがありましたよね
 
亘)つなぐ相手である福祉担当の人がいるのかもわからない。
 
西村)家で倒れている娘さんも気になりますね。
 
亘)家から出てきて診療所にたどり着いても、家の場所がわからないかもしれない。娘さんを探しに行きたくてもどこかわからない...。そんな中、ほかの患者さんがどんどん来るので、医療ボランティアが娘さんを探しに行くことは不可能ですよね。本人は娘さんのことを気にしながら、福祉避難所に行くことになります。
 
西村)よりパニックな状況が続きそうです。
 
亘)これはもうどうしたら良いのかわからない、というケースです。
 
西村)先ほど患者役をした人から普段からの備えが大切だというお話がありました。身分証明書やお守りの中に大切なことを書いた紙を入れておくというのは本当にいいアイデアですね。
 
亘)連絡先をたくさん入れすぎると捨ててしまったりするので、最小限のものだけを入れて、常に身につけるとことが大事です。災害医療の現場の大変さが感じられる訓練でした。
 
西村)これは震災を経験していない医療スタッフにとっても、大切な経験になりますね。
 
亘)そこに住んでいる医療従事者で何とかしようという発想は思いつきませんでした。
 
西村)これはどなたが発案したのですか。
 
亘)発想の原点は阪神・淡路大震災。発案者は、西宮浜に住む災害医療の第一人者である鵜飼卓さんです。鵜飼さんの阪神・淡路大震災での経験が基になっているアイデアなんです。鵜飼さんは、当時、西宮に住んでいて、大阪の病院に勤務していました。なぜ今回、自分の住む西宮浜で医療ボランティアを立ち上げようと思ったのか、鵜飼さんのインタビューを聞いてください。
 
音声・鵜飼さん)阪神・淡路大震災のときに大阪の病院に行けなくて、西宮の病院で午前中に仕事をして、夕方になって大阪に行こうとしたら、交通渋滞に引っかかって。時間の無駄使いをしました。被災地に住んでいるドクターがどれだけ被災地で働くことができたかというアンケート調査では、働くことができた人はごくわずか。自分の職場に行こうとしたら、10数時間無駄遣いした、1日以上かかったと言う人もいます。この島が孤立したときに、島に住んでいる人間で何とかしなければばらないと思いました。一緒に働いてくれる人が14人集まったので、今回訓練をしました。
 
亘)鵜飼さんは阪神・淡路大震災のとき、大阪市立総合医療センターの救命救急センター長でした。渋滞で病院にたどり着けずに、時間を無駄にしてしまったと感じたそうです。このように、治療のできる医師が渋滞に巻き込まれて病院にたどり着けないというのは、社会にとっても損失です。医療従事者のスキル・知識を適切な場所で生かすにはどうしたら良いのかを考えなければなりません。
 
西村)そのために、今回の訓練が全国に広がっていくと良いですね。
 
亘)今回は、避難所の中に診療所を作るという設定でしたが、島の中にある協和マリナホスピタルとの連携の話も進んでいます。病院に医療スタッフが出勤できない、診療ができないというときに、西宮浜に住む医療ボランティアが協和マリナホスピタルで診療を行うこともできるのではと。
 
西村)その方が患者にとっても良いですね。
 
亘)待合室の椅子、ベッド、医療資機材も使用できる。最低限の機材があるので、診療がやりやすいです。協和マリナホスピタルを使うためには、準備や話し合いが必要。これから話し合いを進めていくとのことでした。
 
西村)今回は、大きな一歩になりましたね。
 
亘)高齢化社会で大きな災害が起こったときに、どのような対応ができるのか。今回の医療ボランティアのように、効率よく助け合うために何ができるのか。みんなでアイデアを出し合っていくことが大事だと思いました。
 
西村)きょうは、番組プロデューサーの亘佐和子記者に報告してもらいました。

第1431回「東日本大震災13年【2】~震災の記憶を世界に発信」
オンライン:震災遺構・門脇小学校 館長 リチャード・ハルバーシュタットさん

西村)ネットワーク1.17では先週から東日本大震災の特集をお送りしています。
きょうは、宮城県石巻市の震災遺構・門脇小学校で館長をしているイギリス人のリチャード・ハルバーシュタットさんにお話を伺います。
 
リチャード)よろしくお願いいたします。
 
西村)リチャードさんは13年前の地震が発生したとき、どこにいましたか。
 
リチャード)石巻専修大学の英語教師をしていたので、キャンパスの研究室にいました。
 
西村)石巻専修大学は海の近くですか。
 
リチャード)内陸の方ですが、北上川に近い場所にあります。それまでに経験したことのない激しい揺れで頭が真っ白になりました。震度6強は立っていられない状態。机をつかんで耐えました。大学は丈夫な建物で揺れに強く、自家発電の電気もありました。町は水浸しになって、自宅に戻ることはできませんでした。
 
西村)リチャードさんは避難生活をしたのですか。
 
リチャード)まず大学で2泊3日ぐらい寝泊りして、ある程度水が引いたら町に戻って避難所に入りました。避難所にいた3月17日頃にイギリス大使館から連絡がきました。
 
西村)どんな連絡がきたのですか。
 
リチャード)携帯のメールに連絡がきたので、安否確認と思って早速連絡したんです。すると、安否確認はもちろんですが、大使館が気にしていたのは、「福島第1原発が爆発する恐れがある」ということ。「関東・東北にいるイギリス国籍の人は、日本を離れることをおすすめしています」という内容だったのです。成田空港から無料のチャータージェットを出すとのこと。でもわたしは被災地から身動きが取れませんでした。バスや電車は全く走っていなかったからです。
 
西村)そのような状況の中で、リチャードさんはどう行動したのですか。
 
リチャード)高速道路は救助や自衛隊の緊急車両しか通れなかったのですが、大使館の車は通行可能だったので、大使館は被災地にいるわたしを迎えに来ようとしました。わたしは石巻から離れることをまったく考えていなかったのでビックリしました。どうしようと悩んで。石巻の友達にどうすればいいか相談しましたが、みんなに「日本は大変だからイギリスに帰った方がいいよ」と言われました。
 
西村)それを聞いてリチャードさんはどう思いましたか。
 
リチャード)すごく混乱しました。大使館の言うことを聞かなくてはならないという気持ちもありましたし。でも、18年間、石巻に住んできて、大切な友達がいっぱいいるのに、みんなが一番困っているときにわたしだけ離れてしまうなんて...と思いました。どうすれば良いのかわからない状態の中、大使館が迎えに来ました。大使館はわたしが悩んでいることをよくわかってくれていて、ひとまず仙台に行って最終決断しようということになったのです。
 
西村)そこでどんな最終決断をしたのですか。
 
リチャード)一晩ほとんど眠れずに悩んで、石巻に残ることを決意しました。
 
西村)なぜ、リチャードさんは石巻に残る決断をしたのでしょうか。
 
リチャード)みんなが一番困っているときに、みんなと運命をともにしたかったのです。恩返しというと堅苦しいですが、ずっと良くしてもらったので。腕力もリーダーシップもないわたしです、一緒にいることはできると思って。残る決意をしました。
 
西村)そんな大きな決断をして、今も石巻市で暮らしているリチャードさんは、東日本大震災の被災のようすを伝える震災遺構・門脇小学校で館長をしています。どんなきっかけで館長に就任したのですか。
 
リチャード)気分転換したいという気持ちがあり、震災から約2年後に大学を自主退職しました。震災前から辞めようと考えていたのですが、なかなか辞める勇気がなくて。でも震災を体験したら辞める勇気が出たんです。「震災で生き残ったのだから、仕事を辞めても何とかなる」と楽観的に考えられるようになって。そんなとき、「これから震災伝承の施設を作るのでそこで働きませんか」と市役所に打診されました。それは今の門脇小学校の施設が出来るまでの仮設的な資料館でした。どのような仕事をするのかもわからないまま、「やってみようかな」と軽い気持ちで引き受けました。しかし、実際にやってみると意外と自分のスキルに合っている仕事だと感じました。わたしは日本語でも英語でもコミュニケーションをとることができますし、教師の経験があったので、人前で話すことには慣れていました。それに石巻市に長く住んでいたので、震災前の石巻のことも知っています。震災も体験している。全て仕事に生かすことができたんです。
 
西村)まさに運命を感じますね。
 
リチャード)そして仮設の施設が閉館後、2022年にオープンした新しい震災遺構・門脇小学校に来てもらいたいという話が来ました。
 
西村)今は館長としてどのような活動をしているのですか。
 
リチャード)施設の維持管理はもちろん、一番大切な仕事は解説の仕事です。有料となりますが、お客さまと一緒に施設を回りながら解説をしています。
 
西村)震災を体験していない若い世代も訪れていますか。
 
リチャード)小学生が多いです。防災教育が重視されているので、宮城県内だけではなくいろんなところから来てくれます。
 
西村)どんなことを伝えているのでしょうか。
 
リチャード)門脇小学校の最大の特徴は津波火災が発生した本校舎です。この近くの建物は、ほとんどが津波によって流されて、水の上に瓦礫が浮いていました。ストーブの転倒、プロパンガスボンベの爆発などにより燃えた瓦礫が、津波の流れによって本校舎にぶつかって津波火事が発生しました。
 
西村)高いところに逃げたら命が守られると思ってしまいますが、学校の屋上に逃げただけでは命を守れないこともあるのですね。
 
リチャード)この施設はとても大切。垂直避難は100%安全とは限りません。ビルの高い階などに逃げることは正しい行動ではありますが、門脇小学校の例のように火事になる場合もあります。校舎に残っていた人たちは、さらに避難しなければならなくなりました。ビルの高い階に逃げた場合は、次の行動を取ることができるように構えておいてください。安心しないでください。ビルの高い階より、近くの高台に逃げた方が安全です。
 
西村)地震発生時、学校にいた児童は無事だったのでしょうか。
 
リチャード)地震発生前に下校していた低学年の児童たちの中に7人の犠牲者が出てしまいました。しかし校舎にいた224人の児童は津波が来る前に裏山に避難して全員無事でした。年に2回、訓練をしていたおかげでスムーズに避難できたのだと思います。
 
西村)リチャードさんは日本語だけではなく、英語でもガイドをしています。震災遺構には、どんな国の人が来ていますか。
 
リチャード)震災遺構に来るのは、ヨーロッパ、アメリカ、オーストラリアの人が多いです。地震がある国の人もイギリスのように地震が少ない国の人も震災や防災に非常に関心があるようです。
 
西村)外国からの来場者はどんな展示を見て、どのような感想を話していましたか。
 
リチャード)日本人と変わらないことについて興味を持っています。「津波はどれぐらい高かったのか」「子どもたちはどのように逃げたのか」など。施設の中にある仮設住宅の展示も関心を集めています。あと、「地震の揺れはどんな感じですか」と地震を体験したことのない外国人に聞かれます。地面が揺れるということは独特なものなのでとても説明しにくいですね。
 
西村)地震を経験したことがない人も、門脇小学校でリチャードさんから英語でガイドを聞くことによって、自分ごとに変わるきっかけになりますね。
 
リチャード)ほかの施設にも、英語のパンフレットはあると思いますが、生の英語での解説は心に残ると思います。
 
西村)東日本大震災から13年が経った今、リチャードさんがみなさんに伝えたいことはどんなことでしょうか。
 
リチャード)門脇小学校は伝承施設。わたしたちは伝承の大切さをいつも主張しています。それは自分たちの苦しみをわかって欲しいからという理由ではありません。日本は、将来的にまた必ず震災が起こるといわれています。わたしたちは、東日本大震災のときに学んだ教訓や体験を伝えていくことで、犠牲者の少ない社会になることを希望しています。日本は震災が多い国なので、ぜひしっかりと備えをしてほしいと思います。
 
西村)リチャードさん、今の内容を英語でも伝えてください。
 
リチャード)KADONOWAKI Elementary School where I work is a facility which is involved in keeping the memories of the Great East Japan Earthquake alive.
And the reason we're doing that is not because we want people to know how much we suffered.
but it's because we think it's very, very important to be aware of the dangers of disasters because earthquakes and tsunami and other natural disasters will definitely happen in the future here in Japan.
And we hope that by transmitting and talking about the things that we went through during 2011, we hope that will help to create a society with as few casualties as possible in the future.
And that's why we want to try and keep the memories alive.

 
西村)thank you very much Richard.
日本語でも英語でも想いを伝えていただき、ありがとうございました。
きょうは、宮城県石巻市の震災遺構・門脇小学校で館長をしているイギリス人のリチャード・ハルバーシュタットさんにお話を伺いました。

第1430回「東日本大震災13年【1】~両親を亡くした大学生の想い」
オンライン:岩手県陸前高田市出身の及川晴翔さん

西村)東日本大震災で親を亡くした子どもは約1800人、そのうち両親を亡くした子どもは241人います。
きょうは、小学1年生のときに両親を亡くした岩手県陸前高田市出身の及川晴翔さんにお話を聞きます。及川さんはその後、おばあちゃんに育てられ、現在は東北学院大学の2年生。今年、成人の日を迎えたということです。
 
及川)よろしくお願いいたします。
 
西村)及川さんは、13年前の東日本大震災発生当時は、小学1年生だったそうですね。陸前高田市は、甚大な津波の被害を受けた場所です。地震発生直後はどんな状況でしたか。
 
及川)小学校の帰りの会の最中に地震が発生して、高台にある老人ホームまでクラスのみんなと一緒に走って避難しました。2つ上の兄も同じ場所を目指して走っていたと思います。
 
西村)地震が起こったときの気持ちや、周りのようすは覚えていますか。
  
及川)何が起こったのかわからなかったです。先生や周りのみんなに「逃げろ!」と言われたから、必死に逃げました。
 
西村)お兄さんや家族と会うことはできましたか。
 
及川)お兄ちゃんとは避難所で合流できました。その少し後に、おじいちゃんとおばあちゃんが車で来てくれました。
 
西村)どれぐらいの時間、高台の老人ホームにいたのですか。
  
及川)避難が終わった後から1泊して、次の日までいました。
 
西村)おじいちゃんとおばあちゃんの顔を見たとき、どんな気持ちだったか覚えていますか。
 
及川)何か良くないことが起きているということは何となく理解していたので、安心したのを覚えています。
 
西村)地震発生直後は、お父さんとお母さんはどうしていたのですか。
 
及川)お母さんは、老人介護の仕事をしていたのですが、その日が夜勤明けで、夕方まで家で休んでいました。お父さんはお母さんのことが心配で、仕事先から家に戻ったそうです。自分とお兄ちゃん、おじいちゃん、おばあちゃんの4人は病院の避難所に移動しました。おじいちゃんは肺が悪く、酸素吸入が必要だったので。その後は、お父さんとお母さんが迎えに来るのを避難所で待っていました。
 
西村)待っているときはどんな気持ちでしたか。
 
及川)「早く迎えに来てくれないかな...」という気持ちだったと思います。何日か待っていましたが、迎えには来ませんでした。
 
西村)その後、お父さんとお母さんが亡くなったことをどのように受け止めたのですか。
 
及川)両親が亡くなったという知らせは、避難所にいるときにおばあちゃんから聞いたと思います。
 
西村)それは何日後ぐらいでしたか。
 
及川)詳しい日時は覚えていません。両親の遺体が発見されましたが、両親が亡くなったということをまだ理解できていなくて、お葬式のときは、「みんなで集まって何をしているんだろう」と思っていました。
 
西村)お兄さんはどんなようすだったか覚えていますか。
 
及川)あんまり覚えていないです。
  
西村)その後、いつ頃にお父さんとお母さんが亡くなったことを理解したのですか。
 
及川)小学校3~4年だと思います。歳を重ねるうちに理解していきました。
  
西村)お父さんやお母さんを亡くした友達と、お父さんやお母さんが亡くなったことについて話をすることはありましたか。
 
及川)そのような話はしなかったと思います。
 
西村)及川さんのお父さんとお母さんはどんな人でしたか。
   
及川)ふたりとも優しい人でした。
 
西村)お父さんやお母さんとの思い出を教えてください。
 
及川)夏休みにお兄ちゃんと自分とお父さんの3人で、早起きしてカブトムシやクワガタを取りに行きました。サッカーも教えてくれました。幼稚園のときは、海水浴場に遊びに行きました。休日は一緒にゲームをしたり、勉強を教えてくれたりしました。
 
西村)震災後、両親に変わって、及川さんと2つ上のお兄さんを育ててくれたのが、おばあさまの五百子(いよこ)さん。そのとき、おじいさまはどうしていたのですか。
 
及川)肺が悪かったおじいちゃんは、震災から2年後の2013年に亡くなりました。それまでは自分とお兄ちゃんを車で送迎してくれたり、勉強を教えてくれたりしました。
 
西村)おばあちゃんはどんな人ですか。
 
及川)とても優しいおばあちゃんです。自分とお兄ちゃんをここまで育ててくれた親のような存在です。2人分のお弁当を毎朝作ってくれていました。
  
西村)おばあちゃんからかけられた言葉で、印象に残っている言葉はありますか。
 
及川)「悪いことはしないで」「優しい人になりなさい」と言われていました。
 
西村)温かい言葉ですね。今年20歳になった及川さんは「二十歳のつどい」で、おばあちゃんに感謝の言葉を伝えたそうですね。どんな言葉を伝えたのですか。
 
及川)「自分をここまで育ててくれてありがとう」ということと、「大学を卒業して自分で稼ぐようになったら、ラクさせてあげるからね」という話をしました。
  
西村)その話を聞いたおばあちゃんは、どんなようすでしたか。
 
及川)安心したようで少し泣きながら、「ありがとう」と言っていました。
 
西村)及川さんは現在、東北学院大学2年生で、今は、陸前高田市から離れて暮らしています。及川さんは、将来はどんなふうになりたいですか。
 
及川)今は、将来就きたい仕事は明確にはなっていませんが、何らかの形で陸前高田市に貢献できたらと思っています。
 
西村)今はどんな勉強をしているのですか。
 
及川)大学で地域学を専攻しています。
 
西村)地域学を専攻しようと思ったきっかけは。
 
及川)高校の総合学習の中で、グループで進めていく授業があり、地域の発展・復興について考えていたからです。
  
西村)高校生のときは、どんなアイディアを出していたのですか。
  
及川)陸前高田市の特産品にリンゴがあります。海洋学科で作っているパンが人気だったので、そのパンにリンゴやわかめなどを練り込んで売ってみようと考えました。自分たちで試作・試食して、町のイベントで販売したこともあります。
  
西村)地域学では、どんなことを学んでいるのですか。
 
及川)地域の発展・復興から産業・福祉まで幅広いジャンルについて勉強しています。3年生からは、ゼミで自分が学びたい分野を専攻する予定です。地元が好きなので、地元に帰って陸前高田市に貢献できたら。復興は進んではいますが、まだ空き地が多く、人が少ないです。もっと建物や人が増えて、元気で活発な町になったらいいなと思います。
 
西村)東日本大震災から明日で13年になろうとしています。津波で両親を亡くしたことについて改めてどう思っていますか。
 
及川)小学校1年生からずっと両親がいない状態なので、それが日常になっていますが、小学生や中学生のときは寂しかったです。でもこれからは、お父さんもお母さんも天国から見守ってくれていると思うので、両親に誇れるような大人になりたいです。
 
西村)おばあちゃんには、改めてどんな想いを伝えたいですか。
 
及川)1人で自分とお兄ちゃんの子育てをしてくれたおばあちゃんは、本当に大変だったと思います。自分が特に大きな病気も怪我もせずに健康に成長してこられたのは、おばあちゃんのおかげです。「これから恩返ししていくから長生きしてね」と伝えたいです。
 
西村)リスナーに伝えたいメッセージはありますか。
 
及川)地震や津波はいつどこで起きるかわかりません。対策や心構えをして、忘れないでいて欲しいと思います。
 
西村)明日、13年目の3月11日はどこでどのように過ごす予定ですか。
 
及川)両親の墓参りに行った後に、献花台に献花をしに行きます。
   
西村)お墓の前で、お父さんとお母さんにどんなことを伝えますか。
 
及川)「成人したよ。これから頑張っていくので、見守っていてください」と伝えようと思います。
 
西村)明日で東日本大震災から13年を迎えます。
きょうは、震災で両親を亡くした岩手県陸前高田市出身の及川晴翔さんにお話しを伺いました。

第1429回「能登半島地震2か月~子どもの居場所とケア」
オンライン:NPO法人カタリバ 稲葉将大さん

西村)能登半島地震の発生から2ヶ月が経過しました。避難生活も長期化していく中、子どもへの支援やケアについて聞きます。現地で支援活動を続けているNPO法人カタリバの稲葉将大さんです。
 
稲葉)よろしくお願いいたします。
 
西村)NPO法人カタリバは、東日本大震災をきっかけに2019年に立ち上げた「sonaeru」という活動を通じて被災地に入り、支援を続けています。災害時の子どもの支援をメインに取り組んでいるとのこと。能登半島地震では、いつごろ被災地に入ったのですか。
 
稲葉)「sonaeru」チームは、1月3日に石川県・七尾市に入りました。
 
西村)七尾市は震度6強を観測し、1万4000棟の住宅被害が出ている地域ですね。早めに現地に入ったのですね。
 
稲葉)まずは、どのような支援が必要かを避難所で聞きました。
 
西村)七尾市の町のようすはいかがでしたか。
 
稲葉)七尾市の矢田郷地区コミュニティセンターの周辺は、一見、被害があまり多くないように感じられたのですが、少し外れたところには、被害を受けた家屋が多くあり、断水で生活が難しい人が避難所にたくさんいる状況でした。
 
西村)そんな中で、子どもの支援はとても大切ですね。子どもたちが安心して過ごすことができる「居場所」を作っているそうですね。
 
稲葉)子どもたちが安心して過ごせる「居場所」を県内に7ヶ所、運営しています。奥能登では、珠洲市や輪島市、また2次避難者向けに金沢市や加賀市でも運営しています。七尾市のコミュニティセンターの図書室に「居場所」があります。体を動かすことができる「のびのびゾーン」では、小さいミニトランポリンや縄跳びを用意しています。図書室の立地を生かした「もくもくゾーン」は、勉強したり、塗り絵をしたり、静かに座って何かをするときに使う場所です。ほかにも小さい子どもから中高生まで遊べる小上りのようなスペースがあり、そこではボードゲームやトランプを用意しています。図書館なのでたくさん絵本があるので、絵本を読んで過ごす子も。子どもたちが安心安全に楽しく過ごせる場所です。
 
西村)何人ぐらいの子どもが利用しているのでしょうか。
 
稲葉)1日平均20人前後の子どもが利用しています。年齢は10歳以下の子どもが最も多く、幼稚園・保育園に通う4~6歳の子どもも多いです。3歳以下の子どもは保護者同伴でお願いしています。
 
西村)どの時間帯や曜日に利用できるのですか。
 
稲葉)学校が再開していないときは、9~17時に開設していました。2月の中旬からは授業が平日午後までとなったので14~18時に時間変更し、休日は11~18時で運営しています。
 
西村)仕事が再開した保護者にとっては、休みの日に子どもと一緒に過ごしたい気持ちはあるけれど、家のこともやらないといけないので、土日も開設しているのはすごくありがたいことだと思います。
 
稲葉)復旧作業家の片付けで、子どもを預けたい人が多く、子どもたちも遊ぶ場所がなかなかない状況。土日だけでも思い切り遊ばせたいと「居場所」を利用する人が多いです。
 
西村)利用できるのは、避難所にいる人限定ですか。
 
稲葉)地域の人も利用可能です。
 
西村)被災した子どもたちはいろいろな心の変化があったと思います。地震発生当初は、子どもたちはどんなようすでしたか。
 
稲葉)地震発生当初は、子どもたちは、慣れない生活が始まることに対して強いストレスを感じていました。それは子どもたちと話す中で、子どもたちの表情から感じ取ることができました。すごく緊張した表情で「居場所」の利用を始める子どもが多かったです。地震のときのようすをポツリポツリと話し出す子も。その後、スタッフとの関係性を築くことができると、無邪気に遊ぶようになりました。
 
西村)子どもたちは、どんな地震の話をしたのですか。
 
稲葉)「家族と車中泊をした」「津波の警報のアラームが鳴って怖かった」などの話をよくしていました。「居場所」で出会った子どもたちの家は、一部損壊、半壊が多かったのですが、津波の警報が鳴ったため、高台に車で逃げて避難生活を送ったそうです。何が起こるかわからない怖さや寒さで不安だったと思います。
 
西村)余震のアラームが鳴ったときの子どもたちのようすはどうでしたか。
 
稲葉)アラームの音に対して過剰に反応するようすがよく見られました。パニックになって大泣きしてしまう小さい子どもやそれを見て戸惑う子どももいました。
 
西村)子どもたちは、お昼寝はできていたのでしょうか。夜も眠れていたのかすごく心配です。
 
稲葉)「居場所」を利用している子どもたちは日中たくさん遊ぶことができて、夜はぐっすり寝ているという話を保護者から聞いています。
 
西村)居場所に来る前は、ストレスで眠れなかった子どもたちもいたのでしょうね。
 
稲葉)集団生活で他の人の存在や音が気になって眠れないという話はよく聞きました。自宅に戻ってからもが保護者の近くにいないと眠ることができない小学生もいたようです。
 
西村)震災後、2週間ほど経った頃は、子どもたちのようすにどんな変化がありましたか。
 
稲葉)「居場所」の利用に慣れてきていろんな遊びが始まりました。ミニカーのおもちゃで津波ごっこをしたり、ダンボールを揺らして地震ごっこをしたりする子どももいました。東日本大震災当時に現地で聞いたことがあるのですが、子どもは津波ごっこなどを通して現実を受け入れていくそうです。そのようすをしっかりと見守りたいと思います。「しっかりと逃げられたね」というような声かけをしています。
 
西村)学校や幼稚園・保育園が再開したとき、子どもたちの心や表情に変化はありましたか。
 
稲葉)友達や先生と久々にオンライン上で顔を合わせることができて、うれしそうな表情をしていました。しかし、中には生活の環境やリズムが変わることで、疲れてしまう子もいました。
 
西村)地震から2ヶ月が経った現在は、子どもたちのようすはいかがですか。
 
稲葉)「居場所」を利用しているときは元気に遊んでいて、大きな変化はありません。ふとしたときに疲れた表情を目にする場面はあります。小さい子どもは「おんぶして」「抱っこして」など甘えたがる子が増えた印象です。
 
西村)保護者も忙しくなり、心の余裕がなくなってきた影響もあるのかもしれませんね。
 
稲葉)そのような背景もあると思いますが、2ヶ月近く支援を行う中で、スタッフと子どもたちの関係性ができて、スタッフと一緒にいると安心できる子どもが増えたことも要因だと思います。
 
西村)子どもたちがカタリバのみなさんに心を許しているということを実感します。今後は、どのような支援が必要だと思いますか。
 
稲葉)今度の支援については、今考えているところです。何が必要かまだまだわからないところがありますが、子どもたちの心や体のケアが必要だと思います。運動できる機会も減っていますし。子どもたちの支援は、さまざまな面で長期的に必要だと思います。
 
西村)子どもたちの「居場所」は、子どもたちや保護者にとっても大切な場所だと思います。
きょうは、能登半島地震の被災地で支援活動を続けているNPO法人カタリバの稲葉将大さんにお話を伺いました。

第1428回「冬の地震 寒さへの備え」
ゲスト:国際災害レスキューナース 辻直美さん

西村)元日に発生した能登半島地震では、電力などのライフラインが途絶える中、厳しい寒さが被災者を苦しめました。29年前の1月17日には、阪神・淡路大震災が発生し、東日本大震災が発生したのは3月11日でした。冬場に大きな地震が発生すると揺れや津波から逃れられたとしても、寒さが原因で命を落としてしまうことがあります。
きょうは、冬の災害時に命を守る「寒さへの備え」と健康を維持するための避難所での過ごし方について、国際災害レスキューナースの辻直美さんにお話を伺いきます。
 
辻)よろしくお願いいたします。
 
西村)能登半島地震では、避難所での寒さが問題になっていますね。
 
辻)寒さ対策のテクニックや知識を得ることが必要です。暑さはどうにもならないことがありますが、寒さは、あるものを組み合わせて暖を取ることができます。
 
西村)知識の備えも大事ですね。寒い時期は、健康被害へのリスクも高くなりますか。
 
辻)近年、低体温症が問題になっています。低体温症は命に関わる重い病気。でも回避できる方法はあります。
 
西村)特に注意が必要なのはどんな人ですか。
 
辻)高齢者です。寒さに鈍感になりがちなので、体が冷えているということに自覚がなくなります。
 
西村)なぜ鈍感になるのですか。
 
辻)代謝が悪くなるからです。血流が悪い人は手先が冷えています。たくさん着込んでも、今度は温かくなったことがわからなくて、脱水症状になることもあります。
 
西村)気をつけてあげないといけないですね。
 
辻)声掛けが大事です。「寒くない?」「暑くない?」と聞いてあげましょう。
 
西村)低体温症の症状について詳しく教えてください。
 
辻)体の表面ではなく、内臓など身体の深部の体温が35度以下になる症状です。身体に触れるとすごく冷たいです。じわじわと体温が下がるので、本人はあまり自覚がないことが多いです。
 
西村)家族でなければ手を触れたりする機会はないかもしれません。見た目でわかる症状はありますか。
 
辻)シバリングと言って、悪寒で歯がガチガチと震える症状が現れます。体が冷えたときは、筋肉を思いっきり震わせて熱を発生させようとするからです。そうなるとすぐに対応しなければなりません。ボーっとする、吐き気・めまいがする人も。
 
西村)脳にはどんな症状が現れますか。
 
辻)思考が明確ではなくなり、受け答えがゆっくりになります。同時に痛覚や暑い・寒いも鈍感になります。周りの人がつねったり、叩いたり、さすったりして声をかけないと判断ができないこともあります。
 
西村)1人で在宅避難している人や1人で避難所にいる人は、自覚がないまま進行してしまうこともありますね。
 
辻)症状が進むと死に至ることもあります。防災はモノを買うことだけではなく、基本はまずコミュニケーション。ええ感じの人になりましょう。ええ感じの人って心に残りますよね。そんな人が、返事がないとか、見かけないことがあると気になって助けに行くでしょう。挨拶しても返事を返してくれない人はダメです。家庭でも同じこと。家族間でも外でも声をかける・かけられることで自分の存在をわかってもらうことは防災の基本です。
 
西村)声かけてもらったらきちんと受け止めて、笑顔で返すことも大事ですね。
 
辻)ええ感じの人になると助かる率が上がります。挨拶や声かけは家族間、自分自身にも大事。自分自身に対しても無理していないか声をかけましょう。
 
西村)災害時は無理しがち。「わたしよりもっと大変な人がいるから」と我慢してしまう人も多いですよね。
 
辻)無理すると結局、人に迷惑がかかります。7~8割ぐらいで頑張ればいい。無理をしないことです。
 
西村)高齢者には、声掛けが必要。自覚がある人は周りにヘルプを出す。
 
辻)「みんなも寒いよね?」ではなくて、「わたし寒いです!」って言ってください。
 
西村)その一言が命を救うのですね。震えている人には毛布をかけたら良いですか。
 
辻)まずは、温めること。毛布で覆うのも良いですがアルミのレスキューシートも便利です。でも元々冷えている人はレスキューシートをかけただけでは温まらないんです。
 
西村)平常時に一度レスキューシートを使ってみたことがあります。結構温かかったですが、これは体温がある人の場合なのですね。
 
辻)体温が下がっている人は血液が冷たくなっています。血液は、体の表面に近いところにある静脈と動脈が外の空気と触れて冷えます。熱中症は反対。なので、熱中症のときに冷やすところを逆に温めれば良いわけです。
 
西村)どこを温めたら良いですか。
 
辻)首の後ろ・脇の下・足の付け根・手首・足首です。一部だけあたためても意味がありません。首の後ろだけ温めても、冷たい血液がぐるっと体を回って首の所に戻ったときにはもう冷たくなっています。原始的ですが、首の後ろ→脇の下→足の付け根...という風に中継リレーをすることです。
 
西村)5つの中継点をしっかりと温めれば良いのですね。温めるときのポイントや温めるときに便利なものはありますか。
 
辻)新聞紙やざらばん紙を手でくしゃくしゃにして、手首・首・足首・腰などに巻いてください。それだけで温かくなります。
 
西村)くしゃくしゃにするのがポイントですか。
 
辻)くしゃくしゃにして、紙の繊維をたち切ることで、新聞紙の中に空気のミルフィーユが作られます。繊維の周りに空気を取り込んだ紙が血管のある皮膚に当たることで温かくなります。その上にアルミホイルやゴミ袋を巻くと熱が逃げません。タオルやストール、マフラーでも良いです。
 
西村)他にも何か使えるものはありますか。
 
辻)どこの家にもある45Lのゴミ袋を服と服の間に着てください。一番外側ではなく、洋服を着ている上に袋をかぶって、その上にもう1枚アウターを着てください。そうすると自分の体の熱を外に逃がさないので温かくなります。
 
西村)非常用持ち出し袋の中にゴミ袋・新聞紙・アルミホイルを入れておくと良いですね。
 
辻)わざわざ災害用に買ってくるのではなく、家の中にあるもので防災グッズを作りましょう。
 
西村)意外と使えるものがたくさんあるのですね。
 
辻)わたしは、防災リュックには、家の中にあるものを詰め込んでいますよ。だから使ってもすぐに補充ができます。日頃から使っているので、使い勝手がわかっているものばかり。自分の使い心地の良いものしか入っていません。選び抜かれたものが自分を守ってくれるという安心感があります。
 
西村)普段使い慣れているものが入っていると心強いですね。
 
辻)例えばちょっと高級なカレーとか。大きな災害のときだけではなく、日常生活の中でも気持ちを上げてくれるものを入れています。災害時は、体だけではなく心も冷えます。心を温めるために、好きな香り・好きな味などを準備しておきましょう。
 
西村)それは、在宅避難でも避難所でも同じですね。
 
辻)今回の能登半島地震で、「避難所には何もない」ということがわかったと思います。床と屋根しかありません。避難所には、必ず自分の場所があって、全てが用意されていると思っている人が多いですが、1人1人に毛布があるかはわからない。まして、それぞれのニーズに合わせた寒さ対策は用意されていません。全部自分で何とかするしかないのです。
 
西村)避難所で健康に冬に過ごすためには、ほかにどんなものが必要ですか。
 
辻)温かいご飯が食べられる環境づくり。冷たいものばかりを食べていると本当に身体が冷えます。キャンプグッズや固形燃料、カセットコンロなど調理グッズがあれば良いですね。自分1人で用意して食べるのも気が引けると思うので、周りの人も一緒に鍋をするとか。そこでまた絆もできると思います。1人で何とかするのではなく、周りを巻き込んでみんなで復興していくことです。
 
西村)1人で避難所にいるおじいちゃんやおばあちゃんにも声をかけてあげて。
 
辻)避難所には自分の気持ちを出さないようにしていて、声をかけられても泣くこともできない人が多いです。人の心に触れて、温かいものを食べて、新聞紙を巻いて体が温かくなってくると、女性はたいてい泣きますが、男性は怒り出します。それがやっと心が溶けたサイン。やっとイライラできたのだなと思います。
 
西村)温かい食べ物を食べて、みんなでワイワイと話すことは、心を溶かす防災なのですね。
 
辻)心が溶けると泣く・怒るという感情表現になることを知っておけば、自分が今度は不安にならない。怒りだした人には背中をさする、なでる、手をにぎる、目を見て「大丈夫」と声をかける。不安が取り除かれると次は泣きます。泣いたときは、そばで話を聞いてあげると今度は笑い出します。
 
西村)心を保つための知恵があれば、心も体も健康に、寒さから命を守ることができますね。
 
辻)それらは救援物資では来ません。だから自分で用意しておきましょう。わたしが考案した「3・3・3の法則」というものがあります。最初の3は、「3秒嗅ぐ」。好きな香水などお気に入りの香りを探しておいてください。その香りを嗅いだだけで、3秒で気持ちを切り替えることができます。次の3は「3分触る」。ふにゃふにゃ・プチプチしているものなど触ったら落ち着くものを3分触ってください。最後の3は「30分見る」。推しの写真や漫画・小説・絵本・写真...何でも良いです。PCやスマホなどのデジタルではなく、アナログなものを用意しておきましょう。普段からそういうものを使ってイライラしたときに心が落ち着く成功体験をしておくことが大事。大きな地震や災害が起きて、不安になったときに役立ちますよ。
 
西村)「3・3・3の法則」を日頃から試して、災害時にも役立てたいです。心も体も温めて、健康に過ごしていきたいと思います。
きょうは、国際災害レスキューナースの辻直美さんに、冬の地震への備えについてお聞きしました。

第1427回「南海トラフ地震 大阪に津波が来るのはいつ?」
取材報告:MBS報道情報局 福本晋悟記者

西村)きょうは、今後必ず起こる南海トラフ地震の津波についてです。「地震が起こっても、津波が来るまでには時間がある」と思っている大阪在住の人にぜひ聞いていただきたいです。
スタジオにMBS報道情報局 気象災害担当 福本晋悟記者に来ていただきました。
 
福本)よろしくお願いいたします。
 
西村)南海トラフ地震の津波では、大阪駅の周辺でも浸水が予想されていますね。
 
福本)南海トラフ地震の津波は、「徳島県や和歌山県には大きな津波が来るけど、大阪府には大きな津波は来ない」と思い込んでいる人もいると思います。でも最悪の場合、大阪駅周辺でも津波による2mの浸水が想定されています。
 
西村)「海から離れているから大丈夫」というわけではないのですね。
 
福本)浸水するエリア・浸水の深さ・津波が来る時間などが書かれている津波ハザードマップがみなさんの自宅にも届いていると思うので確認してください。
 
西村)南海トラフ地震が起きた場合、大阪には何分後ぐらいに津波が来ると書かれているのですか。
 
福本)大阪府の南部に津波が来るのは、地震から約1時間後と書かれています。大阪市内は、住之江区で110分後と書かれています。ただ、これは最初の津波が来る時間ではありません。この時間は1mの津波が来るまでの時間。つまり、数10cmの低い津波はもっと早く来るということは書かれていないのです。
 
西村)110分後と書かれていたら意外と余裕があると思ってしまいますがそうではないのですね。
 
福本)大阪市のハザードマップが手元にあるので見てみましょう。
 
西村)「南海トラフ巨大地震による津波(+1m)は発生後、110分で大阪市域に到達すると予想」と小さい字で書かれていますね。
 
福本)これは1mの津波は110分後に来ると意味です。大阪市、大阪府・岬町、大阪府・泉南市は1mと書かれていますが、ほかの9つの市と町には、書かれていません。
 
西村)例えばどこですか。
 
福本)例えば関西空港がある泉佐野市です。津波到達時間は何分後と書いてありますか。
 
西村)津波到達時間81分後。最大津波水位3.8mと書かれています。
 
福本)津波到達時間81分後と書かれていますが、何mの津波が来るのかは書かれていません。これは1mの津波が来るまでの時間です。津波到達時間81分後と書いてあると、最初の津波が来るのが81分後だと思ってしまいませんか。
 
西村)はい。結構時間に余裕があると思ってしまいます。
 
福本)ハザードマップに書かれている津波到達時間は、多くの場合「1mの津波が来るまでの時間」となっています。では1mの津波はどれくらい危ないと思いますか。
 
西村)東日本大震災では数10mの津波が来たので、1mはそこまで危ないと思わないかも...。
 
福本)国の資料によると、1m以上の津波に巻き込まれた場合、ほとんどの人が亡くなるとされています。東日本大震災では5~数10mの津波が来たので、1mと聞くと低いように感じるかもしれませんが1mはわたしたちの腰の高さくらいです。
 
西村)1mって結構高いですね。
 
福本)ものすごい速さと圧力の水がやってくるのですから、1mの津波でも流されてしまうと命を落としてしまいます。普通の波と津波は全く違うもの。ハザードマップ書かれている「1mの津波」とは、命を落としてしまうというレベルの津波です。1mの津波が来るまでの時間がハザードマップに書かれているということは、低い津波はもっと早く来るということ。大阪府は、2013年に、市ごとに1mの津波が来る時間と20cmの津波が来る時間の両方をデータとして公表していました。しかし、20cmの津波が来る時間はハザードマップには反映されていません。大阪の住之江区に1mの津波が来るのは110分後とされています。では、20 cmの津波は地震から何分後に来ると思いますか。
 
西村)20 cmの津波は大人の足首ぐらいの高さですよね。もっと早く来ると思うので80分後ぐらいでしょうか。
 
福本)正解は68分後です。1mの津波より42分早く来ると想定されています。
 
西村)予想より早いですね。
 
福本)関西空港のある泉佐野市では、1mの津波は81分後、20cmの津波は31分後に来ると想定されていて、50分も差があります。この時間差を聞いていかがですか。
 
西村)もっと早く逃げなければと思います。80分もあるのなら、子どもを迎えに行こうとか、おやつを取りに帰ろうとか、買い物に行っておこうとか...と思ってしまいますが、そんな余裕は全くないですね。
 
福本)大阪市内には、地震が起きてから110分後に津波が到達すると思っている人が多いと思います。子どもを学校に迎えに行く、防災用品を家に取りに行く、近所の人を助けに行くなどの想定をしているかもしれません。でも実は20cmの津波は、数10分後には来るということが公表されていたんです。地震が起きてからの行動を改めて考える必要があります。では、20cmの津波はどれくらい危ないのか。大人ならどうなると思いますか。
 
西村)大人なら踏ん張ったら流されずに耐えられるのではないでしょうか。
 
福本)20~30cmの津波がどれくらい危ないのかを、東京・中央大学理工学部で津波の研究をしている有川太郎教授の実験施設で体験してきました。わたしは身長182cm・体重が82kgあります。足元に20~30cmの津波を約10秒間再現してもらいました。
 
西村)20~30cmの津波はどれぐらいの高さがありましたか。足首ぐらいでしょうか。
 
福本)水しぶきも出るので、膝まではいかないぐらいの高さでした。その津波に10秒間おそわれました。踏ん張ろうと思ったら踏ん張ることはできたのですが、左足が後ろに50cmほど流されていきました。
 
西村)それぐらいの勢いがあるのですね...。
 
福本)たった10秒間だったので、どうにか踏ん張ることはできたのですが。身長152cmの女性スタッフにも体験してもらったところ、1秒も踏ん張ることができずに流されてしまったのです。
 
西村)小柄の女性や子ども、高齢者や足腰の弱い人は流されてしまいますね...。怖いな。
 
福本)次に40~50cmの津波も体験してみました。40~50cmの津波は、津波が来るとわかっていても踏ん張ることもできずに流されてしまいました。津波の高さは膝くらいでした。
 
西村)そんなに恐ろしいとは。体験しないとわからないですね。
 
福本)実験では津波が前から来るとわかっている状態で、たった10秒間。でも実際の津波は、いつ来るかわからないし、時間も数10秒では収まりません。津波から逃げているときは、後ろ側から津波が来てもっと危ない。きれいな水だけではなく、物や車なども流されてきます。避難するときは、絶対に津波に襲われてはいけないということを改めて感じました。海水浴場などにいる人が、海の様子を見ようととどまってしまった場合、1mの津波より早く20~30cmの津波が来て、津波におそわれてしまう可能性があります。
 
西村)昔、ニュースの映像で、津波注意報が出ているのに釣りを続けている人がいましたね。
 
福本)去年12月にフィリピン沖で大地震があり、愛知県・和歌山県・徳島県などに津波注意報が出ました。愛知県の沿岸地域で、大勢の人が海に足をつけた状態で釣りをしていました。市の防災担当の人が避難するように言ったのですが、釣りをしていた人は避難しなかったそうです。幸いそのときは大きな津波が来ませんでしたが、20~30cmの津波の怖さを知っているので、あのような行為は絶対やめるべきだと思います。
 
西村)20~30cmの津波でもこれだけ怖いのに、ハザードマップには1mの津波のことしか書かれていないのはなぜですか。
 
福本)20~30cmの津波について、ハザードマップに載せることは難しいそうです。それについて、泉佐野市に取材をしました。現在のハザードマップには20~30cmの津波のことは載っていないのですが、ひとつ古いハザードマップには載っていたんです。
 
西村)なぜ今のハザードマップには載っていないのですか。
 
福本)割愛した理由は3つ。1つ目は、防災ハザードマップの情報量が増えたという点。高潮・洪水・ため池決壊...などたくさんのハザードマップがあります。泉佐野市ではハザードマップは冊子になっていて、約40ページもあります。
 
西村)結構ありますね...。
 
福本)津波に使えるページ数にも限界があります。そんな中、20~30cmの津波の情報は割愛せざるを得なかったのです。2つ目は、防災情報をなるべくシンプルにわかりやすく伝えたいという理由。たくさんの津波到達時間を載せるのではなく、1mの情報だけを載せた方がわかりやすいからです。3つ目は、20~30cmの津波の浸水想定地域を載せると、海水浴場や沿岸地域だけになってしまうという理由。20~30cmの津波の浸水想定地域だけをマップにしてしまうと、「うちの家は大丈夫」と思う可能性があるので、大きな被害が出ると想定されている1mの津波の浸水想定地域のみを載せています。それに合わせて、1mの津波が来るまでの時間をハザードマップ上に載せています。なので、泉佐野市なら、津波到達時間81分後と書かれているのです。
 
西村)その話を取材で知って、どう思いましたか。
 
福本)インターネットのハザードマップなら、さまざまな想定で調べることができますが、住民に紙で配るハザードマップにあれもこれも載せるわけにはいきません。掲載する情報を厳選しなければならない。防災担当の人の苦労が垣間見えました。全ての情報を載せて、辞書のような分厚いハザードマップを作ることは得策ではないと思います。
 
西村)分厚いハザードマップは読み辛いですね。
 
福本)ハザードマップに書かれている津波到達時間は、あくまで1mの津波が到達する時間。20~30cmの津波はもっと早く来るということを啓発する必要があります。20~30cmの津波は、1mの津波より30分以上早く来るということを知った上で、地震が起こったらすぐ避難する。警報が出たらすぐ避難する。これは、大阪のみなさんが南海トラフ対策でできることだと思います。
 
西村)「すぐに避難する」という基本に立ち返って、頭に置いておかないといけませんね。
 
福本)東日本大震災のときのような大きな津波ではなければ、被害が出ないと誤解している人もいるかもしれません。今回の取材を通して、1mの津波は命を落とすレベル、20~30cmの津波でも流される、命を落とす可能性が十分あるということがわかりました。実は大阪府は、来年度をめどに、津波の被害想定を改定する予定があります。その中で、20~30cmの津波についてもっと啓発する必要があるという話が出れば、ハザードマップも変わっていくかもしれません。
 
西村)ハザードマップは、どんどん変わっていくもの。しっかりチェックをして、いろんな想定をして、行動することが大切だと思いました。「まずは逃げる」この基本を改めて押さえておきたいと思いました。
きょうは、MBS報道情報局 気象災害担当 福本晋悟記者にお話を伺いました。

第1426回「阪神・淡路大震災29年【5】~浪曲で伝える災害の教訓」
ゲスト:浪曲師 菊地まどかさん

西村)ネットワーク1・17では、29年前に発生した阪神・淡路大震災の特集を、去年の暮れからお送りしています。
今回は、阪神・淡路大震災の教訓を浪曲で語り継ぐ活動をしている浪曲師の菊地まどかさんに、スタジオにお越しいただきました。

菊地)よろしくお願いいたします。

西村)浪曲を知らない人のために、浪曲とはどんなものなのか教えてください。

菊地)浪曲とは、明治時代初期から始まった大衆芸能です。当時は、浪花節とも呼ばれていました。江戸末期に四天王寺で初めて浪曲を披露した浪花伊助の字を取って、浪花節と名付けられたという説もあります。三味線の伴奏に乗せて歌う部分を"節"、語る部分を"啖呵"と言います。それにお客さまの拍手を交えて三位一体の芸となります。「忠臣蔵」などのお話や人情噺などさまざまな題材があります。頭の中で想像しながら、登場人物に自分を当てはめて聴いても楽しいですよ。
 
西村)まどかさんは、阪神・淡路大震災の浪曲を伝えているのですよね。
 
菊地)師匠が室戸台風の話の浪曲を持っていたのをきっかけに、台風や地震の話もはじめました。「稲むらの火」の話や阪神・淡路大震災の話、東日本大震災の南三陸町の「命のらせん階段」の話などいろいろな作品があります。「稲むらの火」の話は、「稲むらの火の館」の館長さんからぜひ浪曲にしてほしいという話をいただき、「津波てんでんこ」という言葉を入れて完成した防災浪曲です。
 
西村)阪神・淡路大震災の浪曲は、オリジナルで作ったのですか。
 
菊地)「稲むらの火」と同じ作家さんに作っていただきました。北淡震災記念公園の米山総支配人の意見も取りいれて完成した作品です。実際にあった出来事も織り混ぜています。淡路市(旧北淡町)を何度か訪れて勉強したり、地元の人の話を聞いたりしました。
 
西村)被災者の話を取り入れた浪曲になっているのですね。
 
菊地)先日、1年以上あたためていた作品を北淡震災記念公園で初披露しました。浪曲を聴いたあとに「災害を免れて家は倒壊しなかったけど、今日の浪曲を聞いて、改めて備えをしようと思いました」と言ってくれる人もいました。
 
西村)ぜひわたしたちにも浪曲を聴かせてください。
 
菊地)全部やると30分以上あるので、かいつまんでやりますね。
 
西村)タイトルは「1995年冬(阪神・淡路大震災)」。倒壊した自宅で生き埋めになった高齢女性を家族や住民らが力を合わせて救出するようすを表現しています。それでは、お願いします。
 
菊地)♪浪曲披露♪
 
【浪曲あらすじ】
1995年1月17日午前5時46分、兵庫県の明石海峡を震源とするマグニチュード7.3の巨大な直下型地震が発生。
震源に近い淡路島の最北端、旧北淡町は震度7の激震に襲われた。
 
柱が倒れ、壁が落ち、1階がつぶされてしまった古い木造住宅。
2階にいた幼い健治と父母は、1階にいた祖母を助け出そうと声をかけるが、祖母の声は聞こえない。
そのとき、瓦礫に埋もれていた祖母は、暗闇の中で見つけた灰皿をたたいて音を出し、助けを求めた。
駆け付けた消防団により、無事救出された祖母。
消防団は普段から町を巡回していたため、祖母の部屋をすぐに探し当て、素早く救助することができた。

 
西村)ありがとうございました。
 
菊地)本来はもっと長くて30分以上あります。三味線の伴奏はなしで、物語のキーワードを抜粋して入れました。
 
西村)初めて生で浪曲を聴きました。目の前にシーンが浮かんできました。たくさんの人物が登場して、まどかさん1人で演じているとは思えなかったです。
 
菊地)まだまだ師匠のようにはいかないんですけども...一生懸命、演じました!
 
西村)わたしもお話の中の家族の一員として、おばあちゃんを助けている気持ちになりながら聴いていました。浪曲の中には灰皿をたたいて助けを求めるシーンがありましたね。
 
菊地)わたしは、防災士の免許を取って、日々備えについて考えています。笛とライトは必ずカバンの中に入れています。実際に瓦礫に埋もれた場合、どんな状況になるかはそのときになってみなければわからないと思いますが...。物語の中でおばあちゃんは、真っ暗闇の中、手探りで灰皿を見つけました。体力が落ちて声が出せなくなっていく中、灰皿を必死に叩いて音を出したんです。子どもは耳がいいので、それに気づいて、お父さんに「おばあちゃんはここや!」と知らせました。ここはもっとゆっくり聴いて、「自分ならどうするか」を考えてほしいシーンです。
 
西村)「自分ならどうするか」を考える時間はすごく大切ですね。三味線が入るとさらに臨場感も出るのでしょうね。
 
菊地)浪曲は、聴きながら頭で想像してもらう芸。伴奏の時間もたっぷりあるので、頭の中を通り過ぎるのではなくて、自分だったらどうするかをしっかり考えてほしいですね。
 
西村)浪曲を聴いて、消防団の人もすごいと思いました。
 
菊地)米山総支配人や地元の人に聞くと、消防団は日々町の巡回をしているそうです。どこに何人住んでいるか、おばあちゃんの部屋がどこにあるか...なども調査しているから、災害時にいち早く救助ができる。まだ救助されていない人のこともきちんと把握できると聞きました。わたしの地元では、隣近所の人のことをそこまで把握できていないと思います。災害時にまわりの人に気づいてもらうには、普段からの近所のお付き合いが大切だということを教えてもらいました。みなさんもなるべく近所の人と挨拶をして、行事があったら参加してほしいですね。
 
西村)旧北淡町といえば、39人が亡くなりましたが、助かった人もたくさんいたのですね。
 
菊地)瓦礫の中から300人以上が助かりました。それもみなさんの協力や普段から防災訓練をしていたおかげです。いつ自分が助ける側、助けられる側になるかわからないと考えておかなければなりません。
 
西村)浪曲を通して、これからどんなことを伝えていきたいですか。
 
菊地)浪曲は、身近で聴く機会が限られていると思いますが、浪曲を通じて物語を深く知ることができます。わたしは、師匠から受け継いだ古典だけではなく、防災浪曲もやっています。学校などで阪神・淡路大震災の物語を披露したあとには、「リュックの中を定期的に確認してください」「家に帰ったら家族でお話してください」と子どもたちにお話しています。温かい家族の物語もしているで、ぜひ親子で足を運んで、生の浪曲を聴きに来てもらえたらうれしいです。
 
西村)ありがとうございました。きょうは、阪神・淡路大震災の教訓を浪曲で語り継ぐ活動をしている浪曲師の菊地まどかさんにお話を伺いました。

第1425回「能登半島地震1か月~被災地の現状と必要な支援」
オンライン:兵庫県立大学 大学院 教授 阪本 真由美さん

西村)甚大な被害をもたらした能登半島地震の発生から1ヶ月が経ちました。2月1日現在で1万4000人以上が避難生活を送っています。被災地以外の地域に避難する2次避難は、あまり進んでいない状況です。
きょうは、被災者への支援や調査を続けている兵庫県立大学大学院 教授 阪本真由美さんにお話を伺います。
 
阪本)よろしくお願いいたします。
 
西村)阪本さんはいつ頃から被災地に入ったのですか。
 
阪本)これまでに2回被災地に行っています。地震が起きた翌日の1月2日~8日。2回目が1月18日~25日です。
 
西村)翌日に被災地に入ったのですね。どうやって入ったのですか。
 
阪本)わたしは「全国災害ボランティア支援団体ネットワーク」というNPO活動もやっています。被災地支援を行うボランティア団体をサポートするネットワークです。今回は被害が大きく、たくさんの団体が支援に駆けつけようとしていました。そのような人たちをサポートするためにNPOと一緒に被災地に向かいました。
 
西村)サポートとはどんなことをするのですか。
 
阪本)ボランティア団体の活動状況、支援の手が足りない場所の情報共有が主な目的です。被害の範囲が広いので、支援が届きにくい場所があります。そのような支援のムラを調整する活動をしています。
 
西村)そのような調整はすごく大切だと思います。団体の車で移動したのですか。
 
阪本)はい。NPOは、昨年1月に石川県と災害時に協力して活動するという協定を結んでいます。そのような経緯もあって、まずは石川県庁に行き、災害対応の状況について情報共有しながら、今後の対応方針を相談しました。金沢までは、高速道路を使って車で向いました。
 
西村)金沢から先の道路状況はどうでしたか。
 
阪本)道路状況はとても悪かったです。能登半島を縦断する「のと里山海道」は、今回の地震によって通れなくなりました。それを避けて一般道で移動するにも、道路には亀裂や陥没、段差があって前に進めません。被災地から避難する車も向かう車もパンクしたり、段差に引っかかって横転したり...大変な状況でした。
 
西村)町のようすはいかがでしたか。
 
阪本)石川県珠洲市は昨年5月の地震でも被害を受けていますが、当時と比べても被害状況が悪いです。まず、道路事情が悪く、被災現場に入っていけない。電柱や倒壊した住宅が道を塞いでいて、あたり一面に被害が広がっています。さらに津波被害を受けているところも。被害が複層的で大変な状況です。
 
西村)複層的というのはどのような状況ですか。
 
阪本)地震による家屋の倒壊だけでなく、土砂災害、津波による浸水被害など、さまざまな形の被害がある状況です。
 
西村)被災者のようすはいかがでしたか。
 
阪本)地震が起きたのは正月。帰省していた家族が家でゆっくり過ごしているときにいきなり大きな揺れが来ました。津波から慌てて逃げて、その後は避難所生活。自宅がどうなっているのかもわからない。支援物資が全く届かない状況で、みんなで持ち寄ったもので生活しています。とにかく辛いという話をたくさん聞きました。
 
西村)不安が続く中、発災直後は、食事、トイレなどはどうしていましたか。
 
阪本)食事は、みんなで壊れた家から持ち寄れるものを持ち寄って生活していました。通信環境も悪く、誰がどこにいるのかもわからないので、いる人たちで精一杯のことをしていました。断水で水洗トイレは流すことができません。それでも何とかトイレはキレイに使おうと努力していました。水洗トイレにビニールシートをしいて、排泄物を新聞紙にくるんで処理していました。水も掃除道具もないという厳しい状況でした。
 
西村)発災直後は里帰りをしていた若い世代も多かったと思いますが、地震発生から1ヶ月経った今、被災地の状況も変わってきているのではなでしょうか。
 
阪本)被災地の状況は日々刻々と変わっています。直後に比べると生活環境は少しずつ良くなってきていると思います。まだ温かい食事は出ていませんが、支援物資が届いたり、仮設トイレや避難所のパーティションが設置されたりと住環境は少しずつ良くなってきています。家族ごと広域避難する人もいて、被災地にいる人の数は減ってきています。金沢市、野々市市など石川県の中でも比較的被害が少なかったエリアには、広域避難する人が増えていて、新しいコミュニティができています。広域避難している人は、被災地の状況をとても心配していて、毎日ニュースを見たり新聞を読んだりして、情報を手に入れようと一生懸命です。
 
西村)広域避難をしている人たちは、どのような場所に行っているのですか。
 
阪本)さまざまなケースがあります。家族や親せきがいるところに避難している人も。石川県が2次避難先として、ホテルや旅館などの宿泊施設を確保しているので、ホテルや旅館などに避難している人もいれば、地域別にコミュニティ単位で金沢市の避難所に行っているケースもあります。
 
西村)広域避難をしている人は、どんなことに困っていて、どんな支援が欲しいと言っていますか。
 
阪本)生活環境はとても良く、何でも手に入るし生活は楽になったのですが、被災地の家や家族が心配だと言っています。
 
西村)食事はどうしているのですか。
 
阪本)2次避難先では、弁当や温かい食事も提供されています。避難所の場合は食事が提供されますが、ホテルなどの宿泊施設では、それぞれで生活していると思います。食事が出るところと出ないところがあるので。
 
西村)毎日お金がかかりそうですね。
 
阪本)避難所も洗濯機があるところとないところがあります。洗濯機がないとコインランドリーで洗濯しなければならないので、お金がかかります。
 
西村)2次避難先は自分で選べるのでしょうか。
 
阪本)人それぞれです。地域単位で避難所に避難しているところもあります。
 
西村)おしゃべりできる友達や親しい人が近くにいない場合は、ひとりで悩みを抱え込んでしまいそうですね。
 
阪本)まとまって避難している人たちは、仮設住宅などの心配事も共通しているので、情報共有ができていると思います。しかし、ホテルなどに避難している人たちへの情報提供は十分にできてないので、気になるところですね。
 
西村)ホテルでは自治体や看護師、ボランティアなど相談・支援してくれる人はいるのでしょうか。
 
阪本)そのような体制の整備は十分にできてないと思います。そのためには、誰がどのホテルにいるのかという情報が必要。情報集約ができないのでアプローチできない状況にあります。
 
西村)県外に行った人などは、情報がわからない場合、要介護者、障害者などへの支援が行き届かなくなりそうですね。
 
阪本)1.5次避難という仕組みがあります。障害者、高齢者など普段から介護サービスを使っている人に避難先を紹介する仕組みです。ケアマネージャーの情報を避難先に引き継ぎ、避難先でも介護サービスが継続して受けられるような取り組み。しかし、支援を必要とする人が多くて、まだ十分につなぎきれていません。
 
西村)2次避難や1.5次避難をしたいけど、自宅にとどまっている人も多いのでしょうか。
 
阪本)「自宅が心配だから」「家族が被災地にいる」などさまざまな事情を抱えて、被災地に残っている人もいます。
 
西村)家族の仕事によっては、残る人もいそうですね。
 
阪本)行政の職員など災害対応に従事する人が家族にいる場合は、被災地に残ることが多いです。
 
西村)倒壊した自宅にとどまるなど危険な状況の中、気温も厳しく、断水もしています。大変な生活をしているのではないですか。
 
阪本)一旦は2次避難したけど避難先に馴染めなくて自宅に戻った人もいます。自宅避難で支援が必要な人に関しては、今後、1件ずつ訪問して、支援につなげる努力をしていかなければなりません
 
西村)人と人の心をつなぐことが大切ですね。支援をする人たちの人数は足りているのですか。
 
阪本)被災地は道路状況や住宅環境も悪くて、支援者の滞在先を確保することが難しいです。今支援に入っている人はほとんどが自己完結で滞在しています。車中泊をしながら、1週間以上お風呂にも入れずに支援している状況。支援者向けの滞在先の確保は、これからの課題です。
 
西村)一般のボランティア受付開始が始まったというニュースを見ましたが、そのような現状があるのですね。例えばわたしが個人でボランティアに行くとしたら、どこまで電車で行って、どうやって被災地に入り、どんな活動をすることができるのでしょうか。
 
阪本)比較的道路事情が良い地域は、ボランティアの受付が始まっています。自家用車で行くか、復旧している地元の鉄道で被災地に行くことができます。しかし、奥能登は道路事情、宿泊施設の状況が依然として悪いです。道路の復旧状況を見ながら、都市部からボランティアバスを運行できるかを検討しているところです。実現するともっとボランティアに行けるようになると思います。
 
西村)被害が大きい珠洲市や奥能登にいち早く入りたいところではありますが、現在は難しい状況が続いているのですね。ボランティアバスが早く整備されて、多くの人が足を運べるようになりますように。交通網の復旧はこれからでしょうか。
 
阪本)これから被災地では、瓦礫の除去や復旧工事が始まるので、ますます渋滞すると思います。個人の車で被災地に駆けつけるよりは、ボランティアバスをピストン輸送させるなど効率よく道路を使っていくことが大事。
 
西村)今後必要になってくる支援は何ですか。
 
阪本)本当に被害が大きいので、復旧・復興にはとても時間がかかると思います。阪神・淡路大震災と比べても、今回の被害はかなり大きい。息の長い支援をすることが大事です。住宅を再建するだけではなく、そこに住む人たちのつながりを取り戻す、観光地としての復興など、長いプロセスで寄り添って歩いていくことが大事。ボランティアも今だけではなく、来年も再来年も続けて、息の長い支援をしてくれるとうれしいです。
 
西村)お手伝いに行くだけではなく、観光として旅行に行って、美味しいものを食べて経済を回していくこともできます。お取り寄せや募金などいろんなことができるのではないでしょうか。
きょうは、被災地で支援や調査を続けている兵庫県立大学大学院 教授 阪本真由美さんにお話を伺いました。

第1424回「阪神・淡路大震災29年【4】~震災を読みつなぐ」
ゲスト:震災を読みつなぐ会 KOBE 代表 下村美幸さん

西村)今月のネットワーク1・17では、29年前に発生した阪神・淡路大震災の特集をお送りしています。
きょうのゲストは、阪神・淡路大震災に関する手記や詩の朗読を続けているボランティア団体「震災を読みつなぐ会KOBE」代表 下村美幸さんです。
 
下村)よろしくお願いいたします。
 
西村)「震災を読みつなぐ会KOBE」では、どんな活動をしているのですか。
 
下村)小学校・中学校で活動しています。3年前から始まった道徳教育の中で、子どもたちが残した大事な記録を読ませていただいています。
 
西村)「震災を読みつなぐ会KOBE」は、いつ設立されたのでしょうか。
 
下村)今から19年前になります。
 
西村)ということは震災から10年目の年ですね。
 
下村)はい。震災から10年目の年は、神戸の建物は見事に復旧していました。でもみなさんの心の復旧はまだまだでした。亡くなった人も多かったので、みなさん口を閉ざしていました。わたしは趣味で朗読をしていたので、何かできないかと思いました。学校に行くと先生たちも協力してくれて。わたしたちは場所があってこそ活動できます。活動場所の提供をしていただくまでは、いろいろな支援がなければできませんでした。会員のみなさんの力で一歩一歩進んで歩んできた会です。「震災を風化させない」「震災を伝えなければならない」という想いだけでやってきました。
 
西村)これまでに朗読してきた手記や詩は、何作品ぐらいあるのですか。
 
下村)485作品あります。小学生用・中学生用に仕分けをしたリストがあります。それ以外にもみなさんが持っている作品を読んでいこうと思っています。
 
西村)「伝えていきたい」という想いでみなさんが残してきた手記や詩を是非、リスナーにも聞かせてください。きょうは、2つの手記を持ってきてもらいました。ひとつ目のタイトルを教えてください。
 
下村)「オレの手 髪を染めた少年 てれくさそうに」です。
 
西村)では、朗読をお願いします。
 
下村)
「オレの手 髪を染めた少年 てれくさそうに」
 
オレ あの日な 近所の婆ちゃん助けた
ガレキに埋もれた中から六人も助け出した
あんな時は手首つかまなあかんねん
顔も 体も まっ黒になったで
空もまっ黒やった
 
オレ五日目にな 避難所にたずねて行ったで
ホカホカカイロ持って行った
そうしたら婆ちゃんな
「兄ちゃんの分あるんか おおきにおおきに
ほんまにやさしいなあ 兄ちゃんの手は温かいなあ」
言うて涙流した
 
オレ あんなこと言われたん初めてや
周りのもんに 嫌われてると思って毎日過ごして
自分の手が温かいか冷たいか
そんなこと関係なかった
 
オレ あんなこと言われたん初めてや

 
西村)ありがとうございます。これは阪神・淡路大震災当時の実話なんですよね。手記を書かいた人はどんな人ですか。
 
下村)震災についてたくさんの聞き書きをしている車木蓉子さんという人です。これは手記ではないかもしれませんが、悲惨な状況だった神戸の街で、人々が助け合っていたことがわかる作品です。短い作品ですが「髪を染めた少年てれくさそうに」というようすが目に浮かびますよね。
 
西村)やんちゃな男の子だったのでしょうね。
 
下村)ピアスをしているような男の子だったのかもしれません。当時は、みんなが「何か役に立たなあかん」「何かせなあかん」と思う状況だったのだと思います。ボランティア元年と言われた阪神・淡路大震災当時、100万人近い人が神戸にきてくれました。今回の能登半島地震や熊本地震、東日本大震災で何か役に立ちたいとたくさんの人がかけつけるきっかけになったのだと思います。
 
西村)この少年は、今まで自分は周りの人に嫌われていると思っていて、心を閉ざしていたけど、助け合いの心でつながった温かい気持ちにふれて、人生が変わったのでしょうね。当時の過酷な状況での助け合いのようすも目に浮かんできました。続いていてもう1作品読んでいただきます。
 
下村)今から読むのは、震災から10年目の「1・17のつどい」で、遺族の今 英男さんが読んだあいさつです。
 
「英人よ」
 
あれから九年が過ぎて、三千二百八十八日目の朝。白い雪とともに迎えました。あの日も今朝のように凍てついて暗くて...。
九年がうそのように過ぎました。
 
英人よ。今年も来れました。母さんと二人で。
 
この日が過ぎないと、私のうちにはお正月が来ません。
あの年は一緒に初詣に行ったね。
あの時の写真が最後になりました。
 
あれから私の家のお正月が変わりました。年の暮れに年賀状は書かなくなりました。初詣も行けなくなりました。
今日この日神戸に来ると、やっと年が明けます。
決して良いことではないけれど、そんな習慣が私の家にはつきました。
 
今年も来ました。おかげさまで来れました。
神戸の三ヶ所にある、慰霊碑の君の名前を指でなぞるだけなのに。
今日からまた十年目を刻み始めます。三千二百八十八、三千二百八十九、三千二百九十、三千二百九十一...、もう数えるのはやめます。
あの日のことはやっぱり本当で、あの東灘の下宿の前の車の中で見た凍てついた月。間断のないサイレン。しかし奇妙に静かな風。
被災された多くの方々の記憶の中に、しっかりと残っていることと思います。
 
英人。君のふるさとの金沢は、今年は雪が本当に少ないです。
好きなスキーには帰らないでいいよ。
 
あのままの君の部屋。泥のついたまま真ん中で折れてしまっているスキー。今年は片付けようと思う。
テニスのラケットに、ボールも空気がなくなって寂しそうだ。
大学の軟庭のパートナーだったK君が結婚したそうだ。お母さんからお葉書をいただいた。
それだけ年がたったんだね。
 
今日こうして被災された多くの方々と一緒に、こんな記憶も大切に、大切に語り継いで...。
失った多くの物、多くの宝、多くの優しさ。
決して決して忘れない。
 
あの日を決して忘れないよ。今日の日も決して忘れない。
 
英人よ。君への思いは、神戸のたくさんの方たちと共に生き、大好きだった神戸のまちと一緒にあります。
君のふるさとで、神戸という名前を聞くだけで、心が震え、このまちを私達はいつまでも愛します。
 
英人よ。息子よ。私たちの誇りで、大切な記憶。
 
今日は祈りをこめて花を捧げたいと思います。
また来ます。神戸に。
そのためにも、父さんも母さんも、体を大事にして十年目を歩みます。
また来ます、神戸に。またの日を楽しみに。

 
西村)英人さんは金沢から神戸に進学して被災し、犠牲になりました。英人さんを想うお父さんの想いを伝えてもらいました。お正月の話がありましたが、別のご遺族からも「1月17日が来ないと正月が始まらない」という話をよく聞きます。震災から10年目の「1・17のつどい」から、さらに19年が経っています。このときに亡くなっていなければ、英人さんは結婚して子どもがいて、今さんも孫と一緒に楽しい正月を過ごしていたことでしょう。あの日、あのときに同じように人生が変わってしまった人がたくさんいました。わたしたちがメディアを通して取材をしても、その人たちの想いを知る機会は少ないです。ここまで赤裸々な気持ちを語るには、勇気がいることかもしれません。語ってくれたことに感謝します。そして、それを読みつないでくれている下村さん、ありがとうございます。
 
下村)10年の節目で語ることができるまで、今英男さんも時間がかかったのでしょう。あの日、あのときの月の光、風の音まで記憶にとどめているのです。今さんにとっては、10年という年月に関係なく、あの日がそのまま切り取られている。英人くんが亡くなってから「きょうで何日目」とずっと数えていたんです。10年間、毎日毎日数えていたなんて、なんと尊い命だったのでしょう。でも今年で終わりにしよう、10年目でやめようと思ってこの文章を書いたんです。それまで毎日「きょうで何日目」と思っていたのかと思うと...すごいですよね。
 
西村)若い世代にも届けている「震災を読みつなぐ会KOBE」。来年震災から30年。この先は、どんな活動をしていきたいですか。
 
下村)残された大事な手記を発信することで、震災を風化させないようにと10年近く活動してきましたが、この会を設立したときから、いつか児童・生徒がこれを読みつないでほしいという想いはありました。学校や教育委員会からも賛同を得ていたのですがなかなか実現しなかった。しかし最近では、学校に残された手記を探してもらって、児童・生徒に読んでもらっています。
 
西村)児童が先輩の手記を読んでいるのですね。
 
下村)手記がない学校には、作品を学校に持っていって児童に読んでもらうこともあります。今は、先生と打ち合わせしながら、一緒に作品を選んでいます。児童・生徒が読みつなぐことで、震災は風化することはないと思っています。児童・生徒は練習しなくても、きちんと気持ちをこめて読んでくれるんですよ。朗読させたいと考える先生も多くなってきました。ありがたいことです。
 
西村)子どもたちは、震災を経験していなくても、読みつなぐことで自分ごとにすることができますね。これは、神戸だけではなく、全国・世界で広まっていってほしい活動です。
きょうは、阪神・淡路大震災に関する手記や詩の朗読を続けているボランティア団体「震災を読みつなぐ会KOBE」代表 下村美幸さんにお話を伺いました。

第1423回「阪神・淡路大震災29年【3】~阪神・淡路大震災29年の神戸で」
オンライン:「1.17KOBEに灯りをinながた」実行委員
      FMわぃわぃ 総合プロデューサー 金千秋さん

西村)1月17日は各地で追悼行事や防災イベントが行われました。神戸市長田区で毎年1月17日に行われている「1.17KOBEに灯りをinながた」は、早朝5時46分ではなく、夕方5時46分に黙祷が行われ、地元の子どもや若い世代がたくさん参加しています。鉄人28号の大きなモニュメントが立つ広場で行われたこの追悼行事にわたしも参加してきました。
きょうは、「1.17KOBEに灯りをinながた」実行委員で、長田のコミュニティメディア「FMわぃわぃ」総合プロデューサーでもある金千秋さんにお話を伺います。
 
金)よろしくお願いいたします。
 
西村)「1.17KOBEに灯りをinながた」は、なぜ早朝ではなく、夕方の5時46分に黙とうを行うのですか。
 
金)「FMわぃわぃ」があるカトリックたかとり教会では、カトリックの聖歌とともに1月17日の早朝5時46分に1分間の黙とうをする追悼行事が行われています。1996年からロウソクを灯しているのですが、地域とともに始めたのは1999年から。「FMわぃわぃ」は、多言語放送をしていて、外国人、耳の聞こえない人、目の見えない人、車椅子の人、難病の人となどさまざまな人たちが参加しているラジオ局です。障害のある人は車椅子で朝早くに電車に乗って来ることは難しいので、いろんな人たちが参加しやすい夕方5時46分に実施することになりました。当時は、JR新長田駅前の広場でやっていたので、電車を降りてきた人、お買い物帰りの人がたくさん立ち寄ってくれました。
 
西村)わたしは、1月17日に長田のピフレホールであるゴスペルコンサートに毎年参加していて。コンサートが終わった後、広場に「ながた」の文字が灯籠で灯されているのを見て参加したのが最初でした。会社帰りや買い物帰りに立ち寄って参加している人も多いと思います。制服姿の学生さんも多いですよね。若い世代が多く関わっているのはなぜですか。
 
金)最初はカトリックたかとり教会でロウソクを作っていましたが、近所の高取台中学校や駒ヶ林中学校、「FMわぃわぃ」で放送中の小学生の番組の子どもたちも「ロウソク作りをやりたい」という声がありました。さらにほかの番組担当者からも参加したいと声が上がり、ありがたいことに、小学校、中学校、幼稚園、保育園からも「震災の話をしてほしい」「3歳の子どもにもロウソク作りをさせてほしい」というような話がありました。子どもたちは、12月にロウソクを作り、1月17日の学校帰りに自分が作ったロウソクが燃やされているようすや拝んでいる人を見る。それを26回続けています。当時3歳の子どもはもう29~30歳です。小学校の先生になっている人もいます。続けることでこの行事が若者へ伝わっていったのだと思います。
 
西村)うれしいお話ですね。今回、ロウソクを作った小中学生が、灯篭を並べる手伝いに来ていました。駒ヶ林中学校の1年生2人のインタビューをを聞いてください。
 
音声・西村)灯籠作りに参加してみてどうでしたか。
 
音声・男子中学生)震災後も想い続けている人がたくさんいるのだなと思いました。
 
音声・西村)自分が生まれる前の震災についてどんなふうに思っていますか。
 
音声・男子中学生)おばあちゃんやママも震災を経験しています。家がなくなって、車中泊をしていた人もいたと聞きました。おばあちゃんの家も全焼したそうです。そんなふうに悲しい想いをした人、命を落とした人もいたのだなと思いました。
 
音声・西村)学校でロウソクを作ったのですか。
 
音声・女子中学生)学校で作りました。お手伝いの人たちや班のみんなで協力して作ったけど難しかったです。ペットボトルが足りなくなったけどできました。
 
音声・西村)ペットボトルの灯籠を作って文字をかたどって並べたとき、どんな気持ちになりましたか。
 
音声・女子中学生)この行事は、地震後からずっと続いています。形も変わってきているらしいけど、ずっと続いているのは、地域の人や学校の協力があるからだと思いました。
 
西村)金さん、今の声を聞いていかがですか。
 
金)涙が出そうです。今は次世代の人がロウソク作りを受け継いでくれていて。クリスマスやお寺で使って残ったロウソクを12月に集めて。お店の人もロウソクを残しておいてくれるんです。それを溶かして、子どもたちが集めた卵パックに注いで、卵型の小さいろうそくを作ります。そして会場にロウソクを置いて、火を灯すと心に染みるんです。ロウソクの光を見つめることで、来年、再来年、10年先にいろいろなことを想い出すだろうなと。26回続けてきて実感しています。
 
西村)当日お手伝いした中学生だけではなく、ロウソク作りに携わっている人や家族も関心を持つでしょうね。
 
金)2リットルのペットボトルは水ではなく、お茶などが入っている大きなものが必要なんです。この寒い時期に約1000本のペットボトルを集めるのは結構大変。酒屋さんがお客さまにお願いして何百本と集めてくれています。ありがたいです。
 
西村)ロウソク作りのときに、金さん自身も語り部として話をするのですか。
 
金)わたしみたいな震災経験者や先生以外にも、震災を経験していない大学生も実行委員会に参加しています。震災を経験していなくても伝えることができる若い世代の語り部もいます。
 
西村)神戸大学の4年生のボランティアにどんな想いでイベントに参加したのか話を聞きました。神戸大学の学生です。
 
音声・大学生)わたしは元々東北の地震に興味がありました。神戸から東北に向かうにあたり、神戸で起きた震災を知らずに東北に向かうのではなく、神戸のことをよく知ってから東北の人と交流したいと思い、神戸の人と関わっています。今朝、5時46分の追悼を見ていると、一見元気そうに見える人でも悲しいことを経験している人はたくさんいるのだと感じます。そのような人たちと同じ想いを共有することはできませんが感じ取ることはできたらと思って参加しています。
 
西村)ボランティアスタッフの話をお届けしました。金さんいかがですか。
 
金)神戸大学というと、1995年当時、たくさんの学生がいろいろな地域で自主的にボランティア活動をしていました。コロナ禍があって、この3年間は、活動がなかなかできなかったのですが、今年は、大学が地域貢献に力を入れて、1月17日は、大学が休みになり、たくさんの人が参加してくれました。地域で大学が果たせる役割として、命を守ることの歴史を伝えられるようになってとてもうれしいです。神戸大学だけではなく、神戸常盤大学、兵庫県立大学、去年までボランティアサークルとして参加してくれていた神戸国際大学との連携もあります。大学生が社会人になる前に神戸の震災や復興の知恵を日本中、世界中に伝えてくれるのはとてもうれしいことです。
 
西村)心強いですね。このように、「1.17KOBEに灯りをinながた」には、若い世代や子どもも多く携わっています。なぜ若い世代を巻き込むことができるのでしょうか。工夫していることはありますか。
 
金)実行委員会には、大学、小学校、中学校、幼稚園など学校関連以外にも、タクシー会社、市民活動団体、障害者団体、アートの仕事をしている人、酒屋さんなど長田を中心としたさまざまな地域のさまざまな職種の人たちが集まっています。そこから幅広い世代につながっているのだと思います。
 
西村)いろんな立場の人がいるからこそ、想いを共有してみんなで作り上げていくことができるのですね。来年は震災から30年。震災を経験していない若い世代にどのように阪神・淡路大震災を伝えていきたいですか。
 
金)自治会、婦人会、子供会などたくさんの人たちとのつながりの中で伝えていっています。長田の住民の中には、外国人もたくさんいます。立て看板やチラシに外国語で紹介文を記載したり、参加を呼びかけたりしています。
 
西村)世代、国籍、障害のあるなしも問わずにたくさんの人が参加しているのですね。
きょうは「1.17KOBEに灯りをinながた」実行委員で、長田のコミュニティメディア「FMわぃわぃ」総合プロデューサーでもある金千秋さんにお話しを伺いました。