第1541回「熊本地震10年【1】~安心・安全な「車中泊避難」とは?」
オンライン:「Bosai Tech」代表取締役社長 大塚和典さん

西村)明後日14日熊本地震の発生から10年を迎えます。熊本地震では、避難所に行かずに車中泊を選ぶ人も多く、健康面などが問題視されました。地震から10年たち、車中泊の問題はどう変わったのでしょうか。
きょうは、車中泊避難の環境作りを進める「Bosai Tech」代表取締役社長 大塚和典さんにお話しを聞きます。
 
大塚)よろしくお願いいたします。
 
西村)大塚さんはなぜ、車中泊の会社を立ち上げたのですか。
 
大塚)熊本地震、能登半島地震で車中泊をする人が多かったのですが、行政が全く把握できていませんでした。熊本地震では、今までの地震に比べ、4倍の災害関連死がありました。災害で助かってもその後の避難生活で災害関連死を招いてしまった。災害で助かった命を守るためにこの会社を立ち上げました。
 
西村)大塚さんは熊本地震当時、熊本市の職員をしていたそうですね。
 
大塚)熊本市の観光政策課で観光の業務を担当していました。
 
西村)地震後はどんな仕事をしていたのですか。
 
大塚)翌日からは、小学校や中学校の体育館に行って、避難所運営のお手伝いをしました。物資の配送、家屋調査など災害に携わる業務を経験しました。
 
西村)地震当時の車中泊の状況はどうでしたか。
 
大塚)熊本は一軒家が多く、みなさん自宅の駐車場や公園で車中泊していました。
 
西村)避難所に行かずに車中泊をしていた人の方が多かったですか。
 
大塚)地震後のアンケート調査によると、4割の市民が車中泊避難をしていたとのこと。かなりの人が車中泊をしていたと思います。
 
西村)なぜ車中泊が選ばれたのでしょうか。
 
大塚)たくさんの人が避難をしたため、避難所に入れない人が多かったのが一つの理由。ペットや子どもがいる人、赤ちゃんの夜泣きで迷惑をかけたくないという人や障がいのある家族が避難所に溶け込めず、車中泊をせざるを得ない人もいたと思います。
 
西村)熊本特有の理由もありますか。
 
大塚)車社会なので、1軒に1~2台は車があるということも理由です。
 
西村)わたしが取材で熊本に行ったときは、「ずっと揺れが続いていて、建物の中に入るのが怖くて車中泊をした」という人もいました。
 
大塚)避難所でもそのような声を聞きました。「揺れがひどいので、家に帰りたくない」と言う人も多かったので、車中泊が選ばれたのだと思います。
 
西村)車中泊による避難でどんなことが問題になりましたか。
 
大塚)みなさん、正しい車中泊のやり方を知りません。能登半島地震の輪島市では、6人の家族でミニバンクラスの車に避難した例がありました。6人でミニバンクラスの車だと、座ることしかできません。座ったまま過ごすとエコノミー症候群の危険が高まります。これを知らずに、翌朝おばあちゃんの具合が悪くなり、病院に行くと、エコノミークラス症候群と診断され亡くなったケースがあります。
 
西村)エコノミークラス症候群は、長時間同じ姿勢をとり続けることで、足の静脈に血栓ができて、それが肺に詰まって呼吸困難や心不全を引き起こす危険な病気です。エコノミークラス症候群の危険性がある車中泊は、なるべくやめた方が良いのでは?
 
大塚)大規模災害になると、避難所が足りなくなります。ペットや小さい子どもがいるなど、何か理由があって車中泊をせざるを得ない人もいます。車中泊は推奨されてなかったのですが、国が方針を変えて、在宅・車中泊避難者に対して、自治体が支援を行うことになりました。
 
西村)国は2024年の防災基本計画にやむを得ない車中泊避難への支援を盛り込みました。さらに熊本市も4月に車中泊避難の支援マニュアルを発表。車中泊の支援へと方針を大きく変えました。大塚さんは熊本市のマニュアル作成に関わったと聞きました。なぜ支援へと変わっていったのですか。
 
大塚)車中泊は、正しいやり方をすれば問題ありません。エコノミー症候群にならなければ。ペット問題や健康的ストレスもなく、個室なのでプライバシーも確保できる。コロナなどの感染症に関しても、個室なので安全。メリットはあるんです。熊本市は、正しい車中泊の方法を伝えようとガイドラインとマニュアルを作りました。熊本市のホームページにも載っているので、全国の自治体も参考にしてほしいです。
 
西村)正しい車中泊の方法について教えてください。
 
大塚)座ったままで過ごさないこと。車に何人寝ることができるかを事前に調べてください。足を伸ばして寝ることができるか。シートを倒してフルフラットになる車もあります。段差があると寝返りを打てないし、寝心地が悪いです。腰が痛くなることもあるので、タオルケットを敷いたり、空間があれば、ダンボールを敷いてフラットになるようにしたり...と工夫してみてください。訓練として、車中泊で遊びに行くことも推奨しています。
 
西村)どんなところに行ったら良いですか。
 
大塚)日本RV協会が、全国に「RVパーク」を作っています。24時間使えるトイレ、ゴミ捨て場があり、家庭用の電源が引き込めて、15~20分圏内に温泉施設があります。有料ですが、広い駐車スペースで安心して宿泊することができます。1回目は寝心地が悪かったら、2~3回行く内に改善して、レベルアップしていくと思います。旅行で車中泊を楽しむことが災害時の訓練になるんです。
 
西村)RVパークで検索してみると、いろんな施設が出てきます。近畿でも奈良・和歌山・京都などいろんなところが登録されていますね。
 
大塚)グルメ情報など観光スポットも掲載されているので、楽しく旅行ができると思います。
 
西村)車中泊の練習をして、エコノミークラス症候群にならない備えをしておかないといけないですね。ほかにどんなことを備えれば良いでしょうか。
 
大塚)練習をすると、車に何人寝られるかわかります。4人家族で3人しか寝られないなら、残りの1人をどうするか。近くの避難所に行くのか、車の横に1人用のテントを張るのか。事前に対策を考えておく必要があります。
 
西村)そのほかにエコノミークラス症候群にならないために何をすればいいですか。
 
大塚)きちんと水分を取って、トイレに行く。寝ているばかりではなくて、昼間は散歩などの運動をする。なるべく通常の生活のような動きをすることが大事です。
 
西村)大切なポイントを教えていただきました。車中泊はどこでするのですか。
 
大塚)現在熊本市では、熊本競輪場とアクアドームの2ヶ所が指定されています。トイレが完備されています。将来的には1区に1ヶ所は欲しいですね。
 
西村)家の駐車場などの近所で車中泊しても良いですか。
 
大塚)大丈夫ですが、避難場所を指定するのは、物資や保健師さんによる健康支援がしやすいから。車中泊避難者を1ヶ所に集めることで、行政が支援しやすくなるのです。
 
西村)わたしたちへの支援を届きやすくするために、場所が指定されているのですね。
 
大塚)まず正しい車中泊の方法を知ってほしい。絶対に座ったままで避難しないこと。熊本市のガイドラインやマニュアルを参考にして、事前に車中泊の対策を練ってください。それが災害関連死を防ぐことになると思います。
 
西村)大塚さんどうもありがとうございました。

第1540回「新年度スタート! 一人暮らし防災」
オンライン:危機管理アドバイザー 国崎信江さん

西村)新年度がスタートしました。就職や進学などで、この春から一人暮らしを始めたという人も多いのではないでしょうか。
きょうは、危機管理アドバイザーの国崎信江さんに、一人暮らしの備えについて聞きます。
 
国埼)よろしくお願いいたします。
 
西村)一人暮らしの人の災害への備えは、何から始めたら良いでしょうか。
 
国埼)一人暮らしだと、「収納スペースが少ない」「食材を使い切れない」などの理由から、その日食べられる分だけを買う生活をしがちです。でも在庫を持たない暮らしは災害時に不安。非常食に限らず、レトルトカレーやパスタ、シリアル、缶詰、お菓子など長期保存が可能な食べ物を普段から多めに買っておくと安心です。これを"家庭内流通備蓄"といいます。
 
西村)それは"ローリングストック"のことですか。
 
国埼)そうです。わたしは25年前からこの方法を社会に発信しています。「普段の食事を多めに買って、食べたら補充する」を繰り返せば、災害時も食べ物に困りません。
 
西村)国崎さんは自宅でどんなものを備えているのですか。
 
国埼)わたしは、日頃から果物を多めに用意しています。バナナ、キウイ、みかんなど3種類以上の果物を常備していて、食べたら補充しています。果物は水分もビタミンも取れるし、火も水も使わずにすぐ食べられる非常食の王様です。
 
西村)わたしも早速真似したいと思います。ほかにも大切な備蓄はありますか。
 
国埼)食べた後の心配はトイレ。停電でトイレの水が流せない、地震で便器が壊れることもあるもしれません。災害用トイレや除菌スプレー、トイレットペーパー等も忘れずに備えてください。1日の排せつ回数×1週間分は、用意をしておくと安心です。
 
西村)トイレには明かりも用意しておいた方が良いですか。
 
国埼)トイレに窓がないこともあります。懐中電灯やランタンを置くのもオススメですが、我が家では蓄電電球を置いています。トイレやお風呂、廊下に蓄電式の電球を置いておくと、停電したら自動的に電気が点くので、停電で真っ暗になってもあわてず行動できると思います。
 
西村)明かりがあるとないとではかなり変わってきますね。
 
国埼)日常的に使えて、かつ災害時に役立つものをどんどん揃えましょう。卓上のカセットコンロも引っ越しを機に備えてください。電気やガスが止まった場合でも調理ができます。温かいお湯を沸かすこともできます。
 
西村)一人暮らしの人は、カップラーメンをストックしている人も多いと思います。
 
国埼)卓上のカセットコンロがあれば、お湯を沸かすことができるので、災害時もカップ麺を食べることができます。
 
西村)水もしっかり用意しておいた方が良いですね。
 
国埼)スマホ用のモバイルバッテリー、可能であれば小型のポータブル電源があると良いです。若い人はテレビを置かずに、スマホのみで情報を取ることもあると聞いています。スマートフォンは災害時の大事な情報源なので、スマートフォンの充電用にモバイルバッテリーやポータブル電源があると安心。
 
西村)ラジオも今はスマホで聞いている時代なので、情報を得るためにもスマホは重要ですね。食料・水・トイレは何日分ぐらい備えたら良いですか。
 
国埼)多めに備蓄しましょう。少なくとも3日分といわれていますが、わたしは過去の被災地における支援の活動の経験から、1週間~10日分、それ以上あっても良いと思っています。3日ぐらいしたら救援が来て物資が届くと言われていますが、道路の事情等でなかなか物資が届かないこともあります。能登半島地震では、十分に物資が届くまで2~3週間かかったところも。さらに孤立する場所では、十分な備えをしておかないと安心して過ごせません。せめて1週間~10日分。我が家は1ヶ月分揃えています。
 
西村)1ヶ月分となると、かなりの量になるのでは。
 
国埼)まず冷蔵庫の中にあるもの、長期保存できる米やパスタの量をチェックしてください。普段備えているものだけで2週間分くらいあることに気づきます。一人暮らしなら、今の段階では備えが足りないこともあるかも知れませんが、これからちょっとずつ多めに買って備蓄を増やすことを心がけてください。
 
西村)ちょっと多めに買い置きをしておくだけで、「今日は手抜きをしたい」「今日は買い物に行けない」という日も安心ですね。ほかにはどのような備えが必要ですか。
 
国埼)家具の置き方も工夫してください。ベッドに倒れかかる位置に家具や本棚等を置かない。玄関につながる避難導線に物を置かない。
 
西村)どういうポイントに気をつけたら良いですか。
 
国埼)扉の近くに物を置くと、地震の揺れで物が倒れたら、閉じ込められてしまいます。入口付近にはできるだけ倒れそうな物を置かないでください。
 
西村)玄関に大きな姿見鏡を置いている家もありますね。
 
国埼)玄関に姿見があると、みだしなみのチェックに便利ですが、倒れないようにワイヤーをかけて固定をするなどの工夫をしましょう。
 
西村)ほかの部屋についてはいかがでしょうか。
 
国埼)トイレや入浴時に地震が起きると、閉じ込めにあう恐れがあります。一人暮らしの場合は外からの助けを待つことができないかもしれません。冬場に閉じ込められると低体温症になる危険性も。トイレのドアや鍵は閉めなくてもいいです。浴室には、防災用の笛や防水対策をしたスマホを持ち込むなど、閉じ込めに備えてください。
 
西村)そこまで考えたことはありませんでした。自分がケガをしても、助けに来てもらえずにそのままになってしまうことが一番怖いですね。
 
国埼)浴槽で閉じ込められたときは、裸なのでバスローブとかタオルとか羽織れるものも置いておくと良いと思います。
 
西村)一人暮らしだと被災したことを周りに伝えられない場合もあると思います。
 
国埼)災害時に探してくれる人をあらかじめ作っておくことが大切です。地域やマンションの防災訓練に参加して、いざというときに助けてもらえる人間関係を作っておく。気にかけてくれる人が近所にいるだけで、災害時の不安は軽減されます。
 
西村)単身用のマンションでは、防災訓練が行われてないこともあるかもしれませんし、仕事の都合で防災訓練になかなか参加できない人もいるかもしれません。そういうときはどうしたら良いですか。
 
国埼)わたしが推奨しているのは、近所になじみのお店を作ること。地元の人が経営している居酒屋、カフェ、コンビニ、お花屋さん、クリーニング店などで普段から雑談をして良い関係を作っておく。店主さんと仲良くしておくことで、いざというときに助けてもらえる可能性を高める。災害への備えを十分にして新生活を楽しんでください。
 
西村)素敵な方法ですね。でも、初対面の人と話すことが苦手な人もいると思いますが、どんなことから始めれば良いですか。
 
国埼)行きつけのお店で、「また来ました」「いつも美味しいですね」「ここのコーヒー好きなんです」など毎回ちょっと一言添えることで、会話が弾むと思います。ちょっとずつ会話を広げていくことを意識してみてください。
 
西村)ちょっとした一言で、人柄が見えるから会話も楽しくなりますね。そのようなつながりを作っておくとどのようなメリットがありますか。
 
国埼)相手が信頼できると判断した場合は、「わたしは近くのマンションに住んでいます」ということを伝えて、「災害が起きたときに連絡してくれるとうれしい」と話をしておくと安心です。
 
西村)具体的に住んでいる場所を伝えたり、SOSを出したりすることは大切ですね。引っ越したばかりのときや見知らぬ土地で災害にあった場合、情報を得るにはどうしたら良いですか。
 
国埼)災害時には、情報がなくて不安になる人が多いと思います。デマや誤った情報に振り回されないこと。行政や地域の自主防災組織に状況を聞いたり、避難所に掲示されている情報を入手したり、避難所でラジオやスマートフォンで情報を得ている人に状況を聞いてみるのも大切なことだと思います。
 
西村)国崎さんどうもありがとうございました。

第1539回「福祉避難所の課題」
ゲスト:福祉防災コミュニティ協会理事 湯井恵美子さん

西村)災害が起きた場合、障害のある人や高齢者の避難には支援が必要です。
きょうは、福祉避難所に詳しい福祉防災コミュニティ協会理事 湯井恵美子さんにお話を聞きます。
 
湯井)よろしくお願いいたします。
 
西村)湯井さんの息子さんは、障がいがあると聞きました。どんな障害があるのですか。
 
湯井)今年で31歳の息子には重度の知的障がいがあります。知能レベルは1歳ぐらいで言葉も話せません。車が大好きですが信号が理解できないので1人で外出もできません。言葉で誰かに「助けて」と伝えることができません。
 
西村)外出するときに困ることはありますか。
 
湯井)初めて行く場所や初めて会う人がとても苦手。特に電車など大勢の人が集まる場所が怖くて仕方ない。怖すぎるとパニックになり、ひどくなると暴れてしまいます。その場にうずくまって泣いてしまうこともあります。
 
西村)災害時、慣れている自宅から別の場所に避難するのは難しいと思いますか。
 
湯井)一般の避難所で、障がいのない人たちがたくさん集まる場所は彼にとって苦痛な場所だと思います。
 
西村)息子さんとの生活で、防災面で対策をしていることはありますか。
 
湯井)地震対策で最初に考えなければならないのは耐震性。わたしが住んでいるマンションは、一番強い耐震基準で建てられています。中にはたくさんの備蓄品を置いています。食べ物や薬、トイレは1ヶ月分。彼には、緊急地震速報の音でパニックを起こさないように、慣れる訓練もしています。緊急地震速報を聞いたら、慌てずすぐに玄関に移動して玄関のヘルメットをかぶり、靴を履くまでを訓練しています。
 
西村)何年も続けているのですね。
 
湯井)訓練は10年続けています。
 
西村)難しいことを訓練して慣れさせていくこともひとつの防災なのですね。
 
湯井)慣れることができたら、できないと諦めることが少なくなります。慣れることは大事なこと。
 
西村)一般の避難所に息子さんと一緒に行ったとしたらどうなると思いますか。
 
湯井)受付で並ぶことから耐えられないと思います。そういう場所は彼にとっては避難場所ではないと思います。
 
西村)肩をたたかれて、「こっちにお弁当あるから取りにおいで」と知らない人に言われたらどうなりますか。
 
湯井)大パニックになると思います。知的障がいが重い人は、自分の目の見える範囲しか理解できません。後ろから肩を叩かれるのは、暗闇から手が出てくるようなもの。
 
西村)わたしたちが想像する以上にいろんなことが怖いのですね。そのような障がいがある息子さんは、学校などの避難所に行くのは難しいので、福祉避難所があるのですね。
 
湯井)生活全般に支援が必要な人は、自分が慣れ親しんだ福祉関係の事業所や特別支援学校に避難して、避難生活を送ります。高齢者や障がい者の入所施設が、福祉避難所として各市町村から指定されています。指定された福祉事業所や特別支援学校では、避難者の滞在に使う物品を保存してあり、防災計画にそって繰り返し訓練が行われています。
 
西村)福祉避難所は全国にどれぐらいあるのですか。
 
湯井)全国に2万6000ヶ所以上あります。これからどんどん増えていくと思いますが、公示していない市町村もあります。
 
西村)大阪市のホームページを見ると、福祉避難所は約360ヶ所あります。リストには施設名と住所が記載されています。公表していない施設もあるのはなぜですか。
 
湯井)災害が起きたときに本当に使えるかどうかわからないからです。公示することによって、たくさんの人が押し寄せると、福祉事業所側が困ってしまうからです。
 
西村)福祉避難所として指定されている施設が被災してしまったら、開設できないですもんね。そこに大勢の人が詰めかけてしまうということは、過去の災害でもあったのでしょうか。
 
湯井)熊本地震や能登半島地震でもありました。熊本地震では90%以上の建物が被災。高齢者施設は2000年以降に建てられている新しい建物が多いので、みなさんトイレを求めて避難してきました。福祉事業所しか空いてないから、高齢者や障がい者だけではなく、一般の人もトイレを使うために押し寄せました。
 
西村)受け入れるスタッフは足りていましたか。
 
湯井)能登半島地震は日中に起こりましたが、正月で職員の数が少なかった。トンネルや道も被災していたので、職員が遠くから施設に来ることができませんでした。少ない職員で数百人の避難者のケアをした福祉事業所も。能登半島は高齢者が多く、極寒の時期でした。停電で寒く、余震も怖い。津波避難も必要だったので、高台にある福祉事業所にみなさんで避難したそうです。
 
西村)ただでさえ、いつも通っている利用者、高齢者でいっぱいだったでしょう。
 
湯井)認知症の高齢者約70人をスタッフ5人ぐらいでケアしたそうです。何も起きていなくても大変なのに、電気も水道も使えない。揺れの影響でスプリンクラーが誤作動して、施設中水浸しになり、高齢者の布団を片付けて、暖房も効かない中、着替えをさせる。それを70人分。5人で面倒を見ないといけない。さらに外からの避難者の対応...。もう無理ですよね。とても過酷な状況だったと思います。
 
西村)わたしたちは、どうしたら良いのでしょうか。
 
湯井)まずは自分で備えをしておくことが基本。南海トラフ地震の場合、最大で大阪府全域で震度6弱の揺れになります。逃れようがないので、震度6弱に耐える家に住んでおくことも大事。丈夫な家に住んだ上で、家具の固定をきちんとしておく。少なくとも寝屋には、背の高い家具は置かない。なるべく物の少ないシンプルな生活を心がけて過ごす。水・食料と薬、トイレの備蓄をして、なるべく在宅で過ごせるようにしておくことが大事です。
 
西村)湯井さんは、薬など1ヶ月分準備しているのですね。
 
湯井)水は300Lほどあります。無洗米は15kg。ガスボンベは15本。我が家は鍋料理が多いので、どんどん使って新しくしています。
 
西村)ローリングストックですね。しっかり備えをしておくことは、高齢者、障がいのある人だけではなく、みんなに必要なことですね。家が住めなくなって、福祉避難所に行く場合、どのような手順で行くことができるのですか。
 
湯井)市町村が福祉事業所や特別支援学校に指示し、福祉避難所を開設しますが、これまでの災害で順調にいった例はありません。避難者を受け入れた段階で、福祉避難所は機能するので、高齢者や障がい者を受け入れた段階で開設となります。
 
西村)避難に対してどんな備えをしておけば良いでしょうか。
 
湯井)各市町村が、災害時避難行動要支援者名簿を作っています。その名簿に従って、個別避難計画作っておきます。日頃通っている特別支援学校や福祉事業所に避難の相談をして、避難先が決まったら各自治体に届け出を出します。
 
西村)特別支援学校に通っている児童・生徒が、学校と話し合いをしている例もあるのでしょうか。
 
湯井)そのような学校が増えてきました。
 
西村)特別支援学校に通っている児童・生徒は、どのように話し合いを進めて、どんなことを決めているのですか。
 
湯井)特別支援学校は、校舎は一般の学校と同じ。福祉避難所として使えるところは体育館・教室です。一般の学校と比べて、医療的ケアができる物品の充実、バリアフリーなどの施設面のメリットは大きいですが、長期滞在には少し問題があります。
 
西村)どんな問題ですか。
 
湯井)長く生活していく上で生活環境はすごく大事。プライバシーが守られて、きちんとしたベッド・布団で寝られて、家族と一緒に過ごすことができる場所。そこに福祉サービスがなければ、障がい者・高齢者は、どんどん弱ってしまうのです。
 
西村)能登半島地震で被災した障がいのある人はどうなったのでしょうか。
 
湯井)大変な思いをしていました。福祉事業所で家族と一緒に生活をするのですが、雑魚寝状態です。福祉避難所の数が足りないので、どうしても雑魚寝になります。職員さんは献身的に支えてくれていました。
 
西村)一般の避難所に行くのは難しかったのですね。
 
湯井)一般の避難所は、市町村立の小学校・中学校。知的障がいをもつ子どもが、家族と一緒に学校に避難をしたのですが、学校も被災しているし、大勢の人が集まっていて、普段通っている特別支援学級にも知らない人がいる。そうなるとパニックを起こます。それで、親御さんも一緒に追い出されてしまう事例もありました。
 
西村)しっかりと準備をしておかなければならないですね。
 
湯井)避難している一般の人たちも怖い思いをしています。そんな中で、みんなのルールに従えないと一緒には生活していけません。そのためにあるのが福祉避難所。お父さんやお母さんが、お子さんのパニックがクールダウンするまで、心身ともに健やかに生活していける場所を考える間だけでも、特別支援学校で生活ができたら。慣れ親しんだ先生と話をして、勇気を奮い起こして、そこから新たな生活再建を考えられたらと思います。
 
西村)湯井さんどうもありがとうございました。

第1538回「防災の大切さを伝える中学生防災士」
ゲスト:中学生防災士 佐藤愛美さん

西村)2003年から資格試験が始まった「防災士」は、社会のさまざまな場所で、防災・減災活動ができる知識と技能を証明する民間資格です。2月末時点で約35万3000人が防災士として認証されています。
きょうは、中学生の防災士、佐藤愛美さんにスタジオにお越しいただきました。
 
佐藤)よろしくお願いいたします。
 
西村)愛美さんは今、おいくつですか。
 
佐藤)14歳です。この春から中学3年生になります。
 
西村)防災士講座や資格試験を受けて防災士になったのですか。
 
佐藤)はい。昨年の10月に防災士になりました。
 
西村)試験は難しかったですか。
 
佐藤)少し難しかったです。
 
西村)愛美さんが防災士の資格を取ろうと思ったきっかけは?
 
佐藤)わたしが生まれた2011年に東日本大震災や紀伊半島大水害などさまざまな災害が発生して、たくさんの命が失われました。そのような災害から少しでも多くの命を救うために、わたしにもできることがあるのでは...と防災士の資格を取得しました。
 
西村)すばらしいですね。防災士としてどのような活動をしているのですか。
 
佐藤)地域のイベントや図書館などで、「防災教室」を開いています。ほかに、ケーブルTVへの出演やSNSの発信を通して、防災に関する啓発活動を行っています。
 
西村)去年の10月に防災士を取得したばかりで、さまざまな活動をしているのですね。先月、「和歌山幼保小教育フェア」のイベント会場で「まなちゃんの防災教室」が開催されました。和歌山県の幼稚園・保育園・小学校の児童や保護者を対象にしたイベントです。その模様をお聞きください。
 
音声・佐藤)智辯学園和歌山中学校2年生の佐藤愛美です。わたしが生まれた平成23年には、東日本大震災や紀伊半島大水害などのさまざまな災害が発生しました。一瞬で命が奪われる災害から少しでも多くの命を救うために、わたしにもできることがあると思い、防災について学んで、防災士の資格を取得しました。
きょうは、災害が起こったときに役立つ「紙食器」を作りたいと思います。新聞紙1枚でお皿を作ることができて、この中におでんやジュースを入れて、飲んだり食べたりすることができます。
次に、絵本を紹介します。わたしが生まれた2011年に紀伊半島豪雨が発生して、和歌山県内では、土砂災害が多発。三重県・奈良県・和歌山県の3県で亡くなった人、行方不明になった人が88人という大きな被害でした。この水害の教訓を子どもたちに伝える絵本が、『川がパンクしちゃった! もりのがっこう と どうぶつたち』という絵本です。では、絵本を読みます。
 
(絵本の朗読)
 
最後に「防災〇✕クイズ」をします。
第1問「学校の中で、地震が起きたときは急いで外に出る」〇or✕
答えは✕です。外に急いで出るととても危険です。家や学校の中で地震が起きたときは、その場で頭や体を守りましょう。
 
最後まで聞いてくれてありがとうございました。ひとりひとりの助け合いの気持ちが多くの命を救うことにつながります。これから起きる災害に対して、少しでも防災意識が高まるとうれしいです。本日はありがとうございました。

 
西村)「まなちゃんの防災教室」楽しいですね。小さなお子さんも〇✕クイズに参加している声が聞こえてきました。「まなちゃんの防災教室」を企画した智辯学園和歌山小学校の瀬戸研司先生と防災教室に参加した児童に感想を聞きました。
 
音声・ディレクター)「まなちゃんの防災教室」いかがでしたか。
 
音声・瀬戸)伝えたいことを一生懸命語る姿に、心を打たれて、防災の大切さを学ぶことができたと思います。
 
音声・ディレクター)今何年生ですか。
 
音声・小学4年生)4年生です。
 
音声・ディレクター)「まなちゃんの防災教室」に参加してみていかがでしたか。
 
音声・小学4年生)防災についてよくわかりました。新聞紙でいろいろなものを作れることが勉強になりました。川がパンクすることの理由がわかりました。とてもびっくりしました。
 
音声・ディレクター)何年生ですか。
 
音声・小学6年生)6年生です。災害が来るかも知れないので怖いと思ったし、備えないといけないと思いました。
 
音声・ディレクター)何が一番勉強になりましたか。
 
音声・小学6年生)お皿の作り方が簡単で、ためになりました。
 
音声・ディレクター)「まなちゃんの防災教室」に参加して防災力は上がりましたか。
 
音声・小学6年生)知らなかったことでわかったことが多かったです。
 
西村)瀬戸先生と参加者の児童2人の感想を聞いてもらいました。瀬戸先生のお話を聞いていかがですか。
 
佐藤)瀬戸先生はわたしが小学校3年生・4年生のときの担任の先生です。中学校の先生や母校の先生も、防災士としての活動をたくさん応援してくれているので、とても心強いです。
 
西村)まなちゃんをきっかけに防災の輪が広がっているんですね。参加者の児童は、いろんな発見があったようですね。みんなの感想を聞いてどう思いますか。
 
佐藤)これからももっとみなさんに防災・減災の大切さを伝えていきたいと思いました。
 
西村)防災クイズの内容は自分で考えているのですか。
 
佐藤)お母さんに相談しつつ、ほとんど自分で考えています。
 
西村)ここで、ぜひクイズを出してもらえますか。
 
佐藤)わかりました。ではクイズです。「避難グッズを入れた非常持ち出し袋は、すぐに食べ物を入れられるように台所に置いておく」〇か✕か?
 
西村)非常持ち出し袋をどこに置くか...。台所に置いていたら、ジュースやみかんの缶詰など、子どもたちが好きなものをパパっと入れて避難できそう...。正解は〇!
 
佐藤)✕です。非常持ち出し袋は、玄関など家の出入口に近いところに置きます。車のトランクや外の物置などすぐに取り出せる場所に置いておくと、家が被害を受けてもすぐに取り出せるので安心です。
 
西村)そうですね。何も入れていないリュックだけ台所に置いていても、あわてて逃げるから、落ち着いてものを入れられないですよね。「防災教室」の中で、絵本の読み聞かせもしていました。紀伊半島大水害の教訓を伝える絵本『川がパンクしちゃった! もりのがっこう と どうぶつたち』を選んだのはなぜですか。
 
佐藤)私は15年前に発生したこの大水害は体験していないのですが、和歌山県に旅行に行ったときに、水害の爪痕を目にしたことがきっかけで、防災士を目指すようになったからです。
 
西村)どんな爪痕を見たのですか。
 
佐藤)土砂が流れてきている写真を見て、水害の恐ろしさを感じました。
 
西村)この絵本を読んで、どうでしたか。
 
佐藤)絵もわかりやすく、子どもたちにも伝わる絵本だと思います。
 
西村)この日のイベントを振り返っていかがですか。
 
佐藤)この絵本の作者である和歌山大学の後(うしろ)先生にもお会いできました。先輩たちが残してくれた水害の記憶をわたしたちが伝えて行きたいです。
 
西村)この絵本、とても絵がかわいいですよね。
 
佐藤)最高です。"推し"の絵本です!
 
西村)『川がパンクしちゃった! もりのがっこう と どうぶつたち』、まだ読んだことないという人は、ぜひ読んでみてください。これから防災士として、どんな活動をしていきたいですか。
 
佐藤)現在、日本防災士会大阪府支部で小中高生の防災士5人で、いろいろなイベントで活動しています。これからも若い世代のわたしたちの視点で情報を発信して、老若男女問わず、防災活動の幅を広げていきたいと思っています。
 
西村)防災士と聞くと、大人ばかりかなと思っていたんですけど、小中高校生の防災士5人でグループを作っていると聞いてびっくりしました。この5人だからこそ出るアイディアもきっとあるのでしょうね。1人で考えるのと、5人でアイディアを出し合うのは違いますか。
 
佐藤)全然違います。
 
西村)どんなところが違いますか。
 
佐藤)みんなそれぞれ違う案を持っているので、ひとりで考えるよりより良い防災をみなさんに発信することができます。
 
西村)まなちゃんに憧れて、「わたしも防災士になる」という子もこれから増えていくと思います。まなちゃんが中学生防災士として、リスナーに伝えたいことは何ですか。
 
佐藤)これから日本では、少子高齢化となるので、身近な対策が必要です。ひとりひとりの助け合う気持ちが命を救うとことにつながると思います。日頃から災害に備えて、家族で防災について話し合って欲しいです。災害が起こる可能性が高まったときは、近所の人と声を掛け合って、早め早めの避難を心がけて欲しいです。
 
西村)声を掛け合うことが大切ですね。
 
佐藤)これから起こる災害に対して、防災意識が少しでも高まってくれればうれしいです。
 
西村)きょうは、制服姿でしっかりと思いを伝えてくれました。中学生防災士の佐藤愛美さん、どうもありがとうございました。

第1537回「東日本大震災15年【4】~釜石の語り部」
オンライン:語り部 川崎杏樹さん

西村)岩手県釜石市にある「いのちをつなぐ未来館」は、東日本大震災の伝承と防災学習に取り組んでいる施設です。
きょうは、東日本大震災で被災し、現在は、「いのちをつなぐ未来館」で語り部をしている川崎杏樹さんにお話を聞きます。
 
川崎)よろしくお願いいたします。
 
西村)川崎さんが経験した15年前の3月11日の事を教えてください。
 
川崎)当時は釜石東中学校の2年生でした。体育館で部活動の準備体操をしているときに揺れが発生。立っていることができないくらいの大きな揺れでした。その場にしゃがみ込んで、なんとか耐えました。かなり大きく長く揺れたので、「津波が来る」と思い、すぐに校庭へ避難しました。
 
西村)教室にカバンや上着を取りに行こうとは思わなかったのですか。
 
川崎)そういうことは全く考えなかったです。「すぐ逃げなければ!」と思いました。
 
西村)周りの友達はどうでしたか。
 
川崎)同じようにすぐに一緒に行動し、校庭へ向かいました。
 
西村)パニックになっている人はいませんでしたか。
 
川崎)パニックになって動けない生徒はいませんでしたが、過呼吸になった生徒はいました。
 
西村)すぐに避難を開始して、どのように行動しましたか。
 
川崎)学校から800m離れた場所にある、いつも避難訓練で行っている場所へ行きました。
 
西村)普段から避難訓練をしていたのですね。どれぐらいのペースで避難訓練をしていたのですか。
 
川崎)年に1~2回程度です。
 
西村)避難訓練を繰り返しすることで、避難行動が体にしみ込んでいたのですね。
 
川崎)はい。当日も迷わず行動しました。避難場所に到着した後、一時待機をしていたら、すぐ裏手側の山で崖崩れが発生して。近所の人からアドバイスがあり、さらに高台へ避難しました。
 
西村)そのとき周りのようすはどうでしたか。
 
川崎)泣いている人もいれば、迅速に避難しようと動いている人もいて、さまざまでした。
 
西村)周りは同じ中学校の生徒ばかりだったのですか。
 
川崎)中学生と小学生、近所の人や迎えに来た保護者もいました。
 
西村)小学生のようすはいかがでしたか。
 
川崎)年齢によって理解度が違うので、ポカンとしている子もいれば、泣いてしまう子もいました。
 
西村)泣いてしまった子にはどんなふうに声をかけましたか。
 
川崎)一緒に避難するときに近くにいた子には、「みんなと一緒だから大丈夫だよ」と声をかけながら避難しました。
 
西村)最終的にどこまで避難したのですか。
 
川崎)学校から約1.6km離れた場所にある「恋の峠」という高台へ避難しました。
 
西村)1.6km...かなり時間がかかったのではないですか。
 
川崎)40~50分ほどかけて避難をしました。
 
西村)体力的にはしんどくなかったですか。
 
川崎)不思議と疲れた感覚はありませんでした。津波を見た直後は、「いつ死ぬかわからない」と高いところへと逃げるのに必死でした。
 
西村)津波を見てどう思いましたか。
 
川崎)津波を見た瞬間は頭が真っ白で、何も考えられなかったです。津波が街全体を飲み込んで、街がなくなっていきました。「死ぬかもしれない」と感じたので、必死に高台へ避難しました。
 
西村)高台に避難したあとは、どうなりましたか。
 
川崎)そこからさらに9kmほど移動して、途中で通りかかったダンプカーの荷台に乗せてもらって、避難所の体育館に移動しました。指定避難所ではない場所でしたが、津波の被害を受けなかったので急遽避難所になった場所です。
 
西村)避難所に到着したときはどんなふうに感じましたか。
 
川崎)「やっと室内に入れる!」と思った記憶があります。日が暮れたあと、雪が降ったので、かなり寒かったです。
 
西村)カバンや飲み物などなにも持っていなかったんですよね。
 
川崎)何一つ持たずに避難をしました。
 
西村)当時、釜石市には9m近い津波が押し寄せ、1000人を超える死者行方不明者が出ました。しかし、川崎さんが通っていた釜石東中学校と隣の鵜住居小学校の児童・生徒約570人は無事に避難。これは、のちに「釜石の奇跡」と言われ、メディアで報道されました。川崎さんは、「釜石の奇跡」と呼ばれたことについてどう思いますか。
 
川崎)わたしや地域の人たちは、"奇跡"とは感じていません。わたしたちは普段から学校で防災学習に取り組んでいたので、助かった人は多いですが、犠牲になってしまった人もいるからです。
 
西村)学校の防災教育では、どんなことを教わってきたのですか。
 
川崎)まずは地震や津波の特徴やメカニズムなどの基礎知識を学び、避難訓練でさまざまな想定を取り入れながら体験をしました。ケガの応急処置、ハザードマップ作りなどさまざまな活動に取り組んでいました。
 
西村)それがいかされた実感はありますか。
 
川崎)防災学習がなければ、助かってなかったと思います。
 
西村)中学2年生の川崎さんは、震災を経験してどんなことを感じましたか。
 
川崎)わたしの家族はみんな助かったのですが、ほとんどの同級生の家が流され、家族の誰かを失った人もいます。「当たり前が当たり前ではない」ということに気づきました。当時いろんなものを失った体験をして、もう二度と大切な人に会えなくなったら嫌だな、と思います。日常生活では、家を出るときは「いってきます」と家族とコミュニケーションを取るようにしています。
 
西村)いつでも会えると思うから挨拶をしない、喧嘩していても仲直りしないままいたりすることもありますよね。川崎さんの故郷、釜石についてどう思いますか。
 
川崎)釜石はすごくいいところだと思います。景色も町の人も素敵で、食べ物も美味しいです。震災前は「ただの田舎町」と思っていたのですが、震災後に来てくれた全国各地のボランティアの人たちが、釜石のいいところをたくさん教えてくれました。
 
西村)食べ物は、どんなものが美味しいですか。
 
川崎)ほたて貝、海藻類、ウニ、魚などの海産物、秋や春は、タラの芽やコゴミなどの山菜...何でも美味しいです。
 
西村)食べに行きたくなりました。そんな釜石で川崎さんは語り部をしています。「いのちをつなぐ未来館」ではどのような防災教育を行っているのですか。
 
川崎)わたしの当時の体験談に加えて、津波の被害状況、当時の出来事をまとめた展示物の掲示、実際にわたしたちが避難をした避難路の追体験など防災をテーマにしたワークショップも行っています。
 
西村)川崎さんたちが避難した避難路の写真を見たのですが、なかなか険しい道ですね。
 
川崎)はい。結構きつい坂道でした。
 
西村)ワークショップには、どんな人が参加しているのですか。
 
川崎)小学生からお年寄りまで、幅広い年齢の人に参加してもらっています。
 
西村)参加したみなさんは、どんなふうに感じられているのでしょう。
 
川崎)みなさん、新聞やテレビで何となくイメージはしているようですが、実際に避難行動を体験すると、「イメージとは違った」「驚いた」と言います。
 
西村)体験ができる施設は貴重だと思います。東日本大震災の発生から先日3月11日で15年を迎えましたが、震災の伝承施設への来館者が減っているそう。「いのちをつなぐ未来館」の来館者数はどうですか。
 
川崎)来館者は、年間約2万5000~3万人です。来てくれる人は、ある程度防災意識が高い人が多いので、いろんなお話を持ち帰って、学んでもらっているという実感があります。
 
西村)川崎さんは語り部として、若い世代にどんなことを伝えていきたいですか。
 
川崎)生きていなければ何もできないので、まずは「助かること」「生きること」を伝えたいです。そして、「助かったのはなぜか」を次の世代に伝えてほしいです。
 
西村)川崎さんは、この15年間、つらいとき、悲しいときはありましたか。
 
川崎)振り返ってみると大変だったことも多いですが、こういうふうに感じることができるのは、生きているからこそ。わたしたちが助かった教訓を伝えて、少しでも犠牲者が減ればと思っています。
 
西村)これからはどういう防災教育をしていきたいですか。
 
川崎)わたしたちが助かったのは、楽しく学ぶ防災学習のおかげ。それをたくさんの人たちに知ってほしい。生徒たちが興味・関心を持てるものがいいと思います。子どもたちが体験をして、面白いと思えたら、新たな興味・関心につながっていくと思います。
 
西村)今、子供たちに人気のワークショップはありますか。
 
川崎)防災運動会や安否札を作るプログラムは、子どもたちに人気があります。
 
西村)楽しい経験が命を守ることにつながるのですね。家族も一緒に楽しみながら防災を学ぶことができそうですね。
 
川崎)楽しいと次につながりやすくなります。子どもたちだけではなく、家族や学校全体に防災教育が広がっていってほしいです。
 
西村)川崎さんどうもありがとうございました。

第1536回「東日本大震災15年【3】~遺族が取り組む『企業防災』」
ゲスト:一般社団法人「健太いのちの教室」田村孝行さん

西村)きょうは、東日本大震災のシリーズ3回目をお届けします。ゲストは宮城県女川町で、津波により当時25歳の息子さんを亡くされた田村孝行さんです。
 
田村)よろしくお願いいたします。
 
西村)息子さんの健太さんは、震災当時、親元を離れて女川町の七十七銀行に勤務していました。銀行から走って1分のところに高台がありましたが、支店長の指示で屋上へ避難し、津波にのまれて亡くなりました。田村さん、改めて当時の状況を教えてください。
 
田村)15年前、息子は東京の大学を卒業し、七十七銀行女川支店に勤めていました。女川町は震度6弱の地震に見舞われました。宮城県には6mの大津波警報が発令され、防災無線から鬼気迫る呼びかけが行われていました。銀行は10mの2階建てでした。地震発生時、支店長は不在。行員は指示のないまま片付けをしていました。2人いたお客さんは、自らの判断ですぐに避難していったそうです。
 
西村)片付けた後どうなったのですか。
 
田村)2時46分に地震が発生した約10分後に支店長が戻ってきました。息子は地震が起きたあと、いつでも逃げられるように銀行の入口の扉を開けていたらしいんです。しかし、帰ってきた支店長は、先輩の行員と息子に「扉を閉めなさい」「書類を金庫にしまいなさい」「屋上に行って、海の様子を見ていなさい」と指示を出したんです。扉を閉めてしまったので、企業管理下の密室になってしまいました。
 
西村)息子さんはいつでも外に逃げられるようにしていたのですね。屋上に避難してからどうなったのですか。
 
田村)行員は13人いました。1人のパートさんは、「子どもが小さいから帰りたい」と何度も折衝して帰りました。残った13人は、だんだん津波が迫ってきて、屋上にあがりました。町の指定避難場所は銀行から260m先の海抜16mの高台にある4階建ての病院。裏には標高50mの堀切山があります。ゆっくり歩いても3分の場所です。目の前の堀切山には、街の人が集まってきている。息子は「高台に避難しよう」先輩の行員に言ったそうです。この話は、奇跡的に助かった1人の行員から銀行を介して聞いた話です。その人は、海に流されて、岩にしがみついていたところを漁船に助けられたそうです。12人が犠牲になりました。4人は見つかりましたが、8人は今も行方不明です。
 
西村)息子さんは、裏の高台に逃げなかったということですか。
 
田村)逃げたくても逃げられなかった。支店長の指示命令で動くことができなかったんです。息子も「本当にここで大丈夫なのか」と考えていたと思うのですが、やはり企業管理下における指示命令の中では動けなかった。男性は転勤族が多かったですが、女性は現地の人が多かったので、「地震のときは山に逃げなければならない」とわかっていたけど、それが言えなかった。これは、企業管理下の組織の課題だと思います。
 
西村)銀行の屋上の高さは何mだったのですか。
 
田村)10mです。その上に電気室があって、30cm幅の垂直のはしごがついた3.5mの塔屋がありました。津波は約30分後に来ました。逃げ場を失った13人の行員ははしごを使って塔屋に登りました。塔屋は畳2枚ぐらいしかない広さで手すりもない。当時は雪が降って寒い中、女性の行員はスカートで登りました。それを堀切山からみんなが見ていました。「なぜ銀行の人は屋上にいるんだ」「こちらに来なさい」と大きい声で呼ぶけど、銀行の人たちは来ることはできなかった。津波がおしよせてきたのが15時25分頃です。
 
西村)健太さんは同僚に「裏の堀切山に逃げなくていいのか」と話していたのに...。
 
田村)そのような言葉を残していました。危険性は十分に知っていたんです。行員たちは、13.5mの塔屋からどんどん流されました、最後の行員はスーツの上着を脱ぎ捨てて、手を広げて、特攻隊のように飛び込んだそうです。流木や瓦礫に捕まって何とか急死を得ようしたのだと思います。息子は半年後に見つかりました。
 
西村)半年も見つからなかったのですか...。
 
田村)半年後に見つかった息子は、ネクタイにワイシャツ姿でした。わたしは、最後の上着を脱ぎ捨てて飛び込んだ人物は健太なのだろうと思っています。
 
西村)何mの津波が襲ってきたのですか。
 
田村)約20mです。遡上するともっと高くなっていたはずです。
 
西村)屋上は10mしかなかったんですね。
 
田村)宮城県の情報によると、宮城県沖地震は99%起きるといわれていました。女川町には、5.9mの津波が来ると想定していた。女川町の場所はリアス式海岸。Vの字になっていて、津波が2~3倍に増える。5.9mの2~3倍となると、20m以上の津波が来てもおかしくない。過去にも三陸沖にはそれ以上の津波が来ているんです。でも銀行は10mの建物を安全な場所と判断したのです。
 
西村)屋上に上がっていれば、大丈夫だろうと...。
 
田村)銀行によると、震災発生の2年前に防災プランを改定したとのこと。町の指定避難場所は堀切山ですが、堀切山よりずっと低い銀行の屋上も、堀切山と並列した避難場所として使うと付け加えた。緊急時対応プランがあると我々に言うんです。なぜ町の指定避難場所ではなく、民間企業が勝手に決めた屋上が避難場所になるのかが疑問です。
 
西村)リアス式海岸のため、波が遡上して高くなることは知っていたのでしょうか...。
 
田村)調べていたのかはわからないのですが、県からアドバイスをもらったと主張していました。しかし、県に照会をすると、一企業に防災プランのアドバイスはしないと。わたしは原因を究明して、改善していかなくてはならないと思いました。そして、女川支店の行員の家族全員に手紙を書いて、みなさんを集めて家族会を作ったんです。銀行との話し合いは5回ほどしましたが平行線。曖昧にしてしまう。肝心なことを濁らせてしまう。「支店長判断はやむを得なかった」「想定外の津波のためしょうがない」と言うんです。あまりも冷たくて話し合いは紛糾しました。
 
西村)田村さんはその後「健太いのちの教室」という団体を立ち上げて、働く人の命を守る企業の防災対策の必要性を訴え続けているのですね。南海トラフ巨大地震、首都直下地震など、これから大きな地震が予想されています。同じ過ちを繰り返さないために企業はどんな取り組みをすれば良いと思いますか。
 
田村)わたしたちが法人を立ち上げたのは、息子が命をかけて教えてくれたこの教訓を生かすため。大企業の心を動かすためです。人命第一の企業文化を作っていかなければならない。愛情や優しさによる人の心があれば、経済合理性よりも命を優先するはず。根本は企業のあり方。風通しの良い、誰もが柔軟に語り合えて仕事ができる職場環境を作ることが命を守ることにみつながっていく。日本はどうしても組織の中に同情圧力や縛りが出てきますよね。
 
西村)当時25歳で若い息子さんは、なかなか意見が言いにくかったのかもしれないですね。
 
田村)上意下達といった日本古来の良くない風潮が最悪の結果を招く可能性もあります。これを変えていきたいと思っています。
 
西村)自分の意見を受け止めてもらえる職場の環境作りが大切ですね。
 
田村)あとは具体的な対策が必要。コンサルタントに任せるのではなく、個々のリスクを自分で調べること。みんなで意見を出し合って、即効性のある訓練を繰り返しながらバージョンアップしていく。より実効性にやっていかなければ、いざというときに体は動きません。わたしたちの事案をケーススタディとしている静岡銀行では、各支店のリスクを出して、行員全員で意見を出し合いながら、避難場所や備蓄を進めています。静岡県は津波の危険性もあるので、シェルターを設置するなど、人命第一の備えをしているんです。地域の人々と一緒に訓練もしています。一番すごいのは、マニュアルを変えたこと。七十七銀行は、資産保全がメインでした。例えば、有事の際には「本部に連絡する」「書類をしまう」など。これが縛りになって体が動かなかった。でも静岡銀行は、「有事の際は金庫や店舗の施錠も不要」と言い切った。本当に命を守るためのマニュアルに変えたんです。第1は従業員、そしてお客さん。七十七銀行にも変わって欲しいのですが...。いつかは変わってくれると思っています。わたしは銀行を責めも、憎みもしていません。銀行と一緒にこの事案に向き合って、安全啓発に努めていきたいと思っています。
 
西村)田村さんどうもありがとうございました。

第1535回「東日本大震災15年【2】~23歳の語り部」
ゲスト:語り部 岩倉侑さん

西村)きょうは、東日本大震災のシリーズ2回目をお届けします。ゲストは、東日本大震災で被災し、自身の避難生活や震災の教訓などを語り継いでいる岩倉侑さんです。
 
岩倉)よろしくお願いいたします。
 
西村)岩倉さんは現在23歳。社会人1年目ですね。
 
岩倉)はい。この春で2年目になります。
 
西村)今はどちらにお住まいですか。
 
岩倉)兵庫県西宮市に住んでいます。
 
西村)どんなお仕事をしているのですか。
 
岩倉)大阪のインフラ企業で働いていて、毎朝新大阪に出社しています。
 
西村)岩倉さんが経験した15年前の3月11日のことを教えてください。
 
岩倉)当時、宮城県の石巻市という海が近い町に住んでいました。小学校の2年生の終わりの3月の出来事でした。8歳のときです。
 
西村)何をしているときに揺れが起こったのですか。
 
岩倉)教室で「帰りの会」をしている最中に揺れが来ました。3分間ほど揺れが続いたのですが、小学生の力では支えられないほどの揺れが襲ってきたのを良く覚えています。
 
西村)どう行動したのですか。
 
岩倉)避難訓練していたように机の下に潜ったのですが、2~3mほど離れたところまで机ごと動いてしまいました。
 
西村)ケガはなかったですか。
 
岩倉)ケガはなかったです。
 
西村)良かったです。そこからどうしたのですか。
 
岩倉)すぐに教室から校庭に逃げました。その後、学校の裏にあった高台に避難しました。小学校から海までは、子どもの足で10分かからないくらい海に近い場所だったので、津波から避難するために高台に逃げました。
 
西村)岩倉さんが通っていた小学校は、宮城県石巻市にある門脇小学校。今は震災遺構になっていますね。高台とは、裏の日和山のことですか。
 
岩倉)そうです。小高い丘のような場所です。
 
西村)日和山に避難したときは、大津波警報は出ていたのですか。
 
岩倉)出ていました。校庭の防災無線のスピーカーからずっと大津波警報のサイレンが鳴っていました。
 
西村)日和山への坂道を登っていたとき、どんな気持ちでしたか。
 
岩倉)何にも考えていませんでした。最初の揺れ以降もかなり強い揺れが何度もやってきて。揺れに耐えながら高台に逃げることに気持ちが向いていたと思います。
 
西村)日頃からの避難訓練で、みんなで逃げる練習をしていたのですね。
 
岩倉)はい。全員で高台まで逃げて、列の最後尾の人が山の中腹くらいまで来たら学校に戻る...という訓練をずっとしていました。
 
西村)どれぐらいの頻度で訓練をしていたのですか。
 
岩倉)1学期に1回ぐらいのペースでやっていました。
 
西村)避難訓練の成果が出て、みんなでさっと行動して、逃げることができたのですね。
 
岩倉)実際に揺れたあとに逃げる経験は初めてだったのですが、訓練より時間がかかったなどの混乱はなく、スムーズに避難することができました。
 
西村)やっぱり訓練は大切ですね。
 
岩倉)「地震が起きた時にこうしよう」と想像しているだけでは、人は動けない。訓練と同じように行動することしかできないのだと感じました。
 
西村)みんなで日和山に登ってその後どうなったのですか。
 
岩倉)頂上にある少し広めの公園まで登り切りました。避難が終わったときにちょうど津波がやってきました。津波そのものは見ていませんが、波が高台にぶつかったときの凄まじい音と衝撃は覚えています。波が自分の足元の山を切り崩すような感覚があって。高台に逃げられたけど、「死ぬんじゃないか」と思いました。
 
西村)小学2年生でそんな経験をしたのですね...。門脇小学校の児童224人は校内にいましたが、津波が来る前に日和山に避難して全員が無事だったとのこと。学校はどうなったのですか。
 
岩倉)2m前後の津波が学校にも到達しました。さらに津波火災もありました。津波と火事は水と火なので、同時に被害を受けるイメージはあまりないと思います。津波で流れてくるゴミや瓦礫に火がついたり、流れてくる車のガソリンが漏れて、引火して火事が起きたり。その火が校舎にも燃え移りました。
 
西村)自宅はどうなったのですか。
 
岩倉)海と小学校の中間にあった自宅は津波と火災でなくなってしまいました。約2ヶ月後のゴールデンウィークに初めて自宅の目の前まで行きました。そのときにはもう土台しか残っていませんでした。
 
西村)家族は無事でしたか。
 
岩倉)わたし含めて6人家族、全員無事で生き残ることができました。
 
西村)良かったですね。家族とはいつ、どれぐらいのタイミングで会うことができましたか。
 
岩倉)祖父母と妹の3人とは、地震発生直後に避難した高台で合流することができました。
 
西村)会ったときの気持ちは、覚えていますか。
 
岩倉)高台に迎えに来てくれるとは思っていなかったので、「何でここにいるの」と驚いたのを良く覚えています。それと同時に、家族といるとすごく安心でした。本当に「来てくれてありがとう」という気持ちでした。
 
西村)家族は、小学校で地震が起こったら日和山に避難することを知っていたのですか。
 
岩倉)知らなかったです。祖父母と妹がわたしを迎えに小学校まで来たのですが、すでにわたしは高台に逃げていたので、それを追いかける形で高台に来て頂上で合流したという流れです。
 
西村)そうだったのですね。日頃からどこに避難するか、連絡手段などを共有しておくことが大切だと思います。何よりも家族が無事で本当に良かったです。
 
岩倉)両親は、地震発生当時は、石巻市にいませんでした。母は宮城県・仙台市に用事で行っていて、父は単身、群馬県で働いていました。地震の知らせを聞いて、翌日の3月12日には2人とも一緒に町に戻ってきました。夜通し車を運転して。12日の昼ごろには石巻市にいたらしいのですが、わたしと再会できたのは3日後の3月14日でした。
 
西村)そうだったのですね。お父さんとお母さんに会うまでは不安だったのではないですか。
 
岩倉)祖父母と妹がいたので、心配で仕方ないということはありませんでした。ただ両親の姿がないことは、わたしも妹も気づいていたので、もしかしたら2人がいるところは自分のいるところよりもっと大きな被害があって、もしかしたら亡くなったのではないかと感じていました。
 
西村)両親と会えたときはどうでしたか。
 
岩倉)映画のワンシーンのように抱き合ったことを良く覚えています。わたしは、震災の当日に高台の避難所に移ったのですが、震災の3日後、両親はその避難所に来てくれました。畳敷きの柔道場に100~200人がぎゅうぎゅう詰めで避難をしていて。両親は、避難所を転々と探す中で、柔道場に行きついて迎えに来てくれて。「ここにいたんだ!」とみんなで抱き合ったのを覚えています。
 
西村)その後は、家族でその避難所にいたのですか。
 
岩倉)別の避難所に行きました。
 
西村)ご飯は食べられましたか。
 
岩倉)両親と会うまでの3日間は、1回しか配給がもらえませんでした。
 
西村)1回だけだったんですか!何を食べたのですか。
 
岩倉)家族4人に紙コップ一杯の水、小さいバナナ、カロリーメイトが渡されたのですが、「避難所の人全員分に行き渡るかわからない。とりあえず届いたものを配っただけだから、まだ食べるな」と言われました。なので、実際食べたかは覚えていません。
 
西村)配る方も混乱していたのですね...。家族はその後どうしたのですか。
 
岩倉)家族6人で海から数km離れた内陸側の避難所に移り住みました。津波が来た感覚から、もう家には戻れないことは察していたので、もっと食料が豊富にある避難所に行くことにしました。
 
西村)岩倉さんが語り部を始めたのは、いつどんなきっかけだったのですか。
 
岩倉)大学1年生の秋ごろに始めました。地元を離れて名古屋の大学に進学したのですが、名古屋は津波の被災経験がある人がいないエリアで、東北の語り部の話を聞きたいという声をたくさんいただいて。少しずつ自分の経験を語るようになったのがきっかけです。
 
西村)最初に話したときはどうでしたか。
 
岩倉)初めての経験で緊張したのを覚えています。今まで自分の話を聞いた人から「ためになったよ」と言ってもらうことが初めてだったので、自分の経験は無駄ではなく、誰かの防災の役に立てた、とうれしく感じました。
 
西村)語り部をやってみて感じたこと、発見したことはありますか。
 
岩倉)自分の記憶が整理されました。最初は、漠然とあったことを喋っていたのですが、伝えるためにどうしたら良いのかを考えるうちに、事実と気持ちの関係、経験したことを整理して捉えられるようになりました。それは語り出したからこそできたことです。
 
西村)番組を聞いている人の中には、大きな地震を経験していない人多いと思います。どんなことを伝えたいですか。
 
岩倉)いつも簡単なひらがな5文字で伝えています。「すぐにげる」です。この5文字を意識して日々の生活してほしい。「避難リュックの用意」「避難ルートの見直し」ほかにも大切なことはたくさんあるのですが、たくさん覚えていても、実際、災害が起きたときは、なかなか実行できない。備えがない外出先で災害に遭うかもしれない。どんなケースにも対応できる「すぐにげる」という5文字を意識することが大事だと思います。
 
西村)まずは「すぐにげる」ですね。備えの話もしてくれました。岩倉さんはどんな備えをしていますか。
 
岩倉)食料・水はもちろん、避難所に支援物資として届きにくいものを準備しています。
 
西村)どんなものが届きにくかったですか。
 
岩倉)衛生用品などその人ならではの必要なものはなかなか届きません。高齢者と一緒にいるなら、高血圧の薬、介護が必要な場合は、紙オムツ、赤ちゃんと一緒にいるなら、常温保存できる液体ミルクとか...。粉ミルクはお湯かがないと避難所で作れません。支援物資は、みんなに必要なものが中心で、個別で必要なものは、なかなか届かないんです。ましてや、スーパーやドラッグストアは、災害時は開いてないので手に入れにくい。自分で事前に用意しておくことが重要です。
 
西村)しっかりと普段からの備えを確認・準備しておくことが大切ですね。岩倉さんどうもありがとうございました。

第1534回「東日本大震災15年【1】~中学生に語る原発事故避難」
取材報告:亘 佐和子プロデューサー

西村)きょうから東日本大震災15年のシリーズを始めます。1回目は中学生に語る原発事故避難です。亘佐和子プロデューサーのリポートです。
 
亘)よろしくお願いいたします。15年というと、当たり前ですが、0歳の赤ちゃんが15歳、中学3年生になるということです。
 
西村)そうですよね。時の重みを感じます。
 
亘)今の中学生にとって、東日本大震災は歴史の中の出来事。そんな子どもたちに何を伝えていくのかが、今後ますます重要なテーマになると思います。きょうは、原発事故で福島から大阪に避難してきた森松明希子さんが、中学生に当時のことを語る会があったので、その内容をレポートします。去年12月、大阪府豊中市立第一中学校で、全校生約640人が体育館に集まりました。森松さんのお話の冒頭の部分を聞いてください。
 
音声・森松さん)みなさん、こんにちは。森松明希子と申します。2011年の3・11、今から15年前、家族4人で福島県の郡山市に暮らしていました。わたしの家は地震ですごく揺れましたが、海からは遠かったので、津波の被害はありませんでした。でも、その後に沿岸部の福島第一原子力発電所が爆発して、当時0歳でいま中3の娘と、当時3歳でいま高3の息子を連れて、大阪市へ母子避難しました。夫はこの15年間、福島県郡山市で仕事をして、郡山市に住んでいます。
 
西村)大阪に避難してきたときは0歳の赤ちゃんだった娘さんが、中学3年生になったわけですね。
 
亘)そうです。森松さんは、自分の子どもと同じ学年、もしくはそれより年下の子どもたちに話をしたというわけです。
 
西村)子どもたちは、お父さんと15年間離れて暮らしてきたのですね。
 
亘)森松さんが住んでいた郡山市は、原発からは約60km離れた内陸部ですが、原発事故の影響で家族離れ離れの生活をすることになりました。15年前の3月11日に地震が起こったとき、森松さんは生後5ヶ月の娘と2人でマンションにいました。どんな状況だったのか聞いてください。
 
音声・森松さん)3.11当日、何が起きたか。2時46分、家で赤ちゃんのおむつをかえて、ミルクをあげて、赤ちゃんはご機嫌で寝たり起きたりしていました。いきなりグラグラとすごい揺れがきました。家具が動いて、冷蔵庫を押さえていたら、家具がスローモーションのように赤ちゃんを抱っこしている自分の方に迫ってくる。圧死するかもしれないと思いました。テーブルの下にもぐれるのは0歳の赤ちゃんだけ。「赤ちゃんだけは助かって!」と思って、赤ちゃんをテーブルの下に入れて押さえていたら、テレビが落ちてくる。冷蔵庫の上に置いていた鍋がポルターガイストのように飛んできて、吊り下げていた電気がぐるぐるとちぎれそうになりながら回っている。コードが切れたら死ぬと思いました。本当に命を守るのに必死でした。息子は幼稚園に行っているし、夫は生きているかわからないと覚悟しました。自分も死ぬかもしれないと思いました。赤ちゃんは生後5ヶ月で「たかいたかい」をしたらキャッキャッと笑う年ごろ。テーブルの下に入れることなんて普段の生活ではないから、赤ちゃんは、新しい遊びだと思って喜んで笑っていました。この笑顔を見るのは最後かもしれないと思いました。「誰かがこの笑顔を見つけて、赤ちゃんだけは発見されて助かって欲しい!」と思ったんです。揺れがおさまって、家の中はぐちゃぐちゃ。荷物が散乱し、机は倒れて、上から水が降ってきました。マンションの給水管が破裂したからです。震度6の地震で、本当に死ぬかという思いをしましたが、家族4人の命は無事でした。でも、津波をかぶって全電源喪失し爆発した原発が、事故を起こします。わたしたちは、夫を残して、2人の子どもを連れて大阪に避難をすることになりました。
 
西村)家具が迫ってくる、鍋が飛んでくるというすさまじい揺れだったのですね...。
 
亘)そんな中で、子どもの命だけは助けたいという必死な状況が伝わってきます。
 
西村)家族4人、無事でよかったと安心したのもつかの間、その後、原発事故に翻弄されることになったのですね。
 
亘)原発から60km離れた福島県郡山市にも放射性物質が大量に飛んできました。なぜ母子避難という厳しい選択をしなければならなかったのか。森松さんの話の続きを聞いてください。
 
音声・森松さん)3月に事故があって、わたしが避難をしたのは5月。3月の終わりに、テレビのニュースで、「東京の浄水場で放射性物質が検出された。基準値を超えるがすごく微量」と伝えられました。でも、キャスターが、「自宅に乳幼児のいる人は、水道水を飲まないでください」と言ったんです。水道水に放射能の毒が入っているということが報道された。みんなならどうする? 翌日に「福島の水道水も汚染されていた」と報道されました。
わたしは、最初の1ヶ月は家が壊れて、夫の勤務先の病院に避難をしていました。病院は断水していなかったので、水を必死で飲んでいたんです。いま中3の娘は、当時まだ0歳だからご飯も食べられない。お母さんのおっぱいか粉ミルクが必要です。母乳は血液だから、水を飲んだら母乳があげられると必死で水を飲みました。0歳の赤ちゃんはおっぱいをあげることで、一人分の食べ物をゲットしたことになる。3歳の息子も喉が乾いたら蛇口の水を飲んでいました。とにかく水が出て良かったと、水を必死で飲んでいたら、ある日、「東京の水道水は汚染されているから飲むな」と言われて。
今、みんなにご飯を食べさせてくれているお父さんやお母さんは、どんなものを食べさせてくれている?「体に良いものを食べなさい」って言われない? 「背が伸びるようにカルシウムを取って、タンパク質が大切だから肉も魚も食べて、好き嫌いはダメだよ」って。「風邪をひいたら大根、ビタミンとろう」とかね。「子どもには体に良いものを与えたい」と、親だったら誰でも思う。わたしもみんなと同じです。赤ちゃんには、添加物も着色料も農薬も入っていない、体に良いものを与えたい。でも、原子力発電所が事故を起こしたら、東京一帯、半径200km圏内の水が汚染されて、放射性物質で汚染された水を飲まないといけない。
原子力災害の被害はあまり報道されません。当時、東北の農村部で葉物野菜が出荷停止になりました。降り注いだ放射性物質がホウレンソウやキャベツに付着し、出荷できずに畑に全部捨てられました。酪農家の人たちが育てた牛の牛乳も出荷停止になりました。牛も人間も哺乳類。放射性物質を浴びて、水道水で内部被ばくしています。栃木県や千葉県のお母さんの母乳からも、セシウムという放射性物質が検出されたという報道がありました。子どもの尿からもセシウムが検出されました。だから、福島県や多くの東日本の県から、原子力災害の被害を避けるために、子どもたちの命と健康守るために避難を続けています。災害はいつでも何度でも起こり得るし、原子力発電所がある国に住んでいる以上、被ばくの問題もいつでも誰にでも起こり得る。みんなは、命を大事にすることについて考えてほしい。避難する、逃げることも、生きることにつながる権利。被ばくを避けて命を守る権利があります。逃げることは権利だと覚えて帰ってください。

 
西村)生きるために必死で飲んでいた水道水に放射性物質が入っていたんですね。
 
亘)「子どもには体にいいものを食べさせたい」という普通の願いが叶わない状況でした。原発に近いところは、「強制避難区域」になるのですが、森松さんの住んでいた郡山市は原発から離れているため、避難せよとは言われない。でも放射線量は上がっているので、子どもを外で遊ばせることができません。毎日「これを食べて大丈夫かな」「この空気吸って大丈夫かな」「これ触って大丈夫かな」と悩みながら暮らす生活が続くわけです。それぞれの家族が判断を迫られました。西村さんならどうしますか。
 
西村)悩みますけど、家族で避難するかな...。
 
亘)それぞれ事情がありますよね。金銭的なこと、仕事、子どもの学校、介護など。
 
西村)親が「避難したくない」と言ったらどうしよう...。
 
亘)家族ごとにさまざまな判断がありますが、共通しているのは、原発事故で人生が変えられてしまったこと。森松さんの話は、一貫して「命を守る」ことがテーマでした。中学生に感想を聞きました。
 
音声・中学生A)「水にも放射性物質が混ざっていた」という話は印象に残っています。水は生きる上で大事。貴重な食べ物や水に放射性物質が入っていたら、水を飲みたいけど飲めない、食べ物を食べたいけど食べられなくなる。自分だったら絶対耐えられないと思います。みんなで少しでも早く、遠くに逃げる努力をして、少しでも被害がないところに逃げられたらいいなと思います。
 
音声・中学生B)防災のことを学んできましたが、原発のことについてはあまり学べていなくて。原発のことはほとんど知らなかったので、今回話を聞くことができて、新しい学びにもなりました。これからの人生に活かしていけたらと思いました。わたしはもともと宮城県に住んでいて、わたし自身も震災で避難してきた身。母もすぐに避難はできなくて、周りの人やメディアの情報でここまで逃げてきたと言っていました。わたしは0歳だったからわからなかったけど、母はわたしのことをちゃんと考えていてくれていたんだなと思いました。

 
西村)中学生のみなさんの心にもしっかりと響いて、考えるきっかけになったのですね。
 
亘)原発事故が起きた後は、この地震大国の日本にこれだけ多くの原発があるのは危険だということで、脱原発を求める声が大きくなっていました。しかし、15年経ち、再び原発回帰の流れが強まっています。原子力発電は国が推進してきたものです。森松さんは、国と東京電力を相手に被災者が起こした「原発賠償関西訴訟」の原告団長です。原告は79世帯222人います。全国各地で避難者が集団訴訟を起こしていて、原告は12000人を超えています。森松さんの関西訴訟は「しんがり」、つまり、最後に一審判決が出る裁判です。判決は今年の9月です。原発事故で国に責任があるということが認められるかどうかがポイントになります。原発事故による避難者は最も多いときで16万人と言われていて、今も全国で26000人以上が避難生活を続けています。
 
西村)今でも多くの人が避難を続けているのですね。
 
亘)東日本大震災15年ですが、原発事故の影響は現在進行形で、全く終わっていません。わたしたちの社会が、森松さんのような原発事故の避難者の声をどう受け止めるのか。9月2日、原発賠償関西訴訟でどんな判決が出るのか、注目したいと思います。
 
西村)亘佐和子プロデューサーのリポートでした。ありがとうございました。

第1533回「災害時に役立つ常備薬」
ゲスト:MBSお天気部 気象予報士 林保捺美さん

西村)きょうは、災害時に役立つ常備薬についてお伝えします。
ゲストは、MBSお天気部の気象予報士で薬剤師と防災士の資格も持つ林保捺美さんです。
 
林)よろしくお願いいたします。
 
西村)災害時は、医療機関にかかりにくくなるので、薬の備えも必要ですね。一昨年発生した能登半島地震では、災害関連死が直接死の2倍以上になりました。薬剤師としてどのように思われましたか。
 
林)せっかく命が助かっても、その後の避難生活の中で命を失うことは、とてももったいないことだと感じています。災害時に、避難先で体調を崩して亡くなる災害関連死を減らしていけたらと思います。
 
西村)災害時はいつもと違った状況に陥るので、持病がある人は心配ですね。
 
林)高血圧の人は災害時に血圧が上がりやすくなります。災害時は、体調の変化が起きやすいです。災害時は、いつものように医療機関を受診できない状況に陥る可能性も。薬の流通が滞ってしまう恐れもあるので、薬を備えておくことが大切です。
 
西村)どんな薬を備えたら良いですか。
 
林)持病の有無で変わりますが、慢性の病気を持っている人は、まずは病院でもらう処方薬をきちんと備えてください。最低3日分のお薬を備えてください。できれば1週間分あれば安心ですが、患者さんの中には、毎回病院に行くたびに病気の状態が変わる人もいるので、その人に合った備え方が大切。薬を備えるときは医師への相談も欠かせません。
 
西村)林さんは、備えている薬はありますか。
 
林)わたしは子どもの頃から気管支喘息を持っていて、幼い頃は毎週病院に行くほどでした。大人になって改善されていますが、日常から発作止めの薬を必ず持ち歩くようにしています。狭心症、てんかん、精神薬などは必ず備えてください。
 
西村)薬は、主治医に相談したらもらえるのでしょうか。
 
林)災害時は、病院の予約をしている日に必ず行けるかわからないので、日頃から余分にもらっておくことが大切です。
 
西村)「備えとして多めに持っておきたいので、多く出してもらえますか」という相談したら良いですか。
 
林)3ヶ月ぐらい長期で出せる薬もあります。しかし、抗精神病薬などは期限があるものも。医師への相談が必要です。
 
西村)わたしは花粉症なので、先日耳鼻科に行ったときに多めに薬を出してもらいました。そんなふうに相談してみることが大切ですね。
 
林)長期でもらったとしても、体調が途中で変化してしまった場合は、すぐに病院に行って、その都度自分に合った薬を飲んでください。
 
西村)持病がない人でも薬を備えておいた方が良いですか。
 
林)もちろん備えておいた方が良いです。環境が悪い避難生活では、健康な人もストレスがたまり、免疫力が低下して風邪をひきやすくなります。市販薬を備えておいてください。具体的にどんな薬を備えておけば良いのか。風邪のウイルスは、200種類以上あるんです。
 
西村)そんなにあるんですか。
 
林)避難所は体育館などすごく密閉された空間なので、感染症が流行りやすくなります。
 
西村)寒いと窓を開ける機会も少なくなりそう。
 
林)ウイルスは、低温と乾燥で増殖します。風邪薬を備えておくことが大切ですが、風邪にはいろんな症状がありますよね。
 
西村)頭痛、鼻水、咳など...。
 
林)いろんな症状に対応できる総合風邪薬がおすすめです。あとは、解熱鎮痛剤。熱を下げる、痛みを取るお薬です。例えばロキソプロフェン、イブプロフェンなどがあります。このお薬には注意点があります。大人は大丈夫ですが、子どもや妊婦はアセトアミノフェンという成分が良いです。
 
西村)なぜですか。
 
林)子どもや妊婦は、副作用が発生することがあるからです。胃に優しいアセトアミノフェンを使いましょう。大人は、ロキソニンでもアセトアミノフェンでもどちらを使ってもOKです。
 
西村)子どもや妊婦など胃に負担をかけたくない人は、アセトアミノフェンが良いのですね。
 
林)はい。例えばカロナールとか。胃腸を壊しまうことがあるので、胃と腸それぞれに対応できる薬を備えてください。胃が痛い、もしくは吐き気がするときは、胃に作用する薬を。下痢や便秘には、腸に作用する薬を用意しておいてください。
 
西村)それぞれ買い揃えておくと良いですね。
 
林)皮膚の薬もあれば良いですね。乾燥すると皮膚が荒れるので、保湿剤や炎症を抑えるステロイド剤も備えておきましょう。
 
西村)わたしも子どもも皮膚が弱いので、よく皮膚の薬を塗っています。日頃からどんな薬が合うか試しておくのも大切ですね。
 
林)その通りです。急に使うと合わない可能性もありますので、日頃から使ってみることも大切です。
 
西村)災害時には、胃腸炎も流行るのではないかと心配です。胃腸炎に関して、薬を飲むときの注意ポイントはありますか。
 
林)ノロウイルスなどウイルス性の胃腸炎の場合は、下痢や嘔吐の症状があります。そのとき下痢止めを使って下痢を止めるのはNGです。ノロウイルスに感染すると、体外にウイルスを排出しようとして下痢が起こります。それを無理やり止めてしまうと、体内にウイルスを残してしまうことになるので、我慢して便を出してしまうことが大事。体は脱水症状になってしまうので、経口補水液などで水分補給をしてください。
 
西村)経口補水液も最近いろいろな種類がありますよね。
 
林)経口補水液は、人の体液と同じような組成になっています。経口補水液は、脱水症状を防ぐことができるので、日頃から備えておきましょう。夏場は、熱中症対策にも役立つと思います。
 
西村)薬剤師の視点から見て、薬以外にも備えておくと良いものはありますか。
 
林)感染対策のためのマスク、アルコール除菌シート。避難所で感染症を流行らせないようにマスクをしましょう。熱が出ていないか確認するために、体温計も備えておいてください。季節に合った備えも必要。春は花粉症の薬、夏から秋にかけては虫刺されの薬など。絶対に備えておいて欲しいものは簡易トイレです。避難所では、たくさんの人がトイレを使うので、衛生状態が悪くなり、感染症が流行りやすくなります。仮設トイレの設置に時間がかかることもあるので、簡易トイレは備えておいてほしいです。
 
西村)簡易トイレは、避難所はもちろん、家でも使うことができます。非常用持ち出し袋用と家用と両方備えておきたいですね。ほかに薬以外に備えておくと良いものはありますか。
 
林)口の中の健康も保ってほしいです。口のケアが不十分だと病気が発生することがあります。阪神・淡路大震災では、肺炎で亡くなった方が多く、誤嚥性肺炎で亡くなった人がたくさんいました。口の中の菌が気道を通って、肺にウイルスが到達してしまうと、炎症が起きてしまうのです。
 
西村)だから口のケアが必要なのですね。どんなものを備えておくと良いですか。
 
林)災害時は水が使えなくなることがあるので、水なしでケアできる歯磨きシートがおすすめ。特に高齢者は口の嚥下機能も弱まっているので、誤嚥性肺炎起きやすい。歯ブラシや歯磨き粉とあわせて歯磨きシートも備えておきましょう。
 
西村)改めて災害時の薬の使い方について教えてください。
 
林)薬は使い方、量によっては、薬にも毒にもなります。間違えた服用の仕方をすると、体にとって悪い影響が出てきてしまう。緊急時、災害時だからといって、量を増やしたり、間違ったのみ方をしたりしないことが大切。自己判断は避けましょう。
 
西村)病院から処方された薬と市販薬を一緒に持っているときは、どんな注意が必要ですか。
 
林)処方薬と市販薬で成分が重複するときがあります。相性の悪い薬もあるので、処方薬を持っている人は、市販薬を薬局で買うときに、薬剤師さんに飲み合わせを確認した上で購入し、備えるようにしましょう。
 
西村)自分が飲んでいる薬の成分をきちんと知っておかないといけないですね。
 
林)成分を全て把握することは難しいと思うので、「お薬手帳」を必ず持っておいてください。薬の名前を把握していたとしても、10mm、20mmなど容量に違いがあることも。そこまで完璧に把握している人はなかなかいないと思います。「お薬手帳」があれば、自分が今、どんな薬をのんでいるのか、過去にどんな薬をのんできたのかがすべてわかります。副作用歴やアレルギー歴のメモも用意しておきましょう。
 
西村)そうしておくと完璧ですね。もし避難所で薬が足りなくなった場合、「お薬手帳」があれば、医師が来たときにきちんと伝えられますね。
 
林)「お薬手帳」がないと医療が入っても、薬が処方できない状況になりかねません。薬情(薬の写真やのみ方が記載された紙)を備えておくのも良いです。
 
西村)お薬手帳と薬情、アレルギーや副作用歴のメモも一緒に備えておきましょう。林さんありがとうございました。

第1532回「寒さ厳しい時期の避難」
オンライン:東北大学災害科学国際研究所 准教授 佐藤翔輔さん

西村)寒い日が続いています。こんな時期に地震が起こったらどうしたら良いのでしょうか。阪神・淡路大震災や能登半島地震は1月、東日本大震災は3月に発生。寒い時期の避難になりました。去年12月の青森県東方沖地震でも、気温0℃に近い寒い深夜にたくさんの人が高台へ避難しました。
きょうは、寒い時期の避難について、東北大学 災害科学国際研究所 准教授 佐藤翔輔さんに聞きます。
 
佐藤)よろしくお願いいたします。
 
西村)真冬に地震が起きたらどんな状況に陥るのでしょうか。
 
佐藤)建物が壊れなくても、ライフラインが止まってしまうことがあります。電気が止まれば、エアコンや電気ストーブ、ホットカーペットなどが使えなくなります。ガスが止まれば、ガスファンヒーターも使えません。暖房器具が使えない状況になります。また、コンロや電気ポットも使えないので、温かい食べ物も食べられなくなります。特に低体温症には注意が必要。ずっと寒い環境にいると、体の中心部の温度が下がり、重度の場合は昏睡状態、最悪の場合は心拍停止に至ってしまいます。
 
西村)恐ろしいですね。
 
佐藤)東日本大震災では、宮城県内だけで約20人が低体温症で亡くなっています。
 
西村)命を守ることができても亡くなってしまった人が20人もいるのですね。低体温症の初期症状は?
 
佐藤)初期は体がガタガタ震えて、その後、血の巡りが悪くなり、昏睡状態になったり、呼吸ができなくなったりします。
 
西村)低体温症になりやすい人もいるのですか。
 
佐藤)高齢者は低体温症になりやすいと思います。地震、津波からの避難で、浸水で水をかぶってしまった人がよく低体温症になります。東日本大震災では、津波から命は守られたけど、濡れたままの状態でいて低体温症になり、亡くなった人がたくさんいました。
 
西村)東日本大震災では、木に捕まって何時間もしのいでいたという人の話を聞いたことがあります。冬場の避難はどのような困難があるのでしょうか。
 
佐藤)寒さも大敵ですが、移動そのものが大変。雪が降る地域では、雪が降れば積雪が道を阻み、雪が降っていなくても道路が凍結します。歩行でも車でも移動に時間がかかってしまいます。
 
西村)さらに夜は真っ暗ですしね。
 
佐藤)冬に青森市内で移動にかかる時間を検証してみたことがあるのですが、避難場所に行くまでに普段の2倍ぐらいの時間がかかりました。
 
西村)寒い中、もし夜に地震が発生したら、路面が凍結しているかもしれません。真っ暗の中、寝起きで避難することになりますね。なんとか避難できたとして、その先はどうなりますか。
 
佐藤)東北地方では、これまで寒い時期に地震・津波が頻発したので、避難所の対応がかなり進んでいます。具体的には、毛布の数が増えたり、新たな暖房器具が設置されたりしています。しかし、数に限りがあるので、避難者全員が十分に暖が取れるというわけではありません。
 
西村)地震を経験していない地域は対策が足りない可能性も?
 
佐藤)おそらく多くの自治体では、避難所に暖房や毛布が十分ないと思います。避難所の体育館は、すごく天井が高いですよね。
 
西村)ただでさえ寒いイメージがあります。
 
佐藤)温かい空気は上に逃げ、床がとても冷たいので、どんどん体温が奪われてしまいます。高齢者など寒さに弱い人は、暖房がある教室に優先的に移動してもらう配慮も大事。
 
西村)高齢者、病気を抱えてる人、妊婦など配慮が必要な人がいます。前もって決めておくと良いですね。避難するとき建物に入れないこともありますよね。
 
佐藤)青森の地震では、避難所がいっぱいで、多くの人が車中避難をしたと聞いています。そのような場合、注意しなければいけないのが、エコノミークラス症候群。同じ姿勢が続くとエコノミークラス症候群になり、最悪の場合死亡してしまうケースもあります。
 
西村)熊本地震のときもよく聞きました。適度な運動が必要ですね。
 
佐藤)たまに外に出て少し歩くだけでも変わります。体動かすことを心掛けてください。
 
西村)15年前の東日本大震災のとき、避難所に行く前に、高台で何日も過ごしたという人の話を聞いたことがあります。佐藤さんが会った人の中にも、冬の避難で困ったという人はいましたか。
 
佐藤)建物が何もない高台にいた人が多数いました。その人たちは、近場にあるもので焚き火をして、暖を取ったそうです。やったことがないとできないと思いますので、キャンプなどで、そのような技術を身につけることも大事だと思います。
 
西村)キャンプだったら、楽しみながら暖を取る術も学ぶことができそう。真冬の避難はいろいろな備えが必要ですね。東日本大震災のときはどうでしたか。
 
佐藤)いくつか避難所を回りましたが、たくさんの人が床に座っていました。何も敷かないで座ってる人もたくさんいました。床は冷たいので、そこに触れている面積が大きければ大きいほど体温が奪われてしまいます。ダンボールやブルーシートなど、床と自分の間に熱をシャットダウンするものを敷いて、なるべく体から体温が逃げない工夫をすることが重要です。
 
西村)毛布以外にも備えておくと良いものはありますか。
 
佐藤)ダンボールも使えますよ。学校にあるブルーシートやテントの帆も使えます。面で広げられるものなら重ねれば重ねるほど、熱を遮断することができます。
 
西村)在宅避難でも使えそうですね。
 
佐藤)ライフラインが止まると、暖房器具が使えなくなるので、電気・ガスを使わずに体を保温することになります。家の中でも衣服・毛布・カイロなどの防寒対策が必要です。
 
西村)改めて真冬の避難、避難後には、どんな備えが必要でしょうか。
 
佐藤)避難中も避難後も、体温が奪われないように防寒をしっかりして、小さい毛布やカイロを準備しておきましょう。
 
西村)上着が必要ですね。
 
佐藤)急いで避難するとき、後のことも考えて、厚手の上着を取るアクションも必要。非常持ち出し袋を枕の近くのも良いと思います。
 
西村)食事の面はどうですか。
 
佐藤)温かいものが食べられるようにしておくこと。ライフラインが止まると、コンロや電気ポットが使えなくなる。カセットコンロがあれば、お湯を沸かせるし、温かい料理を作ることもできます。最近、小学生と話す機会があったのですが、今の小学生は、カセットコンロを知らない子もいるそうです。最近は、家庭のコンロがIHになり、鍋を囲む機会が減ったせいもあるかもしれません。カセットコンロは便利なので、一家に1台以上はぜひ備えてください。
 
西村)カセットコンロとガスボンベ、湯せん可能なポリ袋も備えておくと良いですね。そのほかに心構えはありますか。
 
佐藤)一度やってみることが大事。避難訓練は、学校や地域で一斉にやるものというイメージがあるかもしれませんが、個人的に訓練をしてもかまいません。時間がある夜に、避難場所まで行ってみても良いと思います。ひとりひとりの単位で一度試してみてください。
 
西村)やってみないとわからないことがたくさんありそうです。佐藤さんありがとうございました。