第1537回「東日本大震災15年【4】~釜石の語り部」
オンライン:語り部 川崎杏樹さん

西村)岩手県釜石市にある「いのちをつなぐ未来館」は、東日本大震災の伝承と防災学習に取り組んでいる施設です。
きょうは、東日本大震災で被災し、現在は、「いのちをつなぐ未来館」で語り部をしている川崎杏樹さんにお話を聞きます。
 
川崎)よろしくお願いいたします。
 
西村)川崎さんが経験した15年前の3月11日の事を教えてください。
 
川崎)当時は釜石東中学校の2年生でした。体育館で部活動の準備体操をしているときに揺れが発生。立っていることができないくらいの大きな揺れでした。その場にしゃがみ込んで、なんとか耐えました。かなり大きく長く揺れたので、「津波が来る」と思い、すぐに校庭へ避難しました。
 
西村)教室にカバンや上着を取りに行こうとは思わなかったのですか。
 
川崎)そういうことは全く考えなかったです。「すぐ逃げなければ!」と思いました。
 
西村)周りの友達はどうでしたか。
 
川崎)同じようにすぐに一緒に行動し、校庭へ向かいました。
 
西村)パニックになっている人はいませんでしたか。
 
川崎)パニックになって動けない生徒はいませんでしたが、過呼吸になった生徒はいました。
 
西村)すぐに避難を開始して、どのように行動しましたか。
 
川崎)学校から800m離れた場所にある、いつも避難訓練で行っている場所へ行きました。
 
西村)普段から避難訓練をしていたのですね。どれぐらいのペースで避難訓練をしていたのですか。
 
川崎)年に1~2回程度です。
 
西村)避難訓練を繰り返しすることで、避難行動が体にしみ込んでいたのですね。
 
川崎)はい。当日も迷わず行動しました。避難場所に到着した後、一時待機をしていたら、すぐ裏手側の山で崖崩れが発生して。近所の人からアドバイスがあり、さらに高台へ避難しました。
 
西村)そのとき周りのようすはどうでしたか。
 
川崎)泣いている人もいれば、迅速に避難しようと動いている人もいて、さまざまでした。
 
西村)周りは同じ中学校の生徒ばかりだったのですか。
 
川崎)中学生と小学生、近所の人や迎えに来た保護者もいました。
 
西村)小学生のようすはいかがでしたか。
 
川崎)年齢によって理解度が違うので、ポカンとしている子もいれば、泣いてしまう子もいました。
 
西村)泣いてしまった子にはどんなふうに声をかけましたか。
 
川崎)一緒に避難するときに近くにいた子には、「みんなと一緒だから大丈夫だよ」と声をかけながら避難しました。
 
西村)最終的にどこまで避難したのですか。
 
川崎)学校から約1.6km離れた場所にある「恋の峠」という高台へ避難しました。
 
西村)1.6km...かなり時間がかかったのではないですか。
 
川崎)40~50分ほどかけて避難をしました。
 
西村)体力的にはしんどくなかったですか。
 
川崎)不思議と疲れた感覚はありませんでした。津波を見た直後は、「いつ死ぬかわからない」と高いところへと逃げるのに必死でした。
 
西村)津波を見てどう思いましたか。
 
川崎)津波を見た瞬間は頭が真っ白で、何も考えられなかったです。津波が街全体を飲み込んで、街がなくなっていきました。「死ぬかもしれない」と感じたので、必死に高台へ避難しました。
 
西村)高台に避難したあとは、どうなりましたか。
 
川崎)そこからさらに9kmほど移動して、途中で通りかかったダンプカーの荷台に乗せてもらって、避難所の体育館に移動しました。指定避難所ではない場所でしたが、津波の被害を受けなかったので急遽避難所になった場所です。
 
西村)避難所に到着したときはどんなふうに感じましたか。
 
川崎)「やっと室内に入れる!」と思った記憶があります。日が暮れたあと、雪が降ったので、かなり寒かったです。
 
西村)カバンや飲み物などなにも持っていなかったんですよね。
 
川崎)何一つ持たずに避難をしました。
 
西村)当時、釜石市には9m近い津波が押し寄せ、1000人を超える死者行方不明者が出ました。しかし、川崎さんが通っていた釜石東中学校と隣の鵜住居小学校の児童・生徒約570人は無事に避難。これは、のちに「釜石の奇跡」と言われ、メディアで報道されました。川崎さんは、「釜石の奇跡」と呼ばれたことについてどう思いますか。
 
川崎)わたしや地域の人たちは、"奇跡"とは感じていません。わたしたちは普段から学校で防災学習に取り組んでいたので、助かった人は多いですが、犠牲になってしまった人もいるからです。
 
西村)学校の防災教育では、どんなことを教わってきたのですか。
 
川崎)まずは地震や津波の特徴やメカニズムなどの基礎知識を学び、避難訓練でさまざまな想定を取り入れながら体験をしました。ケガの応急処置、ハザードマップ作りなどさまざまな活動に取り組んでいました。
 
西村)それがいかされた実感はありますか。
 
川崎)防災学習がなければ、助かってなかったと思います。
 
西村)中学2年生の川崎さんは、震災を経験してどんなことを感じましたか。
 
川崎)わたしの家族はみんな助かったのですが、ほとんどの同級生の家が流され、家族の誰かを失った人もいます。「当たり前が当たり前ではない」ということに気づきました。当時いろんなものを失った体験をして、もう二度と大切な人に会えなくなったら嫌だな、と思います。日常生活では、家を出るときは「いってきます」と家族とコミュニケーションを取るようにしています。
 
西村)いつでも会えると思うから挨拶をしない、喧嘩していても仲直りしないままいたりすることもありますよね。川崎さんの故郷、釜石についてどう思いますか。
 
川崎)釜石はすごくいいところだと思います。景色も町の人も素敵で、食べ物も美味しいです。震災前は「ただの田舎町」と思っていたのですが、震災後に来てくれた全国各地のボランティアの人たちが、釜石のいいところをたくさん教えてくれました。
 
西村)食べ物は、どんなものが美味しいですか。
 
川崎)ほたて貝、海藻類、ウニ、魚などの海産物、秋や春は、タラの芽やコゴミなどの山菜...何でも美味しいです。
 
西村)食べに行きたくなりました。そんな釜石で川崎さんは語り部をしています。「いのちをつなぐ未来館」ではどのような防災教育を行っているのですか。
 
川崎)わたしの当時の体験談に加えて、津波の被害状況、当時の出来事をまとめた展示物の掲示、実際にわたしたちが避難をした避難路の追体験など防災をテーマにしたワークショップも行っています。
 
西村)川崎さんたちが避難した避難路の写真を見たのですが、なかなか険しい道ですね。
 
川崎)はい。結構きつい坂道でした。
 
西村)ワークショップには、どんな人が参加しているのですか。
 
川崎)小学生からお年寄りまで、幅広い年齢の人に参加してもらっています。
 
西村)参加したみなさんは、どんなふうに感じられているのでしょう。
 
川崎)みなさん、新聞やテレビで何となくイメージはしているようですが、実際に避難行動を体験すると、「イメージとは違った」「驚いた」と言います。
 
西村)体験ができる施設は貴重だと思います。東日本大震災の発生から先日3月11日で15年を迎えましたが、震災の伝承施設への来館者が減っているそう。「いのちをつなぐ未来館」の来館者数はどうですか。
 
川崎)来館者は、年間約2万5000~3万人です。来てくれる人は、ある程度防災意識が高い人が多いので、いろんなお話を持ち帰って、学んでもらっているという実感があります。
 
西村)川崎さんは語り部として、若い世代にどんなことを伝えていきたいですか。
 
川崎)生きていなければ何もできないので、まずは「助かること」「生きること」を伝えたいです。そして、「助かったのはなぜか」を次の世代に伝えてほしいです。
 
西村)川崎さんは、この15年間、つらいとき、悲しいときはありましたか。
 
川崎)振り返ってみると大変だったことも多いですが、こういうふうに感じることができるのは、生きているからこそ。わたしたちが助かった教訓を伝えて、少しでも犠牲者が減ればと思っています。
 
西村)これからはどういう防災教育をしていきたいですか。
 
川崎)わたしたちが助かったのは、楽しく学ぶ防災学習のおかげ。それをたくさんの人たちに知ってほしい。生徒たちが興味・関心を持てるものがいいと思います。子どもたちが体験をして、面白いと思えたら、新たな興味・関心につながっていくと思います。
 
西村)今、子供たちに人気のワークショップはありますか。
 
川崎)防災運動会や安否札を作るプログラムは、子どもたちに人気があります。
 
西村)楽しい経験が命を守ることにつながるのですね。家族も一緒に楽しみながら防災を学ぶことができそうですね。
 
川崎)楽しいと次につながりやすくなります。子どもたちだけではなく、家族や学校全体に防災教育が広がっていってほしいです。
 
西村)川崎さんどうもありがとうございました。

第1536回「東日本大震災15年【3】~遺族が取り組む『企業防災』」
ゲスト:一般社団法人「健太いのちの教室」田村孝行さん

西村)きょうは、東日本大震災のシリーズ3回目をお届けします。ゲストは宮城県女川町で、津波により当時25歳の息子さんを亡くされた田村孝行さんです。
 
田村)よろしくお願いいたします。
 
西村)息子さんの健太さんは、震災当時、親元を離れて女川町の七十七銀行に勤務していました。銀行から走って1分のところに高台がありましたが、支店長の指示で屋上へ避難し、津波にのまれて亡くなりました。田村さん、改めて当時の状況を教えてください。
 
田村)15年前、息子は東京の大学を卒業し、七十七銀行女川支店に勤めていました。女川町は震度6弱の地震に見舞われました。宮城県には6mの大津波警報が発令され、防災無線から鬼気迫る呼びかけが行われていました。銀行は10mの2階建てでした。地震発生時、支店長は不在。行員は指示のないまま片付けをしていました。2人いたお客さんは、自らの判断ですぐに避難していったそうです。
 
西村)片付けた後どうなったのですか。
 
田村)2時46分に地震が発生した約10分後に支店長が戻ってきました。息子は地震が起きたあと、いつでも逃げられるように銀行の入口の扉を開けていたらしいんです。しかし、帰ってきた支店長は、先輩の行員と息子に「扉を閉めなさい」「書類を金庫にしまいなさい」「屋上に行って、海の様子を見ていなさい」と指示を出したんです。扉を閉めてしまったので、企業管理下の密室になってしまいました。
 
西村)息子さんはいつでも外に逃げられるようにしていたのですね。屋上に避難してからどうなったのですか。
 
田村)行員は13人いました。1人のパートさんは、「子どもが小さいから帰りたい」と何度も折衝して帰りました。残った13人は、だんだん津波が迫ってきて、屋上にあがりました。町の指定避難場所は銀行から260m先の海抜16mの高台にある4階建ての病院。裏には標高50mの堀切山があります。ゆっくり歩いても3分の場所です。目の前の堀切山には、街の人が集まってきている。息子は「高台に避難しよう」先輩の行員に言ったそうです。この話は、奇跡的に助かった1人の行員から銀行を介して聞いた話です。その人は、海に流されて、岩にしがみついていたところを漁船に助けられたそうです。12人が犠牲になりました。4人は見つかりましたが、8人は今も行方不明です。
 
西村)息子さんは、裏の高台に逃げなかったということですか。
 
田村)逃げたくても逃げられなかった。支店長の指示命令で動くことができなかったんです。息子も「本当にここで大丈夫なのか」と考えていたと思うのですが、やはり企業管理下における指示命令の中では動けなかった。男性は転勤族が多かったですが、女性は現地の人が多かったので、「地震のときは山に逃げなければならない」とわかっていたけど、それが言えなかった。これは、企業管理下の組織の課題だと思います。
 
西村)銀行の屋上の高さは何mだったのですか。
 
田村)10mです。その上に電気室があって、30cm幅の垂直のはしごがついた3.5mの塔屋がありました。津波は約30分後に来ました。逃げ場を失った13人の行員ははしごを使って塔屋に登りました。塔屋は畳2枚ぐらいしかない広さで手すりもない。当時は雪が降って寒い中、女性の行員はスカートで登りました。それを堀切山からみんなが見ていました。「なぜ銀行の人は屋上にいるんだ」「こちらに来なさい」と大きい声で呼ぶけど、銀行の人たちは来ることはできなかった。津波がおしよせてきたのが15時25分頃です。
 
西村)健太さんは同僚に「裏の堀切山に逃げなくていいのか」と話していたのに...。
 
田村)そのような言葉を残していました。危険性は十分に知っていたんです。行員たちは、13.5mの塔屋からどんどん流されました、最後の行員はスーツの上着を脱ぎ捨てて、手を広げて、特攻隊のように飛び込んだそうです。流木や瓦礫に捕まって何とか急死を得ようしたのだと思います。息子は半年後に見つかりました。
 
西村)半年も見つからなかったのですか...。
 
田村)半年後に見つかった息子は、ネクタイにワイシャツ姿でした。わたしは、最後の上着を脱ぎ捨てて飛び込んだ人物は健太なのだろうと思っています。
 
西村)何mの津波が襲ってきたのですか。
 
田村)約20mです。遡上するともっと高くなっていたはずです。
 
西村)屋上は10mしかなかったんですね。
 
田村)宮城県の情報によると、宮城県沖地震は99%起きるといわれていました。女川町には、5.9mの津波が来ると想定していた。女川町の場所はリアス式海岸。Vの字になっていて、津波が2~3倍に増える。5.9mの2~3倍となると、20m以上の津波が来てもおかしくない。過去にも三陸沖にはそれ以上の津波が来ているんです。でも銀行は10mの建物を安全な場所と判断したのです。
 
西村)屋上に上がっていれば、大丈夫だろうと...。
 
田村)銀行によると、震災発生の2年前に防災プランを改定したとのこと。町の指定避難場所は堀切山ですが、堀切山よりずっと低い銀行の屋上も、堀切山と並列した避難場所として使うと付け加えた。緊急時対応プランがあると我々に言うんです。なぜ町の指定避難場所ではなく、民間企業が勝手に決めた屋上が避難場所になるのかが疑問です。
 
西村)リアス式海岸のため、波が遡上して高くなることは知っていたのでしょうか...。
 
田村)調べていたのかはわからないのですが、県からアドバイスをもらったと主張していました。しかし、県に照会をすると、一企業に防災プランのアドバイスはしないと。わたしは原因を究明して、改善していかなくてはならないと思いました。そして、女川支店の行員の家族全員に手紙を書いて、みなさんを集めて家族会を作ったんです。銀行との話し合いは5回ほどしましたが平行線。曖昧にしてしまう。肝心なことを濁らせてしまう。「支店長判断はやむを得なかった」「想定外の津波のためしょうがない」と言うんです。あまりも冷たくて話し合いは紛糾しました。
 
西村)田村さんはその後「健太いのちの教室」という団体を立ち上げて、働く人の命を守る企業の防災対策の必要性を訴え続けているのですね。南海トラフ巨大地震、首都直下地震など、これから大きな地震が予想されています。同じ過ちを繰り返さないために企業はどんな取り組みをすれば良いと思いますか。
 
田村)わたしたちが法人を立ち上げたのは、息子が命をかけて教えてくれたこの教訓を生かすため。大企業の心を動かすためです。人命第一の企業文化を作っていかなければならない。愛情や優しさによる人の心があれば、経済合理性よりも命を優先するはず。根本は企業のあり方。風通しの良い、誰もが柔軟に語り合えて仕事ができる職場環境を作ることが命を守ることにみつながっていく。日本はどうしても組織の中に同情圧力や縛りが出てきますよね。
 
西村)当時25歳で若い息子さんは、なかなか意見が言いにくかったのかもしれないですね。
 
田村)上意下達といった日本古来の良くない風潮が最悪の結果を招く可能性もあります。これを変えていきたいと思っています。
 
西村)自分の意見を受け止めてもらえる職場の環境作りが大切ですね。
 
田村)あとは具体的な対策が必要。コンサルタントに任せるのではなく、個々のリスクを自分で調べること。みんなで意見を出し合って、即効性のある訓練を繰り返しながらバージョンアップしていく。より実効性にやっていかなければ、いざというときに体は動きません。わたしたちの事案をケーススタディとしている静岡銀行では、各支店のリスクを出して、行員全員で意見を出し合いながら、避難場所や備蓄を進めています。静岡県は津波の危険性もあるので、シェルターを設置するなど、人命第一の備えをしているんです。地域の人々と一緒に訓練もしています。一番すごいのは、マニュアルを変えたこと。七十七銀行は、資産保全がメインでした。例えば、有事の際には「本部に連絡する」「書類をしまう」など。これが縛りになって体が動かなかった。でも静岡銀行は、「有事の際は金庫や店舗の施錠も不要」と言い切った。本当に命を守るためのマニュアルに変えたんです。第1は従業員、そしてお客さん。七十七銀行にも変わって欲しいのですが...。いつかは変わってくれると思っています。わたしは銀行を責めも、憎みもしていません。銀行と一緒にこの事案に向き合って、安全啓発に努めていきたいと思っています。
 
西村)田村さんどうもありがとうございました。

第1535回「東日本大震災15年【2】~23歳の語り部」
ゲスト:語り部 岩倉侑さん

西村)きょうは、東日本大震災のシリーズ2回目をお届けします。ゲストは、東日本大震災で被災し、自身の避難生活や震災の教訓などを語り継いでいる岩倉侑さんです。
 
岩倉)よろしくお願いいたします。
 
西村)岩倉さんは現在23歳。社会人1年目ですね。
 
岩倉)はい。この春で2年目になります。
 
西村)今はどちらにお住まいですか。
 
岩倉)兵庫県西宮市に住んでいます。
 
西村)どんなお仕事をしているのですか。
 
岩倉)大阪のインフラ企業で働いていて、毎朝新大阪に出社しています。
 
西村)岩倉さんが経験した15年前の3月11日のことを教えてください。
 
岩倉)当時、宮城県の石巻市という海が近い町に住んでいました。小学校の2年生の終わりの3月の出来事でした。8歳のときです。
 
西村)何をしているときに揺れが起こったのですか。
 
岩倉)教室で「帰りの会」をしている最中に揺れが来ました。3分間ほど揺れが続いたのですが、小学生の力では支えられないほどの揺れが襲ってきたのを良く覚えています。
 
西村)どう行動したのですか。
 
岩倉)避難訓練していたように机の下に潜ったのですが、2~3mほど離れたところまで机ごと動いてしまいました。
 
西村)ケガはなかったですか。
 
岩倉)ケガはなかったです。
 
西村)良かったです。そこからどうしたのですか。
 
岩倉)すぐに教室から校庭に逃げました。その後、学校の裏にあった高台に避難しました。小学校から海までは、子どもの足で10分かからないくらい海に近い場所だったので、津波から避難するために高台に逃げました。
 
西村)岩倉さんが通っていた小学校は、宮城県石巻市にある門脇小学校。今は震災遺構になっていますね。高台とは、裏の日和山のことですか。
 
岩倉)そうです。小高い丘のような場所です。
 
西村)日和山に避難したときは、大津波警報は出ていたのですか。
 
岩倉)出ていました。校庭の防災無線のスピーカーからずっと大津波警報のサイレンが鳴っていました。
 
西村)日和山への坂道を登っていたとき、どんな気持ちでしたか。
 
岩倉)何にも考えていませんでした。最初の揺れ以降もかなり強い揺れが何度もやってきて。揺れに耐えながら高台に逃げることに気持ちが向いていたと思います。
 
西村)日頃からの避難訓練で、みんなで逃げる練習をしていたのですね。
 
岩倉)はい。全員で高台まで逃げて、列の最後尾の人が山の中腹くらいまで来たら学校に戻る...という訓練をずっとしていました。
 
西村)どれぐらいの頻度で訓練をしていたのですか。
 
岩倉)1学期に1回ぐらいのペースでやっていました。
 
西村)避難訓練の成果が出て、みんなでさっと行動して、逃げることができたのですね。
 
岩倉)実際に揺れたあとに逃げる経験は初めてだったのですが、訓練より時間がかかったなどの混乱はなく、スムーズに避難することができました。
 
西村)やっぱり訓練は大切ですね。
 
岩倉)「地震が起きた時にこうしよう」と想像しているだけでは、人は動けない。訓練と同じように行動することしかできないのだと感じました。
 
西村)みんなで日和山に登ってその後どうなったのですか。
 
岩倉)頂上にある少し広めの公園まで登り切りました。避難が終わったときにちょうど津波がやってきました。津波そのものは見ていませんが、波が高台にぶつかったときの凄まじい音と衝撃は覚えています。波が自分の足元の山を切り崩すような感覚があって。高台に逃げられたけど、「死ぬんじゃないか」と思いました。
 
西村)小学2年生でそんな経験をしたのですね...。門脇小学校の児童224人は校内にいましたが、津波が来る前に日和山に避難して全員が無事だったとのこと。学校はどうなったのですか。
 
岩倉)2m前後の津波が学校にも到達しました。さらに津波火災もありました。津波と火事は水と火なので、同時に被害を受けるイメージはあまりないと思います。津波で流れてくるゴミや瓦礫に火がついたり、流れてくる車のガソリンが漏れて、引火して火事が起きたり。その火が校舎にも燃え移りました。
 
西村)自宅はどうなったのですか。
 
岩倉)海と小学校の中間にあった自宅は津波と火災でなくなってしまいました。約2ヶ月後のゴールデンウィークに初めて自宅の目の前まで行きました。そのときにはもう土台しか残っていませんでした。
 
西村)家族は無事でしたか。
 
岩倉)わたし含めて6人家族、全員無事で生き残ることができました。
 
西村)良かったですね。家族とはいつ、どれぐらいのタイミングで会うことができましたか。
 
岩倉)祖父母と妹の3人とは、地震発生直後に避難した高台で合流することができました。
 
西村)会ったときの気持ちは、覚えていますか。
 
岩倉)高台に迎えに来てくれるとは思っていなかったので、「何でここにいるの」と驚いたのを良く覚えています。それと同時に、家族といるとすごく安心でした。本当に「来てくれてありがとう」という気持ちでした。
 
西村)家族は、小学校で地震が起こったら日和山に避難することを知っていたのですか。
 
岩倉)知らなかったです。祖父母と妹がわたしを迎えに小学校まで来たのですが、すでにわたしは高台に逃げていたので、それを追いかける形で高台に来て頂上で合流したという流れです。
 
西村)そうだったのですね。日頃からどこに避難するか、連絡手段などを共有しておくことが大切だと思います。何よりも家族が無事で本当に良かったです。
 
岩倉)両親は、地震発生当時は、石巻市にいませんでした。母は宮城県・仙台市に用事で行っていて、父は単身、群馬県で働いていました。地震の知らせを聞いて、翌日の3月12日には2人とも一緒に町に戻ってきました。夜通し車を運転して。12日の昼ごろには石巻市にいたらしいのですが、わたしと再会できたのは3日後の3月14日でした。
 
西村)そうだったのですね。お父さんとお母さんに会うまでは不安だったのではないですか。
 
岩倉)祖父母と妹がいたので、心配で仕方ないということはありませんでした。ただ両親の姿がないことは、わたしも妹も気づいていたので、もしかしたら2人がいるところは自分のいるところよりもっと大きな被害があって、もしかしたら亡くなったのではないかと感じていました。
 
西村)両親と会えたときはどうでしたか。
 
岩倉)映画のワンシーンのように抱き合ったことを良く覚えています。わたしは、震災の当日に高台の避難所に移ったのですが、震災の3日後、両親はその避難所に来てくれました。畳敷きの柔道場に100~200人がぎゅうぎゅう詰めで避難をしていて。両親は、避難所を転々と探す中で、柔道場に行きついて迎えに来てくれて。「ここにいたんだ!」とみんなで抱き合ったのを覚えています。
 
西村)その後は、家族でその避難所にいたのですか。
 
岩倉)別の避難所に行きました。
 
西村)ご飯は食べられましたか。
 
岩倉)両親と会うまでの3日間は、1回しか配給がもらえませんでした。
 
西村)1回だけだったんですか!何を食べたのですか。
 
岩倉)家族4人に紙コップ一杯の水、小さいバナナ、カロリーメイトが渡されたのですが、「避難所の人全員分に行き渡るかわからない。とりあえず届いたものを配っただけだから、まだ食べるな」と言われました。なので、実際食べたかは覚えていません。
 
西村)配る方も混乱していたのですね...。家族はその後どうしたのですか。
 
岩倉)家族6人で海から数km離れた内陸側の避難所に移り住みました。津波が来た感覚から、もう家には戻れないことは察していたので、もっと食料が豊富にある避難所に行くことにしました。
 
西村)岩倉さんが語り部を始めたのは、いつどんなきっかけだったのですか。
 
岩倉)大学1年生の秋ごろに始めました。地元を離れて名古屋の大学に進学したのですが、名古屋は津波の被災経験がある人がいないエリアで、東北の語り部の話を聞きたいという声をたくさんいただいて。少しずつ自分の経験を語るようになったのがきっかけです。
 
西村)最初に話したときはどうでしたか。
 
岩倉)初めての経験で緊張したのを覚えています。今まで自分の話を聞いた人から「ためになったよ」と言ってもらうことが初めてだったので、自分の経験は無駄ではなく、誰かの防災の役に立てた、とうれしく感じました。
 
西村)語り部をやってみて感じたこと、発見したことはありますか。
 
岩倉)自分の記憶が整理されました。最初は、漠然とあったことを喋っていたのですが、伝えるためにどうしたら良いのかを考えるうちに、事実と気持ちの関係、経験したことを整理して捉えられるようになりました。それは語り出したからこそできたことです。
 
西村)番組を聞いている人の中には、大きな地震を経験していない人多いと思います。どんなことを伝えたいですか。
 
岩倉)いつも簡単なひらがな5文字で伝えています。「すぐにげる」です。この5文字を意識して日々の生活してほしい。「避難リュックの用意」「避難ルートの見直し」ほかにも大切なことはたくさんあるのですが、たくさん覚えていても、実際、災害が起きたときは、なかなか実行できない。備えがない外出先で災害に遭うかもしれない。どんなケースにも対応できる「すぐにげる」という5文字を意識することが大事だと思います。
 
西村)まずは「すぐにげる」ですね。備えの話もしてくれました。岩倉さんはどんな備えをしていますか。
 
岩倉)食料・水はもちろん、避難所に支援物資として届きにくいものを準備しています。
 
西村)どんなものが届きにくかったですか。
 
岩倉)衛生用品などその人ならではの必要なものはなかなか届きません。高齢者と一緒にいるなら、高血圧の薬、介護が必要な場合は、紙オムツ、赤ちゃんと一緒にいるなら、常温保存できる液体ミルクとか...。粉ミルクはお湯かがないと避難所で作れません。支援物資は、みんなに必要なものが中心で、個別で必要なものは、なかなか届かないんです。ましてや、スーパーやドラッグストアは、災害時は開いてないので手に入れにくい。自分で事前に用意しておくことが重要です。
 
西村)しっかりと普段からの備えを確認・準備しておくことが大切ですね。岩倉さんどうもありがとうございました。

第1534回「東日本大震災15年【1】~中学生に語る原発事故避難」
取材報告:亘 佐和子プロデューサー

西村)きょうから東日本大震災15年のシリーズを始めます。1回目は中学生に語る原発事故避難です。亘佐和子プロデューサーのリポートです。
 
亘)よろしくお願いいたします。15年というと、当たり前ですが、0歳の赤ちゃんが15歳、中学3年生になるということです。
 
西村)そうですよね。時の重みを感じます。
 
亘)今の中学生にとって、東日本大震災は歴史の中の出来事。そんな子どもたちに何を伝えていくのかが、今後ますます重要なテーマになると思います。きょうは、原発事故で福島から大阪に避難してきた森松明希子さんが、中学生に当時のことを語る会があったので、その内容をレポートします。去年12月、大阪府豊中市立第一中学校で、全校生約640人が体育館に集まりました。森松さんのお話の冒頭の部分を聞いてください。
 
音声・森松さん)みなさん、こんにちは。森松明希子と申します。2011年の3・11、今から15年前、家族4人で福島県の郡山市に暮らしていました。わたしの家は地震ですごく揺れましたが、海からは遠かったので、津波の被害はありませんでした。でも、その後に沿岸部の福島第一原子力発電所が爆発して、当時0歳でいま中3の娘と、当時3歳でいま高3の息子を連れて、大阪市へ母子避難しました。夫はこの15年間、福島県郡山市で仕事をして、郡山市に住んでいます。
 
西村)大阪に避難してきたときは0歳の赤ちゃんだった娘さんが、中学3年生になったわけですね。
 
亘)そうです。森松さんは、自分の子どもと同じ学年、もしくはそれより年下の子どもたちに話をしたというわけです。
 
西村)子どもたちは、お父さんと15年間離れて暮らしてきたのですね。
 
亘)森松さんが住んでいた郡山市は、原発からは約60km離れた内陸部ですが、原発事故の影響で家族離れ離れの生活をすることになりました。15年前の3月11日に地震が起こったとき、森松さんは生後5ヶ月の娘と2人でマンションにいました。どんな状況だったのか聞いてください。
 
音声・森松さん)3.11当日、何が起きたか。2時46分、家で赤ちゃんのおむつをかえて、ミルクをあげて、赤ちゃんはご機嫌で寝たり起きたりしていました。いきなりグラグラとすごい揺れがきました。家具が動いて、冷蔵庫を押さえていたら、家具がスローモーションのように赤ちゃんを抱っこしている自分の方に迫ってくる。圧死するかもしれないと思いました。テーブルの下にもぐれるのは0歳の赤ちゃんだけ。「赤ちゃんだけは助かって!」と思って、赤ちゃんをテーブルの下に入れて押さえていたら、テレビが落ちてくる。冷蔵庫の上に置いていた鍋がポルターガイストのように飛んできて、吊り下げていた電気がぐるぐるとちぎれそうになりながら回っている。コードが切れたら死ぬと思いました。本当に命を守るのに必死でした。息子は幼稚園に行っているし、夫は生きているかわからないと覚悟しました。自分も死ぬかもしれないと思いました。赤ちゃんは生後5ヶ月で「たかいたかい」をしたらキャッキャッと笑う年ごろ。テーブルの下に入れることなんて普段の生活ではないから、赤ちゃんは、新しい遊びだと思って喜んで笑っていました。この笑顔を見るのは最後かもしれないと思いました。「誰かがこの笑顔を見つけて、赤ちゃんだけは発見されて助かって欲しい!」と思ったんです。揺れがおさまって、家の中はぐちゃぐちゃ。荷物が散乱し、机は倒れて、上から水が降ってきました。マンションの給水管が破裂したからです。震度6の地震で、本当に死ぬかという思いをしましたが、家族4人の命は無事でした。でも、津波をかぶって全電源喪失し爆発した原発が、事故を起こします。わたしたちは、夫を残して、2人の子どもを連れて大阪に避難をすることになりました。
 
西村)家具が迫ってくる、鍋が飛んでくるというすさまじい揺れだったのですね...。
 
亘)そんな中で、子どもの命だけは助けたいという必死な状況が伝わってきます。
 
西村)家族4人、無事でよかったと安心したのもつかの間、その後、原発事故に翻弄されることになったのですね。
 
亘)原発から60km離れた福島県郡山市にも放射性物質が大量に飛んできました。なぜ母子避難という厳しい選択をしなければならなかったのか。森松さんの話の続きを聞いてください。
 
音声・森松さん)3月に事故があって、わたしが避難をしたのは5月。3月の終わりに、テレビのニュースで、「東京の浄水場で放射性物質が検出された。基準値を超えるがすごく微量」と伝えられました。でも、キャスターが、「自宅に乳幼児のいる人は、水道水を飲まないでください」と言ったんです。水道水に放射能の毒が入っているということが報道された。みんなならどうする? 翌日に「福島の水道水も汚染されていた」と報道されました。
わたしは、最初の1ヶ月は家が壊れて、夫の勤務先の病院に避難をしていました。病院は断水していなかったので、水を必死で飲んでいたんです。いま中3の娘は、当時まだ0歳だからご飯も食べられない。お母さんのおっぱいか粉ミルクが必要です。母乳は血液だから、水を飲んだら母乳があげられると必死で水を飲みました。0歳の赤ちゃんはおっぱいをあげることで、一人分の食べ物をゲットしたことになる。3歳の息子も喉が乾いたら蛇口の水を飲んでいました。とにかく水が出て良かったと、水を必死で飲んでいたら、ある日、「東京の水道水は汚染されているから飲むな」と言われて。
今、みんなにご飯を食べさせてくれているお父さんやお母さんは、どんなものを食べさせてくれている?「体に良いものを食べなさい」って言われない? 「背が伸びるようにカルシウムを取って、タンパク質が大切だから肉も魚も食べて、好き嫌いはダメだよ」って。「風邪をひいたら大根、ビタミンとろう」とかね。「子どもには体に良いものを与えたい」と、親だったら誰でも思う。わたしもみんなと同じです。赤ちゃんには、添加物も着色料も農薬も入っていない、体に良いものを与えたい。でも、原子力発電所が事故を起こしたら、東京一帯、半径200km圏内の水が汚染されて、放射性物質で汚染された水を飲まないといけない。
原子力災害の被害はあまり報道されません。当時、東北の農村部で葉物野菜が出荷停止になりました。降り注いだ放射性物質がホウレンソウやキャベツに付着し、出荷できずに畑に全部捨てられました。酪農家の人たちが育てた牛の牛乳も出荷停止になりました。牛も人間も哺乳類。放射性物質を浴びて、水道水で内部被ばくしています。栃木県や千葉県のお母さんの母乳からも、セシウムという放射性物質が検出されたという報道がありました。子どもの尿からもセシウムが検出されました。だから、福島県や多くの東日本の県から、原子力災害の被害を避けるために、子どもたちの命と健康守るために避難を続けています。災害はいつでも何度でも起こり得るし、原子力発電所がある国に住んでいる以上、被ばくの問題もいつでも誰にでも起こり得る。みんなは、命を大事にすることについて考えてほしい。避難する、逃げることも、生きることにつながる権利。被ばくを避けて命を守る権利があります。逃げることは権利だと覚えて帰ってください。

 
西村)生きるために必死で飲んでいた水道水に放射性物質が入っていたんですね。
 
亘)「子どもには体にいいものを食べさせたい」という普通の願いが叶わない状況でした。原発に近いところは、「強制避難区域」になるのですが、森松さんの住んでいた郡山市は原発から離れているため、避難せよとは言われない。でも放射線量は上がっているので、子どもを外で遊ばせることができません。毎日「これを食べて大丈夫かな」「この空気吸って大丈夫かな」「これ触って大丈夫かな」と悩みながら暮らす生活が続くわけです。それぞれの家族が判断を迫られました。西村さんならどうしますか。
 
西村)悩みますけど、家族で避難するかな...。
 
亘)それぞれ事情がありますよね。金銭的なこと、仕事、子どもの学校、介護など。
 
西村)親が「避難したくない」と言ったらどうしよう...。
 
亘)家族ごとにさまざまな判断がありますが、共通しているのは、原発事故で人生が変えられてしまったこと。森松さんの話は、一貫して「命を守る」ことがテーマでした。中学生に感想を聞きました。
 
音声・中学生A)「水にも放射性物質が混ざっていた」という話は印象に残っています。水は生きる上で大事。貴重な食べ物や水に放射性物質が入っていたら、水を飲みたいけど飲めない、食べ物を食べたいけど食べられなくなる。自分だったら絶対耐えられないと思います。みんなで少しでも早く、遠くに逃げる努力をして、少しでも被害がないところに逃げられたらいいなと思います。
 
音声・中学生B)防災のことを学んできましたが、原発のことについてはあまり学べていなくて。原発のことはほとんど知らなかったので、今回話を聞くことができて、新しい学びにもなりました。これからの人生に活かしていけたらと思いました。わたしはもともと宮城県に住んでいて、わたし自身も震災で避難してきた身。母もすぐに避難はできなくて、周りの人やメディアの情報でここまで逃げてきたと言っていました。わたしは0歳だったからわからなかったけど、母はわたしのことをちゃんと考えていてくれていたんだなと思いました。

 
西村)中学生のみなさんの心にもしっかりと響いて、考えるきっかけになったのですね。
 
亘)原発事故が起きた後は、この地震大国の日本にこれだけ多くの原発があるのは危険だということで、脱原発を求める声が大きくなっていました。しかし、15年経ち、再び原発回帰の流れが強まっています。原子力発電は国が推進してきたものです。森松さんは、国と東京電力を相手に被災者が起こした「原発賠償関西訴訟」の原告団長です。原告は79世帯222人います。全国各地で避難者が集団訴訟を起こしていて、原告は12000人を超えています。森松さんの関西訴訟は「しんがり」、つまり、最後に一審判決が出る裁判です。判決は今年の9月です。原発事故で国に責任があるということが認められるかどうかがポイントになります。原発事故による避難者は最も多いときで16万人と言われていて、今も全国で26000人以上が避難生活を続けています。
 
西村)今でも多くの人が避難を続けているのですね。
 
亘)東日本大震災15年ですが、原発事故の影響は現在進行形で、全く終わっていません。わたしたちの社会が、森松さんのような原発事故の避難者の声をどう受け止めるのか。9月2日、原発賠償関西訴訟でどんな判決が出るのか、注目したいと思います。
 
西村)亘佐和子プロデューサーのリポートでした。ありがとうございました。

第1533回「災害時に役立つ常備薬」
ゲスト:MBSお天気部 気象予報士 林保捺美さん

西村)きょうは、災害時に役立つ常備薬についてお伝えします。
ゲストは、MBSお天気部の気象予報士で薬剤師と防災士の資格も持つ林保捺美さんです。
 
林)よろしくお願いいたします。
 
西村)災害時は、医療機関にかかりにくくなるので、薬の備えも必要ですね。一昨年発生した能登半島地震では、災害関連死が直接死の2倍以上になりました。薬剤師としてどのように思われましたか。
 
林)せっかく命が助かっても、その後の避難生活の中で命を失うことは、とてももったいないことだと感じています。災害時に、避難先で体調を崩して亡くなる災害関連死を減らしていけたらと思います。
 
西村)災害時はいつもと違った状況に陥るので、持病がある人は心配ですね。
 
林)高血圧の人は災害時に血圧が上がりやすくなります。災害時は、体調の変化が起きやすいです。災害時は、いつものように医療機関を受診できない状況に陥る可能性も。薬の流通が滞ってしまう恐れもあるので、薬を備えておくことが大切です。
 
西村)どんな薬を備えたら良いですか。
 
林)持病の有無で変わりますが、慢性の病気を持っている人は、まずは病院でもらう処方薬をきちんと備えてください。最低3日分のお薬を備えてください。できれば1週間分あれば安心ですが、患者さんの中には、毎回病院に行くたびに病気の状態が変わる人もいるので、その人に合った備え方が大切。薬を備えるときは医師への相談も欠かせません。
 
西村)林さんは、備えている薬はありますか。
 
林)わたしは子どもの頃から気管支喘息を持っていて、幼い頃は毎週病院に行くほどでした。大人になって改善されていますが、日常から発作止めの薬を必ず持ち歩くようにしています。狭心症、てんかん、精神薬などは必ず備えてください。
 
西村)薬は、主治医に相談したらもらえるのでしょうか。
 
林)災害時は、病院の予約をしている日に必ず行けるかわからないので、日頃から余分にもらっておくことが大切です。
 
西村)「備えとして多めに持っておきたいので、多く出してもらえますか」という相談したら良いですか。
 
林)3ヶ月ぐらい長期で出せる薬もあります。しかし、抗精神病薬などは期限があるものも。医師への相談が必要です。
 
西村)わたしは花粉症なので、先日耳鼻科に行ったときに多めに薬を出してもらいました。そんなふうに相談してみることが大切ですね。
 
林)長期でもらったとしても、体調が途中で変化してしまった場合は、すぐに病院に行って、その都度自分に合った薬を飲んでください。
 
西村)持病がない人でも薬を備えておいた方が良いですか。
 
林)もちろん備えておいた方が良いです。環境が悪い避難生活では、健康な人もストレスがたまり、免疫力が低下して風邪をひきやすくなります。市販薬を備えておいてください。具体的にどんな薬を備えておけば良いのか。風邪のウイルスは、200種類以上あるんです。
 
西村)そんなにあるんですか。
 
林)避難所は体育館などすごく密閉された空間なので、感染症が流行りやすくなります。
 
西村)寒いと窓を開ける機会も少なくなりそう。
 
林)ウイルスは、低温と乾燥で増殖します。風邪薬を備えておくことが大切ですが、風邪にはいろんな症状がありますよね。
 
西村)頭痛、鼻水、咳など...。
 
林)いろんな症状に対応できる総合風邪薬がおすすめです。あとは、解熱鎮痛剤。熱を下げる、痛みを取るお薬です。例えばロキソプロフェン、イブプロフェンなどがあります。このお薬には注意点があります。大人は大丈夫ですが、子どもや妊婦はアセトアミノフェンという成分が良いです。
 
西村)なぜですか。
 
林)子どもや妊婦は、副作用が発生することがあるからです。胃に優しいアセトアミノフェンを使いましょう。大人は、ロキソニンでもアセトアミノフェンでもどちらを使ってもOKです。
 
西村)子どもや妊婦など胃に負担をかけたくない人は、アセトアミノフェンが良いのですね。
 
林)はい。例えばカロナールとか。胃腸を壊しまうことがあるので、胃と腸それぞれに対応できる薬を備えてください。胃が痛い、もしくは吐き気がするときは、胃に作用する薬を。下痢や便秘には、腸に作用する薬を用意しておいてください。
 
西村)それぞれ買い揃えておくと良いですね。
 
林)皮膚の薬もあれば良いですね。乾燥すると皮膚が荒れるので、保湿剤や炎症を抑えるステロイド剤も備えておきましょう。
 
西村)わたしも子どもも皮膚が弱いので、よく皮膚の薬を塗っています。日頃からどんな薬が合うか試しておくのも大切ですね。
 
林)その通りです。急に使うと合わない可能性もありますので、日頃から使ってみることも大切です。
 
西村)災害時には、胃腸炎も流行るのではないかと心配です。胃腸炎に関して、薬を飲むときの注意ポイントはありますか。
 
林)ノロウイルスなどウイルス性の胃腸炎の場合は、下痢や嘔吐の症状があります。そのとき下痢止めを使って下痢を止めるのはNGです。ノロウイルスに感染すると、体外にウイルスを排出しようとして下痢が起こります。それを無理やり止めてしまうと、体内にウイルスを残してしまうことになるので、我慢して便を出してしまうことが大事。体は脱水症状になってしまうので、経口補水液などで水分補給をしてください。
 
西村)経口補水液も最近いろいろな種類がありますよね。
 
林)経口補水液は、人の体液と同じような組成になっています。経口補水液は、脱水症状を防ぐことができるので、日頃から備えておきましょう。夏場は、熱中症対策にも役立つと思います。
 
西村)薬剤師の視点から見て、薬以外にも備えておくと良いものはありますか。
 
林)感染対策のためのマスク、アルコール除菌シート。避難所で感染症を流行らせないようにマスクをしましょう。熱が出ていないか確認するために、体温計も備えておいてください。季節に合った備えも必要。春は花粉症の薬、夏から秋にかけては虫刺されの薬など。絶対に備えておいて欲しいものは簡易トイレです。避難所では、たくさんの人がトイレを使うので、衛生状態が悪くなり、感染症が流行りやすくなります。仮設トイレの設置に時間がかかることもあるので、簡易トイレは備えておいてほしいです。
 
西村)簡易トイレは、避難所はもちろん、家でも使うことができます。非常用持ち出し袋用と家用と両方備えておきたいですね。ほかに薬以外に備えておくと良いものはありますか。
 
林)口の中の健康も保ってほしいです。口のケアが不十分だと病気が発生することがあります。阪神・淡路大震災では、肺炎で亡くなった方が多く、誤嚥性肺炎で亡くなった人がたくさんいました。口の中の菌が気道を通って、肺にウイルスが到達してしまうと、炎症が起きてしまうのです。
 
西村)だから口のケアが必要なのですね。どんなものを備えておくと良いですか。
 
林)災害時は水が使えなくなることがあるので、水なしでケアできる歯磨きシートがおすすめ。特に高齢者は口の嚥下機能も弱まっているので、誤嚥性肺炎起きやすい。歯ブラシや歯磨き粉とあわせて歯磨きシートも備えておきましょう。
 
西村)改めて災害時の薬の使い方について教えてください。
 
林)薬は使い方、量によっては、薬にも毒にもなります。間違えた服用の仕方をすると、体にとって悪い影響が出てきてしまう。緊急時、災害時だからといって、量を増やしたり、間違ったのみ方をしたりしないことが大切。自己判断は避けましょう。
 
西村)病院から処方された薬と市販薬を一緒に持っているときは、どんな注意が必要ですか。
 
林)処方薬と市販薬で成分が重複するときがあります。相性の悪い薬もあるので、処方薬を持っている人は、市販薬を薬局で買うときに、薬剤師さんに飲み合わせを確認した上で購入し、備えるようにしましょう。
 
西村)自分が飲んでいる薬の成分をきちんと知っておかないといけないですね。
 
林)成分を全て把握することは難しいと思うので、「お薬手帳」を必ず持っておいてください。薬の名前を把握していたとしても、10mm、20mmなど容量に違いがあることも。そこまで完璧に把握している人はなかなかいないと思います。「お薬手帳」があれば、自分が今、どんな薬をのんでいるのか、過去にどんな薬をのんできたのかがすべてわかります。副作用歴やアレルギー歴のメモも用意しておきましょう。
 
西村)そうしておくと完璧ですね。もし避難所で薬が足りなくなった場合、「お薬手帳」があれば、医師が来たときにきちんと伝えられますね。
 
林)「お薬手帳」がないと医療が入っても、薬が処方できない状況になりかねません。薬情(薬の写真やのみ方が記載された紙)を備えておくのも良いです。
 
西村)お薬手帳と薬情、アレルギーや副作用歴のメモも一緒に備えておきましょう。林さんありがとうございました。

第1532回「寒さ厳しい時期の避難」
オンライン:東北大学災害科学国際研究所 准教授 佐藤翔輔さん

西村)寒い日が続いています。こんな時期に地震が起こったらどうしたら良いのでしょうか。阪神・淡路大震災や能登半島地震は1月、東日本大震災は3月に発生。寒い時期の避難になりました。去年12月の青森県東方沖地震でも、気温0℃に近い寒い深夜にたくさんの人が高台へ避難しました。
きょうは、寒い時期の避難について、東北大学 災害科学国際研究所 准教授 佐藤翔輔さんに聞きます。
 
佐藤)よろしくお願いいたします。
 
西村)真冬に地震が起きたらどんな状況に陥るのでしょうか。
 
佐藤)建物が壊れなくても、ライフラインが止まってしまうことがあります。電気が止まれば、エアコンや電気ストーブ、ホットカーペットなどが使えなくなります。ガスが止まれば、ガスファンヒーターも使えません。暖房器具が使えない状況になります。また、コンロや電気ポットも使えないので、温かい食べ物も食べられなくなります。特に低体温症には注意が必要。ずっと寒い環境にいると、体の中心部の温度が下がり、重度の場合は昏睡状態、最悪の場合は心拍停止に至ってしまいます。
 
西村)恐ろしいですね。
 
佐藤)東日本大震災では、宮城県内だけで約20人が低体温症で亡くなっています。
 
西村)命を守ることができても亡くなってしまった人が20人もいるのですね。低体温症の初期症状は?
 
佐藤)初期は体がガタガタ震えて、その後、血の巡りが悪くなり、昏睡状態になったり、呼吸ができなくなったりします。
 
西村)低体温症になりやすい人もいるのですか。
 
佐藤)高齢者は低体温症になりやすいと思います。地震、津波からの避難で、浸水で水をかぶってしまった人がよく低体温症になります。東日本大震災では、津波から命は守られたけど、濡れたままの状態でいて低体温症になり、亡くなった人がたくさんいました。
 
西村)東日本大震災では、木に捕まって何時間もしのいでいたという人の話を聞いたことがあります。冬場の避難はどのような困難があるのでしょうか。
 
佐藤)寒さも大敵ですが、移動そのものが大変。雪が降る地域では、雪が降れば積雪が道を阻み、雪が降っていなくても道路が凍結します。歩行でも車でも移動に時間がかかってしまいます。
 
西村)さらに夜は真っ暗ですしね。
 
佐藤)冬に青森市内で移動にかかる時間を検証してみたことがあるのですが、避難場所に行くまでに普段の2倍ぐらいの時間がかかりました。
 
西村)寒い中、もし夜に地震が発生したら、路面が凍結しているかもしれません。真っ暗の中、寝起きで避難することになりますね。なんとか避難できたとして、その先はどうなりますか。
 
佐藤)東北地方では、これまで寒い時期に地震・津波が頻発したので、避難所の対応がかなり進んでいます。具体的には、毛布の数が増えたり、新たな暖房器具が設置されたりしています。しかし、数に限りがあるので、避難者全員が十分に暖が取れるというわけではありません。
 
西村)地震を経験していない地域は対策が足りない可能性も?
 
佐藤)おそらく多くの自治体では、避難所に暖房や毛布が十分ないと思います。避難所の体育館は、すごく天井が高いですよね。
 
西村)ただでさえ寒いイメージがあります。
 
佐藤)温かい空気は上に逃げ、床がとても冷たいので、どんどん体温が奪われてしまいます。高齢者など寒さに弱い人は、暖房がある教室に優先的に移動してもらう配慮も大事。
 
西村)高齢者、病気を抱えてる人、妊婦など配慮が必要な人がいます。前もって決めておくと良いですね。避難するとき建物に入れないこともありますよね。
 
佐藤)青森の地震では、避難所がいっぱいで、多くの人が車中避難をしたと聞いています。そのような場合、注意しなければいけないのが、エコノミークラス症候群。同じ姿勢が続くとエコノミークラス症候群になり、最悪の場合死亡してしまうケースもあります。
 
西村)熊本地震のときもよく聞きました。適度な運動が必要ですね。
 
佐藤)たまに外に出て少し歩くだけでも変わります。体動かすことを心掛けてください。
 
西村)15年前の東日本大震災のとき、避難所に行く前に、高台で何日も過ごしたという人の話を聞いたことがあります。佐藤さんが会った人の中にも、冬の避難で困ったという人はいましたか。
 
佐藤)建物が何もない高台にいた人が多数いました。その人たちは、近場にあるもので焚き火をして、暖を取ったそうです。やったことがないとできないと思いますので、キャンプなどで、そのような技術を身につけることも大事だと思います。
 
西村)キャンプだったら、楽しみながら暖を取る術も学ぶことができそう。真冬の避難はいろいろな備えが必要ですね。東日本大震災のときはどうでしたか。
 
佐藤)いくつか避難所を回りましたが、たくさんの人が床に座っていました。何も敷かないで座ってる人もたくさんいました。床は冷たいので、そこに触れている面積が大きければ大きいほど体温が奪われてしまいます。ダンボールやブルーシートなど、床と自分の間に熱をシャットダウンするものを敷いて、なるべく体から体温が逃げない工夫をすることが重要です。
 
西村)毛布以外にも備えておくと良いものはありますか。
 
佐藤)ダンボールも使えますよ。学校にあるブルーシートやテントの帆も使えます。面で広げられるものなら重ねれば重ねるほど、熱を遮断することができます。
 
西村)在宅避難でも使えそうですね。
 
佐藤)ライフラインが止まると、暖房器具が使えなくなるので、電気・ガスを使わずに体を保温することになります。家の中でも衣服・毛布・カイロなどの防寒対策が必要です。
 
西村)改めて真冬の避難、避難後には、どんな備えが必要でしょうか。
 
佐藤)避難中も避難後も、体温が奪われないように防寒をしっかりして、小さい毛布やカイロを準備しておきましょう。
 
西村)上着が必要ですね。
 
佐藤)急いで避難するとき、後のことも考えて、厚手の上着を取るアクションも必要。非常持ち出し袋を枕の近くのも良いと思います。
 
西村)食事の面はどうですか。
 
佐藤)温かいものが食べられるようにしておくこと。ライフラインが止まると、コンロや電気ポットが使えなくなる。カセットコンロがあれば、お湯を沸かせるし、温かい料理を作ることもできます。最近、小学生と話す機会があったのですが、今の小学生は、カセットコンロを知らない子もいるそうです。最近は、家庭のコンロがIHになり、鍋を囲む機会が減ったせいもあるかもしれません。カセットコンロは便利なので、一家に1台以上はぜひ備えてください。
 
西村)カセットコンロとガスボンベ、湯せん可能なポリ袋も備えておくと良いですね。そのほかに心構えはありますか。
 
佐藤)一度やってみることが大事。避難訓練は、学校や地域で一斉にやるものというイメージがあるかもしれませんが、個人的に訓練をしてもかまいません。時間がある夜に、避難場所まで行ってみても良いと思います。ひとりひとりの単位で一度試してみてください。
 
西村)やってみないとわからないことがたくさんありそうです。佐藤さんありがとうございました。

第1531回「災害時に役立つポリ袋クッキング」
ゲスト:NPO法人ミラクルウィッシュ 代表 益田紗希子さん

西村)災害によって電気やガスなどのライフラインが断たれると、いつも通りに料理をすることが難しくなります。しかし、災害時にこそ、温かく美味しい食事を食べることが健康や心の安心につながります。
きょうは、防災活動に加えて、災害時に役立つ「ポリ袋クッキング」の普及活動にも力を入れているNPO法人ミラクルフィッシュ 代表 益田紗希子さんにスタジオにお越しいただきました。
 
益田)よろしくお願いいたします。
 
西村)益田さんは普段の料理にもポリ袋を活用されているそうですね。ポリ袋クッキングの魅力は何ですか。
 
益田)洗い物が減ることです。主婦にとってはありがたいですよね。時短にもなりますし、災害時にも役に立ちます。
 
西村)電気やガスが使えなくなってもカセットコンロがあれば、料理を作ることができるのですね。益田さんは昨日もポリ袋調理をしたそうですが、何を作ったのですか。
 
益田)手羽先を作りました。よく作ります。
 
西村)手羽先は、圧力鍋で作るイメージがあります。
 
益田)家族はポリ袋で作る方が好きみたいで。袋で作ったか鍋で作ったかわかるみたいです。
 
西村)味の違いがあるのですか。
 
益田)ポリ袋で作るとお肉が柔らかくなるんです。
 
西村)益田さんは、どんなきっかけでこのポリ袋クッキングを始めたのですか。
 
益田)元々料理に興味はなかったのですが、コロナ禍にみんなで防災クッキングをやろうということになって。オンラインで料理はやったことがなかったんですけど、まずは自分ができるようになって、それを伝えていこうとはじめました。
 
西村)そこから試して、今、レシピはどれぐらいあるんですか。
 
益田)今は45ぐらいのレシピがあります。
 
西村)ポリ袋でいろんな料理が作れるのですね。
 
益田)普段フライパンで作っているものをポリ袋で作ってみることもあります。オムライスやオムレツも卵とご飯を一緒に袋の中で炊くだけでできるんです。
 
西村)ポリ袋というと、スーパーにある半透明の袋が思い浮かびますが、どんな袋でも良いのですか。
 
益田)ゴミ袋などにつかう袋は低密度で、お湯に入れると溶ける素材のものがほとんど。ポリ袋で料理をする場合は「高密度ポリエチレン」という専用の袋を使ってください。湯煎調理が可能かを買う前に確認してください。岩谷マテリアルの「アイラップ」が有名ですが、ほかのメーカーからもいろいろな種類が売られています。お湯に入れるときは、耐熱皿を必ず底に敷いてください。熱に強いとはいえ、直接火にあたると破れることがあります。
 
西村)地震でお皿が割れたり、どこにあるかわからなくなったりした場合は、かわりに準備しておくと良いものはありますか。
 
益田)布巾や金属製のザルでも問題ありません。
 
西村)鍋とセットにして置いておくと良いですね。お鍋の大きさはどれくらいが良いですか。
 
益田)深い鍋がおすすめです。パスタを茹でたり、カレーを作ったりするような深い鍋なら美味しく調理することができます。
 
西村)カセットコンロとボンベも必要ですね。使用期限もチェックしておきましょう。今、スタジオにご飯が用意されています。スタッフがポリ袋でご飯を炊いてくれました。暖かいご飯がポリ袋の中に入っています。ホカホカです!早速ハサミで切ってみますね。
 
益田)切るときはコツがあります。くくったところのすぐ下を切ってください。
 
西村)空気をぬいて上の方でくくってくれています。(パチッとハサミで袋をカット)結び目の真下を切りました。炊きたてのいい香りがします。少しほぐして...炊飯器で炊いたご飯と全然変わらない良い香り!いただきます!
 
(炊き立てのご飯を試食)
 
益田)味はどうですか?
 
西村)美味しい!
 
益田)すごい!スタッフさん上手に炊けましたね。
 
西村)ちゃんとお米の甘みもあります。ポリ袋で調理するともっと硬くなるかと思いましたが、これは良いですね!災害時にもキャンプにも使えますね。
 
益田)キャンプで使う人も多いです。火さえあれば調理できるので。
 
西村)鍋の中にレトルトカレーも一緒に入れて同時に調理することもできますね。このお米の炊き方をおしえてください。
 
益田)無洗米でも普段使っているお米でも大丈夫です。水は1合に対して200ml入れて、炊飯器と同じで、浸水時間をとってください。
 
西村)米とお水をポリ袋に入れて、しばらく置いておくのですね。
 
益田)30分ぐらい置いてください。その後、お湯につけて弱火で30分。お湯からあげたあと、10分ぐらい蒸らすと、さらに美味しくなりますよ。
 
西村)想像以上に美味しく炊けていしました。袋から直接食べるので、洗い物もいらない。これは水が使えないときも良いですね。
 
益田)少量の水で料理することができます。
 
西村)ミラクルウッシュのホームページからレシピをダウンロードすることができます。わたしは娘と一緒にフルーツゼリーを作りました。みかんの缶詰と粉寒天で簡単に作ることができて、とても美味しかったです。娘はポリ袋にみかんと粉寒天を入れて、踊りながらシェイクしていました。ほかにはどんなものが作れるんですか。
 
益田)子どもに人気なのは蒸しパンです。ホットケーキミックスと水や牛乳で作ることができます。トッピングにチョコレートや抹茶パウダー入れてもいいですね。ぜひやってみてほしいです。
 
西村)ホームページにいろいろなメニューが載っています。肉じゃがや魚の煮付け、丼物もありました。興味が湧いてきた人はぜひチェックしてください。
 
益田)ほかにも料理研究家が出しているポリ袋クッキングの本もたくさんあります。作りたくなるレシピがいっぱいあるのでぜひ調べて作ってみてください。普段からやらないと、災害が起きたときにいきなりやるのは難しいです。平時から時短料理としてやってみてください。
 
西村)普段やってみてわかったことはありますか。
 
益田)最初の頃は、ご飯がベタベタになったり、硬くなったりして食べられないこともありました。お米の種類を変えたらうまく炊けなくなったことも。水の吸い方が違うのだと思います。
 
西村)季節によっても変わるかもしれません。
 
益田)みんなが同じように炊けることを目指していますが、練習しないと難しいと日々感じます。今でも失敗することもあります。
 
西村)やりながら学んでいくということですね。改めて災害時の備えとして、益田さんが推奨していることはありますか。
 
益田)まずは、カセットコンロ、ボンベ、水、普段から食べているもの備えておいてください。お子さんの好きなものは少し多目に買って、食べたら新しく同じだけの量を買う"ローリングストック"を心がけてください。
 
西村)在宅避難ができる家なら、多めに備えておく方が良いですね。
 
益田)家が一番安心できる場所だと思うので、電気・ガス・水道が使えなくても、1週間生き延びることができるように備えをしておくと安心です。1週間分ぐらいは用意しておいてください。ポリ袋クッキングは、簡単にできるレシピがたくさんあるので、普段の生活で時短料理として取り入れてみてください。
 
西村)災害時に役立つポリ袋クッキングを教えていただきました。益田さん、ありがとうございました。

第1530回「阪神・淡路大震災31年【6】~地震火災への備え」
オンライン:NPO法人「日本防火技術者協会」理事長 関澤愛さん

西村)阪神・淡路大震災31年のシリーズ6回目のきょうは、地震火災についてです。阪神・淡路大震災では、285件の火災が発生しました。住宅が密集していた神戸市長田区を中心に、7000棟近い建物が焼失し、大勢の人が亡くなりました。地震火災のリスクと課題について、NPO法人「日本防火技術者協会」理事長 関澤愛さんに聞きます。
 
関澤)よろしくお願いいたします。
 
西村)地震火災は普通の火災とは違うのでしょうか。
 
関澤)平時は、1件の火災に何台ものポンプ車が駆け付けて火を消すことができますが、地震時には同時多発で火災が起きます。ポンプ車より火災件数の方が多いという状況になり、大規模火災になってしまう。当時、長田区の長田消防署にある4台のポンプ車に対して13件も火災が起きました。2件は消すことができましたが、のこり11件は1000平米以上に火が広がってしまいました。
 
西村)3倍以上の火災が起きてしまったのですね。神戸市全体ではどうでしたか。
 
関澤)神戸市全体では、ポンプ車40台に対して、約60件の火災が起きました。これは北区や西区など地震被害が少なかったところを含めた台数。被害が集中した海岸沿いの区ではポンプ車が圧倒的に少ない状況でした。
 
西村)普段なら火災は1日に何件ぐらい起きるのですか。
 
関澤)阪神・淡路大震災が起きた当時の神戸市では、1日の建物火災は2~3件程度。同時に発生するわけではなく時間をあけて出火するので、いろんな消防署から消防車が駆けつけて火を消すことができます。
 
西村)阪神・淡路大震災では、どのような理由で火災が発生したのですか。
 
関澤)地震が発生した5時46分から6時までの15分の間に多数の火災が発生しました。建物の倒壊、損壊に伴うガス管の破断や損傷によってガスが漏れ、それに着火して火災が発生。7時以降~翌日は、電気に関係した火災が多かったです。電気器具の配線が断線、損傷すると発火しやすくなります。電気ストーブや観賞魚用ヒーターが転倒して、近くの可燃物に着火して火災が起きる。翌日~2日後に停電が回復したときに電気が通じたことによって、火災が起きることもあります。阪神・大震災以降、通電火災という呼び名で注目されるようになりました。
 
西村)阪神・淡路大震災が起こった1月は寒いですし、布団やこたつ布団など燃えやすいものが多いですね。
 
関澤)暖房器具も出火を増やす要因になったと思います。
 
西村)阪神・淡路大震災のときは、火が燃え続けている時間も長かったのでしょうか。
 
関澤)大規模火災になったので、なかなか消防が駆けつけることができず、消防隊が渋滞で火災現場に到着できないことも。翌日以降まで消火に時間がかかりました。
 
西村)普段なら、十分に水を使うことができますが、断水で水が使えないですしね。
 
関澤)断水になると消火栓も使えません。当時の神戸市には防火水槽も少なかったので、それが消火の困難につながっていました。火災が広がった理由は、建物の倒壊にもあります。道が封鎖されて、消防車が駆け付けたくても火災現場に到達できず、ホースを伸ばしたくても伸ばせない。建物の倒壊が消火活動を困難にしました。
 
西村)火災による延焼が指摘されているのが、木造密集地。去年11月の大分県佐賀関の火災も住宅密集地が被害に遭ってしまいました。関西には、こうした危険な密集地の6割が集中しています。なぜ木造密集地では、火災の被害が広がりやすいのですか。
 
関澤)古い木造住宅が多く集まっていて、壁、建物の外観に木造部分が多く、着火して延焼しやすくなっている。古い木造は倒壊しやすく、燃えやすい。木造同士が非常に接近しているので、火災が一件起きたら延焼しやすい。佐賀関の火災も密集した街区だったので、延焼も早く、消防隊も中に入っていけなかったのです。
 
西村)木造密集地で火災があちらこちらで起きると消火活動も難しくなりますか。
 
関澤)平常時なら、消火栓も使えるし、ポンプ車もたくさん集まってくるので、包囲作戦をとって消すことができますが、地震時は、1件の火災にポンプ車が1~2台しか行けない、水も足りない、最初に倒壊した建物で延焼が始まると手がつけられなくなる。佐賀関の場合は、強風で飛び火し、最初の段階で急速に延焼したことで大規模火災になりました。
 
西村)対策はできるのでしょうか。
 
関澤)国が指定する「地震時に著しく危険な密集市街地」は、この10年で減少しました。ただそれは木造密集市街地のわずかな部分。大規模火災が起きた糸魚川市も、能登半島地震の輪島市も、佐賀関もすべて木造密集市街地です。全国にはまだ対策されていない木造密集市街地がいたるところにあります。
 
西村)数がカウントされていない場所でも火災が起こると危険な場所がまだまだあるということですか。
 
関澤)国も自治体も手をこまねいているわけではありません。根本的な改善のためには、木造密集市街地を全面的に不燃化することが基本的な対策ですが、住民に納得してもらい、合意を得て進めるには時間も労力もかかります。
 
西村)なぜ住民の合意を得るのが難しいのですか。
 
関澤)想像してみてください。「今住んでいるところに新築の鉄筋コンクリートの家を建ててください」と言われたら。しかも「自分のお金で建ててください」と言われてすぐに「はい」とは言えませんよね。リタイアした人たちが多いし、すぐに合意を得ることは難しいです。
 
西村)金銭的にも難しいですし、住み慣れた土地を離れてしまうと、近所付き合いもなくなってしまうかもしれないし。
 
関澤)国や自治体では、現在2つの方策で事業を行っていいます。ひとつは、木造密集市街地同士の街区間の延焼を防ぐために、道路のすぐ脇にある建物を不燃化して、延焼遮断帯を作って、街区間の延焼を防ぐこと。もうひとつは、木造密集市街地の中には二項道路(4m未満の道路)が多数あるのですが、拡幅整備を補助する狭あい道路拡幅促進整備事業があります。道が広がると消防車が通れるようになります。全面不燃化は道遠いですが、道路を広げるなどできるところから取り組みが行われています。
 
西村)少しずつ進んでいる地域もあるのですね。わたしたちは地震火災について、どんなことに気をつけたら良いでしょうか。
 
関澤)木造密集市街地の安全は国や自治体が進める公助。公助だけではたりません。地震時は、ポンプ車の数よりも火災件数が多くなります。地域にいるわたしたちが少しでも火災件数を減らすための努力をしなければなりません。ひとつは出火防止。耐震自動消火装置付きの安全器具や感震ブレーカーの使用、調理器具のスイッチやガスの元栓を閉めるなどのとっさの火の始末。各家庭での火を出さない努力が求められます。万が一、火災が起きた時、大規模な火災にしないためには、初期消火をする必要があります。一家にひとつは消火器を備えておくこと。小さい火であれば消火器で消すことができるので、消防署の負担を減らすとことができます。それでも火災が起きて火が広がった場合は避難が必要。最寄りの小・中学校の体育館ではなく、火災から安全で、熱からも影響を受けにくい広場や公園に避難しましょう。各自治体で指定されている広域避難場所の場所をふたつ以上覚えて、どこから火災が迫ってきても安全な方向に逃げられるように備えておきましょう。
 
西村)詳しく教えてくだり、ありがとうございました。

第1529回「阪神・淡路大震災31年【5】~口腔ケア」
ゲスト:ときわ病院歯科口腔外科部長 足立了平さん

西村)阪神・淡路大震災31年のシリーズ5回目のきょうは、災害関連死を防ぐ「口腔ケア」についてお伝えします。ゲストはときわ病院 歯科口腔外科部長で、兵庫県保険医協会 副理事長も務めている足立了平さんです。
 
足立)よろしくお願いいたします。
 
西村)阪神・淡路大震災の発災当時、足立さんはどんな活動をしていたのですか。
 
足立)わたしは神戸市中央区で被災しました。当時勤務していた長田区の市民病院が被災し、診療ができないので避難所を回っていました。避難所は水が不足していたので、歯磨きや入れ歯の掃除ができない状況。虫歯や歯周病の予防のために、歯ブラシや歯磨き粉を配っていました。
 
西村)被災者に歯ブラシを渡したときはどんな反応でしたか。
 
足立)「こんなときになぜ歯磨きをしないといけないのか」と強い言葉で追い返されたことも。避難所で肺炎が多いことは内科の先生から聞いていましたが、肺炎の原因が口の中の細菌が原因でおこる誤嚥性肺炎ということは、わかっていませんでした。
 
西村)誤嚥性肺炎は、お正月に高齢者が餅を詰まらせて亡くなる病気というイメージがあります。
 
足立)口の中の唾液を誤嚥することもあります。唾液の中にはたくさんの細菌がいます。歯磨きができないと細菌の数は増えます。細菌を含んだ唾液を誤嚥してしまったときに、体力が落ちている人は肺炎を起こします。それを誤嚥性肺炎といいます。
 
西村)当時、肺炎で亡くなる被災者が多いことはわかっていたけど、それが誤嚥性肺炎ということはわからなかったのですね。
 
足立)口のケアをしっかりしていれば肺炎が減るとわかったのは、1999年のこと。当時は誤嚥性肺炎は、口とは関係のない病気と思っていました。
 
西村)誤嚥性肺炎は、高齢者の病気というイメージがありますが、災害時はどうですか。
 
足立)災害関連死の中で最も多い疾患が肺炎。阪神・淡路大震災では4分の1の人が肺炎で亡くなりました。肺炎の多くが誤嚥性肺炎といわれています。普段も誤嚥性肺炎で亡くなる高齢者が多いですが、災害時は若い人でも体力が低下した人、持病がある人が誤嚥性肺炎で亡くなっていて、普段よりも平均年齢が下がることがわかっています。
 
西村)高齢者はなぜ誤嚥性肺炎になってしまうのですか。
 
足立)若い人に比べて体力が落ちている、飲み込む筋力が落ちている、口の中が汚れたままになっている、という理由があります。高齢者は、虫歯になったら歯科医院に行きますが、普段から磨いたり、歯のケアをしたりする意識が低い。災害時は水がないので歯磨きができないと思い込んでいる人が多いと思います。
 
西村)水が配られても、「歯磨きに使って良いのか...」と思ってしまいそう。
 
足立)「貴重な水を歯磨きや入れ歯の掃除に使うなんて」と。これは東日本大震災、能登半島の支援に行ったときにも同じでした。
 
西村)災害時の口腔ケアで重要なことは何でしょうか。
 
足立)自分で磨くセルフケアは重要ですが、避難所で歯磨きがきちんとできる環境を整えることも大事。体育館や学校の教室には、水場がほとんどありません。運動場の真ん中に自衛隊が水場を作ってくれますが、電気や屋根がないことが多い。雨が降ったら使い勝手が悪いので、明るいうちに1回歯磨きに行く程度、という人がほとんどでした。避難所に使い勝手の良い近場の水場を作ること。公助として国や自治体がしっかり取り組んで欲しいですね。
 
西村)わたしたちができることは何ですか。
 
足立)普段からしっかり歯磨きをしておくこと。災害時には、口腔ケアがおろそかになりますが、歯磨きは虫歯や歯周病の予防・治療ではなくて、肺炎から命を守るためのケアだということを知ってほしいです。
 
西村)歯医者さんは痛いし治療費も高い。少々の痛みだったら我慢しようと思ってしまいます。
 
足立)それが一番よくない。痛くなってからではなく、普段からケアのために歯科医院を受診してほしいです。3~4ヶ月に一度は検査、クリーニングをすることによって虫歯や歯周病が見つかります。
 
西村)命を守るために日頃から歯医者さんでケアすることが大切なのですね。虫歯を抱えたまま被災して、水のない避難所に行ったらどうなってしまうのだろう...と思います。
 
足立)口腔ケアをしないと肺炎になることを理解してほしい。体力の低下も肺炎の原因になります。初期の避難所では、冷えたおにぎりしか出きません。歯がなければなかなか食べることができません。普段から食べられる、飲める口を整備しておくことがサバイバルを生き抜く自助になります。東日本大震災や能登半島地震では、誤嚥性肺炎という言葉は知っていても、口の中の菌が原因で起こる肺炎だとは知らない人が多かった。普段から口腔ケアをしっかりしていれば、災害関連死は少なかったと思います。口の中のケアを普段からしっかりしておくことで、しっかり食べられる口を作っておいてほしいです。
 
西村)口腔ケアグッズも備えておくことが大切ですね。
 
足立)歯ブラシだけではなく、歯間ブラシやデンタルフロス、液体歯磨も備えておきましょう。液体歯磨きは、水ですすぐ必要がないので罪悪感が少ないと思います。
 
西村)液体歯磨きは、平時でも便利ですね。
 
足立)避難所では、液体歯磨きの使い方がわからない人もいました。支援物資の中に使い方がわからないグッズが山積みされて、もったいない状況がありました。入口にアルコール消毒薬と口腔ケアの液体があって、手を消毒している人も。指導する専門家が必要だと思います。
 
西村)避難所だけではなく、在宅避難をしている人のところにも、くまなく回れるように国の対策をしっかりしてほしいですね。
 
足立)在宅避難をしている人は、体力が落ちている人が多く、東日本大震災後の調査では災害関連死が増えている。肺炎で亡くなった人が増えたと予想しています。指定避難所は自治体の支援がありますが、在宅避難者には支援物資が遅れます。入れ歯を持ち出せなかったという報道も。阪神・淡路大地震のときは、入れ歯がない人が食べることに困ったという話もありました。
 
西村)教訓を生かして、平時から口腔ケアをしていきましょう。足立さんありがとうございました。

第1528回「阪神・淡路大震災31年【4】~落下物への対策」
ゲスト:アウトドア防災ガイド あんどうりすさん

西村)阪神・淡路大震災31年のシリーズ4回目の特集は落下物への対策です。
きょうは、兵庫県立大学大学院で、家具類の転倒・落下・移動に関する調査・研究をしたアウトドア防災ガイドのあんどうりすさんにスタジオにお越しいただきました。
 
あんどう)よろしくお願いいたします。
 
西村)あんどうさんは、なぜ家具類の転倒・落下・移動に関する調査研究をしたのですか。
 
あんどう)防災のレクチャーをしているときに、「賃貸なので家具固定ができない」という悩みが多かったんです。賃借人でも家具固定できるように、助成金などの政策について研究しているときに、「どれぐらいの人が、どんな家具で亡くなったのか」について調べようしましたが、国はデータを持っていませんでした。家具で何人亡くなったかわからないままでは、論文が書けないので調べました。新聞記事や遺族集、証言集などあらゆるデータを探しました。
 
西村)ひとつひとつ、あんどうさんが調べていったのですか。
 
あんどう)別の先生たちが調べたデータも参考にしました。阪神・淡路大震災については、大阪公立大学の生田先生が約7000件のデータから家具で亡くなった人は33人という数字を出していました。それに加えて阪神・淡路大震災以降の大阪北部地震、熊本地震、北海道胆振東部地震、能登半島地震などの地震も含め、死者が出ている地震についてはすべて調べました。
 
西村)大変だったのではないですか。
 
あんどう)「家具で死なないための対策」を研究しているのに、どれだけの人が家具で死んでいるのかがわからなくて悔しかった。遺族集を読んでいると本当につらくて。何とかしなければという想いでした。
 
西村)この調査をしてどんなことがわかりましたか。
 
あんどう)大きくふたつのことがわかりました。一つは、阪神・淡路大震災以降の人が亡くなった地震で、少なくとも48人が家具の転倒・移動・落下で死亡しているということです。
 
西村)48人もいるのですね。
 
あんどう)そのうち、阪神・淡路大震災以外の死者は15人。15人がどのような家具で亡くなったのかわかりますか。すごくびっくりしました。
 
西村)大きなタンスかなと思いました。
 
あんどう)たんす、食器棚、本棚あたりかなと思いますよね。その内、9人が亡くなった原因は、本の落下だったんです。
 
西村)辞書や子どもの教科書は重いですよね。
 
あんどう)2009年の静岡県内で発生した駿河湾地震(最大震度6弱)で、亡くなった43歳の人は、天井まで積まれた1000冊以上の本や本を入れた衣装ケースが落ちてきて窒息死しました。
 
西村)圧死ではなく窒息死だったのですね。
 
あんどう)本の落下で亡くなった人の死因はほとんどが窒息死だそうです。たくさんの本は人の命を奪うこともあるんです。胆振東部地震でも4人が家具で亡くなっていますが、その内3人が本の落下により亡くなっています。大阪北部地震でも本の落下で亡くなっている人がいます。
 
西村)本は重いので、しっかりと対策をしておかないといけないですね。
 
あんどう)自分の体重と同じくらいの重さのものが体に乗ることによって、呼吸ができなくなります。落下対策をしてください。
 
西村)本の落下で死亡した人の年代について、データは出ていますか。
 
あんどう)本の落下によって亡くなった9人のうち8人が30~50代。若い人たちが多いです。震度6強以上になるとたんすが一緒に倒れてくるので、家具による圧死が多くなりますが、震度5弱~6弱でも本の落下だけで亡くなってしまいます。
 
西村)震度5弱でも本の下敷きになって亡くなってしまうのですね。
 
あんどう)寝ている部屋には、落ちてくるものを置かないようしてください。
 
西村)先月、青森でも地震がありました。そのときのデータは出ていますか。
 
あんどう)そのときは図書館で本がたくさん落下しました。過去の地震でも図書館で本の落下がありましたが、夜中の地震が多かったので死者は出ていません。本の固定は非常に難しく、対策をしていても落下してしまいます。
 
西村)昼間に自分が図書館にいるときに地震が起こったらどうしようと思います。
 
あんどう)緊急地震速報がきたら、すぐに本から離れましょう。
 
西村)図書館に行ったら、もし今地震が起こったらどこに逃げるか、子どもたちと話しておいた方がいいですね。
 
あんどう)それはとても大事なこと。寝ている部屋では、本は下の方に置く、ロッカーに入れて扉を締めるなど、本が落下しないように対策をしてください。
 
西村)娘が保育園に通っているのですが、保育や学校現場ではどうですか。
 
あんどう)本が落ちてくることを子どもたちに教育してほしいです。保育園ではタンスの下で子どもが寝ている場合もあります。子どもたちが寝ている部屋には物を置かないようにしましょう。
 
西村)保育園では、避難経路になる階段に本棚があります。本棚の本が全部飛び出してきたら逃げるのが大変だと思います。
 
あんどう)逃げられなくなります。体重と同じ重さの本が体にのると窒息死します。子どもたちの体重は軽いので心配です。
 
西村)どんな対策をしたら良いですか。
 
あんどう)東京消防庁による3つの対策は、「本を減らす」「レイアウトを工夫する」「固定する」です。下の方に重たい物を置く。寝室や移動経路に本を置かない。本棚を固定しているだけでは、本は落下してきてしまう可能性があります。固定をするためにいろいろなグッズがありますが、震度7クラスや長周期の揺れが起きると難しいかもしれません。
 
西村)これを機に本の落下防止対策をしっかりとしていきたいと思います。
 
あんどう)本の落下で亡くなっている人が多く、後世に伝えられていないことがつらかったので、これからもみなさんと一緒に落下物対策を伝えていきたいと思っています。今回、本の落下が原因で亡くなった人には、30~50代や一人暮らしの人が多かったことがわかりました。一人暮らしの人6人全員が本の落下で亡くなっていたんです。発見までに時間がかかっていました。一人暮らしで狭い部屋だった可能性もあります。一人暮らしの人は、ぜひ落下物対策をしてください。
 
西村)あんどうさん、どうもありがとうございました。